余話 シャッターを逃し、流行に泣く
1月10日、皆様の応援を頂き、拙作の三巻が発売となります。
その御礼としての、特別更新です。
2巻の裏側を書いているので、書籍を手に取っていただけた方が状況を分かるものになっています。
申し訳ありません。
はい。反則です。……違います、販促です。駄洒落です、ごめんなさい。
ドン子の頑張りは、拙作の書籍が続く限り。
どうか、応援をお願いします。
高天原の最南端に位置する鴨津は、陽の落ちる時刻が最も遅い。
申の刻は華蓮であれば誰もが帰途に就く時刻であるが、鴨津では未だ日中の活況が薄れる気配は見えなかった。
往来に軒を連ねる店先を賑わす女性たちに混じり、駆け出し記者とはみられるようになった稲富純子は、鼻を鳴らしながら潮風の強い港湾へと向かう。
幼い頃から見慣れた青い海原を脇目に見て、鴨津港湾に広がる異人居留地へとカメラを向けた。
強い日照に助けられ、僅かな露光でシャッターが軽く落ちる。
1枚。場所を変えて、2枚。
透き通るガラスの表面に写る向こうで、行き交う外国の営みが切り取られた。
首を傾げて、場所を変えるべく腰を上げる。
居留地を貫く表通りを小走りに、縁無し帽を押さえながら駆け抜けた。
明るい色彩の髪が多くを占めるようになる、異人居留地の中程。
――やがて、往来に立つ一人の女性へと、手帳片手で純子は声を掛けた。
「え、えくすきゅーずみー」
「YES?
――あら、reporterかしら。女性が目指すなんて珍しい」
やや尖った印象を受ける女性が多い中、目を付けた相手は温厚な性格であったのだろう。
純子の拙い論国語を嗤うでもなく、明るい茶髪の女性は眦を柔らかく緩めた。
女学校を卒業してからこの方、舌に乗せた記憶すら曖昧になった異国の言葉である。
相手の流暢な和語に内心で安堵を吐いて、純子は鈍りに鈍った自身の論国語を記憶の底へとしっかり沈めた。
「はい。少し訊きたいことがありまして、取材を――」
鉛筆を探しつつ勢い込む純子に、女性が柔らかく応じていく。
何時もは失敗った記憶しかない純子の取材。しかし女性同士という気安さもあってか、終始、和やかにこの時間は過ぎて行った。
「成る程。流れるようなどれすらいんが、西巴大陸の新常識、と」
「少し前まではAラインだったけど、今はスレンダーかマーメイド。
特に、若い女性では、夜会の成功を決めるくらい」
「へえぇ」
手帳に論国の流行情報を書き散らしながら、純子は感嘆の息を漏らした。
如何にもな少女の仕草に、相手の女性は笑顔を浮かべる。
「高天原で夜会は無いと聞くけれど、お嬢さんもそろそろ年頃でしょう?
お母さまがやきもきとしているわよ」
「そうですね~。
……え?」
肯いをなおざりに。半ば無意識の相槌を返して、純子は聞き逃しかけた単語に視線を上げた。
お嬢さんは良いとして、純子は既に20歳を数えている。
年頃と呼ばれる年齢が過ぎかけている自覚くらいは、自身も持ち合わせていた。
「あの、私は……」
「論国でも働く女性が持て囃されているけれど、それは結婚してからの話。
記者を目指すのも良いけれど、女学校を卒業する前までに先ずは相手を探した方が良いわよ」
「ぐ、はぁっ!?」
思わぬところからの曲射爆撃を受けて、純子は膝から崩れ落ちかけた。
大陸に比べ、高天原の人間は面相が薄い事で有名である。
加えて純子の体形は、他の同年代と比べても非常に起伏が乏しい。
その為か、必要以上に若く見られるのは、純子の密かな悩みであった
だが現実は無情なものである。20歳の純子は、立派な嫁き遅れへと片足を突っ込んでいるのだ。
外見だけ若いと善意で指摘され、否定することもできずに純子は内心でひっそりと涙した。
♢
華蓮での百鬼夜行から一ヶ月が過ぎた頃、純子は出張名目で自身の故郷である鴨津へと出向いていた。
最先端の流行を鴨津で取材する。
そのお題目だけを掲げて、実際は華蓮から逃げてきたのだ。
理由は非常に明瞭で、撮ってはいけない写真を撮ってしまったからである。
「……だって、判る訳ないやん。
役者を出待ちしとったら、愛人抱えた議員を捕まえるなんて」
漸く斜に翳り始めた夏の日差しを背に、取材を終えた純子は実家への帰途を急いでいた。
その口から漏れるのは、自身の不運というよりもただの愚痴。
撮ってしまった相手が、また不味かった。
議員の一人。しかも、入り婿で非常に肩身の狭い生活をしているという。
酒の勢いが手伝ったのか、愛人相手にはっちゃけている最中を激写。
肝心の役者がぼやけた粗い写真の奥でくっきりと写った、――愛人と議員の絵面。
しかも純子を含めて、編集の誰もが議員に気付くことなく雑誌を流したのである。
この辺り責任を問うなら、純子だけではなく編集長も同罪のはずだ。
非常に不味い構図に誰の指摘もないまま雑誌は発行され、
――当然のように、目も当てられない炎上を果たしてしまった。
激怒した議員、――の奥様の猛抗議を受け、上層部は火消しに純子は余熱が冷めるまで出張名目の逃避行と相成ったのである。
出張とはいえど、こんな理由に経費など認められる訳も無い。
僅かな金子を節約するためにも、純子は帰省理由を誤魔化して実家に身を寄せていた。
「ただいま~」
「――もう陽も落ちかけやろ、純子。
ええ年頃なんやし、早よ帰ってきなんし」
「別にええやん。
未だ、人通りも多かったよって」
馴染んだ実家の引き戸を開けて、縁無し帽を脇に掛ける。
奥の台所から返る母親に声だけ返して、純子は居間を抜けた。
猫の額ほどしかない庭の縁側に腰を掛けると、茶柴が面倒臭そうに鼻を鳴らして顔を向ける。
「ただいま~。太郎」
――ヘ、ッフ。
何代目になろうが稲富家では必ず同じ、由緒も正しいその名前を呼んでやる。
だが何年も目にした事も無い純子には掛けてやる愛想も無いとばかりに、太郎は欠伸を見せつけた。
「うぐ。
――薄情モンめ」
「滅多に帰省りもせん薄情娘が、太郎に文句も云うでな」
屈辱に表情を顰めた純子の背中で、母親が呆れた顔を覗かせる。
それこそ薄情な母親の言い草に、口を尖らせた純子は庭先に実った大振りの胡瓜を一本捥ぎ取った。
庭採れにしては出来のいいそれを、行き場のない不満ごと丸から齧る。
パキリパキ。歯切れのいい胡瓜の響きに、母親は目の前の長女に呆れた視線を向けた。
「せめて、隠れて食べな。
端ないものが近所さんに見られたら、また貰い手が無くなるわ」
「……そもそも無かったやん、嫁の話なんて」
「当たり前や。
碌に料理も出来ん娘を、嫁に出せるかね」
それこそ、卵が先かの問い掛け。
云っておいて情けないだけの抗議を鼻で嗤い、母親は純子を見下ろした。
「2軒隣の小夜ちゃんが、玉のような子を産みようたって。
縁があるかもしれん。後で挨拶に行くよ」
「い、やや。聞きとないよ、そんなん」
小夜ちゃんとは、純子の3つ下のご近所さんである。
女学校在学中に結婚が決まり、卒業を待たずに婚姻を上げた。
皮肉な幸せに満ちた手紙を送られたのは昨年の春。忘れたくとも未だ鮮烈に、純子の記憶へと刻まれていた。
――仲が悪くも無かったはず、なんだけどなぁ。
晒し確定の会話に参加させられるなど、考えたくも無い光景である。
実家へと帰ってまで聞きたくない話題に、純子は思わず耳を塞いだ。
無駄でしかない醜態。しかし構う事なく、母親は話も終わりとばかりに鼻で嗤った。
庭先に落ちる影も、随分と長くなっている。
完全に陽も落ちる前にと、居間を後にする母親は純子へと言葉を投げた。
「ただ飯食らいをするくらいなら、陽の残っとるうちに太郎を散歩にやり。
街中を一回りするくらい、直ぐに帰ってこれるやろ」
「はぁ~い。――行くよ、太郎」
――ヘッ。ヘヘ、ヘフッ!
承諾に交えて重い嘆息を一つ。
茜が彩りを深める最中に、純子は縁側から腰を上げた。
遠くから響く、太郎が庭の土を蹴り立てる音。
普段は無視する癖に、見事なまでのお座りを披露する駄犬を見下ろす。
現金な相手に口元を引き攣らせ、それでも純子は庭から裏口へと足を向けた。
庭先に座っていても、母親からの愚痴と文句が続くだけ。
それなら自分を軽く見ているとはいえ、犬の散歩に付き合った方が幾分は心も救われる。
「ちょお待ち、太郎!
痛い、痛い。走り回るなっ」
――ヘ、ヘ、 、ヘッ!!
帰りたがらない太郎に振り回されて、今更ながらの後悔が純子の悲鳴を彩る。
遠慮のない犬の四肢が彼方を向いて此方へと、その度に純子の歩みも左右に揺れた。
普段の散歩道から外れた通りを、引き摺られるようにして純子は走る。
止まるように懇願しても、太郎に止まる意思は見えなかった。
やがて太郎が荷物を振り回すのにも飽きた頃、開けた大通りに純子は立っていた。
「……護櫻の神社かぁ」
瓦斯灯の曖昧な灯りが揺れる向こう、巨きな朱塗りの鳥居が聳え立つ。
鴨津一帯の氏子を束ねる護櫻神社だ。
ちらちら横目で周囲を掠め見る。昼間は参拝客で賑わう参道も、夜を迎えて人通りは無かった。
金運に無病息災、果ては良縁に悪縁切りまで。鴨津の繁栄を支えてきた土地神は、喧伝する御利益も大盤振舞いが甚だしい。
ご近所さんの純子もここの氏子だ。――しかし実の処、最低限の加護以上の恩恵を味わった記憶は無かった。
うっかりに忘れ物。足元を疎かにして転倒からの擦り傷が茶飯事と来れば、何かの呪いも疑いたくなる。
――そのどれもが自分の注意力散漫の結果だと、自覚はしていても認めたくはないのだ。
「狡いよねぇ。うちも氏子なんやし、ちっとくらいは贔屓してくれてもええやん」
漏れる愚痴に、脳裏へ過ぎる昼間の取材と母の言葉が重なった。
働く女性の風潮は、女性の社会進出が主流ではないという事実の証明でしかない。
女学校の卒業は嫁き遅れの証明だ。
純子は立派な女学校卒業生、結婚相手の気配くらいはそろそろ欲しい。
鳥居の前で神柱頼みに悩む。誰もいない石畳でうろつくその姿は、どう擁護しても不審者でしかなかった。
「ちょ、一寸よ、太郎。土地神さんとこに、挨拶しよか」
――ヘフッ。
恥ずかしさよりも、良縁の期待が僅かに勝る。
首筋を掻いて興味も無さげな太郎の首縄を、せがむように神社の方へと引っ張った。
眼前に聳える鳥居の奥は薄暗く、石灯籠の明かりだけが揺れている。
行き先を強請る子分を面倒くさそうに一瞥し、それでも親分の威厳さながらに太郎は神社へと足を向けた。
「土地神さん、土地神さん。どうかお願いです。
贅沢は言いませんから、縁談を。普通の良縁が欲しいです」
賽銭箱に、音を立てて銭貨が落ちる。
時期が外れているからか、銭貨が木箱の底に落ちる音が響いた。
からりから。寂しい音を耳に、二礼二拍。
両手を鳴らし、純子は頼みごとを口にする。更に念を押して無人の境内を確認し、重ねて手を鳴らした。
「――最低でも中堅の大店持ちで、長男かせめて次男。
年収は50円からで、お手伝いさん込みだったらなお良し!」
一般的にそれを、有り得ない良縁と云う。
間違っても、銭貨一枚に託すような贅沢ではない。
指摘するものが誰も居ないと、確認した上での確信犯。
清々しいまでの願望を吐露する純子の足元で、早々に待ち飽きた太郎が大きく欠伸を残した。
「大体さ。結婚しただの子供が生まれただの、文明開化の御世に云う事が古いちうねん。
都会やったら働く女性が流行やってのに、
――聞いてんの、太郎?」
慣れた石段を一つ飛ばしに、主人の愚痴に興味すらない太郎の縄を引いた。
揺れる程度の首縄を面倒くさそうに、茶柴の肢が純子の後を軽やかに追う。
鳥居を潜って表参道から出れば、自宅へは遠回りとなってしまう。
純子は少し悩んだ後に、近道を通る事を決めた。
「……ま、まぁ、良ぇやろ。
何時も通っている道やし、土地の神柱さんかて大目に見てくれはるて」
言い訳を呟きつつ、垣根の隙間を掻き分ける。
緑を濃くした椿の葉っぱを頭に乗せ、純子は護櫻神社の脇道へと抜けた。
垣根の隙間を抜けるなど、子供なら兎も角、妙齢の女性が仕出かせばはしたないとしか見られない。
幼い頃、氏子総代の爺さんに叱られた記憶を忘れ、伸びをした純子は家路を急ぐべく踵を返した。
「さ~、太郎。満足したっけさ、さっさと帰ろ、 、 、」
―――苦、 、婁、 、屡ゥゥゥ。
茫。帰り路へと抜ける小道の先。赫い鬼火が二つ、純子の歩みを塞ぐように立ちはだかった。
「………………へ?」
通り向こうから流れてくる微風に、異臭が混じる。
本能的にえずきを覚え、純子は呆然と息を漏らした。
その匂いは身に染みて、記憶に刻まれている。
鴨津の中心。それも神域の傍で嗅ぐことなど無いはずの、空気そのものが腐り落ちる臭い。
――瘴気。
「け、穢レ!? 何で、ここ、土地神さんのすぐ傍だよ」
暮明から巨大な狗が一歩、悠然と進み出た。
鬼火と視えた瘴気に濁る眼光が、立ち竦む純子を射抜く。
―――屡、悪乎ォォ。
――グルゥ……、 、ギャン、ギャン!
「太郎――!」
竦む足を叱咤する純子の前で、果敢に太郎が牙を剥いた。
嘗て無い太郎の雄姿を目の当たりに、純子の胸中へ熱い感情が込み上げ――、
――ギャ、……、ヒャン、ヒャン、ヒャン、 、 。
「太郎?」
そのまま尻尾を捲いて逃げ出す飼い犬を、狗と揃って茫然と見送った。
ガタガタと杉板を揺らし、純子では抜けられない隙間の向こうへと茶柴の姿が消える。
――沈黙。
「た、太郎、 、」
感動の行き場を無くしたまま、じわりとこみ上げる実感。
「――こん、薄情モンがあぁぁっ」
仕方がないとはいえ見捨てられた絶望に、純子は最近で一番の叫びを上げた。
その背中へと、我を取り戻した狗が飛び掛かる。
―――苦婁乎ォッ!!
「ひいぃっ」
背中に迫る餓欲を寸前で気付き、転がるように回避。
砂利道へと背を打つ純子の視界に落ちる、狗の牙から唾液が糸を曳くさま。
がきん。牙を噛み鳴らす狗の脇を抜け、通りへと。
這う這うの体で転び出た通りを目にし、その異常に絶句した。
――誰も居ない。
「な、何で。
まだ、酉の刻やで。この時分で、静かになるなんて早よない!?」
護櫻神社の在所は、鴨津でも中央通りに面しているのだ。
人通りも相応に多く、陽が落ちてすぐの時刻であれば無人など有り得ない。
理解できない光景に、以前の記憶が蘇った。
瘴気の奔流と共に穢獣たちが華蓮を蹂躙する、百鬼夜行の暴虐。
「と、特ダネ! ――か、カメラは!?」
僅かな記者根性にしがみ付き、腰に結わえた鞄を探ろうとする。
虚しく空を掴む右手に、散歩の途中であった事を思い出した。
流石に、犬の散歩にまでカメラを持ち運ぶほど、純子の記者精神は育っていない。
「肝心な時にぃぃっ」
―――婁乎ォッ!
後悔を叫ぶその背中へと、遣り過ごした狗が飛び掛かった。
かすれた悲鳴と共に転げ回る純子へと、巨大な牙が唸りながら迫る。
思わず死を覚悟した純子の脳裏に、近所の小夜ちゃんの幸せそうな光景が幻と過ぎった。
銭貨を注ぎ込んだのだ、良縁を掴まねば割に合わない!
「死んでたまるかあぁぁぁっ」
「――貫け」
死に物狂いで狗の顎先を蹴り上げた純子の背中から、冷静な声が追い越した。
幾条もの精霊力が閃き、純子の威勢に怯んだ穢獣の躯を穿つ。
「………………へ」
「大丈夫ですか?
真逆、人払いの結界を越えて、残っている方がいるとは思いませんでしたので」
至極あっさりと塵へと還った狗を前に、純子は呆然と息を漏らした。
その背へと、異国の僧衣に身を纏った女性が近寄る。
怪訝そうな感情のまま、純白の裾を翻して周囲を一瞥した。
何処に潜んでいたのか、幾匹もの狗が躙り寄る。
―――婁、屡、婁……。
赫く濁る眼光が、暗闇より女性二人を睨みつけた。
瘴毒に塗れた唾液が、参道の石畳で蜷局を捲く。
――呼吸を呑む沈黙。刹那の後に、餓欲の塊が牙を剝いて飛び掛かった。
「ひぃっ」
「――護り給え」
純子の前へ立つ女性から確固たる意志が響き、光輝燦然と神秘の壁が立ちはだかる。
狗の肢が止まろうとするも、転げるように障壁へと激突。
精霊力が幾重にも爆ぜ、狗の口腔から悲鳴が上がった。
「お、応援を……」
「私の都合ですが、通報は控えて貰えないでしょうか」
「え? じゃあ、取材も」
「記者の方ですか。――公に憚れる身ゆえ、ご容赦を」
「そんなぁ!?」
鴨津に限らず市街の中心である神社での武力行使は、基本的に御法度である。
虚空に踊る金の髪と碧い瞳。見た目に異国の相手ならば、理由如何に関わらず刑罰の対象とされるほどだ。
――助けてもらった手前だ。文句と云うのも筋は違うが、酷くはなかろうか。
折角の特ダネと意気込む純子は、相手の素気無い態度にそれまでと違う悲鳴を上げた。
その時、轢音を立てて、神社の上空に切れ目が差し込んだ。
小柄な少女だろう影へと、追い縋る触手が共に虚空で踊る。
その光景を碧い瞳に落とし、時間が無いと犬を睥睨した。
吼え立つ穢れた牙は平民であればこそ脅威であるが、その女性にとっては怖れるものでも無い。
――だが。
ちらり。後方に庇う高天原の女性へと、女性は視線を巡らせた。
仮令、己の支配地ではなくとも、聖教の神柱は斉しく万人を守護する。
聖教を奉じる彼女もまた然り。
護るのは当然だが、高天原へと己の手の内を晒す気はなかった。
「周囲に露見して面倒なのは、貴女も同じかと。
――後ろの小道から抜ければ、結界の外へと繋がりますよ」
「はいぃぃっ」
引き攣れた声の承諾を置き土産に、女性の走る気配が届く。
後顧の憂いが遠ざかり、女性の口元が薄く微笑みを刻んだ。
「貫け」
宣言と共に、幾条もの杭が狗共を纏めて串刺しにした。
次いで手にした聖典の頁が、風も無く踊り、
「西風の御許へと」
瞬後。重厚く音を響かせて、聖典が閉じた。
「――還り給え」
浄化の嵐が一陣、女性の眼前を浚う。
金色の髪が踊った後、狗は欠片も残ってはいなかった。
♢
『――で?』
「だから、特ダネなんですって。
鴨津の神社で百鬼夜行。絶対にあれ、久我の陰謀とか秘密実験とかですよ」
――翌日。
鴨津の喧騒が遠くに響く中、町長宅の電話口から冷静な声が純子の耳へと届く。
頼み込んだ貴重な通話回線。電話越しに立つ編集長を、純子は必死に説得した。
『おい、ドン子。百歩譲って百鬼夜行が起こったとしようや。
――で、証拠は有るのか?』
「うぐぅ」
編集長からの尤もなご意見に、勢い込もうとした純子の口が塞がれる
記者に必要なのは、何よりも説得力のある材料だ。
絵心の無い純子にとって、写真は貴重な説得力である。
しかし生憎、純子の手元にカメラがない時の出来事。
――当然、証拠は無い。
『別に決定的なヤツをってんじゃねぇぞ。
次の日の壊れた家とかでも、ウチ程度の三流雑誌なら検討してやる』
「そ、それが。先刻まで粘ってみたんですけど……」
当然、純子もそれは考えた。しかし、必死になって護櫻神社の周囲を探しても、収穫と云えば太郎が逃げた杉塀の傾いた一枚板だけ。
『写真は無い、何かが物を壊した跡も無い。
証言がドン子の一つっきりって、今日びの与太でも聞けねぇな』
「で、ですけど。こんな特ダネ、滅多にないですって」
勢い込むその向こうで、嵩む通話時間に町長の視線が厳しさを増す。
怯む純子は、逃げるように背中を返した。
「……片隅だけでも載っけるってのは」
『却下だ、ド阿呆。
――それよりも、鴨津に逃げているんだ。頼んどいた海外の最新流行は聞き出せたか?』
「ぐ、はあっ」
素気無く却下され、消沈しかけた純子に嫌な記憶が突き刺さる。
膝から崩れ落ちかけた純子は、それでも最後の希望だろう論国の最新流行を口にした。
しかし返ってくる編集長の声は、渋いもの。
『最新流行はスレンダーだかって奴か』
「はい。ちゃんと写真も有ります」
『そいつは良いんだが、参ったな』
「参ったって、最新流行に参ったも何も無いじゃないですか。
そのまま載せれば、問題無いでしょ」
『大有りだ。今の華蓮じゃAタイプとやらが流行りらしくてな、
――どうにも、末広がりだってんで縁起が良いらしい』
「絶対、適当に応えましたね。聞き齧っただけで、華蓮の流行なんて知りやしないでしょ。
折角の特ダネを逃したんです、この記事は載せて貰いますよっ」
小娘と見られ、矜持に傷を負ってまで得た最新流行の情報だ。
流石に純子も、此処を落とす心算は無い。
何しろ、ただでさえ高価な電話回線を、町長宅から強請っているのだ。
少しでも収入を確保しないと、財布の底が寂しく泣く羽目になる。
判った、判った。そう等閑に応える電話口へ受話器を下ろし、純子は掛け時計を指差す町長へと愛想笑いを返した。
未だ盛夏に猛る晴天が、鴨津を見下ろす。
閑古鳥の啼く懐に溜息一つ。純子の帰郷は、もう少し遅れそうであった。
TIPS:鴨津よりの特報記事より抜粋。
鴨津、外国人居留地ヘ潜入シタルニ、論国ノ最新流行ヲすくうぷセリ!
華蓮ノ社交界ヲ席捲シテイルAらいんハ既ニ遠イモノデアル。現在ハすれんだあガ主流デアルト、確カナ筋ヨリ情報ガ寄セラレタ。
――中略
ヤウヤウニ確認ヲ取ルト、論国ノ衣装ハコノ二ツノミデアリ、流行モ順ニ巡ルモノダト云フ。
写真ヲ見ルヤウニ、鴨津ヲ道行ク当世ノ貴婦人ハ布ノ少ナイ衣装ガ多ク、Aらいんノ華美サニハ遠ク届キタルモ無シ。
――中略
コノ事実カラ見ヘルニ、どれすト着物ガ両立スル高天原ハ論国ニ劣ラヌ華美ヲ誇ルト、本誌記者ハかめらヲ手ニ胸ヲ張ッタト云フ。
「編集長。書いた記事、全然違うんですけど。
こんなデマ、誰が責任取るんですか。編集長、編集長!!?」
尚、返事は無かったという。
久しぶりのサプライズ投稿。
これを上げる準備をするために、色々と頑張ったのが理由です。
ご迷惑をお掛けしました。
読んでいただきありがとうございます。
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