3話 明暗を指す、大斎の烏鷺2
重厚な軋みを立てて、山巓陵の四方を護る門が開いた。
神域へと向かう霊力の流れが、集った華族たちの足元を緩やかに浚う。
抗い難く引き込まれる感覚に、参じた者たちの咽喉を安堵が衝いた。
「やれ。一時はどうなるかと思ったが」
「――所詮は、穢レ共の勘気。宮家の膝元は、この程度で揺るがぬ」
門前を満たす喧騒に押され、華族たちが足を踏み出す。
うら寂しい秋の肌寒さが、漫ろ歩く華族たちの足元を渡った。
此処に立つ華族たち総てが、高天原に所領の赦された上位華族。
背負う家紋も誇らしげに、彼らの着物がそれぞれに翻った。
歩む足も確かに。騒めきが多く流れる。
和やかに砂利が踏まれる只中を足早に、2人分の影が追い抜いていった。
その片方の背中で、近衛の羽織が軽やかに踊る。
――庵紋に一文字。
旧家の一角、御厨家の家紋。
近年こそ凋落の憂き目を見ているが、古くは央都の北面を与った近衛の家系である。
その権力は隠然と深く、央洲の政へと喰い込んでいた。
冷厳で知られるその前当主が、険しく表情が曇る様。
それを目の当たりに、厄介事は御免と周囲の視線は向こうへ流れた。
「どうなっているのだ、弘忠?
聞き及んでいた情報が、全く別のものになっているぞ」
「こちらが掴んだのも昨夜の事、後手に回り過ぎたのが手痛いですな」
御厨至心の足元で砂利が蹴立てられ、感情の侭に声が尖る。
だが、幾ら問われようとも、弘忠に応える情報は残っていなかった。
言葉を選びながら、砂利の散る跡を追う。
「間違いないのは、颯馬くんが禁錮されているという事実のみ。
穢レ擬きの存命に、彼が手ずから浄滅に及んだ際の出来事だそうで」
「生きていたとは、相も変わらず手を煩わせてくれる。
――四方や、雨月天山が慈悲でも見せたか」
「それは無いかと」
苦り潰した父親の疑心に、弘忠は頭を振った。
雨月天山との付き合いは長く、その性情は弘忠も能く知っている。
義王院に忠義正しく苛烈な、生粋の八家とあるべき姿。
高々、間違って生まれた出来損ない一匹に、無駄な情を残すとも思えなかった。
「穢レ擬きに情を残し旧家に配慮なく蠢動するなど、残るは一家しか在り得ません。
――今回の一件、義王院家が策動を主導したのでしょう」
「糾そうとした八家の忠を無下にするとは、院家としてあるまじき不始末。
宮家に拝する同輩として我らが導と立たねば、律令の序列も崩れるぞ」
「は。父上の危惧、至極尤もかと。
ですが事実は如何あれ、現状は厳しいと云わざるを得ません」
「何故だ。状況だけとは云え、ここまで証左も確かであろう」
子供の選別と排除は醜聞の類だが、華族血統を維持する有効な手段として黙認されてきた歴史がある。
三宮四院ですら口を挟めない、華族を維持するための権利。
汚名を悟らせる事なく動いてきた雨月家に対する義王院の横槍は、それこそ華族からの誹りを免れない悪手である筈だ。
「三年前、人別省に颯馬くんの嫡男認定を求めた折り、素気無くされたと天山殿から愚痴を聞かされたことがあります。
察するに、その頃から事態は動いていたのかと」
「……今になって動きを見せた理由。雌伏の時が終わったと思ったか」
弘忠の推測に、至心は思わず唸った。
有利不利の如何ではない。相手は既に、勝利の宣言を上げているのだ。
雨月天山に回天の切り札が無ければ、残るのは巧く敗北する立ち回りしか残っていない。
「父上。神嘗祭の初日程、三宮四院八家の会合はこれからです。
御厨家として、保険を掛ける必要はあるでしょう」
「……雨月と距離を置くか」
「ご賢察の通り。幸いにして、雨月と御厨家の繋がりは内密のもの。
久我家との繋がりを強調すれば、雨月如きは切り捨てるのも容易です」
御厨家の利点は、雨月家との表立った接触が少なかった点にこそ集約されている。
雨月天山の正妻である早苗の生家であるが、目立った縁故はその程度。
天山と弘忠の交流はそれなりに有るが、それも私的なもの。
至心に至っては、早苗の輿入れに際して國天洲へ足を運んだのが最後である。
「仕方があるまい。
雨月の家は揺れようが、我らは落ち着いてから協力関係を結び直せばよいか」
「はい。……どの道、恨み辛みを吐いているのは穢レ擬きの一匹のみ。
情に絆されたとしても、雨月家と天秤に乗せる事はしないでしょう。
非難して痛み分け、が相当とみております」
「良かろう。我らは我らで、石蕗家の調略に専念するとしようか」
「そちらの仕込みは充分に。
――石蕗家の狙いごと、此方が喰らう算段はつけております」
手早く会話を終えた頃、至心たちは山巓陵の外縁へと辿り着いていた。
至心の見上げる視線の先で、丹塗りの門前がゆっくりと開く。
重く軋む響きが、何処か不安を掻き立てて足元を揺らした。
「征くぞ」
僅かに覚えた不安を掻き消し、至心はその向こうへと一歩踏み出す。
高天原に於いて唯一、上位の華族たちが一堂に会する大斎。
神嘗祭が、これまでの騒動を越え、表面上は穏やかに開始された。
♢
苛立つ感情を押し隠し、雨月天山は茅之輪山の参道を登っていた。
随伴は誰も居らず、閑静な山中の気配だけがその影を追う。
不意に視界が開け、その向こうに佇む要山の本殿が視界に落ちた。
本殿の入り口に立つ、義王院静美と幾人かの影が視線を向ける。
興味がないとも思えるほどの、無感動な視線。
「遅くなりました」
その光景に、天山は軽く頭を下げた。
予定された時間の四半刻前。当人の謝罪ほど遅くは無いが、天山を除いた全員が集まっているとなれば話も変わってくる。
――特に現在は、義王院家との関係に不安がある最中だ。
頭を下げる事で無駄な軋轢を回避できるならば、天山とても下げる頭に躊躇いは無い。
「――いよう、よう。毎年と違い、随分と雨月殿の供回りが寂しいな
何かあったかね」
「同行殿か。何、この晴れの日に、息子が捕まらなくてな。
学院に問い合わせても、梨の礫で身動きも取れん」
八家第七位、同行家当主を任じる同行晴胤が、かんらと嗤いながら近寄ってきた。
苦手である晴胤の物言いに、天山は苦み潰した内心を圧し隠して肯いを返す。
嘘ではない。
颯馬には今日の日程を伝えていたが、寸前まで待っても連絡の一つとして届く事は無かったのだ。
雨月家の次期当主として披露される、重要な最初の一歩。
延いては義王院静美の伴侶として、公的な既成事実を作るための最終的な一押しがこの大斎であった。
三宮四院の婚姻は、基本的に神嘗祭に於ける三宮四院八家の承認を経る事で成立する。
瑕疵と見做される15を除けば、14を数える静美は今年が婚約披露の最後の機会。
――余程の事が有ったとしても、今年の神嘗祭で義王院静美は婚約を結ばねばならない状況だ。
雨月家嫡男との婚姻は、すでに公表されている。
颯馬が神嘗祭で雨月家嫡男の承認を経れば、静美も感情に任せて否やと唱えることは無いはずであった。
雨月家永代の悲願達成は、最早、目前まで迫っている。
だがそれも、颯馬が居なければどうしようもない話だ。
苦虫を嚙み潰したような天山の応えに、しかし晴胤は剽軽な笑みを浮かべて肩を竦めるだけ。
「そいつぁ、妙な話だね。
雨月殿の御子息なら、玖珂太刀山から向かうと聞いているが?」
「何?」
「おっと、詰められても困るぜ。俺とて、先刻に知らされたばかり。
――おぅ、そのみ。不貞腐れてないで、雨月殿に御子息の話を伝えてやんな」
晴胤から声を投げられ、本殿の前に控えていた同行そのみが無表情に肯いを返した。
ちらりと視線が行き交う。
知らない仲ではないが、天山にとって彼女は國天洲の洲都で屈辱的な扱いを受けた相手でしかない。
あの時の扱いは、晴胤も周知しているのだろうか。
常と変わらぬ同行当主の言動からは、今一つその辺りを汲むことが出来なかった。
「同行そのみ殿、御当主の情報は事実であろうか。
颯馬は玖珂太刀山から向かうと?」
「……はい、雨月当主殿。
雨月颯馬でありましたら、既に山巓陵へと移っているはずです」
平坦に返る口調。少女の言葉に疑問が浮かぶが、焦りと安堵に天山は大きく呼吸を吐いた。
義王院家に立つ八家として、玖珂太刀山からの随伴など本来は赦されない。
しかし、状況が差し迫っているだけに、土壇場であっても参じない結果よりは充分にマシであった。
「左様か、向かうならば良い。
同行殿も済まなかったな。どうやら、連絡に行き違いがあったらしい」
「仕方の無い事よ。電話が縦横に言を繋げるとしても、互いが口にせにゃあ伝わらん。
――いやね、聞いてくれるかい。そのみが年末も帰る心算が無いってね、薄情な娘だと思わんか。御節が食わんかと、母が困っていると云ってもだ――」
同行晴胤の剽軽な口調は相も変わらず、気の所為だったかと天山は内心で安堵を浮かべる。
――その時、懐中時計を袖に戻したそのみが、静美に肯いを返した。
「刻限ですね、くろさまを降ろします」
「一寸とばかり疑問ですがね、姫さま。
五行結界が機能してねぇと、どうやって山巓陵の深部へと潜られるお心算で」
晴胤から上がる疑問に応える事なく、静美の身体から黒の輝きが渦を巻いて散る。
純黒の精霊力が澄み渡り、夜天の輝きを宿した黒曜の神気へと変わった。
「――願い給う」
桜色の唇が神柱を呼ぶ祝詞を謳い、茅之輪山の本殿が七ツ緒の神域と繋がる。
ただ深く明るい、夜天の輝きを満たしたその向こう。
年齢10ばかりの童女が、音も無く本殿の中央へと爪先を落とした。
國天洲を知ろ示す、水行に坐す大神柱。
玄麗が、薄く黒曜の輝きを満たした双眸を開く。
「――大儀である、静美」
「百鬼夜行も過ぎ、此度は何ほどでも無く」
「善い」
短く言葉を交わし、玄麗が本殿の下に拝する者たちを睥睨した。
大神柱の神威が矮小なただ人の直上を巡り、在る一点で僅かに留まる。
視線を上げる事すら赦されず、雨月天山の双肩に無感情な瞋恚が圧し掛かった。
その意図に疑義を上げることも出来ぬまま、天山は己の魂が悲鳴を上げる様を幻視する。
「――くろさま。三宮四院の顕神降ろしが全て終わりました」
「ふん」
「……か、は」
静美の声に、童女が鼻を鳴らして踵を返した。
神柱の興味が通り過ぎ、その場に拝していた者たちが崩れるように膝を折る。
刹那に霧散した神気の圧力に、天山の肺腑が喘ぐように波を打った。
ただ人にあって、大神柱と直接拝する機会は高天原で年に一度。
それも、八家当主とその次期しか与れない、貴重な栄誉だ。
萎えそうになる膝を、叱咤して立ち上がる。
何も間違ってはいないのだ。義王院にも、
――奉じるべき神に誓って恥ずべきことは何もない。
だがここに至り、天山の心中で迷いに似た暗雲が渦巻いているのも否定は出来なかった。
童女の繊手が虚空を踊る。
華美さはなく、流れるような終わりの見えない神柱の舞い。
黒曜の輝きが神域を満たし、やがて溢れて天山たちの視界を覆った。
明るい闇の間隙で、思い出したように静美の声が届く。
「同行当主。五行結界は失われましたが、代替とする手段は常に用意されています。
――陣楼院が有する金行の神器、輪廻永劫の権能もその一つ」
金行が霊道を伝って伸び、水行が木行に繋がる。
一時的に五行結界の要山が繋がり山巓陵へと、
――酩酊感を伴う明滅に視界が晴れ、天山たちの眼前に広がる湖が静かに波打つ光景。
ただ人が至るに赦されない山巓陵の神域へと、天山たちは何時の間にか立っていた。
本日は申し訳ありません。
理由があって、本編はこれだけです。
もう少し進められると思っていたのですが、これが限界でした。
読んでいただきありがとうございます。
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