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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
五章 濫海浄罪篇
179/222

3話 貿都にて、ひとが腹蔵するものは1

 明け6ツ。早朝の潮風が戦ぎ、乳白色に沈む都を浚う。

 薄く明けの一条と共に、港に住まう蜑家(たんか)から朝の支度が忙しなく始まった。


 寄せる潮騒が泡と砕け、舳先へと並べられる夜釣りの釣果。

 忙しくする水上人の隙を衝き、海猫が小振りの幾つかを掻っ攫う。


 誰が驚くこともないこの街の日常を傍らに、拖船(タグボート)が波を蹴立てた。

 広がる一際の波に、密集する蜑家(たんか)の屋根が連れて踊る。


 やがて拖船(タグボート)に押され、巨大な一隻の外洋船が姿を覗かせた。


 鋼を削り出したかのような鈍色のそれが、茫漠と霧笛を響かせる。

 茫漠と吐き出される黒煙を蜑人(たんじん)達は一瞥し、普段へと戻っていった。


 それは、この街にとっての日常の一つに過ぎない。

 東巴大陸は勿論、世界でも有数の貿易都市として栄華を極め始めている、

 ――眠らない都市として名を馳せる青道(チンタオ)での、珍しくも無い光景であった。


 ♢


 混凝土で埋め立てられた岸壁へと、外洋船から伸びる渡し板(ランプ)の先端が落ちた。

 ぎしり、きし。人の(わた)る気配の度、鉄管で編まれたそれが軋む。


高天原(たかまがはら)から10日も経っていないのに、もう着いたのか」

「意外に近いわよね、何で遠すぎるって思っていたのかな」


 高天原(たかまがはら)伯道洲(はくどうしゅう)にある港の一つから出発して、僅か10日足らず。

 思った以上に短かった船旅の終わりに、夜劔晶と輪堂(りんどう)咲は安堵を吐いた。


 晶たちに続いて、渡し板(ランプ)(わた)る男が呵々(カカ)(わら)った。

 渋さの滲む外見に反し流行もの(ハイカラァ)を好むのか、扇子で肩を叩く背に外套が(ひるがえ)る。


「そこら辺は、状況に寄りけりだぁな。

 石炭を休みなく注ぎ込んで、一直線に潮流を突っ切りゃあ不可能じゃねぇ」

「――お父さま。後ろが(つか)えているんだから、早く降りて」

「おっと、済まねぇ。

 ――全く。家業の最中に友人の目は恥ずかしいたぁ、未だ未だ娘も修行が足りんねぇ」

「……お父さま」

「はいはい」


 即座に飛ぶ娘からの不機嫌そうな釘刺しを、同行(どうぎょう)晴胤は肩を竦めて遣り過ごした。

 見れば荷卸しが始まっているのか、周囲を忙しなく人が行き交う。


 八家を負う同行(どうぎょう)晴胤の娘である同行(どうぎょう)そのみ(・・・)が、続いて降りてくる荷運び人へと指示を出した。


「荷は少ねぇし、()があるなら手前ェで歩くだろうさ。

 ――さて。俺らもそろそろ、港湾から離れるとするかね」

「判りました」


 港湾に集まり始める人の気配に、晴胤もかんらと笑って踵を返す。

 晶の返事に肩を揺らすだけ、悠然と古兵の背が歩き出した。


 その背に迷うものは無く、晶たちは慌ててその後を追う。

 やがて高天原(たかまがはら)から訪れた者たちは、潮騒と港の日常に紛れて忘れ去られた。


 ♢


 晶と咲も鴨津(おうつ)の租界に足を運んだことはあるが、青道(チンタオ)租界は晶たちの知るそれと全く違う姿を見せていた。


要不要买鱼(魚は要らんかね)? 这是早上刚捕的(朝に釣れたばかりの)鲈鱼和鳕鱼(鱸と鱈だ)

晒干的鲍鱼和扇贝(干した鮑と、帆立)。――纸币不行(紙幣は駄目)这家店只收铜钱(ウチは文貨からだよ)!」


 元は大通りだったのだろうか。舗装されていない砂利道の向こうまで、大きく屋台が軒を連ねていた。

 喧々諤々と、道行く人と商人が口角に唾を飛ばして言い争い、やがて合意を得たのか握手を交わす。


 そんな日常の喧騒を後ろに、晶は声を潜めた。

 ――周囲を見渡して気付いたが、擦れ違う論国(ロンダリア)人が少な過ぎる。


此処(ここ)は朝市ですか?」

「租界は論国(ロンダリア)人の支配下にあるが、向こうさんは下々の事に興味が無くてなぁ。契約さえ履行すれば、意外と口出しは無い。

 それよりも急ぐぞ。……お上りさんが多けりゃ、足を止めるだけで素寒貧になっちまわぁ」


 苦笑を漏らして猪首(いくび)を掻き、晶の疑問に晴胤が応えた。


 歩く速度は緩めない。青道(チンタオ)の人間は生きる気力に溢れているが、裏を返せば治安が悪い。

 掏摸に喝上げ、強盗殺人も日常となれば、晴胤も心配の種を排除しておきたかったのだ。

 ――主に、向こうの方の心配を、だが。


 やがて屋台の通りを抜けた向こうに、赤煉瓦で装丁された商社が視える。

 海恒公司(ハイヘンゴンス)と掲げられたその看板の下を潜り、同行(どうぎょう)晴胤は正面扉を大きく開けた。


 未だ客を迎える前の準備段階だったのだろう。突然開いた扉に、受付奥から届く喧騒が、扉の音に静まり返る。


「ぃよう、よう! しっかりと働いとるかな、従業員諸君!」

「――社長(・・)!? 今月はお見えにならないはずでは?」

「予定は水もの。――違うかね、三杉部長(くん)?」


 急ぎ出迎えた黒縁眼鏡の男性に外套を(わた)し、同行(どうぎょう)晴胤は二階に続く階段へ。

 擦れ違う肩越しに、視線を巡らせた。


「俺の部屋は?」

「何時でも」

「結構。後ろの子供(ガキ)共は、俺の娘と客人だ。

 ――ついてきな。長旅の埃を一寸(ちぃ)とばかり落としてから、今後の話し合いだ」




 二階に上がり、社長室と書かれた扉を開ける。

 暫くは誰も使っていなかったのだろう。掃除は行き届いているものの、生活感の皆無な室内が全員を出迎えた。


「ま、楽にしてくれや。

 ――と云うか、随分と訊きたそうだな。猫を殺さねぇ程度には、応えてやれると思うぜぇ」

「……同行(どうぎょう)当主が北方の防衛を担っていたと聞いていましたが、これは想定外でした。

 海恒公司(ハイヘンゴンス)と看板にありましたが、此処(ここ)は何ですか?」

「言葉通り、株式会社だな。一応、真っ当に利益も上げちゃいる」


 島国である高天原(たかまがはら)は、越える事も難しい潮流に囲まれた難所として有名である。

 しかし何れ、潮の護りが無為と化すのは自明の理。

 自然頼みから人が国防の要を担わんとする構想は、海外勢力が台頭する以前から存在していた。


 その為の同行(どうぎょう)家である。

 高天原(たかまがはら)内地へ通じる貿易の要は久我(くが)家が牛耳っているが、対海外の貿易力は事実上、同行(どうぎょう)家が掌握しているに等しいのだ。


 侑国(ウクサンスト)真国(ツォンマ)が八家と聞き、先ず思い浮かべるのも同行(どうぎょう)家であるのが、その影響力の真実を証明しているだろう。


「造船技術もそうだが、特に資金だ。

 何しろ海戦ってなぁ、距離があり過ぎて基本的に精霊技(せいれいぎ)は役に立たん。火力と人件費が馬鹿みてぇに溶ける、金喰い虫ときた」

「その対策の一つが、この会社って事ですか」

「こっちは近年になってからだな。真国(ツォンマ)侑国(ウクサンスト)もそうだが、基本的に外冦(ならずもの)を雇って襲撃を繰り返すのが常套だ」


 ガタガタと戸棚の奥を弄り、硝子瓶を一つ摘まみだす。

 小振りの底に揺れる琥珀を杯に注ぎ、煽るように一息を吐いた。


「か。これだよ、これ。

 この仕事をしていて唯一、この蒸留酒が偶に入るって現実だけが良かった点だ」

「……お父さま。ほどほどにしないと、お母さまに告げ口しますよ」

「云う端から告げ口してりゃ、今更でぃ。

 外冦を遣って陰湿に斬った張ったの時代は、和やかなもんだったんだがねぇ。

 ――まぁ、云っちまえば、文明開化が総てを変えちまったってな」


 潮と風を問題にしない蒸気艦船の台頭で、海戦の常識も変化を余儀なくされた。


 外冦を幾ら雇おうとも、直接ぶつかる海戦に()いて蒸気艦船一隻が戦況をがらりと覆してしまう。

 費用と効果が逆転した結果、軍が矢面に立つ方がお得という現実が生まれてしまった。


「外冦頼りで責任を有耶無耶にしていたが、海軍が出張り始めた結果が国と国の諍いだ。

 お陰で外交の伝手が無ければ、争い一つの落とし処さえ見つけられなくなっちまった」


 その果ては、避けようとしていた国家間の戦争である。

 侭ならないと、同行(どうぎょう)家の当主は晶たちへと自嘲を見せた。


「斯くあれ。海恒公司(ハイヘンゴンス)は、外交と資金調達のために設立された株式会社だ。真国の適当な傀儡を代表に据えて、東巴の貿易航路を(わた)り歩かせている。

 ――これからの時代は海だぜ、うみ。夜劔当主も一枚噛むかい? 艦船の乗り方から鍛えてやるぜぇ」

「その機会があれば」


 打って変わって普段通りの軽い口調に、晶も苦笑だけ肯いを返す。

 話し合う議題は、同行(どうぎょう)の家事情だけではないのだ。


 晶たちにとって、最も重要な事を切り出す必要があった。

 ――だがそれには、相手がまだ到着していない。


 丁度その時、遠慮がちに社長室の扉が叩かれる。

 それは、待っていた相手である戴天玲瑛が到着した、その合図でもあった。




「……高天原(たかまがはら)資本の公司が、真国(ツォンマ)にまで伸びているとは思いませんでした」

「海外に興味のない高天原(たかまがはら)たぁ云え、海向こうのお(ぜぜ)は魅力ってだけさ。

 それに、若けぇ衆の興味じゃないだろう。本題に入るとしようぜ」

「そうですね。――取り敢えず、現状の認識から擦り合わせしましょうか」


 緊張した面持ちの戴天玲瑛が、同行(どうぎょう)晴胤の言葉に首肯した。

 全員を巡る視線が、晶の前で止まる。


「先ずはどうやって、東巴大陸鉄道とやらに乗るか、だな」

「お金子は高くつくだろうけど、切符を買えば乗れるんじゃないの?」


輪堂(りんどう)殿には申し訳ありませんが、その想定は甘いです」

 咲が首を傾げる様子に、玲瑛が首を振る。

「悔しいですが、東巴大陸鉄道は完全に論国(ロンダリア)資本の公司です。

 切符の販売は西巴人に限られ、基本的に真国(ツォンマ)人は乗れません」

「そんなことすれば、直ぐに資財が尽きそうだけど」


 玲瑛の言葉に、咲は純粋な驚愕を返した。

 高天原(たかまがはら)()いて、洲鉄の切符に関して購入は制限されていない。


 利点の大きい蒸気機関だが、必要以上に燃料と水を食う欠点も持ち合わせているからだ。

 想定よりも乗客が少ないと、それこそ資金調達の帳尻が合わなくなる。


 咲の素人目にとっても、それはただの自殺行為だとしか映らなかった。


「――咲。論国(ロンダリア)の目的は、金儲けじゃない。

 どれだけ損しようが、最終的に潘国(バラトゥシュ)の神域まで線路を延ばす事だ」

「ああ、そっか。それじゃあ私たち(高天原)も弾かれるんじゃない?」

「でもない。玲瑛は先刻、基本的にって口にした。なら、乗った前例はあるはずだ

 ――違うか?」


()。現在の内情を説明いたしますと、論国(ロンダリア)真国(ツォンマ)に勝利した訳ではありません」

青道(チンタオ)戦役で敗けたのに?」

「その一点だけでも異論は多くありますが、

 ……論国(ロンダリア)が勝利したのは、東嶺(ドンリョン)省を統治していた幽嶄魔教でしかないという事実ですね」


 幽嶄魔教。苦くそう口にする玲瑛を、気遣わし気に師弟(シーディ)だという李鋒俊が見遣る。

 真国(ツォンマ)にその教え在りと謳われた六教の一つ。地理の関係もあって、信顕天教とそれなりに交流もあったと聞いていたが。


青道(チンタオ)に租界が置かれて以来、論国(ロンダリア)からの莫大な資本が投資と称して流入し始めています。

 お陰で魔教は損害以上に潤い、論国(ロンダリア)と蜜月の真っ只中です」

「つまり、仲良しこよしの幽嶄魔教が仲介すれば、東巴大陸の切符も購入できると。

 ――幽嶄魔教と信顕天教の関係は?」

「最悪と云っても良いでしょう。

 これは残り四教を頼っても同じです。……何しろ青道(チンタオ)戦役の際、魔教は他教に対して結束の檄を飛ばしましたが、応じたものがいませんでしたから」


「そりゃあ、根に持たれるだろう。噂に聞いちゃあいたが相当だな。

 ……て事ぁ、戴天殿が青道(チンタオ)に居るとバレた日には、」

「間違いなく、暗手の遣い手が向けられます。

 当面の目的は、私の存在を魔教に悟られないようにどうやって切符を入手するか、ですね」

「成る程。ま、海恒公司(ハイヘンゴンス)の方でも伝手を探ってみるさ。

 玲瑛殿は飯店(高宿)住まいで決定だぁな。夜劔当主と輪堂(りんどう)殿も、三杉に宿を案内させよう。

 ――ああ、そのみ(・・・)は残れ。残業も家業の一つだからな」


 ♢


 掌を払う晴胤に従い、晶たちの気配が遠ざかる。

 その事実を確かめて、そのみ(・・・)は己の父へと向き直った。


「――()ったかぃ」

「間違いなく。……それで首尾はどう?」

「聞いた以上に状況は悪いが、細工自体は流々だぁな。

 向こうさんが釣れるかどうかは、気分次第だが」

「……なら、大丈夫よ。私は晶さんの判断を信じるわ」


 ふ、と。口元だけに笑いを浮かべたそのみ(・・・)を、同行(どうぎょう)晴胤は複雑に見遣る。

 そうかい。そう口にするだけ、がりがりと白さの目立つ頭を掻いた。


「お前ェも決めた事だろうが。

 ――取り敢えず、同行(どうぎょう)の次期当主からお前ェを外した。好きに動け」

「良いの?」

「今まで散々、放置したんだ。これで否やと云っちまったら、子供(ガキ)の駄々と変わりゃしねぇだろ」


 社長室に置かれた仮漆(ニス)も削れていない卓上で、晴胤は指を躍らせる。

 鈍く映る指先へ視線を落としながら、晴胤は素早く損得に思考を巡らせた。


 現在、そのみ(・・・)の立場は非常に難しい位置に立っている。

 晶の正室として有力視されている奇鳳院(くほういん)嗣穂(つぐほ)と、それを追う格好の義王院(ぎおういん)静美。


 そして、側室の筆頭と目されているのが、輪堂(りんどう)咲であった。

 此処(ここ)の牙城は崩せない。晶の性格上割り込もうとすれば不興を買う恐れもあるからだ。


 恋慕の情の段階を飛ばして、夫婦としての関係性を確定させる。

 嗣穂(つぐほ)の思惑もあり、咲と晶の関係性は強固なものに育っていた。


「側室の末席として、あと一人割り込めるか否か。

 ――それにしたって正直、難しいぞ」

「判っているわ」


 苦く忠告を重ねるが、娘の決意に揺らぐものはない。

 誰に似たのだか。そうそのみ(・・・)の眼差しに敗けて、同行(どうぎょう)家当主は覚悟を決めた。


「善いだろう。安全の確保が前提だが、何としても夜劔当主の旅路に食らいつけ。

 その為なら、何を使っても構わん」

「――あれ(・・)行使(つか)っても?」


 当然。娘の問いに、高天原(たかまがはら)の海を守り続けてきた八家の一角は肯いを返した。


「何れは知られる隠し事が、今になったってだけだ。

 ――その時が来れば、相手に存分と白夜月(びゃくやづき)の意味を教えてやれ」


 ♢



 以前にお伝えした通り、来週もお休みをいただきます。

 申し訳ございません。


 ……東京に行ってきます。


  皆様のご声援もありまして、2024年の次にくるライトノベル大賞にノミネートを頂けました。

 ありがとうございます。


 よろしければ、投票の方もよろしくお願いいたします。


 安田のら


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― 新着の感想 ―
同行そのみが持つ隠し玉がどんな武器なのか、側室に食い込んでいけるか気になります。有能そうなキャラですね。
更新ありがとうございます。 舞台はいよいよ大陸に移り、そして晶君をめぐる女の戦いはまだまだ継続中のようです。正直、今後更に増える気がしてなりませんが、とにかく晶君達の旅路が楽しみです。
投稿は作者様のペースで全然大丈夫ですよー(๑>◡<๑)
2024/11/24 20:05 退会済み
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