3話 貿都にて、ひとが腹蔵するものは1
明け6ツ。早朝の潮風が戦ぎ、乳白色に沈む都を浚う。
薄く明けの一条と共に、港に住まう蜑家から朝の支度が忙しなく始まった。
寄せる潮騒が泡と砕け、舳先へと並べられる夜釣りの釣果。
忙しくする水上人の隙を衝き、海猫が小振りの幾つかを掻っ攫う。
誰が驚くこともないこの街の日常を傍らに、拖船が波を蹴立てた。
広がる一際の波に、密集する蜑家の屋根が連れて踊る。
やがて拖船に押され、巨大な一隻の外洋船が姿を覗かせた。
鋼を削り出したかのような鈍色のそれが、茫漠と霧笛を響かせる。
茫漠と吐き出される黒煙を蜑人達は一瞥し、普段へと戻っていった。
それは、この街にとっての日常の一つに過ぎない。
東巴大陸は勿論、世界でも有数の貿易都市として栄華を極め始めている、
――眠らない都市として名を馳せる青道での、珍しくも無い光景であった。
♢
混凝土で埋め立てられた岸壁へと、外洋船から伸びる渡し板の先端が落ちた。
ぎしり、きし。人の渡る気配の度、鉄管で編まれたそれが軋む。
「高天原から10日も経っていないのに、もう着いたのか」
「意外に近いわよね、何で遠すぎるって思っていたのかな」
高天原は伯道洲にある港の一つから出発して、僅か10日足らず。
思った以上に短かった船旅の終わりに、夜劔晶と輪堂咲は安堵を吐いた。
晶たちに続いて、渡し板を渡る男が呵々と嗤った。
渋さの滲む外見に反し流行ものを好むのか、扇子で肩を叩く背に外套が翻る。
「そこら辺は、状況に寄りけりだぁな。
石炭を休みなく注ぎ込んで、一直線に潮流を突っ切りゃあ不可能じゃねぇ」
「――お父さま。後ろが支えているんだから、早く降りて」
「おっと、済まねぇ。
――全く。家業の最中に友人の目は恥ずかしいたぁ、未だ未だ娘も修行が足りんねぇ」
「……お父さま」
「はいはい」
即座に飛ぶ娘からの不機嫌そうな釘刺しを、同行晴胤は肩を竦めて遣り過ごした。
見れば荷卸しが始まっているのか、周囲を忙しなく人が行き交う。
八家を負う同行晴胤の娘である同行そのみが、続いて降りてくる荷運び人へと指示を出した。
「荷は少ねぇし、足があるなら手前ェで歩くだろうさ。
――さて。俺らもそろそろ、港湾から離れるとするかね」
「判りました」
港湾に集まり始める人の気配に、晴胤もかんらと笑って踵を返す。
晶の返事に肩を揺らすだけ、悠然と古兵の背が歩き出した。
その背に迷うものは無く、晶たちは慌ててその後を追う。
やがて高天原から訪れた者たちは、潮騒と港の日常に紛れて忘れ去られた。
♢
晶と咲も鴨津の租界に足を運んだことはあるが、青道租界は晶たちの知るそれと全く違う姿を見せていた。
「要不要买鱼? 这是早上刚捕的鲈鱼和鳕鱼」
「晒干的鲍鱼和扇贝。――纸币不行、这家店只收铜钱!」
元は大通りだったのだろうか。舗装されていない砂利道の向こうまで、大きく屋台が軒を連ねていた。
喧々諤々と、道行く人と商人が口角に唾を飛ばして言い争い、やがて合意を得たのか握手を交わす。
そんな日常の喧騒を後ろに、晶は声を潜めた。
――周囲を見渡して気付いたが、擦れ違う論国人が少な過ぎる。
「此処は朝市ですか?」
「租界は論国人の支配下にあるが、向こうさんは下々の事に興味が無くてなぁ。契約さえ履行すれば、意外と口出しは無い。
それよりも急ぐぞ。……お上りさんが多けりゃ、足を止めるだけで素寒貧になっちまわぁ」
苦笑を漏らして猪首を掻き、晶の疑問に晴胤が応えた。
歩く速度は緩めない。青道の人間は生きる気力に溢れているが、裏を返せば治安が悪い。
掏摸に喝上げ、強盗殺人も日常となれば、晴胤も心配の種を排除しておきたかったのだ。
――主に、向こうの方の心配を、だが。
やがて屋台の通りを抜けた向こうに、赤煉瓦で装丁された商社が視える。
海恒公司と掲げられたその看板の下を潜り、同行晴胤は正面扉を大きく開けた。
未だ客を迎える前の準備段階だったのだろう。突然開いた扉に、受付奥から届く喧騒が、扉の音に静まり返る。
「ぃよう、よう! しっかりと働いとるかな、従業員諸君!」
「――社長!? 今月はお見えにならないはずでは?」
「予定は水もの。――違うかね、三杉部長?」
急ぎ出迎えた黒縁眼鏡の男性に外套を渡し、同行晴胤は二階に続く階段へ。
擦れ違う肩越しに、視線を巡らせた。
「俺の部屋は?」
「何時でも」
「結構。後ろの子供共は、俺の娘と客人だ。
――ついてきな。長旅の埃を一寸とばかり落としてから、今後の話し合いだ」
二階に上がり、社長室と書かれた扉を開ける。
暫くは誰も使っていなかったのだろう。掃除は行き届いているものの、生活感の皆無な室内が全員を出迎えた。
「ま、楽にしてくれや。
――と云うか、随分と訊きたそうだな。猫を殺さねぇ程度には、応えてやれると思うぜぇ」
「……同行当主が北方の防衛を担っていたと聞いていましたが、これは想定外でした。
海恒公司と看板にありましたが、此処は何ですか?」
「言葉通り、株式会社だな。一応、真っ当に利益も上げちゃいる」
島国である高天原は、越える事も難しい潮流に囲まれた難所として有名である。
しかし何れ、潮の護りが無為と化すのは自明の理。
自然頼みから人が国防の要を担わんとする構想は、海外勢力が台頭する以前から存在していた。
その為の同行家である。
高天原内地へ通じる貿易の要は久我家が牛耳っているが、対海外の貿易力は事実上、同行家が掌握しているに等しいのだ。
侑国と真国が八家と聞き、先ず思い浮かべるのも同行家であるのが、その影響力の真実を証明しているだろう。
「造船技術もそうだが、特に資金だ。
何しろ海戦ってなぁ、距離があり過ぎて基本的に精霊技は役に立たん。火力と人件費が馬鹿みてぇに溶ける、金喰い虫ときた」
「その対策の一つが、この会社って事ですか」
「こっちは近年になってからだな。真国や侑国もそうだが、基本的に外冦を雇って襲撃を繰り返すのが常套だ」
ガタガタと戸棚の奥を弄り、硝子瓶を一つ摘まみだす。
小振りの底に揺れる琥珀を杯に注ぎ、煽るように一息を吐いた。
「か。これだよ、これ。
この仕事をしていて唯一、この蒸留酒が偶に入るって現実だけが良かった点だ」
「……お父さま。ほどほどにしないと、お母さまに告げ口しますよ」
「云う端から告げ口してりゃ、今更でぃ。
外冦を遣って陰湿に斬った張ったの時代は、和やかなもんだったんだがねぇ。
――まぁ、云っちまえば、文明開化が総てを変えちまったってな」
潮と風を問題にしない蒸気艦船の台頭で、海戦の常識も変化を余儀なくされた。
外冦を幾ら雇おうとも、直接ぶつかる海戦に於いて蒸気艦船一隻が戦況をがらりと覆してしまう。
費用と効果が逆転した結果、軍が矢面に立つ方がお得という現実が生まれてしまった。
「外冦頼りで責任を有耶無耶にしていたが、海軍が出張り始めた結果が国と国の諍いだ。
お陰で外交の伝手が無ければ、争い一つの落とし処さえ見つけられなくなっちまった」
その果ては、避けようとしていた国家間の戦争である。
侭ならないと、同行家の当主は晶たちへと自嘲を見せた。
「斯くあれ。海恒公司は、外交と資金調達のために設立された株式会社だ。真国の適当な傀儡を代表に据えて、東巴の貿易航路を渡り歩かせている。
――これからの時代は海だぜ、うみ。夜劔当主も一枚噛むかい? 艦船の乗り方から鍛えてやるぜぇ」
「その機会があれば」
打って変わって普段通りの軽い口調に、晶も苦笑だけ肯いを返す。
話し合う議題は、同行の家事情だけではないのだ。
晶たちにとって、最も重要な事を切り出す必要があった。
――だがそれには、相手がまだ到着していない。
丁度その時、遠慮がちに社長室の扉が叩かれる。
それは、待っていた相手である戴天玲瑛が到着した、その合図でもあった。
「……高天原資本の公司が、真国にまで伸びているとは思いませんでした」
「海外に興味のない高天原たぁ云え、海向こうのお銭は魅力ってだけさ。
それに、若けぇ衆の興味じゃないだろう。本題に入るとしようぜ」
「そうですね。――取り敢えず、現状の認識から擦り合わせしましょうか」
緊張した面持ちの戴天玲瑛が、同行晴胤の言葉に首肯した。
全員を巡る視線が、晶の前で止まる。
「先ずはどうやって、東巴大陸鉄道とやらに乗るか、だな」
「お金子は高くつくだろうけど、切符を買えば乗れるんじゃないの?」
「輪堂殿には申し訳ありませんが、その想定は甘いです」
咲が首を傾げる様子に、玲瑛が首を振る。
「悔しいですが、東巴大陸鉄道は完全に論国資本の公司です。
切符の販売は西巴人に限られ、基本的に真国人は乗れません」
「そんなことすれば、直ぐに資財が尽きそうだけど」
玲瑛の言葉に、咲は純粋な驚愕を返した。
高天原に於いて、洲鉄の切符に関して購入は制限されていない。
利点の大きい蒸気機関だが、必要以上に燃料と水を食う欠点も持ち合わせているからだ。
想定よりも乗客が少ないと、それこそ資金調達の帳尻が合わなくなる。
咲の素人目にとっても、それはただの自殺行為だとしか映らなかった。
「――咲。論国の目的は、金儲けじゃない。
どれだけ損しようが、最終的に潘国の神域まで線路を延ばす事だ」
「ああ、そっか。それじゃあ私たちも弾かれるんじゃない?」
「でもない。玲瑛は先刻、基本的にって口にした。なら、乗った前例はあるはずだ
――違うか?」
「是。現在の内情を説明いたしますと、論国は真国に勝利した訳ではありません」
「青道戦役で敗けたのに?」
「その一点だけでも異論は多くありますが、
……論国が勝利したのは、東嶺省を統治していた幽嶄魔教でしかないという事実ですね」
幽嶄魔教。苦くそう口にする玲瑛を、気遣わし気に師弟だという李鋒俊が見遣る。
真国にその教え在りと謳われた六教の一つ。地理の関係もあって、信顕天教とそれなりに交流もあったと聞いていたが。
「青道に租界が置かれて以来、論国からの莫大な資本が投資と称して流入し始めています。
お陰で魔教は損害以上に潤い、論国と蜜月の真っ只中です」
「つまり、仲良しこよしの幽嶄魔教が仲介すれば、東巴大陸の切符も購入できると。
――幽嶄魔教と信顕天教の関係は?」
「最悪と云っても良いでしょう。
これは残り四教を頼っても同じです。……何しろ青道戦役の際、魔教は他教に対して結束の檄を飛ばしましたが、応じたものがいませんでしたから」
「そりゃあ、根に持たれるだろう。噂に聞いちゃあいたが相当だな。
……て事ぁ、戴天殿が青道に居るとバレた日には、」
「間違いなく、暗手の遣い手が向けられます。
当面の目的は、私の存在を魔教に悟られないようにどうやって切符を入手するか、ですね」
「成る程。ま、海恒公司の方でも伝手を探ってみるさ。
玲瑛殿は飯店住まいで決定だぁな。夜劔当主と輪堂殿も、三杉に宿を案内させよう。
――ああ、そのみは残れ。残業も家業の一つだからな」
♢
掌を払う晴胤に従い、晶たちの気配が遠ざかる。
その事実を確かめて、そのみは己の父へと向き直った。
「――去ったかぃ」
「間違いなく。……それで首尾はどう?」
「聞いた以上に状況は悪いが、細工自体は流々だぁな。
向こうさんが釣れるかどうかは、気分次第だが」
「……なら、大丈夫よ。私は晶さんの判断を信じるわ」
ふ、と。口元だけに笑いを浮かべたそのみを、同行晴胤は複雑に見遣る。
そうかい。そう口にするだけ、がりがりと白さの目立つ頭を掻いた。
「お前ェも決めた事だろうが。
――取り敢えず、同行の次期当主からお前ェを外した。好きに動け」
「良いの?」
「今まで散々、放置したんだ。これで否やと云っちまったら、子供の駄々と変わりゃしねぇだろ」
社長室に置かれた仮漆も削れていない卓上で、晴胤は指を躍らせる。
鈍く映る指先へ視線を落としながら、晴胤は素早く損得に思考を巡らせた。
現在、そのみの立場は非常に難しい位置に立っている。
晶の正室として有力視されている奇鳳院嗣穂と、それを追う格好の義王院静美。
そして、側室の筆頭と目されているのが、輪堂咲であった。
此処の牙城は崩せない。晶の性格上割り込もうとすれば不興を買う恐れもあるからだ。
恋慕の情の段階を飛ばして、夫婦としての関係性を確定させる。
嗣穂の思惑もあり、咲と晶の関係性は強固なものに育っていた。
「側室の末席として、あと一人割り込めるか否か。
――それにしたって正直、難しいぞ」
「判っているわ」
苦く忠告を重ねるが、娘の決意に揺らぐものはない。
誰に似たのだか。そうそのみの眼差しに敗けて、同行家当主は覚悟を決めた。
「善いだろう。安全の確保が前提だが、何としても夜劔当主の旅路に食らいつけ。
その為なら、何を使っても構わん」
「――あれを行使っても?」
当然。娘の問いに、高天原の海を守り続けてきた八家の一角は肯いを返した。
「何れは知られる隠し事が、今になったってだけだ。
――その時が来れば、相手に存分と白夜月の意味を教えてやれ」
♢
以前にお伝えした通り、来週もお休みをいただきます。
申し訳ございません。
……東京に行ってきます。
皆様のご声援もありまして、2024年の次にくるライトノベル大賞にノミネートを頂けました。
ありがとうございます。
よろしければ、投票の方もよろしくお願いいたします。
安田のら





