5話 戯れに謀る、終わりも知らず2
薄墨に染まる秋空が倒れ伏した颯馬を見下ろす中、晶の木刀が残心から納刀へ軌跡を描いた。
冷酷たく固い沈黙が、一つの決着に降り落ちる。
「勝者、――夜劔晶」
藤森宮薫子の無情な声だけが、白洲に響き渡った。
終結の宣言に、衣擦れの音を残して晶が頭を下げる。
――誰からも言葉はない。
紡ぐ意味も持てず、三宮四院に迫る歴史の終焉を見届けた。
「莫、 、迦なっ」
絞るほどに捻れた細い声が、三宮の許から上がる。
座した膝を乱した天山の、現実を理解できない哀れな苦鳴であった。
「決着したな。まあ、順当な終わりであるか」
「お待ちください! ま、未だに御座います。
雨月の当主として、この私が敗けぬ限りは――」
――もうひと踏ん張りは期待していたのだが。
感動も薄い呟きに我を取り戻したのか、天山が高御座の媛君へと向き直った。
遅すぎる決意を新たにした男へと、金色の神柱はつまらなそうに視線を向ける。
「却下する」
「八家を決める場に御座います! 当主の頭ごなしとは、今後に不義を残すかと」
素気無く嘆願を下した神柱へと、天山は必死に食い下がった。
颯馬は間違いなく、雨月でも最強である。神霊遣いである事を差し引いても、幼くして佳月煌々を修めた才は天山の遥か上を行く。
晶の才は、天山をしていい加減認めねばならない。――だからこそ、颯馬との仕合に疲れた現在に連戦へと持ち込めば、天山にも勝機が生まれるはずであった。
それでもと醜態を晒す天山に、脇から薫子の掣肘が刺さる。
「――故にこそ、其方に資格は無い。
八家に求められるものは二つ。一つが武家筆頭として。そして、神代契約に於ける十干の要としての側面。
両者は混同されがちだが、本質は別に置かれている」
「それが……」
「雨月颯馬を晶との仕合に出したが故、理解していると思っていたが。……雨月の喪失は余程に深刻らしいな。
――我らの見る雨月の当主は、華族の内輪で認めたものに非ず」
薫子は憐れなだけの天山を見捨て、晶へと視線を巡らせた。
裁定権を掌握する女性からの無言の促しに、晶は首肯だけを返す。
――颯馬へ向けて手を翳す。瑠璃の光芒が幾つも弾け、晶へと溶けて消えた。
譲渡は数秒も経たないうちに。それまでとは裏腹に、呆気なく輝きも終わる。
「何を、」
「幽寂を断ち切らん」
問う天山の声を無視し、晶は虚空へと手を向けた。
八家を決める仕合の締め。その証を立てるべく、新たに心奧へ納刀められた柄を掴む。
「――布津之淡」
初めて握った。しかし永く寄り添ったと錯覚しそうなほど馴染む感触が、晶の手に返った。
音も残さず黒曜の神気が迸り、細く薄い反身の刃が晶の眼前を繊月の姿に刻む。
顕現は一瞬のうちに。だが、嘗て己も手にした神器を穢レ擬きの掌中に見止め、天山の顔面が嚇怒にどす黒く歪んだ。
「雨月の誇り。そこまで貶めるか、下ろ、 、」
「一寸とは落ち着けや、雨月。
――身綺麗に跡を譲るのも、後進への思いやりだろうが」
伝法調の喋りと共に突きつけられる、鞘に納まったままの匕首。
思わず噤む天山を満足そうに、同行晴胤は腰を戻した。
周囲からの咎める視線。
神前を乱した事実に、晴胤は胡麻塩の頭を掻いて見せた。
「――此奴ぁ、御無礼を。
滅多な縁も無ぇ仕儀、目溢しを頂けれりゃあ有り難く」
「似合わぬ気遣いは無用。
――これが応えだ、天山。天覧仕合で問われるのは、神代契約としての八家。その証明は、神器の所有を以て為される」
雨月の神器は、天山から颯馬に譲渡されている。
つまり、天覧仕合に参加する資格を有しているのは、神器を所有していた颯馬だけだ。
高御座から見て天山は、八家である雨月の縁者でしかなかった。
遂には万策も尽きたと理解に及び、天山は悄然と肩を落とした。
利用されるだけで使い捨てられた雨月天山に一瞥を向けてから、晶へと視線を戻す。
誰に、何を使い潰されたのか。天山の知れぬ侭に終わりが訪れたのは、雨月を維持してきたこの男に向けられた唯一の救いであったのだろう。
――最早、天山の方を見向く者も居なかった。
「不満を囀り足りないものは? ――結構。では晶よ、改めて問うとしよう。
夜劔を新たな八家と認め、その上で其方は何を求める?」
再度、同じ質問を金色の神柱から尋ねられ、晶は軽く首を振った。
颯馬との仕合も、その結末も、晶にとって予定されている事実でしかない。
催事が恙なく過ぎただけでしかなく、そこには残せるほどの感情も無かった。
――それでも晶は、一つだけ残していた心残りのために、下す裁可を利用する事を決めた。
「要求は変わりません。ですが温情を一つ、手向けるのは構わないかと思っています」
「ほう」
「――条件は」
何気ない口調へと潜む晶の感情に気付いたか、高御座の媛君が興味を滲ませる。
それは天山も同じか。素早く思考を巡らせて、昏い視線のまま晶を睨めつけた。
華族の取引に完全な善意など有り得ない。
曲がりなりにも社会と付き合っていた天山は、その事実を晶よりも熟知していた。
言外の交換条件を明確に求められ、晶も肩を竦めて見せる。
「廿楽にある雨月の屋敷一帯を、総出で綺麗に掃き清めろ。
――それが確約できるならば、来年の春先までは廿楽での滞在を赦してやる」
「……承知した。
よ、夜劔殿の温情を感謝しよう」
「建前など結構。欲しいのは、遂行した事実だけだ」
冬の到来は気配も色濃く、準備も無いままに領地から追い出されるよりも、雨月が生活をするに充分な準備期間が与えられた格好だ。
再度繰り返される甘いだけの条件に、それでも屈辱としか思えないのか。
天山は憤怒に顔面を染めながら、鈍くその頭を下げた。
神前での契約は、神柱の誓約と同等に扱われる。
その締結だけを見届けた高御座は、雨月に対して漸くの退座を命じた。
意識が無いままの颯馬を抱え、天山が力なく姿を消す。
――結局、その場にいる誰もがつまらなそうにするだけ、雨月の凋落は呆気なく決定を下された。
♢
「決着かや。
雨月に情けを向けるとは、今代の御坐は随分と脇が甘い」
「通しやすい約定だけ確約させるのは、交渉の常套手段です。
それに……」
呑気なだけの青蘭を横目に、玻璃院誉は語尾を濁した。
約定の難易は、相手への信頼度を測る物差し代わりだ。
易いだけの条件は、雨月に対する信頼の低さでもある。
内心困り果てた仕草の誉を、青蘭は胡乱に見遣った。
「なんじゃ。義王院の騒動が一段落しように、随分と悩んでおるの」
「一段落だけ、……これで雨月が収まるとも思えないでしょう。
そこに気付いているだろう晶くんが、雨月を解放した理由は一向に見えないので」
晶は、試合は疎か条件を出す辺りにも迷う素振りを見せていなかった。
つまり、天山がどのような手段に訴えるか、晶は予想していたことになる。
ならば温情は一枚板ではない。必ず、隠れた目的があるはずだ。
――問題は、互いに付き合いの薄い誉には、その目的が読めない事か。
「仮令、裏に何が有ろうとも、儂らには関係の無い事よ。
くろの勘気が収まるだけ、東部として立つ瀬も有ろう」
「簡単にそれで済むと云えれば、気も楽でしょうがね。
最悪なのは、晶くんが空の位である点です」
「凄いのう。歴代の御坐でも成し得なかった偉業ぞ、
……待ちや? 最悪とは何じゃ」
感心頻りといった青蘭は、聞き流せないその呟きに首を傾げた。
責める色合いの強いそれから逃げるように、誉の視線が泳ぐ。
互いに嘘の吐けない状況。眷属である少女の所作に、何か隠していると青蘭は確信した。
誉の袖を掴み、陰で声を潜める。
「誉。其方、何をやらかした? 今代が空の位であって、何が不味い?」
「や。別に、露見して困るような事は何も」
「そう口にした以上、何か口約束が不意になった辺りか?
――誰と、何を約束した?」
怒らんから、早く云え。無言でそう急かす青蘭の額に青筋を見止め、誉は肩を落とした。
――言葉にしないだけ、絶対に叱る気でいるやつ。
「……神無の御坐と云えど、現実に生きるただ人に変わりありません」
「であろうが、空の位でもそれは変わらんぞ?」
「一柱しか宿せない御坐と複数を宿せる空の位では、前提が変わってきます。
最初の想定では、雨月を下した後に義王院が所属を主張すると思っていましたから」
山巓陵を訪れた直後の朱華と玄麗を見れば、予想が的中すると確信もできるのだが。
「根拠は無かろう?」
「……あおさま。400年前のご自身を省みて、何か云う事は?」
「あ、あれは仕方なかろ!? 儂の伴侶を自領に奪おうとした、阿呆の乱痴気が末じゃ」
「だからと云って神器の神域特性を龍脈越しに撃ち込むとか、頭が冷えるよりも先に領単位で防人が消えれば世話もありません。
――ともあれ、南北の仲裁を玻璃院が一手に引き受ける事を、陣楼院の側に認めさせました」
弓削孤城を餌に方条誘を使者とした目的こそ、仲裁権への不干渉だ。
向こうは、既に晶が神無の御坐と気付いていたらしい。神楽と晶の接近を交換条件に、不干渉の約定は結ばれた。
「随分な面倒を引き受けようとしておるな?」
「落とし処が明確な分、交渉は素直な部類ですよ。
――晶くんとの時間を確保するために、両院家とも焦るはずでしたので」
神無の御坐であれ、宿す神柱の鞍替えは容易でない。
現在、玄麗が晶を占有しようとしているように、神柱の側から晶の意向に抵抗する事も可能だからだ。
朱華と玄麗の間を往復するならば、数年単位での滞在になると誉は想定していた。
揉めるだろう交渉の早期決着は、両院家に対する莫大な貸しになる。
仮令、交渉が終わらなくても、誉にとって問題は無い。
交渉であれ賭博であれ、意外と構造に共通点は多い。
胴元に資本が集中する辺り、特にそうだ。
寧ろ終わらない方が儲けも増えるため、誉にとって非常に美味しい案件であった。
海軍の設立に奔走している壁樹洲にあって、一方的に流れるだけの投資と防人以上の人材確保は垂涎の目的である。
だが、晶が空の位であった事で、総ては御破算となってしまった。
晶の結論に然程の抗議を挙げなかった辺り、義王院や奇鳳院の落とし処は内輪で既に決まっているのだろう。
こうなってしまえば、玻璃院は勿論、陣楼院の側にも食指を延ばす意味はなかった。
――と云うか、陣楼院の手助けをする約定が活きてしまっている分、誉には苦労しか残らない。
「……口約束でも、損切りはできないでしょうね」
「当然じゃ! 其方は昔から勉強はできる癖に、無駄に小知恵を回して損をする。
偶には、勉強よりも先に身体を動かせ!」
「お言葉ですがね。何も考えずにあおさまが行動した挙句も、相当な被害を生んでいるでしょうが」
「身体を動かさんと結果もなかろ! そもそも……」
やいのやいのと、神柱と秀才は片隅で罵り合う。
その様子を横目に眇め、玻璃院当主である玻璃院翠は額に手を当てて嘆息を漏らした。
仲が悪いように見えるが、彼女たちは意外なほどに気を許した関係だ。
誉の行動も青蘭の判断も、突き詰めれば互いを心配しての事。
もう少し互いに譲歩すればいいのにと、玻璃院の現当主に悩みは尽きる様子が無かった。
♢
「さて、雨月に対する裁可はこれで決着よな。
――続いて、ラーヴァナの処遇に移る」
仕合も終わり、広間に戻った高御座の宣言に全員の頭が下がる。
だが、その脇で月宮周が首を傾げた。
「ラーヴァナ、ですか? 浄滅したのでは」
「半分はそれで正解だが、真実は少々複雑だ。
輪堂の娘、咲と云ったな。――前へ」
「は、はい」
突然に呼ばれ、咲は高御座の御前へと膝行で進み出た。
委縮気味に正座する少女を、高御座は優しい瞳で見下ろす。
「緊張することは無い。ラーヴァナの捕縛に多大な貢献を成した其方を、讃えるだけよ」
「え? わ、私は特に何かを成せた訳ではありませんが」
思い当たる節も無く、咲は思考を巡らせた。
百鬼夜行の折りに成せたと云えば、山ン本五郎左エ門を浄滅させた事くらいだが、庚神社の陥落を赦してしまった事実と併せれば叱責も免れないと覚悟していたのだ。
呆けた様子の咲に、やや年嵩にしか見えない金色の少女は苦笑を浮かべる。
「本当に気付いておらんようだな。潘国の神柱、救世と交わした契約である。
――どうやって、ラーヴァナをランカーに戻す心算であった?」
「な、何故それを」
「ラーヴァナの侵攻に対し、打てる策はそれほど残っていなかった。
シータとの契約は、その一つ故に」
「……その通りですが、契約はもう果たせません。
ラーヴァナの浄滅は、間違いなく見届けていますので」
高御座の言葉に、咲は困惑を返すだけが精一杯であった。
眼前の神柱が指摘する通り、咲はラーヴァナをランカーへと還す契約を、シータと結んでいる。
だが、咲の目の前で、晶がラーヴァナを下しているのも確認しているのだ。
晶を責める心算は無い。
――あの瞬間、あの状況ではそれが最善であったと信じているからだ。
着物を纏ったエズカ媛が、慰めるように咲の肩を抱き締める。
明確に精霊が顕現を果たした事で、周囲から驚きの声が上がった。
神霊。それも、かなり高位の存在だ。
咲たちの同年代で、神霊遣いは雨月颯馬の一人のみ。
――その共通認識が崩れた瞬間であった。
「確かに、ラーヴァナは晶の手によって亡んでいる。
――だが、其方たちは忘れておらぬか? ラーヴァナの神器は、何よりも其方たちを苦しめたであろうに」
「神器、ですか。ですがあれは――」
忘れた訳ではない。他人を模倣し、限定的ながら死者さえも再現する権能。
だが九法宝典の面は、ラーヴァナが神域特性を解放するために全て砕かれた筈であった。
「ああ、もう始まっていましたか」
困惑しか残せない咲の前に、後背から進み出た雅樂宮亜矢が何かを置く。
「――遅れました、高御座さま。探し出すのに苦労いたしまして」
――何重にも界符に巻かれた、木彫りの面。
「九法宝典!?」
「――その、秘された最後の一枚。人間の本質を説いた、楞伽経よ。
これを土産に、シータへと謁見するが善い。さすれば、契約も叶う」
「あ、有り難く。……ですが、これを何処で?」
「真崎之綱がその基だ。八家の一角たる真崎家は、遠の昔に滅んでいただけ」
「――は?」
驚きのあまり、全員の視線が伯道洲の片隅に集まった。
真崎之綱は間違いなく、その場に立っていた。――では、代替わりしたと云っていた真崎理通は?
印象の薄いまま、彼らの後背に座していた壮年の男性は、視線が集まった瞬間に泡と膨らんだ。
醜悪なまでに夢幻の如く、膨らんだ姿が淡い音を立てて崩れる。
跡に残るものは何もなかった。
まるで最初から其処には誰もいなかったかのように、僅かに窪んだ座布団だけが冷えて遺されるだけ。
「10代の頃、真崎之綱は直系でありながら、非常に虚弱であったと。
――ラーヴァナに付け込まれて、健康と引き換えに楞伽経を受け容れたのでしょう」
淡々と、雅樂宮亜矢の推測が後を打った。
如何な九法宝典であっても、回復は権能の外にあるため不可能だ。
そうである以上、真崎之綱は死んだ後を、模倣した楞伽経が乗っ取ったと考えるべきだろう。
だが、神器であれば、人の血筋に交わる事も不可能だ。
神器の権能で後継と見せかけ、幻を追随させていたならば状況も説明がつく。
神柱さえも欺く神器の権能は、封印された事で漸く暴かれただけだ。
神柱さえも唖然とする中、高御座の媛君は総てが終わったことに、安堵の息を誰知られずと漏らした。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマークと評価もお願いいたします。





