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泡沫に神は微睡む  作者: 安田 のら
一章 華都奏乱篇
15/222

4話 伽藍に在りて、少女は微笑む1

――――りぃん、ちり、、ん。


「う……ん」

 どれだけの時間が過ぎたのだろう。

 耳に寂しく残る風鈴(すず)()に、晶の意識はゆっくりと浮上した。


 そして気付く。随分と思考が軽い。

 疲労や眠気は然程に取れていないが、先刻(さっき)まで思考を縛っていた妙な重圧が消えている。

 その分、少しは脳の回転が働いているようであった。


 (まぶた)(しばたた)かせ、霞む視界を明瞭にする。

 そうして()ず視界に飛び込んできたのは、ひと目で新物と判る藺草(いぐさ)が丁寧に貼られた上物の畳に座り込んでいる自身の膝であった。

 ここまで質の良い畳に座るのは、廿楽(つづら)以来であろうか。

 新物特有の青枯れた藺草(いぐさ)の香りが、久しぶりに鼻腔の奥を(くすぐ)るさまを楽しむ。


――ちりん、ちり、りりん。


 風に踊る風鈴の音に誘われて、左に視線を遣る。

 障子など遮るものが一切ない、大きく開けられた広廂(ひろびさし)。転落防止だろうか、座って手が置ける程度の欄干(らんかん)

――そして、その向こう側に、満天の星が広がっていた。


「星……ぞら?」


 呆然と口にしてから、晶はその違和感に気付いた。

 星を見るにしては、視線があり得ない程に低く星明りが近い(・・・・・・)


――あれは、人間の営みの明かり。街の灯だ。


 漸く、晶は今自身がいる場所の想像がついた。

 何処かの山の高台、華蓮を見下ろせる位置にいるのだ。


「此処は…………」


「――伽藍(がらん)ぞ」

 口を衝いた疑問に思いもしなかった(いら)えが返り、驚いた晶は正面に視線を戻した。

 そこに、脇息にしな垂れかかるような姿勢で金色の髪の少女が座っていた。

万窮(ばんきゅう)大伽藍(だいがらん)(わらわ)坐所(ざしょ)ぞ」


――怖気(おぞけ)が立つほどに美しい少女だ。


「だ……………………」

 誰だ。その単純な一言すら、喉奥が麻痺したかのように凍り付いて出てこない。


 美しい。少女と逢ったものが持つ最初の表現は、この一言に尽きるだろう。

 年齢(とし)10歳(とお)を数えたばかりであろう幼い肢体。彼女の身体を包むのは、(あか)に金糸を縫い込んだ華やかな単衣(ひとえ)であった。


 着物を覆うほどに長い金髪は、繊細な絹糸を思わせる光沢を放ち、そして何処までも深い、それでいて明るい複雑な色彩の蒼の瞳。

 肌は間違いなく血の通った健康そうな白、桜色の唇から零れ見える歯は真珠の如くで。

 気怠そうに頬に添えられた指は、白魚を思わせる(たお)やかさ。

 その全てが、完璧な配置で整えられている。


――間違いなく人間じゃない。

 先刻(さき)芙蓉(ふよう)御前(ごぜん)の時も思ったが、彼女の場合は確信を持って云える。

 西方のものは金の髪に碧い瞳をしていると聴いた事があるが、ここまで鮮やかな色彩の完成された美貌は、人間の赦される領域とは思えなかった。

 加えて、少女の瞳だ。虹彩に当たる部分は蒼い炎の揺らめき一色に染まっており、瞳孔に当たる部分が一切見えない。人間が持ち得る瞳ではない。


 少女の双眸が、愉し気に(すが)められる。


はねず(・・・)ぞ」


「ぇ…………?」


「妾の名じゃ。

――朱華(はねず)。正者に於いては其方(そなた)のみが口にすることを赦される、妾の名前じゃ。憶えてたもれ」

 くふ。朱華は器用に喉で笑った。ともすれば、莫迦にされていると思われそうな笑い方なのに、良く似合っているからか嫌味は全く感じない。

「それで?」


「ぇ、そ、それでって?」


「其方の名前は?

 妾の名前だけ与えるのでは、余りにも不公平であろう?」


「あ、」

 確かに、相手だけ名乗るのは挨拶として失礼だろう。

「晶、です」

 年下ではあろうが、立場は圧倒的に相手が高い事は容易に想像がついた。そのため、付け焼き刃とは云え、自然、口調は敬語のそれとなる。


あきら(・・・)(あきら)、ふ、ふふ」

 何が可笑しいのか、晶の名を何度も口遊(くちずさ)んで愉し気に笑う。

「五行を巡り、漸く生まれる恵みの結()を名に(いだ)くかや。空の位に至るに相応しい名前よな」


 一頻(ひとしき)り晶の名前を口遊(くちずさ)んでから、朱華はひたと晶を見据えた。

 とはいえ、視線には厳しいものは一切なく、愉しそうな優しそうなそれであったが。


「噂好きの雀どもが(さえず)っておったから何かと思えば、禊ぎ祓いの儀を通って空の位に至ったものがおるとはな。流石に妾も予想はせなんだわ」


「空の位?」

 空の位。此処に至るまでの道行きで何度か耳にした言葉を再び聞く。

 これまでは疑問に思う余裕すら与えられなかったが、今はその縛りが消えている。


「空の位は空の位ぞ。かんな(・・・)みくら(・・・)たる者たちが至る、正者の奇跡じゃ」


「????」


 かんな(・・・)みくら(・・・)。また知らない言葉が出てきた。

 無知ゆえの戸惑いが顔に出ていたのだろう。朱華の愉し気な表情に、困惑の色が混ざる。


かんな(・・・)みくら(・・・)神無(かんな)御坐(みくら)ぞ。

 知らんのか? そも晶や。其方、何処の家の者じゃ?

 妾が知らんのじゃ、久我や輪堂ではないことは瞭然(りょうぜん)じゃが」


 久我と輪堂の名が出たので家と云うのが八家を指すことは理解できたが、晶が追放されている身である以上、雨月の名を口にする事は赦されない。


「俺は孤児です。八家とは関係が無いし、親もいません」


御坐(みくら)は八家より産まれる。例外はないはずじゃが……、嘘を云うてるようではないのう」

 晶が口にしたことが嘘ではないと判るのか、朱華は困惑したかのように首をひねった。


 しかし、戸惑いの視線が混じっていたのは、僅かな時間だった。

 沈黙も然程に無いまま、朱華の表情に華やかな笑顔が戻った。


「――まぁ良いわ。妾が万窮大伽藍に、神無(かんな)御坐(みくら)(おとな)いがあった。今はそれだけで善い」


「……はぁ」


 朱華からの追及が無くなり、晶は安堵のような肩透かしのような気の抜けた息を吐いた。

 実際、分からないことだらけではあるが、精霊無しである事がばれて直ぐさまにここを叩き出されるよりかはよいといえる。


「それよりも、酷い顔色(かお)じゃの。……具合でも悪いのかや?」


「疲れただけです。山狩りで昨夜から一睡もしてないし、何も食っていないから」

 おまけに『氏子籤祇(うじこせんぎ)』を受けに来ただけなのに、一日中、訳も分からずに延々と歩き回る羽目になったのだ。

 思考を縛る重圧が消えたとはいえ、そのままの疲労は晶の意識を吹き飛ばさんばかりに大きくなっていた。


「なるほどの、腹に何か納めたら眠りそうな顔色じゃの。じゃが、そのままでは妾と話す事もままなるまい。

――呑みやれ(・・・・)


「え?」


 す。朱華の繊手(せんしゅ)が持ち上がり、晶の膝元を指す。

 その指先に視線を遣ると、何時の間にか晶の膝の先に丹塗りの盃が置かれていた。


 盃には、透明な液体がなみなみと満たされている。

 見た分には水に見えるが、立ち昇る芳香が水ではないことを主張していた。


 匂いは表現できないほどに素晴らしい。

 酒精独特の芳香はしなかったから酒ではないのだろうが、果実に似た、複雑な甘い香りが晶の喉の渇きを猛烈に刺激する。


「……これは?」


「水ぞ」


「……こんな甘い匂いをして、水はないでしょう」


「偽りは舌に乗せておらぬ。それは、おち(・・)水じゃ。

――さ、呑みやれ」


 おち(・・)水が何か説明が無いため、結局のところ意味不明だった。

 盃からの芳香は素晴らしいが、理解のできないものを口に含むのは勧められたとしても躊躇われた。


「何じゃ、口にするのは怖いかや?

 なら、妾が毒見してやろうのう」


 何時の間にか朱華の手元にもう一つ、丹塗りの盃が携えられている。

 盃の中には、晶の盃と同じように透明な液体が湛えられているのが見えた。

 朱華は、盃の液体を躊躇う事なく口に含む。

 喉元が動いて、少女が確かに液体を嚥下するさまが見えた。


 盃の中身を全て干して、朱華の口元が挑発するように弧を描く。


「ほうら、大丈夫であったろ?」


 その口元から、朱金に輝く粒子が風に乗って細く棚引く。

 粒子と共に立ち昇る芳醇な香りが、朱華が呑んだものと晶の盃に満たされている液体が同じものであることを伝えてきた。


 朱華の笑みに圧されて、ええいままよ、と盃に口を付ける。

 とろりと僅かに粘性を帯びた液体が、舌の上を伝っていく。

――甘い。

 甘露、とはこのことを指すのだろう。ごくごく僅かな酸味と舌を刺す刺激。何より桃に似ているが、晶の記憶にあるそれよりも圧倒的な甘さが晶を夢中にさせる。


 至上の、と云っても過言ではない芳醇な美味に、晶の盃はたちまちに干された。


 甘露な液体が喉を伝い、臓腑に染み渡ってゆく。

 すぐさまに疲労しきっていた体力が賦活していくさまを、晶は感じ取った。


「これは……」


「毒ぞ」

 いったい何の薬かと思わず口にした晶に、朱華がそう答えを返す。


 その言葉に思わず咳き込んだ晶に、ころころと朱華は笑って見せた。

(たわむ)れじゃ。変若水(おちみず)は、ただ人(・・・)には一滴(ひとしずく)でも猛毒にはなるがのう。妾たち(・・)や其方にとっては万障を打ち祓う霊薬じゃ、思うがさまに呑むが好い」


 言葉に嘘はなさそうだ。毒と聞いて強張った身体が、安堵で弛緩した。

 朱華の言葉を証明するように、疲労が心地良い熱に洗い流されてゆく。

 そして暫くの後に晶の身体に残るのは、うつらと寄せては返る細波のような睡魔のみとなった。


「喉は潤ったかの?」


「はい。

……助かりました」


「善い。

 其方の望みを満たす事こそが、妾たち(・・)の慶びじゃ」

 くふ。喉を鳴らして少女は微笑んでから、やや真剣みを帯びた視線で晶を見据えた。

「――それで? 晶の用件は何じゃ?」


 その問いかけに、晶の思考が夢見心地から現実へと引き戻される。

 そうだ。晶はここに休みに来た訳でも、甘露を吞みに来た訳でもない、氏子になりに来たのだ。


「……氏子になりたいんです。『氏子籤祇(うじこせんぎ)』を受けさせてください」


「……無理じゃ」


 晶の願いに、朱華は眉根を寄せてそう答えた。


 朱華が悪い訳ではない、真摯に答えてくれたのも分かっている。それでも、ここまで苦労して得た返答が今までと変わらないものであった事に、晶の頭に血が上る。


「何故、ですか? 俺が孤児だからですか? 精霊無しだからですか? 穢レ擬き(バケモノ)だからですか?」

 視界が、思考が、涙で滲む。両手の爪を畳に立てて、表面をがりりと搔き毟った。


――何故、自分が存在しているのか、答えが欲しかった。ただの安寧たる生活すらも赦されない、精霊のいない自身の生まれそのものが呪わしかった。


 氏子になる。華蓮の民として認められる。

 ごくごく平凡に、その片隅で息をする。

 そんな惨めな営みすら、晶には夢想の領域なのか。


「俺は氏子になりたい! 華蓮の民として、片隅でもいいから生きていたい!

――それが、そんな事を願うのが、そんなに罪か!?」


――ちりん、りぃん、りりん。


 風鈴の音が晶の感情を(さら)い、二人の間に暫しの静寂が横たわる。

 僅かな静寂の後に、朱華が口を開いた。


「――罪ではない。晶の願いは、(すべか)らく是と応えよう、決して妾の意思は変わらぬ」

 朱華は、真摯に言葉を紡いだ。

「其方が孤児だからではない。約束しよう、其方は穢レ擬き(バケモノ)にはならぬ」


 朱華は、ただ真摯に晶を見据える。

 10歳にも満たない見た目の少女が、円熟した女性のように晶の心を温かく包み込んだ。


「其方が氏子になれぬ理由は単純じゃ。

――其方は産まれた時分より神無(かんな)御坐(みくら)じゃ。

 氏子は他のものになれぬ。防人(さきもり)も、神使も、巫女も、衛士も、その原則は絶対に変わらぬ」


「だけど、俺は『氏子籤祇(うじこせんぎ)』で白紙しか出したことはないぞ?」

 そうだ。最初から決まっているというのなら、何故、神無(かんな)御坐(みくら)という結果が引けないのか。


「『氏子籤祇(うじこせんぎ)』は、ただ(・・)人と土地神が契りを交わす儀式じゃ。当然その範疇に収まる結果しか出てこん。

――三宮に与えられる神子(みこ)、四院に与えられる(かんなぎ)、これらは神の器により近い称号となる。そして、其方の持つ神無(かんな)御坐(みくら)もここに入る」


 朱華は、手にした盃を傾けて変若水(おちみず)を口に含む。

 吐息に混じる朱金の粒子をまるで煙草のように(くゆ)らせて、甘い香りで空間を満たした。


「『氏子籤祇(うじこせんぎ)』を引いても、白紙の結果しか得られない理由はそれじゃ。

 そも、氏子は最下の称号ぞ。神無(かんな)御坐(みくら)であるならば、気に病む意味も理由もないはずじゃ」


 理由ならある。駄々っ子のように首を横に振る。


 神無(かんな)御坐(みくら)とやらが何かというのは、晶にとって興味の外であった。

 晶は、氏子にもなれぬ精霊に見捨てられた無能と断じられて故郷を追われた。精霊無しは、短い晶の人生に於いて、常に影を落とし続けた心の傷の根源だ。

 だから、最下の称号とはいえ、晶にとって氏子というのは手の届かない憧れであったのだ。


 だから、欲しかった。

 自分は人間なのだと認めてほしかった。

 無能だと嗤われたくは無かった。

 ここで生きていて良いのだと受け入れてほしかった。

――その全てが、故郷(廿楽)では赦されなかったからだ。


「――しょうがないのう」

 困ったような嬉しいようなそんな響きを口調に混ぜて、ぽつりと朱華は応えた。

「其方を氏子にしてやろう」


「……え?」


 唐突に得られたその言葉に、晶の反応が僅かに遅れる。

 確かに氏子になりたかった、だが、何よりも欲しかったその言葉が与えられた瞬間が唐突すぎて、何とも実感が湧かないのだ。

 そもそも、目の前の少女は何者なのだというのか。

 見た目からしてかなり上位の貴種(華族)であることは間違いなかろうが、『氏子籤祇(うじこせんぎ)』に手を加えられる存在などこれまで聴いたこともない。


「何じゃ? 其方の願い通り氏子にしてやろうというのじゃぞ、嬉しくないのかや?」


「い、いえ。嬉しいし有難いです」

 だけど、どうやって。晶が続けようとした言葉を察していたのだろう、済まなそうな表情で朱華が言葉を紡いだ。


「済まぬが、いかに妾でも其方を本当に氏子にしてやることはできぬ。

……そも、したくは無い(・・・・・・)

 妾にできるのは、『氏子籤祇(うじこせんぎ)』の結果を氏子として出してやることだけじゃ」


 それでも良いか、と念を押されて、一も二も無く晶は頷いた。

 晶の望みは、『氏子籤祇(うじこせんぎ)』を通って氏子となること。そして、人別省への登録が叶い、一市民として華蓮に足をつけて暮らすことだ。


「あ、」そう。長年の願い(奇跡)は、いま、かなったのだ。

「――あり、が………………」

 言葉にならなかった。溢れるような歓喜が喉を詰まらせる。


 慈愛の瞳で朱華が見守る中、晶はただ涙で膝を濡らし続けた。




「――さて、良いかや」

 暫く後に、改めて朱華がそう切り出した。

「氏子の結果を引き出すために、其方には労を負って貰うが」


「はい」


「うむ。とは云え、難しいことではない。

 この逢瀬が終わりし後、朱沙の地にて『氏子籤祇(うじこせんぎ)』を受けるが良い。さすれば、問題なく氏子の結果が引けるであろう」


「はい。……え? それだけ、ですか?」


「然り。他の地では無理、という訳ではないがのう。朱沙の地は我が直轄ゆえの(・・・・・・・)、妾も干渉しやすいのじゃ」


 場所が問題なのだろうか? とりあえず良く分からないままに晶は頷いた。


「良し。では、対価の話じゃ」


 対価。そう聴いて、晶は真っ青になった。


 そりゃ当然だ。相手の少女は見るからに上位の華族、晶という下位の存在が彼女に労を強いたのだ。

 返礼の意味だけを取ったとしても、相当な金子が必要となるはずだ。

 まさか、この時点で払えんほどの高額を吹っ掛けてくるのだろうか。


「そうじゃのう。……次の土曜からで良い。毎週、妾の伽藍に遊びに来てくりゃれ」


「……え?」

 どんな大枚を要求されるのか、戦々恐々していた晶の肩がすとんと落ちる。

 晶のそのさまを見て、少女が何を勘違いしたのかむっとした表情を見せた。


「何じゃ、不満かや。じゃが、これは譲れんぞ。

 神無(かんな)御坐(みくら)との逢瀬、それは妾たちにとって何よりの対価である。

 それとも、妾の労に対して対価が高すぎると申すかや?」


「い、いえ」慌てて両手を振って否定する。

「お、俺は練兵なんで、不寝番(ねずのばん)が被ったら、どうしようかと思っただけです」


「案ずるな。その程度(・・・・)、如何にとでもなろう」

 良く判らん権力の行使を間近で見せつけられて、晶は絶句した。


「此処には、どうやって来れば……」


「朱沙の地に案内(あない)を寄越す」


 それじゃあ……。と、言葉を探す晶に、朱華はさらに眉根を寄せる。


「何を不満に思っておるか良く判らんが、対価が高すぎると申すなら云いやれ。

――其方はいま、何が欲しいのじゃ?」


 高すぎるとかではなく、価値の基準が判らない(・・・・・・・・・・)のだ。

 状況が判らないままに、何かとんでもないことが決められている気がする。


「どうした? 其方の訪いに相応しい願いを口にすれば良い」


「……ね、願いはもう叶いました。氏子になる、それだけです」


「それは違うのう。其方は、一呼吸分だけ考えた(・・・・・・・・・)

 つまり、望みは満たされていないという事じゃ」


「――――――――っ!!」

 朱華の指摘に、晶は息を詰まらせた。

 その通りだった。願いを訊かれ、とっさに思い浮かんだものがあったからだ。


「――云いやれ。其方の願いは?

 妾は、その全てを叶えてやろう」


 良いのだろうか? 晶は自身の願いを口にすることを躊躇った。


 逢って間もない年端のいかない少女に、己の低俗な欲望じみた願いをぶちまける。

 それは、朱華の善意を犯すと、汚すという事と同義に思えたからだ。


――まぁ、それでもいいか。


 半ば投げやりにそう考える。

 どうせ、口に出すだけだ。氏子になれるのであるなら、他はどうだって良い。


「俺の親が、人別省から俺の魂石を奪い取る可能性がある。その前に、華蓮の人別省に俺の魂石を移したい」


「うむ、認めよう。其方の魂石を、迅速に華蓮の人別省に移す」


「俺は練兵だ。だから、死にたくない」


「当然じゃ、妾も晶を喪いたくはない。

 約束しよう。珠門洲に其方がつま先でも身を置く限り、(くに)の全ては其方に合力するであろう」


「――力が欲しい。理不尽を跳ね除ける、何よりも強い力が」


「与えよう。其方が手にするは、他の追随を赦さぬ剛力じゃ。

――故に」


 不意に、朱華の声が耳元で囁くように届く。

 驚いて視線を上げると、何時の間にか晶の目の前に朱華が立っていた。


「対価をくりゃれ。妾は其方を満たそう。その代り、其方は妾を満たすのじゃ。

――其方の寵愛こそが妾の慶びなれば」


 朱華の嫋やかな指先が、晶の胸を、とん、と突く。

 然程に力を籠めていないはずなのに、晶は然したる抵抗も出来ずに後ろに押し倒された。


 背中から畳に倒れる晶の上に、朱華の身体が覆いかぶさる。

 晶の身体に幼い少女の肢体が絡み、晶の眼前に朱華の(かんばせ)が迫った。

 変若水の甘い香りとは別に、衣服に()き染められているのであろう伽羅(きゃら)の香りが、晶の思考をくらつかせた。


 色艶が薄い年齢であるはずの少女の瞳が、確かな情欲に潤み晶を見返す。


「嗚呼、()いのう、()いのう。本当(ほん)神無(かんな)御坐(みくら)じゃ。妾の前に現れてくれるとは、なんたる僥倖(ぎょうこう)か」


 状況から逃れようと晶は身じろぎをするが、自身の意思とは相反するように身体は全くと云ってもいいほどに動かない。


「……ちょ、待っ」


待たぬ(・・・)。妾は充分に待った。久方ぶりの神無(かんな)御坐(みくら)、妾のものぞ」

 そう云い放ち、有無を言わさずに晶と顔を重ねる。


――――パチンッ。


「――――――っっっ!?」

 小さく何かが爆ぜる音が響き、弾かれるように朱華の身体が晶から離れた。


「……え?」

 遅れて、晶も気付く。

 晶の身体を護るように、漆黒に輝く粒子が晶の周囲を舞っている。


「――……水気(すいき)

 朱華がそう零してから、晶を見返す。

「晶や。其方、くろ(・・)のお手付きかや!?」


「く、黒のお手付き?」

 黒とは何か? 晶の周りを舞うこの粒子の事か? 思い当たる節の無い晶は、混乱して朱華に訊き返した。


「然り、くろ(・・)じゃ。これは確かにくろ(・・)水気(すいき)

 晶、くろ(・・)に逢った事があるじゃろう?」


「……あぁ」黒、否、くろ(・・)の事か。漸く思い出す。

 義王院の屋敷で迎えてくれた、お目付け役の少女の事か。


「……はい。昔、逢った事があります」

 懐かしい記憶だ。優しい2人との、楽しみだった半年に一度の逢瀬。

 自然、口元が綻んだ。


くろ(・・)が晶を見出していた? いや、しかしそれでは、晶は何故、此処にいる(・・・・・)?」


「お、俺は故郷から追放されたから……」


「違う。くろ(・・)が其方を手放す事は決してない。

 其方に満たされた水気が、それを示しておる」


「い、いや、でも」


 混乱でどもる晶をよそに、朱華はぶつぶつと呟きながら思考に整理をつける。


「國天洲でお家騒動でもあったか? いや、それでも……」


 朱華は暫く思考の中に沈むが、出ない結論を無理やり出すことを諦め、明快な見えているものだけを見ることにしたようだった。

 顔を上げて、悪戯を思いついた童女(わらべ)のように、くすくすと見た目相応の笑い声を上げる。


「ふふ、まぁ良い。経緯(いきさつ)は判らぬが、妾の元に神無(かんな)御坐(みくら)が巡ってきたのは紛れもない事実。妾にとって重要なのはそこだけじゃ」


 倒れたままの晶に圧し掛かり、再度、晶に顔を近づける。

 黒の粒子が輝きを強めて抵抗の様子を見せるが、朱華が両手で晶の頬を包むと、溶けるように輝きが消えていった。


「大方、くろ(・・)は、黒曜殿で()けているのじゃろうなぁ。

――妾に晶が奪われたと知った時の、あの粗忽(そこつ)ものの顔が見物じゃ」


 それまで晶の内側に在った莫大な何か(・・・・・)が、突然失われたのを晶は実感した。

 力が抜けて、それまで感じる事もなかった重圧が、晶の意識を刈り取っていく。


「――晶や、憶えておきやれ。

 其方を満たしたのは、紛れもなく妾じゃ。対価を楽しみにしておるぞ」


 失われた何かの代わりに、晶の身体に別の何かが満たされてゆく。


――それは、今まで存在していたものと似て非なる何か。


 朱華が、愉し気に笑いながら、晶に向かって何かを告げてくる。


――朱金の輝きを放つ………………。


 晶の意識は、泥濘のごとき睡魔の細波に攫われて沈んでいく。

 それを最後に、晶の記憶は途切れた。

TIPS:変若水(おちみず)について。

 一口呑めば病が癒えて、二口呑めば老いが止まり、三口呑めば若返る。

 その正体は、強力な癒しの効果を含んだ純粋な神気の液体。

 当然、ただ(・・)人の手で扱えるものでは無く、正者がこれを口にすることは死を意味する。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 変若水……アムリタ?
[一言] ビッチで読む気が失せた
[一言] 最初の御坐は、はは様のところだからあか様の州の社での『禊みそぎ祓はらいの儀』はたぶん最初のはず。 神無の御坐自体は百年に一度くらい生まれていたと何処かに書いてあった気がします。むしろ直近40…
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