5話 戯れに謀る、終わりも知らず3
ぐずり。新緑の薫りを残す畳の上で、黒い泡が熔け崩れた。
たったそれだけ。真崎理通が存在した証として残っていたものは、座布団の窪んだ跡だけであった。
――香に紛れて異臭が一抓み、間を置くことなく散って去る。
「理通は存在していなかった。
――ならば、此処に座っていたものは、何でしょうか?」
驚愕が全員の思考を留める中、陣楼院家の当主である陣楼院滸が、一足早く我に返った。
滸の疑問は、至極真っ当なそれ。
真崎理通が存在していなくとも、そこで何かが動いて呼吸していたのは事実だ。
神柱。
――少なくとも、真理を見透す金睛の月白をも欺く幻術でなければ、成立しない。
しかし、そのような規格外は、実際に存在し得るのか?
だが返る応えも、簡潔なものであった。
「之綱が其処にいただけだ。
――神話を紐解けば、その想像に辿り着ける」
神器とは、神柱の象を別け与えた器物の総称だ。
その形質は様々に移ろい、一所に留まらない。
特に九法宝典は、複雑な神話を辿っている。
ラーヴァナの神器が持つ象は、10の頸の9つ迄を斬り落とした荒行だ。
――9つ迄は死を辿り、その最期に人としての生を得る。
つまり、10在る経の内、楞伽経は最期に生き残った教えなのだ。
神格がほぼ喪われているが、面であり、同時に人間としても独立した異形の神話。
「之綱は神器に依って先刻まで生かされていたが、楞伽経の加護が切れたことで消滅したのであろう。
我らは基本的に、契約の一致で八家とそれ以外を区別するからな」
「……ははさま、我の神器は? 大量之出穂が真崎に未だ宿っておるぞ」
「最低限、十干の大法を維持するために、真崎家の誰かを隠していたのだろうさ。
出産から隠して人別省を欺けば、2人を1人として扱うのは難しくない」
魂石は、出産後に届け出される証明だ。
日々を変動する中で個別に注意を払うのは、神柱と云えども不可能であろう。
「何故、そこまでの労力を掛けたのですか?
生まれから誤魔化すほどなら、洗脳して駒にした方が苦労も少ないでしょうに」
「此処に立つものが2人では、都合も悪いからな。楞伽経が出張れば、ラーヴァナも後が無い。……それに、十干を崩す手段は一つでも多い方が良かろう」
楞伽経がラーヴァナとして再生を果たすには、龍穴の莫大な霊気が必要となる。
成功した場合、楞伽経の権能は残るだろうが、神器としての相を喪ってしまう。
つまり、ラーヴァナと真崎之綱に加え、洗脳した駒という余計な荷物を、彼らは抱え込む羽目になる。
不確定要素を削る意味も含めて、ラーヴァナには1人増える矛盾を誤魔化す必要がうまれるのだ。
――そうなる位ならば、最初からいない方が問題も生まれない。
「十干を崩す、とは?」
「それこそが、金行、それも真崎家を狙った最後の理由である。
十干の大法に於いて、大量之出穂が担うのは庚。縁を結ばれた契約を強引に切れば、どうしても結界が弱まるからな」
百鬼夜行の際に山ン本五郎左エ門がパーリジャータで撃ち抜いたのは、五行結界の裏要である庚神社。
つまりパーリジャータが無くとも、ラーヴァナは確実に神域の結界を破れるよう準備していた訳だ。
淀みなく告げられる策の連続は、散逸的に見えても綿密に組まれている事が良く判った。
「百鬼夜行に敗れた後、楞伽経は撤退か継続の二択を迫られた筈だ。晶が追放された情報に、継続を決断したのだろう」
「だけど、ラーヴァナも知らない事実があった。
――俺が空の位なら撤退を判断するだろうから、高御座さまは最後まで空の位であると明かさなかったんですね」
高御座の告げる内容の後を、晶が継いだ。
総ては策の内かと、責める色合いの強い視線が土行の大神柱を射抜く。
神無の御坐と空の位の最大の違いは、複数の神性を宿すことを可能とする点だ。
これは逆も同様に、加護を享けていない神域の最深部に晶が立てる事も意味していた。
総ては産霊を可能とするためのもの。
神域に侵入したラーヴァナを討ち果たせるのは、その瞬間、晶しか残っていないのだ。
晶の推測は果たして、
「然り。空の位を知るか知らないかで、ラーヴァナの行動は決定される。
故に、神域に対象となる八家全員を誘い込むまで、其方の真実を黙していた。
――不満か?」
「いいえ。ラーヴァナの強大さは、敵対が露わとなるまで理解できませんでした。
高御座さまの判断は、恐らく正しいのでしょう」
天覧試合の最中に明かした理由は、確実性を確保した上でラーヴァナの限界を探るため。
高御座はこの瞬間を以てラーヴァナとの決着を目論んでいたが、不測の事態は常に起こり得るからだ。
残酷なほど慈愛に満ちた問い返しに、晶は覚えた感情を肚に圧し隠した。
策に無駄は無い。策の要に祭り上げられた晶であっても、これが最善に近い手段だと肯う事に否やは云えなかった。
「ですが疑問は残ります。
――高御座さまが俺の事を知ったのは、何時の頃ですか」
「其方の生まれからだ。
晶たちの逢ったアリアドネのそれが有名であるが、十干の大法に護られた高天原に限れば、私も神無の御坐を知ることが出来る」
「ははさま! それでは、晶が吾の手から零れる事も知っていたという事か」
「私は神無の御坐に手を延ばさない。それはくろも知る誓約の通り、晶も同様だ。
――とは云え、無干渉では雨月の暴走も止めようがない。故に3年前、人別省に嫡子認定の厳格化を命じた」
誓約に制限されているために手出しこそ不可能だが、人別省運用の厳格化ならば央都の裁量次第となる。
颯馬の嫡子認定が遅れた理由に理解が追い付き、晶は軽く叩頭で感謝を返した。
誰もが知らない領域で、燻っていた頃の晶を護ってくれていたのだ。
それは神柱の側も変わりなく、ただ、知らぬ侭に安穏と無知でいた雨月にだけ、晶は憐れみを覚えて忘れた。
戦争に当て嵌めれば、現状は戦後処理も大詰めの辺りだろう。
咲は、膝に置かれた楞伽経を見下ろした。
指先から返る感触は、ただ朽ちかけた木肌のそれ。
「――扱いは気を付けるが善い」
降る声に視線を上げる。高御座が向ける金色の瞳に、咲は首を傾げた。
本体と神器の殆どを喪った現状、ラーヴァナであっても干渉できると思えない。
「ここまで追い込まれても、ラーヴァナに成す術があると?」
「ただ人の世を、ここまで漂泊してきた神柱も珍しいのだ。
……それに、子等の欲望を考えれば、九法宝典は魅力的に映りもしよう」
九法宝典の権能を完全に取り戻すためには様々な障害もあるが、それでも人の欲望を満たす権能が多すぎる。
特に楞伽経は、死にゆくものを繋ぎ止めて肉体の年齢をも操っているのだ。
権力を持つものほど、この権能に惹かれる事は想像に難くなかった。
「ラーヴァナを持つ上で、注意すべきことは?」
「――一応、封じてはいますが、粗雑でしかありません。
龍穴に浸せば、即座にラーヴァナが復活する可能性はありますね」
咲の疑問に、雅樂宮亜矢が答えを返した。
手にした面を慎重に見下ろす。
十重二十重と面を縛る界符は、咲も及びつかないほど強固な構造。
見た目は脆くとも、これの突破は咲では不可能である。
「脆いって」
「咲。呪符を構成する真言は、元々がラーヴァナの神器だ。
向こうからしたら、隙間だらけの檻にしか見えないはず」
「そうなの!?」
「少なくとも、パーリジャータを支配して好き勝手に動かせている。
他神柱の神器に干渉できるなんて、人間の知識じゃ有り得ない」
晶の断言に、咲はもう一度面へと視線を向けた。
そう聞いてしまうと、眼前の面が今にも動き出しそうな錯覚すら覚えてしまう。
「……どうしよう」
「できる限り早急に、潘国へと向かうしかない。
向こうの状況はどうなっていますか?」
「――少なくとも、潘国の領土は随分と荒れているようだな」
国外の情報に最も精通している久我法理が、腕組みをして眉根を寄せた。
西巴大陸と昵懇の仲であるため、敵対している潘国の詳細は伝達が鈍いのだ。
法理の知る情報も、何ヶ月前のものか。
金色の神柱も又、脇息にしな垂れて思案を巡らせた。
――やがて、
「仕方あるまい。ベネデッタ・カザリーニを、もう一度招聘する。
アリアドネの神子ならば、潘国の詳細を把握しているはずだ」
「待たせてはおきましたが、……宜しいのですか?
此方が下手と見た途端、あれらは交渉の値段を釣り上げますが」
法理の心配も当然のものであろう。
だが、薄く嗤うだけ、高御座は首を振ってみせた。
「だからこそ、アリアドネが最も欲しているものを先刻に出さなかった。
ここで切るのは癪であるが、背に腹は代えられん」
「――あれですか。了承いたしました、直ぐに呼びましょう」
高御座の隠していた手札に思い至り、月宮周が肯いを返した。
それは危険を冒してまで、ベネデッタが短期間で高天原に戻った最大の目的。
この手札を掌握している以上、交渉の主導は常に高御座のものであった。
然程に時間も掛けることなく、金髪碧眼の少女が再び広間へと足を踏み入れた。
幾つかの頭数を減らした高天原の面子に眉根を寄せたが、言及しないままに頭を下げる。
「再度、謁見の機会を頂き、感謝致します。
もう御用が無いと支度していましたが、何か御座いましたでしょうか」
「問い質すことが幾つか生まれたのでな。
――潘国は、現状どうなっている?」
直球で問われた内容に予想が総て裏切られ、ベネデッタは内心で首を傾げた。
基本的に、高天原は海外への興味が薄い。
海流に護られたこの島国は、海一つ隔てた青道を対岸の火事とみる気風があるのだ。
実のところ、交易の玄関口である鴨津や、洲都華蓮の発展の方が余程に珍しい。
――潘国の状況を応えるだけなら容易いが、目的が分からない以上、値段をどうしたものか。
「別に、使節殿だけを当てにしてはいない。
儂が鴨津に戻れば、寄港した船舶から幾らでも情報は聞き出せる」
「それならば、私を呼ぶ手間も省けましょう
それを惜しんだという事は、民間船よりも詳細で新鮮な戦況を聞く必要が生まれたのでは?」
「――いやいや。どの道、裏付けは必要となる。
多少の手間など、取るに足らん違いでしかない」
素早く思考を巡らせる少女へと、久我法理が口を開いた。
老獪な鴨津の領主の言葉は尤もなもの。そこに生まれた意味の間隙に、ベネデッタは大輪の笑顔を以て、確信を返した。
「ええ。勿論、そうでしょう。
論国だけでは景気の良い話題しか振らないでしょうし、久我殿であっても把握は難しいと理解いたします」
「はは。これは手厳しい。
波国は一歩出遅れたと聞いていましたが、神子殿が先鋒と立てば安泰も安泰ですなぁ」
要は、波国から見た詳報が欲しいのだろう。
幾ら景気の良い情報が届いていても、潘国への侵攻が始まってもう数十年が経つ。
長引く紛争の原因を探るためには、論国と距離を置いている波国からの情報を併せる必要が生まれるのだ。
その先鋒であった主戦派こそ斃れたものの、ベネデッタは波国の現状をかなりの部分まで掴んでいた。
「潘国に食指を伸ばしているのは、論国が筆頭である事は間違い無いでしょう。
ここ最近は論国の急成長に危機を覚えたのか、西巴大陸の北部がこぞって潘国に艦船を派遣し始めているのが現状です」
「目的は」
「様々とだけ。論国の支配域に、資金と武器を供給するのが昨今の流行らしく。
抵抗軍を名乗る現地の民と、地方領事が内紛に陥っています」
一見するだけなら、回りくどいだけの手法。
その理由を理解した晶が、苦く口を挟んだ。
「つまりそれだけ、論国の国力は隔絶しているって事か」
「どう云う事?」
「守備隊でもそうだけど、練兵から正規兵になるまでの期間が6年。
だけど、正規兵としての基礎だけなら、その半分で終わっているんだ」
咲が返した疑問にも、晶の口調は苦いまま。
身体の完成しない成長期とはいえ、極度の鍛錬を実戦ごと重ねているのだ。
3年で完成する兵士を、できるだけ長く損切りできる方向で使い潰す。
部隊運用の観点から見れば、間違いなく割に合っていない。
だが、そうしなければ、守備隊そのものが行き詰ってしまうのだ。
隊長である阿僧祇厳次や副長の新倉信が資金繰りに汲々としていたのも、ここが原因となっている。
「守備隊単位でそうなんだ。
国力の低い国家が論国と対抗するためには、潘国の兵士に武器を渡す手段が最も効率的。
――違いますか?」
「はい。西巴大陸でも、技術革新以来、論国は一歩抜きんでています。
戦力を送るよりも経済的ですし、
何よりも地元の民たちに潘国を還す、人道的な意味もありますし」
晶の視線に、ベネデッタは微笑んで応えた。
事実、彼女は、この謀略に一切関わっていない。
目論んでいた主戦派がいない今ならば、方針の転換も容易かった。
「……潘国の大神柱であるシータの神域は、どの辺りに在りますか」
「さて? 戦況の硬直している現状、私にも確証は無いですね」
「――しかし、確信に近い推測はつけている。
違いますか、波国の神子」
「……何の事でしょうか?」
月宮周が突いた真実に、微塵も窺わせる事なくベネデッタは微笑んだ。
知らない事は嘘にならないが、推測ならば確かに立てている。
交渉の妙とは、相手に言質を取らせない事だ。
ベネデッタと相対して、周は薄く嗤った。
「主戦派とやらの筆頭が斃れたのはそうでしょうが、構成していた大部分は残っているはず。
性質から見て、軍部を掌握した貴族や商人辺りですか?」
「さて。主戦派であっても、波国の大切な民。波国には、罰する理由がありませんので」
「ええ、そうでしょうとも。
資財を掌握している相手。王家であっても、排除には苦労するでしょうね」
「……ご理解の程、嬉しく思いますわ」
異国の使節を前にして、周は確信に嗤った。
今までは関わっていないだろうが、主戦派の大部分は無事のまま。
何よりも主戦派が急成長した理由は、莫大な軍需利益を掌握しているからだ。
今では最大派閥となった穏健派だが、資本主義の西巴大陸に於いて資財を握っている相手は無視できない。
「論国が目立ちますが、西巴大陸自体が随分と焦っていますのね。
原因はやはり、鉄の時代の到来でしょうか」
「意見の一つである事は確かですね」
「ふふ。神柱の加護の消失を無視は出来ませんか。
――どれだけ持ちますか?」
内心の焦りを握られ、ベネデッタの眦が歪んだ。
神域と同時に消失した加護の影響は、直ぐに表出しなかった。
寧ろ、瘴気と妖魔が極端に頭数を減らし、喜ばれたほど。
――だが、その影響は確実に広がっていた。
表面化した頃には既に遅く、鉄の時代は西巴大陸の5分の1までを蝕む事態にまで陥っていたのだ。
人間の出産数が極端に減り、子供の生存率が10分の1にまで落ち込む。
ここに止まらず、全生命が同様の傾向を辿っているのだ。
アリアドネが眷属を束ねて維持しているが、少しずつ加速している傾向にある。
「――試算によれば大陸の3分の1。100年足らずで、西巴大陸は神域を奪い合う内乱に陥るはずです」
「結構。後が無いと理解しているならば、高天原としても協力を惜しみません」
「……こちらを抉って交渉とは、高天原も後が無いようですね」
「さて。遠く同盟を結んだ同胞へと、救援を向けるだけですので。
――高天原が持つ、神無の御坐を生み出す十干の大法の知識。これが必要なのでしょう?」
「……………………」
月宮周の口にした情報に、遂にベネデッタは沈黙を選んだ。
印刷技術の伝達から歴史書を作成させ、宣教の名目で土地を探索する。
断片的に取得した知識から、神無の御坐を生み出す知識が存在している事も確信を得ていた。
苦労したものを、此処まで容易く見せ金に出されたのだ。
警戒するのも、当然であった。
「西巴大陸の言葉を教える名目で、数人の教師を央都に招いた甲斐がありました。
折りに触れて彼らが捜していた知識を併せると、波国の目的も推測できますので」
「お互い様に、目的は露見していた訳ですね。
……良いでしょう。潘国に対する事態で、高天原は波国に何を求めますか?」
「全てを」
互いに微笑む中、月宮周の返答が揺らぐ事は無かった。
「潘国の安堵。救世への協力を一切惜しみなく。
――誓約するならば、閉ざされた神域を開け得る、十干の大法の知識を与えましょう」
大がかりな伏線回収も、纏めに入ります。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマークと評価もお願いいたします。





