4話 伽藍に在りて、少女は微笑む3
「――……ぁの~。あ~の~ぅ~」
誰かに呼ばれている。晶の意識は、薄ぼんやりとした微睡の淵からゆっくりと浮上した。
燦々と差し込む陽の光と目覚め特有の霞む視界の中に、三つ編みをした巫女装束の幼い少女が晶を覗き込んでいるのが映る。
「あの~ぅ、起きて下さ~い。夏とは云え、こんなところで寝ると風邪を引きますよ~」
わざとなのだろう、奇妙に間延びした語尾に、何とも気が抜けてしまうのを感じた。
「………………誰?」
後から思えば間抜けの極みと自嘲できる問い掛けを、寝惚け眼のまま晶は口にした。
「誰って……、それはこっちの台詞ですよ」
困ったように笑う少女に、だんだんと意識がはっきりとした晶は、慌てて上半身を起こした。
「っつつ……」
畳とは違うえらく固い感触のところにずいぶんと長く寝転んでいた事を、後頭部に走る痛みが無言の抗議として伝えてきた。
とは云え、それ以外に身体に不調は見られない。
それどころか、久方ぶりに思うさま寝れたようで、思考も明瞭だし体調にも活力が漲っているのを感じる。
「えっと……、ここは?」
そこは、朱華は伽藍と云ったか、最後の記憶にある畳の場所では無かった。
石畳の広がる何処かの境内であった。
「ここは朱沙神社ですよ。こんなところで寝るなんて、罰が当たっても知りませんよ?」
「え? いや、俺は確か、伽藍に行って、それで……」
「伽藍? 何です、それ。
――それにしても、どうやってここに入ったんですか?
うち、夜は神さまの時間だから、門は閉じるんですけど」
「え、ど、どうやってって云われても、俺、何でこんなところにいるんだ……?」
「何でって……。まさか、その年齢で酔っ払ってたんですか?」
「酒は呑んだことが無いと思うけど。
……まぁ、でも、狐狗狸にでも化かされたかなぁ」
記憶にわずかに残っている体験は、表現のし辛いものだった。
永く歩かされた石畳の道のり、異形のものたちが行き交う街並み。
光に呑まれる、芙蓉御前の微笑み。
――そして、万窮大伽藍での、朱華との逢瀬。
「狐狗狸って……。
まぁ、うちのお稲荷さまも悪戯好きだし、化かしが無いとは云いませんけど、ただ人を神前に放置するような方々では無いと思いますよ?」
困った顔で、目の前の少女が神社の稲荷を弁護する。
当然だろう。稲荷であれ精霊であれ、滅多に現世には干渉はしない。
神社の境内にただ人を騙して放置するなんて悪質で無駄な真似をするとは、晶でも考えられなかった。
「まぁ、確かにそうだけど。
……待った。ここ、朱沙神社って云ったか?」
「え? えぇ。ここは朱沙神社ですよ」
食い気味に訊かれて、ややのけ反りながら少女は答えた。
境内奥の拝殿を見ると、正面に大きく掲げられた朱沙の文字が見えた。
晶の脳裏に、昨日の記憶が蘇る。
金の髪、蒼い眼差し。そして、桜色の唇と真珠の歯。
――朱沙の地にて『氏子籤祇』を受けるが良い。
朱華より告げられた言葉。
ここが、その場所なのだろう。
「そうか、ここが朱沙の地か」
「はい?」
「ああ、こっちの話です。
あのですね、『氏子籤祇』を受けに来たんですけど」
「え?」それまでとは一転して、困惑した顔を少女は見せた。
「あの、朱沙神社で、ですか?」
「はい、朱沙神社で受けるように云われて。
……あの、何か問題でも?」
見る限り、結構大きな神社である。『氏子籤祇』をやっていないとは考え辛いのだが。
「問題って程じゃないんですが……、まぁ、隠している訳じゃないから云ってもいいかぁ。
あの、うちの神社って、閉じた神社なんです」
閉じた神社とは、氏子になるための条件が存在する神社の事だ。
条件を満たしたものでないとその神社で氏子としては認められないため、入れるものが限られている。
それが、”閉じた”と云われている所以だ。
基本的に、一般では入れない格式の高い土地神の神社である事が多く、閉じた神社の氏子であるだけで十把一絡げとは一線を画した目で見られるのだ。
閉じた神社で氏子に認められる条件は様々あるが、最も多いのが”その土地で産まれたもの”というものだった。
――晶は國天洲の生まれだし、この神社で氏子になれるとは思えない。
思わず肩を落とした晶だが、昨日の記憶にある朱華の言葉が『氏子籤祇』を諦めるのを許さなかった。
「そ、それでも云われたんです。朱沙神社で『氏子籤祇』を受けるようにって」
「だ、誰から云われたんです?」
晶に詰め寄られ、更にのけ反りながら少女が訊く。
「誰って………………」
晶は、言葉に詰まった。
夢のような朧気な記憶の向こうで、この世のものとは思えない美しい少女が微笑みながら告げた言葉だと、馬鹿正直に答えたら正気か何かかを疑われる気がしたからだ。
……少なくとも、晶なら疑う。
「――伽藍って場所で朱華って女の子が云ったんだ」
だが、笑いものになったとしても、晶は朱沙神社で『氏子籤祇』を受ける事を選んだ。
「騙されたんじゃないですか? 私は伽藍なんて知らないし、はね………………」「加奈子」
笑って言い募ろうとした少女の背後から、何時からいたのか同じく巫女装束の老婆が声を掛けてきた。
「掃除がまだじゃないかぇ、早くおし。
……おや、そっちの坊やは?」
「おばあちゃん」
加奈子と呼ばれたその少女は、驚いて振り向いた。
「あのね、この人が『氏子籤祇』を受けたいって。朱沙神社は閉じた神社だって説明しても聞いてくれなくて」
ほぉう。そう口にして、老婆は興味深げに晶を見た。
「……ま、いいんじゃないかぇ。籤を引かせてやりな」
「おばあちゃん!?」
「閉じた神社なのは説明したんだろう? なら、受ける受けないは自由だよ。
なんたって結果が全てなんだから。
……丁度いいさね。加奈子、『氏子籤祇』をやってみな」
「え? わ、私、まだ見習いだよ。いいの?」
「いいさ、これも経験だ。
――坊や、あんたもそれで構わんね」
「えぇ、ありがとうございます」
その提案に、一も二も無く頷く。
晶としては『氏子籤祇』が受けられるなら何でもよかったからだ。
滅多に大役を許されないのだろう。先程とは打って変わって、浮かれて上機嫌になった加奈子の後ろを、晶は付いて歩いて行った。
「――はぁい。お待たせしました」
加奈子が社務所の受付台に籤箱を置いた。
歴史がある神社らしく、籤箱はやや貫禄のある風味の色合いをしている。
――はっきりと云ってしまうと、あまり使われないのか少し薄汚れた風体だ。
剥げかけた漆の、ざらつく表面をなぞるように確認する。
記憶にうっすらとある、昨日、回りに回った神社の籤箱とは、手触りの滑らかさが段違いに違う。
「し、仕方ないでしょ。……あんまり使われないんだし」
そのことを指摘すると、自覚はあるのか加奈子は唇を尖らして抗弁をした。
「それよりもさっさと引いて。結果は判ってるんだから、駄目だっても文句は云わないでよ」
「ああ。判ってる」
昨日まで、散々と気落ちを味わってきたのだ。
今更ここで駄目だったとしても、一つ駄目なところが増えたくらいでそこまで絶望する事も無いだろう。
昨夜までの追い込まれた感情とは打って変わって、穏やかな気持ちで籤箱を手に取る。
何度も聴いた、かさかさと箱の中で紙が鳴る音。
それすらも、どこか心地良く感じた。
――朱金の輝きが、視界の端で踊る。
朱華が、どこかで見てくれているのだろうか。
理由も無くそう確信して、ふ、と笑みが零れる。
そうして籤箱を逆さにした途端、かさりと籤紙が落ちた。
昨日、幾度となく見た二つ折りの白い籤紙。
凪いだ感情で、紙を広げる。
「氏子……だ」
氏子。そこには無味乾燥な墨の文字が二つ、当たり前のように籤紙の上に書かれていた。
昨日まで焦がれるほどに欲しかったその文字が、何の感動も無く突然に与えられる。
その事実を咄嗟には受け止めきれず、晶は呆然と描かれているままに読む事しかできなかった。
「ほら、云ったでしょ。この神社で余所の人が氏子になるの、は………………、はぁぁぁぁ!?」
加奈子の得意気な表情が、信じられないとばかりの驚愕に染まる。
「え? ウソ? ホント? 本当に!?」
「うん。
――これ、氏子だろ?」
「え、え。――あ、本当だ。
……おばあちゃん! おばあちゃ~~ん!!」
余程に信じられないのだろう。当事者を放って、本殿にいるのだろう先程の老婆の元に駆けて行った。
何もできずに、晶はただ、呆然と彼女の背を見送る。
彼女の驚きはともかく、晶だって信じられない気持ちしかなかった。
何しろ、今の今まで氏子の文字が貰えなかったのだ。
それが、朱華の言葉通りに行動しただけで、当たり前のようにポンとばかりに貰えたのだ。
その衝撃が大きすぎて、何とも云えない感情が逆に晶を冷静にさせていた。
――本当なら、この場で飛び跳ねたいくらいに嬉しいのだ。
そう、嬉しいのだ。
それは嘘偽りの無い、晶の本心だ。
――どれだけこの2文字に焦がれただろう。
晶の半生は、この文字に焦がれるだけの人生だったと云っても過言ではなかったのだ。
――しかし、いざ与えられてしまったら、その後の感情を続けることができなかった。
ややあって、本殿の方から加奈子の騒がしい声がする。
老婆を連れた加奈子が戻ってくるまで、ありとあらゆる感情が飽和したまま、ぼんやりと晶はその場所に立ち尽くしていた。
「――あぁ。本当に氏子が出たんだねぇ」
「え? そんなあっさり!?」
晶の籤紙を矯めつ眇めつ眺めながら、何でもない事のように呟いた老婆に、加奈子が驚いたように視線を向けた。
「あっさりとは何だい。
実際に坊やが籤を引いたんだ、そしてこうやって確認した。他に何があろうさ?」
「だ、だって、閉じた神社で氏子を引いたんだよ!? 絶対、何かおかしいって!!」
気持ちは分かるが、本人がいる前でえらい云われようである。
何気に凹んだ晶を余所に、加奈子の口調が熱くなっていく。
「加奈子」
さらに言い募ろうとした加奈子を、老婆がポツリと、だが、有無を云わせない力を込めて遮った。
「あたし等は神さまの代弁者ではあるが、神さまの答えに意見する資格は無いよ。
それは、最初に教えただろう。
閉じてようが何だろうが、『氏子籤祇』の結果は絶対。
あたし等は、受け入れさえすりゃいいさ」
「……う、うん」
「坊やも、朱沙神社で氏子になるのは問題ないかい?」
「は、はい」
「ならいい。
加奈子、木札を出しておやり。それに名前を書いて社に納めりゃ、坊やは朱沙神社の氏子だよ」
「はい! あ、ありがとうございます!」
「お、おばあちゃん、いいの?」
「神さんが判断したんだ、問題はないさ。
加奈子、祝詞を詠ってやりな。神さんからの返歌が貰えりゃ、『氏子籤祇』は終わりだよ」
「……うん!」
異例の氏子に戸惑いが残りつつも、加奈子はそれ以上の追及を止めて首肯した。
幣束と榊に清め水を振り掛けて、晶に向けて三度振る。
その度に、晶の顔に清め水の雫が舞った。
何度も練習をしているのだろう、幼いながらも朗々と三人しかいない境内に祝詞が響き渡る。
――そうして祝詞がつつがなく終わり、ややあって加奈子がそれまで以上に困惑した表情で首を傾げた。
「あ、あれ? 神さまからの返歌が来ない……」
「おばあちゃん、あれで良かったの?」
朱沙神社から去っていく晶の背中を見送りながら、新川加奈子は自分の祖母である新川シノに再度訊いた。
加奈子が納得できなかったのも、無理は無い。
結局、あの後何度か祝詞をやり直したものの、神さまからの返歌を貰えることは終ぞ無かったからだ。
『氏子籤祇』は、巫女の詠う祝詞の返歌を神社に収めることで終了となる。
短歌という形式で与えられるその歌は、ただの歌ではない。
神柱より与えられる、己の生という名の本質そのものだ。
加奈子はこれまで、神さまからの返歌を与えられなかったものなど見たことも聞いたこともなかった。
『氏子籤祇』でインチキをしようなどと考えられなかったが、流石に問題なく終わったとは云い難く、晶は再度、祖母も見守る前で籤を引く羽目になった。
インチキが確認されることは無く、結果は変わらず氏子と出る。
流石に認めぬ訳にもいかず、結果を保留にするが是非の判断を上に仰ぐことを晶に納得させて、帰路につかせたのが今であった。
――揉めるだろうなぁ。
我関せずの心持で、どこか他人事のように加奈子はそう思った。
過程は判らないが、朱沙神社の主神が晶を受け入れたのは間違いは無い。
そうであるならば、神さまを第一に考える巫女長の祖母は、確実に受け入れの方向を支持するだろう。
だが、発言力を持っているとはいえ、祖母は一介の巫女長に過ぎない。
晶の氏子加入については宮司と権禰宜、加えて氏子を取りまとめる氏子衆の許可が必要になる。
しかし、権禰宜の任に就く父親は気が弱く、氏子衆の意見で日和るはずだ。
一方、氏子衆を構成する長老たちは長年の閉じた環境に慣れているせいか、よそ者に対して高圧的な姿勢で排他主義に走るきらいがあった。
「……問題ないよ。神さんが受け入れると云ったんだ、あたしらにどうこう云う権利なぞ無い」
――やっぱり。
予想出来た返答に、加奈子の肩が落ちる。
「――それより加奈子、坊やと何か話していたようだが、何を話してたんだい?」
「よく分かんない。朱沙神社で『氏子籤祇』を受けるように云われたとか何とか。えっと、伽藍って場所で………………」「加奈子!」
云いかけると、二人の背後から鋭い声が飛んできた。
「え!? お、お姉ちゃん?」
振り返ると、肩で息をする加奈子の姉、新川奈津の姿があった。
鳳山の上にある奇鳳院本邸で宿直の役に就いていたはずの姉が目の前にいる事に驚き、加奈子は完全に固まった。
「急いで下りてきてよかったわ。
加奈子、先刻の人から何を聴いたにせよ、一切合切、忘れなさい」
「家に帰ってきていきなりの言葉がそれかい? 随分と物々しいねぇ。
あの坊や、一体全体何なんだい?」
「――ごめん、おばあちゃん。一切の詮索はしないで。
それと、先刻の人……、晶さまの氏子加入を直ぐにでも認めて」
「強引だね。
――察するに、奇鳳院のご意向かい?」
「……うん。勅旨と捉えても良いって」
勅旨。つまりは、直々に下す最大の強制力を持った命令の事である。
「ふん、あの坊や、随分と大物のようだ。
ついでに奇鳳院の姫さまも随分と余裕が無いと見えるね」
「おばあちゃん!」
「判っているよ、これ以上の詮索はしない。坊やの氏子加入はこっちで何とかするよ。
――早く行きな。奇鳳院もバタバタしてるんだろ?」
「――ありがと、お願いね。
加奈子、神さまに睨まれたくなかったら、晶さまに関して詮索をしちゃ駄目。良いわね」
「う、うん」「よし!」
気圧されながらも何とか頷く加奈子を見て、満足気に一度、大きく頷いてから奈津は門から外に向かって駆け出した。
「……大丈夫かなぁ」
本当に余裕が無いのだろう。一度も振り返ることなく去っていく姉を呆然と見送ってから、加奈子はぽつりと呟いた。
「大丈夫だろうさ。何かあったら、奇鳳院の勅旨を盾にすりゃいい」
「そうじゃなくてさ、何が起きてるんだろうって事」
「さあねぇ」
無責任にも聞こえる、祖母の気の無い返答にムッとする。
「おばあちゃん!」
「――気になろうがなるまいが、何にもならんさ。
御上の意向で、あたしらは右にも左にもいかなくちゃあならないんだからね。気にするだけ無駄だよ。
奈津も云ってただろう? 詮索するな、忘れなさい、と」
そう云って加奈子との会話を打ち切ると、祖母はゆっくりと本殿に向かって歩き始めた。
これ以上、会話を粘っても無駄と悟り、加奈子は晶や姉が出ていった門を一瞥する。
当然そこには誰もおらず、ただ、静かな境内だけが視界に映るだけであった。
ざあ。一陣の風が葉擦れの音を捲き上げ、加奈子に忘れていた掃除を急かしてくる。
よくわからない騒動の一幕であったが、気にすることを止めて加奈子は箒を手に掃除の続きに戻った。
TIPS:閉じた神社について。
通常の『氏子籤祇』では氏子を認められない特殊な神社。
格式の高い神社であることが多く、ここで氏子となったものも矜持が人一倍高い。
ここの氏子は閉塞的な集団となるため、閉じたとはそれを揶揄したものも意味している。
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