4話 水鏡の表離を、ただ別け断つように1
高御座の先導で、一同は螺鈿の間を後にする。
歩む足に揺れる背中を追い、咲は少しだけ歩調を速めた。
珠門洲の先頭に立つ晶の姿は、多くの人数に隠れて見る事は叶わない。
早々に少年の陰を探し求めることを諦め、近くを歩く同行そのみへと足を向けた。
洲を別にしている、しかも諍いを経験した相手だ。さりげなさを装いつつも、躊躇いがちに肩が寄る。
「そのみさん」
「……何でしょうか」
場を読んでか、それとも相手に咲と同様の感情を覚えてか。一拍の戸惑いを置いて、硬い口調が返った。
「晶くんは現在、どの程度まで戦えるようになっているんですか」
「分かりません」
問われる内容は想定済みであったのだろう。跳ねる勢いで、咲の疑問がそのまま戻される。
結局、疑問は宙に浮いたまま。咲の表情が呆れたそれへと変わった。
「分からないって」
「観た精霊技をそのまま行使する。晶さんの特技は理解していますが、
雨月颯馬。……否、侮りを捨てた雨月家相手に、勝てたとしても容易くはないでしょうね」
今回の天覧試合は、咲たちも想定済みである。
打ち合わせで見せた、雅樂宮亜矢の振る舞いがその根拠だ。
数年に一度開催される天覧試合は、2ヶ月後の年明け。
微妙に先の天覧試合に興味を持った意図が別にあるならば、深読みするのは難しい話ではなかった。
華族が武門筆頭たる八家へと挑む、本来の天覧仕合。
それこそそのみが訪れ、晶に義王院流を急いだ本当の理由であった。
しかし、晶が義王院流を修めてまだ数日。――精霊技を理解する特異な才を以てしても、その総てを心身に修めるには短すぎる。
3年間。基本の段位を習熟する猶予があった奇鳳院流とは、論じる時点が違うのだ。
それでも晶の実力に評価をつけるならば、
「――技量としては恐らく、中伝に至ったほど。
中伝の精霊技は総て伝えましたが、その差を活かせるかどうか」
苦し紛れに舌へと乗せたその評価は、素人目にも歪な教導であった。
錬磨を無視した工程からも、訓えるを優先した事が理解る。
「雨月颯馬は」
「半年ほど前に奥許しを戴いたと。
それに、八家第一位の序列も油断できないでしょう。精霊技と陰陽術。その両端を極めた武芸と、……雨月家にはあれがありますので」
「そうですね」
そのみから返る声に、咲も苦く応えた。
前を歩く晶を視界に収める。穏やかな歩みに揺れる肩からは、その心情を伺い知る術はない。
普段と変わらないその後背に、それでも咲は苦く確信を持った。
「……楽勝とはいかない。それは、雨月家に付け入られる隙になるわ」
「………………」
そのみから、無言の同意だけが返される。
三宮が。そして誰が何を画策しているのか。その意図を欠片も読めないまま、やがて咲たちの視界が大きく開けた。
♢
何処までも続きそうな、神域の透渡殿を歩き切った先。白い玉砂利が敷き詰められた中庭が、2人だけの天覧仕合に用意された舞台であった。
じゃり。玉砂利を踏み躙る音を残し、晶と颯馬が対峙する。
開始線は無かった。
晶の知る限り練武館では5尺と規定されていたが、精霊技の飛び交う天覧仕合ではその限りといかないからだ。
間合いを詰めれば、行使が早い玻璃院流と奇鳳院流の餌食に。逆に間合いを離せば、遠間からの攻撃を得手とする陣楼院流の独壇場となってしまう。
示し合せる声も無く、2人は10尺ばかりの間合いで爪先を向けた。
攻防の選択に迷いが生じる微妙な距離。
無言の牽制が行き交い、炯々と灯る颯馬の眼光が晶を射抜く。
大気を渡る、憎悪の圧力。
――知らず、晶の踵から玉砂利の鳴る音が響いた。
「さて、双方。共に天覧仕合は初めてですね」
「ええ」「――はい」
藤森宮薫子が、2人へと視線を向ける。
確認の言葉に、颯馬と晶から肯定の応えが返った。
「八家へと挑む、本来の天覧仕合。対象が神器の与る八家当主なれば、公正を求める為にも力量を別とした要因を削ぎ落す必要があります」
3つの指を立てて、薫子は1つずつ数え上げる。
精霊器を同種までに制限。組み合わせを別に、呪符を10枚まで。
「そして、加護と精霊から離れた、央都神域の山巓陵で行う由。
ここまで削れば、お互いの差違は精霊力の寡多ぐらいでしょう」
晶は、己の手に握られた真新しい木刀を見下ろした。
芯鉄に純度の低い霊鋼を仕込まれたそれは、精霊技の行使こそ兎も角、威力を大幅に制限される。
ここまで制限されれば、互いの技量で競り勝つしか手段はない。
「藤森宮さま」
「何か、雨月」
堪り兼ねたように、最下の脇で控えさせられた天山が口を差し挟んだ。
「精霊器の制限を、丁種から甲種へ引き上げて頂きたく。
その方が、互いの実力も灼たかであろうかと」
「――却下する」
薫子が応えるよりも早く、高御座の媛君が天山の下心を切り捨てた。
薄く嘲る金色の瞳が、有無を言わさず天山を射抜く。
「甲種精霊器まで許せば、公平とはいかないだろうさ。
それでは、つまらん」
「真逆」高御座の応えを付け入る隙と見たか、天山も反駁を返した。
「あの無能も神無の御坐なのでしょう。なれば更に公正を求めるべく、精霊器も相応のものを用意してやるべきと愚考致しますが」
――未だ、神無の御坐を理解していない。
誘導してきたこれまでに確信を抱き、高御座は操られる侭の天山を憐れんだ。
「勘違いをするな。
甲種までを赦せば、其方の自慢に勝利の芽が完全に無くなるからだ」
「それは、侮りも過ぎるというもの――」
「高御座さま。この者が恥をかなぐり捨てて願っているのです」
激昂する天山の醜態を、義王院静美が吐き捨てるように嘲笑う。
「――叶えてやっては?」
「結果は兎も角、久方振りの天覧仕合が直ぐに終わってしまうだろうさ。
ここまで御膳立てした挙句、舞台落ちがそれでは随分とつまらん」
「残念です」
然して感情を残すことも無く、静美は双眸を伏せた。
「付け焼き刃の知識で神無の御坐を語るから、そうなる。
晶は神無の御坐でも、空に至ったものであるぞ。甲種など与えれば、際限なく精霊に干渉を始める」
空の位。何気なく高御座が呟いた情報に、その事実は知らなかったのだろう、玻璃院と陣楼院の側から抑えきれない騒めきが上がる。
――これで、出方は決まったか。
高御座の結論に理解すら及ばなかった天山は、やがて悄然と腰を落とした。
天山の足掻きを興味すら余所に、高御座は視線で薫子を促す。
返る肯いが仕合の兆しと変わり、晶と颯馬が互いに精霊器を構えた。
ざり。足元で玉砂利が鳴り、互いの切っ先が天地を指す。
「――始め」
平坦な薫子の宣言が、2人の間合いにただ響き渡った。
油断なく木刀を上段に構え、晶は少しだけ己の足元へと視線を落とす。
――揺れている。
膝に覚えた震えが伝い、木刀の切っ先が揺れていると漸く気付いた。
――怖い。
自問自答する事も無く、あっさりと晶は腑に落ちた。
それも当然か。相手は、物心がつく前から理不尽に晶を圧し潰してきた相手だ。
無意識にまで刻まれた敗北は、拭いきれることなく感情の奥底で蟠っていた。
――颯馬を視界に収める。
感情に揺らぐことなく下段へ構えるその立ち姿に、晶は場違いな羨望を覚えた。
真逆に立つ2人の位置に、水鏡の似姿を幻視して。
劣等感に甘えて、沢山の意図に流される侭、晶は自分の意思を見せる必要も無く、ここまで来てしまった。
非常に楽で、――余りにも惨めなまま。
――だけどそれも、終わりだ。
終わりにしていかなければならない。
震える己を、この瞬間から置き去りに。
疾。短く、最期の訣別を吐く。
怯懦ごと踏み込んだ左の踵が、歪な波跡を砂利に刻んだ。
――次の刹那。颯馬の懐深くで、晶の右脚が真っ直ぐに震えた。
攻め足が地面を抉り、迷いなく円形を穿つ。
晶が最も能く修めた、奇鳳院流の上段。ただ純粋なその一刀を、ただ只管に迷いなく。
――晶はこれから、己だけの声を示していかなければならないのだから。
♢
始まったな。その光景を眺めながら、高御座は思考を巡らせた。
思惑に乗った心算か、それとも乗せられたか。
最期まで視えぬ相手を見据え、それでも少女の口元に勝利の確信が浮かぶ。
その興味は、ただ待ちの無聊を囲っただけに過ぎないからだ。
――その事実が何方でも、結果が変わりはしない。
天覧仕合へと誘導した目的は、お互いに凡そが達成されているはずだ。
結ぶ思考の向こうで、雅樂宮亜矢が高御座へ会釈を見せる。
席を外そうと云うのか。誰もが仕合に釘付けとなる中、揺れる背は直ぐに視界から消えた。
♢
今の晶は、完全に玄麗の神気で染まり切っている。
精霊技は水行しか行使に届かず、畢竟、義王院流こそ、今に於ける晶の最適解だ。
――だが奇鳳院流が、
華蓮で倣い修めた武芸総てが、総て喪われたと考えるのは間違いだろう。
華蓮に来てからの3年間。晶が阿僧祇厳次から受けた教えは、腐る事無く晶の身体に息衝いている。
それは今も尚、確かに。
汗と血反吐に塗れて木刀を振った回数だけ、晶の身体でその記憶は鮮烈に。
攻め足からの上段。精霊力すら纏わない木刀が、大気を重圧く裂く。
先手必勝。最速を誇る奇鳳院流の基礎の基礎が、颯馬を狙った。
「征ェリアアァァッ」
裂帛の気合いが、咽喉から迸る。
対する颯馬は涼しいまま、迫る斬撃に己が木刀を合わせた。
ガッ。重くとも、刃金には無い鈍い手応え。
相手の木刀へと瑠璃色の精霊光を見止め、晶は腰から強引に木刀を跳ね上げた。
互いに精霊力が収束し、清かに唸りを轟かせる。
義王院流精霊技、初伝――、
「偃月!」「月華」
轟音。
精霊光が舞い散り、瑠璃の飛斬が黒の衝撃に呑まれて消えた。
勢いに克ち上げられた颯馬が、崩れた体勢に踏鞴を踏む。
玄麗の加護を背景に、晶の精霊力が颯馬の精霊力を掻き消したのだ。
好機。晶の眼光が鋭く尖り、精霊力の収束するまま上段を叩き落す。
義王院流精霊技、中伝、――寒月落とし。
水気の重圧が連れるように踊り、瀑布の勢いへ変わった。
飛沫く黒の水気に浚われて尚、颯馬の身体からは精霊光が窺えない。
紙一重までその威勢が迫るも、精霊光を練り上げる気配すらなく。
――黒の奔流が呑み込むように、颯馬へと雪崩れて落ちた。
♢
「巧い」
「ええ。雨月颯馬の武威に負けていない」
黒の余波に身体が浚われる侭を任せ、咲の唇から称賛が零れる。
そのみも、短く同意だけを返した。
咲の知る限り、颯馬が学院で行った試合は僅か数度。
それでも惹かれる程に卓越したその技量は、入学して直ぐの内に天覧試合の二部出場を赦されるほど。
――対する晶は、基礎こそ奇鳳院流で培った3年間があれど、精霊力の行使は素人に近いはずだ。
しかし、眼前でぶつかり合った斬撃はどうか。
颯馬のそれと遜色のない晶の斬撃は、否応なく周囲の視線を惹きつけた。
恐らくだが、並の衛士であれば晶の初太刀も受けきれず圧倒されるだろう。
異能とも呼ぶべき、晶の修練速度。――だが、その卓越した才覚を以てしても、
「……やっぱり、持ち出してきましたね」
「雨月の瀬戸際でしょう、出し惜しむ理由も無いですから」
黒の水気に煙る視界の奥、瑠璃の輝きが一条点った。
驚きはない。あれで決着が叶うとは、誰も思っていないだろう。
緩やかに渦を巻く瑠璃の輝きが、晶の寒月落としを喰い止めていた。――それは義王院流にあって、凡そ最大の反則技。
義王院流精霊技、異伝。
「――佳月煌々」
現在、晶は神無の御坐としてのほぼ全ての能力に、制限が強いられている。
そうである以上、佳月煌々を越えることが、晶に課せられた絶対の勝利条件であった。
♢
「聞いてはいたが、初めて見たな。それが、佳月煌々か」
「誇れよ、晶。雨月の異伝で、貴様と云う醜聞を雪いでやる」
その名の通り美しく精霊力を猛らせた颯馬の木刀が、晶の寒月落としを容易く弾く。
瑠璃に翻るその切っ先。――背筋に奔る警告の侭、晶は黒の精霊力を加速させた。
義王院流精霊技、初伝――。
「月華」
洗練された颯馬の爆圧が、晶の精霊力と再び正面から克ち合う。
激突、轟音。
加速の足りない黒の輝きが、月華の爆圧を相殺して尚、颯馬の精霊力を再び消し飛ばす。
――相殺。否、克ち負けた。
晶はただ、その事実だけを苦く受け止め、再び精霊力を加速させた。
水気の頂点である玄麗の神気は、並みいる中でも最大の質量を誇る。
晶はその質量で、この瞬間を競り勝っただけだ。
――つまりそれが意味する処、次は通用しないと云う事。
玉砂利が開け、その下の地面に2人は足跡を穿つ。
土塊が頬に当たるまま、晶は未だ足りない精霊力を木刀へと収束させた。
義王院流精霊技、中伝――。
「弓張、 、 、」
「遅い」
短く刺す颯馬の声に、晶の爪先が回避を選ぶ。
黒の精霊力すら越え、放たれた颯馬の弓張月が晶の肩口を捉えた。
――それは余りにも有名な、雨月の伝。
同行と同じく異能なのか、それとも技術なのか。名と効果は知られている反面、一切不明の精霊技だ。
効果は単純。ほぼ瞬時に、精霊力を加速させるだけ。
質量とは威力だ。
重厚さを誇る水気は撃つ速度こそ遅いものの、威力だけなら火行と遜色は無い。
発動速度の欠点を、一時的にも緩和できたならどうなるか。
――その結論が、晶の眼前で精霊力の充溢する様を見せつけた。
「雨月の歴史に泥を塗ってくれたな、愚物。身の程を教えてやる」
「――自覚が無いなら、笑い話にも出来んよな。泥を塗ったのは何方か、固い脳味噌に叩き込んでやる」
吐き合う罵声も短く、互いに精霊力を加速。
――明るいはずの日中に影が差す。
やがて晴天が翳りゆく中、決着を求めて互いの脚が地を蹴った。
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