7話 向かい風、郷愁に追われ1
北部國天洲、五月雨領、領都廿楽。
連翹山中、――深夜。
山頂から降りる凩が、騒めきながら中腹へと続く山道を吹き抜けていった。
じゃり、じゃ。坂道に敷き詰められた整備の砂利が、鈍くも規則正しく悲鳴を上げる。
杉並木が見下ろす先を急ぐ、何者かの影。
白い息すら千切れ散る颪の最中を、黒い帆布を被った男が小走りに過ぎて行った。
疎らであるが大粒の雨垂れが、霙混じりに帆布を撃つ。
軟蝋で染めたその表面を雨筋が伝う頃、男の姿は屋敷の正門前に辿り着いていた。
ふ。髄が凍むほどに濡れそぼり、閉められた正門を安堵で見上げる。
些少も参った様子を窺わせず、帆布の隙間から精霊光がちらりと漏れた。
本来ならば、何を取り合わずとも正門を開けて迎えいれられるべき身分。
だが、黙して世を潜まざるを得ない現状。相手も慮って、此方が不満を抑えるべきか。
「全く。致し方なしと云えど……」
ここまで譲歩した己を誰と云わずに慰めつつ、勝手門の門扉を叩く。
――ややの沈黙。警戒も露わに顔を覗かせた夜番の男へと、男は帆布を上げて己の相貌を露わにした。
♢
予想だにしない珍客を迎えたのは、雨月天山が雨飛沫く響きを肴に杯を傾けていた深夜の事であった。
酔いの気配も窺えないまま、杯が重ねられていく。
自室でただ時間だけを無為に過ごす中、廊下へ立つ人の気配に天山は鋭く視線を向けた。
「――何だ」
「お休みの処、申し訳御座いません。
客人の御来訪が。――御屋形様に至急の取次ぎを、と」
「こんな時間に何者か」
見上げた時計の針は、既に亥の刻を大きく回っている。
遠慮がちな障子越しの声に、天山も眉根を潜めた。
「忍ぶ故、家名は応えぬと。
――ただ、皐月を寄越した縁であるとだけ」
「む。 、 、客間に通せ、直ぐに向かう」
躊躇いながら投げられる謎かけに、数秒だけ渡る沈黙。
雨月へと寄越した縁は限られる。
更に皐月となれば、残るは一つ。
皐月の別読みは早苗月。それが誰を指す名だと気付けば、相手の素性も容易く想像がつく。
やがて得心の行った天山は、清水の入った徳利へと手を伸ばした。
♢
ぽたり。重く湿った滴りが、客間に掛けられた雨合羽の下で蟠る。
西巴大陸の趣きが強い長椅子で、訪れた客人が暖炉の焔に熱る身体を落ち着かせていた。
「――お待たせしました。
やはり、義父殿に御座いましたか」
「天山殿ならば、皐月の隠し意味は辿っていただけると信じていましたぞ」
「何の。お褒めの言葉も恥ずかしながら、暫くは悩みましたが」
「然程に待つことなく、気遣いは無用。
旧家であっても、しばらく悩む言葉遊びであろうさ」
引き戸を開けた天山へ、好々爺然と老躯が笑顔を浮かべた。
一ヶ月前まで会う事を熱望していた老人を前に、勧められるまま対面へと天山は腰を下ろした。
「最後に御会いしたのは、何年振りであろうか」
「さて。久しく間を開けての再会、本来ならば颯馬も控えさせて慶ぶべき場でしょうが。
……このような仕儀と相成り、真に勿体なく」
「仕方は無いであろうが、央都の状況は聴いているか?」
「央都に潜ませていた間諜も、五月雨領へと退き上げを。
雨月は現状、耳目を奪われていますれば」
「夜劔だとか云う馬草に八家第一位を赦すとは、雨月の恥晒しが何処までも祟ってくれる。
あれの襲名を見たが、実に情けないものであった」
「………………」
苦く蘇る記憶に、至心の奥歯が軋む。
間に合わせであるのが如実に伝わる、真新しいだけの防人の羽織を翻す少年の背中。
放置される上位華族を後に、淡々と進行する功罪論考。
至心の目にそれは、後世へと恥を残す拙いだけの飯事としか映らなかった。
だからこそ、一度は関係を切ろうとした天山へ、恩情を向けることにしたのだ。
滔々と語られる宴の顛末にどう応えたものか、天山は心中の悩みを口へと出せずにいた。
天山は未だ、八家に返り咲く野望を手放していない。
その為の条件は厳しく、僅かたりとも瑕疵は冒せないのだ。
神無の御坐という知識。雨月が冒した致命の疵は、その根元が八家直系のみの口伝である。
――仮令、御厨至心であろうとも、八家以外にその知識を伝えたと露見した時点で、雨月が詰む可能性があった。
「央都は酷いものよ。
石蕗めが郎党ごと失脚したのは小気味も良いが、旧家が纏めて身代を追われる始末」
「旧家が、三宮の許を赦されなくなったと!?」
「然り。流石に関与は無かろうが、……如何にも、厄事を運んでくる輩らしいな」
天山たちが引き揚げた後の出来事なのだろう。
唖然と返す天山に、一応は宴の半ばまで参加した至心は鼻を鳴らした。
「弘忠殿は」
「央都に残してきた。
御厨の当主である奴を、この難事に三宮の膝元から動かす訳にもゆくまい」
「――御賢断かと」
返り咲くを目前に、旧家の梯子ごと外された至心の焦りが如実に伝わる。
天山は心中で、老人の見せる慎重な姿勢に安堵した。
義父である至心は、天山とて無下にできない。
手出しをされないなら、それだけで懸念の種が減るのだ。
「神嘗祭の顛末を擦り合わせに来たが、その様子では知っていたか。
――何処の伝手だ?」
「不破家の当主より、特にと案じていただけました
彼の弟君とは、雨月へ弟子入りするほど浅からぬ誼を通じた仲。三宮が雨月への配慮、教えていただけましたので」
「気付いていたか」
くっ。天山の返事に、至心の咽喉が小気味良く鳴った。
「三宮四院の面目手前、奴を雨月の当主と据えてやります。
――が、後に限界まで再教育を。家門を支えられぬと自覚すれば、当主の座を颯馬に譲るも否やとは喚かないでしょう」
「断る可能性は」
「常識的な思考を残していれば、選択肢にも入れないかと」
自信に満ちた天山の声に、至心も首肯を返した。
――実際、華族の常識とすれば当然の反応。
華族の価値とは即ち、宿し得る精霊の位階から来る。
精霊の位階は、基本的に血筋から起因するからだ。
上位の華族とは、上位精霊を宿し得る血筋を維持してきた証明。
4千年という桁の違う歴史を誇る雨月家は故に、八家第一位として永く在ったのだ。
夜劔などと真新しい家系が八家第一位に居座りでもすれば、数年を経ずに喰い尽くされるのは目に視えていた。
その対処として、雨月が晶の代理として立ってやるのだ。
雨月家は歴史という実績を晶に預けてやり、その礼として晶は雨月と和解して義王院家を安堵してもらう。
――誰も損をしない。
天山たちにとっての理想的な関係が、そこに広がっていた。
「失笑ものの間抜けを晒したが、その夜劔とやらは何処だ?」
「壁樹洲は洲都鈴八代にある不破家別邸で、そろそろ歓待を受けている頃ですな。
不破範頼殿が洲鉄の時刻を調整して送り出すと。万事が能く終われば、此方へ電報がいただけます」
「八家序列の末席だけ、不破家は落ち目とも思っていたが。
――随分と遣える駒であるな」
「他家が無視する中、縁故の義理以上に働いてくれます。事が為った暁には、義父殿からも一言を頂きたく」
無論。鷹揚に天山へと肯い、至心は長椅子へと身を深く沈めた。
晶を雨月当主の座に戻す事で、雨月の存続を認めさせる。
天山が謀った乾坤一擲の策も、結実まで後数日。
ぱちり。暖炉で薪が鮮やかに爆ぜるまま、焚べる熱が室内を満たす。
その頃には帆布から滴る雨筋も、布の端で揺れるだけになっていた。
♢
蒸気機関車は速度を緩めることなく、隧道へと突き進んだ。
襲う耳鳴りに慣れないのか、客の誰かが息を吐く。
――見る間と窓の向こうが暗闇に染まり、前から後ろへと窓硝子が鳴って去った。
「隧道の中で窓を上げたら駄目よ。煤は着物から落ちないんだから」
「流石に、子供の真似事はしないって」
「とか云って、やらかした子供を黙って見ていたのは、誰かな?」
数ヶ月前。鴨津行きでの騒動を、輪堂咲は含み笑いで揶揄った。
隧道を抜ける度に変わる景色は、子供たちにとって飽きないものか。子供が窓を開ける度に車内へ満ちる煤は、汽車恒例の騒動であった。
「あの後は大変だったな。……痛い目は一度で充分」
「ふふ。まだ数ヶ月なのに、遠くまで来たよね」
苦笑を返す晶に御褒美とばかり、少女の指先が窓へと泳ぐ。
風に鳴る窓硝子の際へと置かれた、斑に青さが残る蜜柑が一つ。
「鈴八代の北を支える山稜は、蜜柑が特産らしいよ。
内湾の潮風を直に受けるから、甘く育つって評判」
「……だとしても、未だ青さが勝っているけど」
振り落とされる前に晶は蜜柑を掴み、矯めつ眇めつ。
青さが残ると云うよりも、黄色い部分が少ないように見えるそれ。
熟するまで待つべきではと、言外に主張する晶の眼前。
止める間もなく蜜柑を一片、咲は口へと放り込んだ。
「大丈夫よ。不破家の御当主さまが、今でも甘いって、 、 、
……酸っぱひ」
「ここまで青ければ、そうなるよ。
不破家の御当主に担がれたかな」
ふん。情けなく鼻を鳴らした咲に苦笑し、晶は薄皮ごと蜜柑に齧りつく。
口腔へと広がる強い酸味。爽やかな残り香が、暫く鼻へと抜けていった。
熟する前の青蜜柑は、水菓ではなく薬果の一つに数えられる。
医者も薬も貴重な長屋暮らしを支えた、それは季節が齎す安価な万能薬であった。
「大丈夫なの?」
「毒じゃないし、これよりも酸味が立つなんて幾らでも」
平然と、皮ごと齧られていく蜜柑を目の当たりに、咲も蜜柑を一つ摘まむ。
酸味は苦手なのか、口へ運ぶ度に少女の頬が引き攣るのは御愛嬌か。
憩う会話は暫しの間、揺れる汽車の旅路を和ませた。
「極伝かぁ。眉唾だけど、一度は夢想するよね」
「咲も?」
話題は何時しか、央都で交わした弓削孤城との会話の話題へと移っていった。
極伝。未だ誰も辿り着いた事の無い、五行を超える精霊技の極致だと云うそれ。
「それはね。五行が意味を為さないって、衛士であれば誰だって知りたいと思うわ」
「弓削さまの天籟と雨月の佳月煌々が、極伝に最も近いらしいけど」
五行相生の連環を繋げて局地的な颱風を再現する天籟は、確かに五行さえも圧し潰す威力を有していた。
何よりも恐ろしいのは、この精霊技が然程に精霊力を必要としていないという点か。
必要なのは、五行を繋げる為に要する卓越した制御能力。
限定的とはいえ五行を制御するのは、弓削孤城にのみ赦された異能だ。
呪符の総数16枚の精密制御は、未だ誰にも破られた事の無い記録である。
「天籟は、充分に極伝の域だと見えたけど」
「極伝の原則からすれば違うんじゃないかな。
――あれは五行相生を再現しているだけ。超えたって以上、単体で再現しないと意味が無いし」
晶の呟きに応えながら、咲は自身の掌を見下ろした。
残る蜜柑は二粒。酸味に飽いたが、思い切って口に放り込む。
「じゃあ、佳月煌々が極伝に近いとされていた理由は?」
「水気の重質は、雨月以外が超えることも出来なかったから。……その前提を覆した佳月煌々は故に、水行の理屈を超えることが出来るとされていたの」
水行の精霊技は重質く、行使の際はどうしても加速を挟まなければならないのだ。
それ故に水行の精霊技は、行使に一拍の間を必要とする。
晶の疑問に応えながら、咲は竹筒から水を口に含んだ。
内湾を抱える鈴八代で汲んだ清水は、咽喉の奥で優しく何処か潮の香りが満ちる。
「――極伝に到ったと噂されても、結局はどれも的を外していたわ」
「抑々論、極伝の定義が曖昧なのが問題だろ。五行を超えるって、具体的な例がない限り想像も出来ないぞ」
「そうよね。……例えば、金行なのに水行を再現する、とか?」
曖昧なままであるのは自覚しているのか、咲は応えつつも首を傾げた。
「ほら、奇鳳院流の不如帰とか。玻璃院流の杜鵑草と併せたら、爆発的な火力を生むし。
――極伝に到るとば口は相生関係の再現だって、それが現在の通説みたい」
「天籟もそうだし、呪符も併せて相生を再現するのは、それが理由か」
「少しの精霊力で最大火力を求めるのは、戦術の基本。
呪符の併用は、以前からもあったわ」
晶が思考に耽る中、咲は漫ろに窓の外を眺めた。
後方へと光景が流れ去り、やがて駅の手前で勢いを落として停車した。
寒風が吹き込むも構う事なく、少女は窓を開けて身を乗り出す。
その視線の向こう。駅員たちが、給水塔から汽車に水を補給する姿が映った。
「煤が着物に付くぞ?」
「隧道の中だったらね。――次は何駅だったかな」
「丸目宿。それを越えたら、國天洲だな」
晶の口調に、隠しきれない緊張が滲む。
案じる咲はしかし、気付かない素振りで席に戻った。
「晶くんが通ったのは、3年前の一度だけだよね。
憶えているの?」
「不破の御当主から貰った地図を辿っただけ。
――3年前は、延々と床の木目を数えていただけだし、憶えていない」
そう。多くを問う事なく、咲は窓際へと頬を寄せる。
吐く息は温かく、窓の表面で白く変った。
「――不思議よね」
「何が?」
「晶くんも学校で習ったでしょ。
吐く息も蒸気機関も、同じ水蒸気なのに随分と違う」
それはそうだろう。晶はそう応えようとして、ふと疑問が浮かび上がった。
熱量が違う、水量から来る圧力が違う。だが確かに、その2つが同じものだという矛盾。
補給を終えた蒸気機関車が、汽笛を高らかに響かせる。
重く鉄の音を軋ませて、窓の外がゆっくりと動き出した。
丸目宿の駅が夕闇に去る様を、晶は何となく目で追った。
今日はもう一つ、駅を越えたらそこで泊まり。
廿楽までの駅は、残すところ片手の指に足りる所まで来ている。
感慨も何も無い。
――國天洲の洲境を越えた事を、晶は今更ながらに自覚した。
申し訳ございません。
来週の更新ですが、どうしても外せない所用の為、休ませていただきます。
……後一度、5月25日も止めざるを得ないかもです。
ご理解の程、よろしくお願いいたします。
読んでいただきありがとうございます。
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