8話 憐れみに説く、訣別も知らず1
「それで? 茶番は終わりか、雨月天山」
賑わいも酣の大広間は、晶の一声に凍てついた。
朱金の輝きも、少年の口元を浚うだけであった。
ガタタタ、 、 、 。連翹山を渡る颪に、障子が連れて哭く。
隙間を抜ける寒風が一陣。共に迷い込んだ雪虫は、畳の上で雫と移ろった。
誰ぞの咽喉から緊張が鳴り、互いに視線が交差する。
彷徨う視線はやがて、夜劔晶と雨月天山を往復するだけに変わった。
賑やかし程度の枯れ木へと意識すら向けず、晶は竹筒から雫を注ぐ。
甘く芳醇な香りは再び、鮮烈と広間を支配した。
「――茶番。茶番と抜かしたか」
「それ以外の何だとでも」
返る口調は、挨拶程度に軽いもの。
肺腑から搾り出した感情に、天山の手で酒精が揺れた。
屋敷の正門で再会した時から、天山も嫌な予感はしていたのだ。
無能、愚鈍。穏当な文言を求め、思考が虚しく空回る。
本来であるならば、目上となろう雨月家に対し、夜劔晶は諂わねばならない立場だ。
饗宴が落ち着いた頃、晶が自身の無能を雨月家に謝罪し、天山は鷹揚と受け入れる。
晶へのやや及ばなかった姿勢を誤解と説き、互いに笑って水に流す美しい催し。
3年前には散々と嘆いた、晶の無能ぶりを忘れていた。
三宮が向けた雨月家に対する安堵は、当の本人が無能であった所為で御破算である。
――否。美しく仕舞えはせんが、一言一句を丁寧に教えてやれば済むか。
慨嘆を肚から吐き尽くし、天山はぎらつく眼差しを晶に向けた。
「八家を定める天覧仕合で、其方は颯馬に辛勝した。それは憶えておろう」
「天山も見た通りにな」
「結構。其方の願い出た通り、三宮より沙汰が下った。
雨月家は春までの猶予を与えられた後、其方の判断を以て欠落を決定されると」
「それが?」
無礼た晶の口調に、天山の額へ青筋が浮かぶ。
限り限りと激昂を軋ませながら、酒盃を脇の食膳に戻した。
「……つまり雨月家は、未だ八家の第一位に在るという事だ。其方が能力を示した由、雨月家としても一定は満たしたと認めざるを得ん」
「確かに能力は示したな。八家はその時点で、夜劔家に席を移したはずだ」
「その通り。
――加えるなら、三宮より下された沙汰の意図。石蕗家の零落が即断された事実と併せれば、其方の帰順を条件に雨月の失態は不問とされる旨が浮かび上がる」
雨月天山が懇切に説いた道理に、晶は初めて視線を巡らせる。
滲む納得とも同意とも遠い感情から、天山は肯いを返してやった。
「三宮四院はこう伝えているのだ。
――貴様を重用はするが、八家たるに及ばず。雨月へ恭順し、後ろ盾に立って貰えと」
「……成る程」
「漸く理解に及んだか。
この宴席は、貴様が帰順の赦しを請う為の、我らが心尽くし。
感謝に口をつければ、雨月当主として一応を認めてやる」
滔々と語られる天山の声に、晶の手で青竹の盃が揺れる。
虚空へと泳ぐ盃を視界に収め、天山は陪臣の酒匂甚兵衛と安堵から首肯を交わした。
天山にとって最も恐れるべきは、晶が神無の御坐を振り翳す結末。
それさえも状況を盾に黙らせれば、残るのは理解も覚束ない未熟一匹である。
天山の前に有るのは、組し易いだけの交渉でしかなかった。
「はっは。御当主、そこまでで。ご理解いただければ、陪臣一同も晶君を認めるに吝かではありませんとも」
「済まぬな甚兵衛、明日から苦労を掛ける。
――おお。憶えていようが、家宰の酒匂甚兵衛だ。
明日より春先まで、酒匂が其方の教導として補佐に入る故、過怠なく務めよ」
「宜しくお願い申し上げますぞ。
日程も短い故、少々厳しくはなりましょうが。散々と遊び惚けられたツケ、甘んじて過ごしていただければと願います。
――何。颯馬さまに匹敵される実力と謳われれば、この程度は易い仕儀でしょうが」
和やかに紹介を受け、酒匂甚兵衛が老躯を深く畳へと折った。
少年の反骨だけ。交渉とも云えないお飯事が過ぎたとみて、陪臣たちも笑顔を交わし合う。
――醜悪でしかない和やかな再開を視界へと、咲は頬を引き攣らせた。
事、ここに至るまでの流れを、晶の予想の範疇である。
武で敵わないなら、智謀で圧し潰す判断。
神無の御坐という強権を奪うために、宴席を用意して陪臣という衆人環視で囲う。
理解の及ばない天山が選べる選択肢は、それほど残っていなかった。
晶は青竹の盃へと視線を落とした。
澄んだ甘露は、何も応えることなく揺れるだけ。
胸中を過る感情も、遠く他人事でしかなかった。
――予想を中てれば昂揚すると思い込んでいたが、いざそうなってみると落胆の方が強い。
平坦な吐息には感情すら乗らず、盃を掌中で遊ばせた。
予想を外したのは、ただの一点。
既に八家である夜劔家に対し、傲慢に出れる姿勢。
「とっととその見窄らしい盃を捨てよ。華族が歓待に無礼であろうが!」
「――そうか」
価値を理解していない。晶の手にあるそれの、至上と云うべき雫の意味を。
表面を上位と取り繕う雑音で、晶は完全に天山を見放した。
晶の掌中から迷いが消え。
――躊躇う事なく、晶は変若水を呑み干した。
「きっ」雨月の誠意を二度も踏み躙る行為に、天山は思わず膝から立った。
「貴様っっ! 路傍が理解できるよう、語ってやったにも拘らずっ」
「御当主、宴席に御座いますっ」
激昂からか口角に泡と飛ばし、酒匂を振り切って喚きたてる。
天山の醜態を無視に徹し、晶は竹筒を傾けた。
僅かに残っていた雫が一滴、渋りながら盃の縁へ移る。
縁に乗った雫を舐めつつ、騒ぐ雑音の一段落を待って、晶は漸うと口を開いた
「雨月天山。言い分は取り敢えず理解したが、疑問がある」
「…………何だ」
肩から息を荒げ、それでも天山は冷静を取り繕って上座に腰を戻す。
滑稽に苦笑も浮かべず、晶は首を傾げた。
「雨月の主張はとどのつまり、俺の裁定権を以て雨月を赦せって事だろう。
――四方を丸く収める代わりに、雨月に従う権利をくれてやると」
「理解しているではないか」
「疑問は1つ。俺が雨月へと戻る利点は、何処に在る?」
「……何?」晶の問いかけに、天山の思考が思わず止まる。
「雨月が後見と立つ望外の栄誉に、理解すら及べないのか? 貴様は、」
「だからそれは、雨月のであって俺の利益じゃないだろう。
――夜劔家の利益は何処に消えている」
「夜劔など、何処から生えたもしれん雑草。雨月の価値と比べる方が愚かであろうが!」
心底不思議そうな、晶の問いかけ。
四方やそこからかと、天山は情けなさから憐れむ息を吐いた。
「華族にとっての歴史は、己が勁さの証明。
この程度は理解しているな?」
「それが?」
この一点こそ何よりも重要だと、理解すら出来ていない。
愚鈍にも判り易くと思考を巡らせ、天山は口を開いた。
「……久我家の家紋を知っているな?」
――二重囲いに二輪の芒。
肩を竦めて無言の肯定に換えた晶へと、天山は下らなそうに言葉を続けた。
「家紋に於ける二重囲いは分家筋を意味する。
久我家とは、嘗ての八家であった周々木の分家。あの囲いは、分家だった久我家の主家乗っ取りを意味しているのだ」
「へえ」
気の無い晶の返事。それでも天山は、辛抱強く言葉を紡ぐ。
「八家の家紋を分家紋で汚した事実。代々の久我家が不満を残して尚、新興の家紋を興さない理由こそ、貴様に対する応えそのものだ」
「嵩が家紋だ」
「だから貴様は愚鈍よ。
――家紋とは、歴史の証明を形に興したものだ。久我家が幾ら不満を囀っても、八家第二位であった周々木家の歴史には程遠い。久我家は周囲の華族を抑えんがため、久我は周々木の分家であると喧伝したのだ」
晶に八家第一位が示された事実をして、久我家と晶の状況は共通する点が多かった。
特に今後を考えるなら、夜劔の家紋は雨月に二重囲いを施す流れが妥当である。
八家第一位に分家紋を赦す。その悍ましい発想に、天山は反吐とばかり吐き捨てた。
「義王院家が望まれた以上、貴様を雨月の当主と向かわせよう。だが、雨月を分家で汚すなど、愚挙も此処に極まれり。
颯馬に雨月の治世を託すが最善と、貴様の才覚でも理解は出来たな」
一息に捲し立て、天山は晶を睨めつける。
受けた晶は涼しい表情のまま、空の盃を眺めた。
暫くの沈黙。
「そ」「――訂正だ」
痺れを切らした天山の激昂より、僅かと先んじた晶が口を開く。
「一つ。久我家が家紋を興したのは、周々木から別たれた後。乗っ取りは関係ない」
袂に竹筒を仕舞い、肩を竦めた。
「二つ。夜劔の家紋は貴様の心配に無いが、雨月の家紋ではない事も告げておく」
――見据える視線も鋭く、晶は立ち上がる。
「三つ。……抑々だが、雨月に価値が残っているとでも?」
周囲の陪臣たちを傲然と見下ろし、心底から憐れみを籠めて晶は吐き捨てた。
「だとすれば随分と、御目出度いな貴様ら。雨月の当主が敗北を喫し、八家の神器を喪った時点、お前たちに残る価値など芥も残っていないさ」
云いたい言葉を広間へ残し、晶は踵を返そうと。
「待て!!」
天山の怒声も空しいだけ、茶番の付き合いに時間を掛け過ぎた。
――晶にとって、気になる問いは残る一つ。
「茶番にここまで付き合ってやった。
――喚くは結構だが、温情の対価も充全に果たしているだろうな?」
屋敷一帯の掃き清め。
隠す心算も無い晶の弾劾に、雨月天山からは沈黙が返るばかりであった。
何よりも雄弁な応え。
「使えんな、全く」
「……聞き捨てなりませんな、晶殿」
建前でしかない期待が忘れられた事実に、興醒めと鼻を鳴らす。
そのまま晶は広間を後にしようと、
――引き留める声に視線を巡らせた。
雨月天山の脇に控える酒匂甚兵衛が、真っ直ぐに晶を射抜く。
「聞き捨て、ねぇ。此方が見せた温情を忘れて政治ごっこに夢中なら、誹られても詮は無いだろうが」
「――確かに。華族であればこそ、与えた発言には責任が伴うもの。
晶殿も華族と立たれた以上、頑是なく振舞うはいい加減に為されませ」
酒匂家は、雨月陪臣の第一席に永い家系である。
雨月係累の信頼も篤い陪臣の手本。何れ分家と入る晶の醜態に、酒匂甚兵衛は義憤から声を上げた。
「晶殿の御醜態は、我らの教育篤きを不当と勘違いなされた辺りでしょう。
今、此処に立たれている以上、過去の些事など流されるが当然」
眼光も鋭く、酒匂は威勢で老躯を震わせる。
己が誠心故の謹言と信じ、声を張り上げた。
「無才であった己の不明を喚くより、寛大にも雨月へ戻れた由。
――感謝奉り、御家族へと仕えるが、ご自身の本分とご理解なさいませ!」
朗と響く威声に、声も無く陪臣たちが肯いを返す。
「家族、ねぇ」
その場の誰もが感じ入る中、晶はその勘違いを素っ気なく蹴り棄てた。
「――そもそも、何処に居るんだそんなもの」
「な、にを、 、 」
「俺の前で喚いてばかりだったのは、雨月などとか云う残り滓だろうが。
それとも、俺の家族だった時分でもあるのか? 雨月天山」
「貴様。ご両親に向かって、何たる」
二の句が継げぬ酒匂を忘れ、晶はつまらなそうに首を傾げた。
家族だなんだのと、晶は雨月に対して、3年も前に見切りをつけている。
今更に整理のついた話題。持ち出されても、晶にとっては滑稽な蒸し返しでしかなかった。
――嗚呼。しかし、酒匂とか云う耄碌は、確かに謹言を残してくれた。
華族の発言には、責任が伴う。
雨月天山は忘れただろう、己から埋伏した致命。
「そう云えば」「……何だ」
晶の声に興味が滲み、苦く天山の視線が返った。
ここに至って、回天の可能性でも窺っているのか。赦す訳も無いと苦笑を一つ。
「何で生きているんだ、雨月天山?」
当然と放たれた疑問に、広間の全員が凍り付いた。
何を云われたのかすら理解できず、晶を穢レの如く見詰める。
「き、きさ、貴様はっ」
「3年前の追放の折りだが、貴様が宣った台詞だ」
滑稽に呼吸を詰まらせる天山を、晶は冷めた視線で眺めるばかり。
続けた言葉に、全員が今度こそ絶句した。
「義王院家へ迷惑を掛けるより前に、自裁を選んで欲しい処だ――だったか? 随分と迷惑をかけ通しのようだが、貴様には責任を果たす意思がないようだな」
天山たちは忘れているだろう、自身が振り翳した言葉の刃物。
それでも3年前の言葉は、一言一句忘れたことが無い。
「まあ、そこが」
――雨月天山の限界なのだろうな。
嘲弄を一つ。今度こそ見切りをつけて、晶は雨月へと訣別の背を向けた。
中庭へと続く廊下へと、晶は爪先を向け――。
「こ、この、こ、の、」滑稽な程の大音声が、広間を貫いた。
「――――親不忠者があぁぁあっっ!!」
立ち上がる天山の身体から、烏羽の輝きを伴う精霊光が噴き上がった。
感情に耐え切れず、隠し持っていた匕首を引き抜く。
莫大な質量の水気が、佳月煌々を以て刹那に加速。
――遅滞すら一切なく、衝撃波さえも渦巻く波濤の槍が晶を襲った。
神無の御坐であっても、宴の席を前に武装を離すのは当然の礼式だ。
宴席での武装を赦される唯一の例外は、催主である雨月天山一人。
精霊器から離されてまで抗う術など、雨月天山には想像もつかなかった。
宴席での交渉が決裂する可能性。他者にとってさにあれど、天山にとってこの饗宴は、晶への最終通牒だったのだ。
精霊力の渦動が加速。更なる加速を伴いながら、一点に収束する。
凍てつく濁流は奔り抜け、そのまま中庭へ続く一面を吹き飛ばした。
轟音。柱と桟が拉げ、障子が吹き散らされる。
一瞬に過ぎた質量の暴力で、晶の立っていた後方は屋根ごと孔を穿たれた。
天山にとってこれは宴ですらない。
晶に対する危惧は現実と代わり、そして果たされただけだ。
孔から夜天が覗き込む。
雪虫が吹雪を呼んだのか。黒く天を塗り潰すほどに、激しく白が踊った。
乾いた粉雪が広間へと吹き込み、黒曜の輝きと愉し気に舞う。
透徹と澄み渡る神気が、慕うように咲の頬を撫でた。
天山の覚悟は確かに。だが、誤算もあった。
――晶も同様に、屋敷の宴を一切信用していなかった点。
「期待した割に、」
屋敷に到着する以前。既に降ろしていた九蓋瀑布の権能が、晶の眼前で精霊光を散らした。
「……随分と浅い底だったな、雨月」
広間へと響き渡る、興味の失せた失望だけの呟き。
返事も期待しないまま、それ以上の言葉も無く。踵を返した晶は、今度こそ広間を後にした。
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