3話 明暗を指す、大斎の烏鷺1
踏み込みは深く、沈むほどの姿勢から鋭く斬閃が迸る。
散り舞う精霊光を上下に分け断ち、遠慮のない一撃が晶へと伸びた。
「「疾ィッ」」
吐き出す呼気が重なり、晶の木刀が寸前で追いつく。
激突。撓む樫の木肌を、焦げつかさん勢いでそのみの木刀が滑り抜けた。
紫電と共に、精霊力が爆ぜる。
体を引き戻す刹那を逃さずに、晶はそのみの懐深くへ踏み込んだ。
義王院流精霊技、中伝、――弓張月。
死角から喉元へ。最小の所作からの伸びやかな斬撃は、相対するものからすれば不可視の斬撃と錯覚する斬撃。
晶の踏み込みに合わせ、そのみは木刀を引き戻す。
迫る晶の剣勢と踊らんばかりに、そのみの木刀が絡め取った。
解けて踊る互いの精霊力が、ほぼ同時に両者へ収束。
義王院流精霊技、中伝、――居待月。
――轟ォン!
薄く朝日に染まる道場の静けさが、仕合う2人の熱気に揺れる。
呼吸が触れ合う距離で互いの視線が絡み、無言の同意を交わして弾かれるように距離を取った。
「――それまで」
緊張が限界を迎える中、厳次の声が両者の間合いに落ちる。
視線を矛先代わりに軽く一当て。それを最後に、晶とそのみは納刀からの一礼で試合を終えた。
――強い。それも理不尽なまでに。
感情を綯い交ぜにした微笑みが、そのみの口元を彩った。
中伝の居待月は、水気の爆圧を纏う精霊技だ。
絶大な防御を誇る反面で持続性に乏しく、実戦には相当の練達が求められる。
義王院流の奧伝へ臨む登竜門とされる精霊技。それを見ただけで模倣し、数度の行使で難なく修得まで至ったのだ。
神無の御坐は理論上、如何なる精霊技の模倣も可能だと聞いてはいた。
だが所詮、模倣は小手先の能力でしかなく、心身に修める技量とは別のものである。
術理への理解が異常なまでに高い。
神無の御坐でさえ及ばない、それは晶個人の持つ才覚の証左であった。
道場を渡る秋寒が、剣を交わしていた2人の頬を伝う汗を優しく撫でる。
肌寒さが勝る中、粗く呼吸を吐く晶を見遣った。
――付かず離れない少女が、晶を気遣う光景。知らずそのみは、胸中を巡る感情を吐き出した。
「晶くん。手応えはどう?」
「いえ。恥ずかしながら、実感がなく。
弱くなっているとも、思うばかりです」
口惜し気なその言葉に、誤魔化す響きは混じっていない。
晶は本気でそう思っているのだ。そのみは悔しさすら忘れ、2人の方へと歩み寄った。
「強くなっていますよ。
――ご心配なさらずとも、確実に」
掛ける口調は、できる限り感情を隠した平坦なそれ。
自制する少女と、素直な少年の視線が交差する
「前に進めていると、自覚はあります。
ですが御存じの通り、時間がもう無いので」
「現状、中伝まではほぼ網羅されています。姫さま方の期待する水準には、充分過ぎるほど応えておられるかと。
晶さまの焦りは、明日に神嘗祭を控えてのものでしょう」
「そうでしょうか」
そのみが慰めるも、沈む晶の視線はその内心を如実に語っていた。
水行の精霊技を修めた手応えは、晶の心奧で確かに息衝いている。
だが、晶が精霊技を重ねたとしても、そのみは滑らかに精霊技を返してきたのだ。
語り合うようなそのみとの仕合で覚えた壁は、阿僧祇厳次との対峙に近い果てしないもの。
結局、晶はここに至るまで、そのみの上限を読み切れなかった。
晶の焦りは、義王院流を修めた実感を得られなかったが故のもの。
それは晶の早過ぎる成長が故の、当の本人にさえ理解できない弊害だ。
だがその事実に対しての自覚は、不要な変節を齎す可能性を孕む。
故にそのみは、晶の現状に対して明確に断じる事を避けた。
「守りに堅き。義王院流が、そう称される事は御存じでしょう。
実状をお伝えすれば、水行にとって精霊技はほんの余技に過ぎません」
「――門閥流派を余技とは、随分と貶されますな」
晶との会話に、厳次が横槍を挟む。
何よりも先に衛士と立つ彼からすれば、5つある門閥流派はどれも難敵だ。
そのみの真意がどうあれ、軽視するような言動は捨て置けるものではない。
「別に貶した訳ではありません。
水行の防人であれば、同じ応えを返されるかと」
「……ふむ」
しかし、険を覗かせる厳次の声に、そのみは頭を振って返した。
迷いのないそのみの声音は、真実を信じさせるもの。
厳次は言を控えて、一考の余地を覗かせた。
門閥流派は互いに仲が悪い。それは同じ洲に所属していても変わりはなく、寧ろ、肩を並べるほどに傾向は顕著となる。
更に言及すれば、珠門洲に於いて水行は日陰の立場だ。
経験豊富な厳次であっても、水行の精霊技に関しては知らない事が多い。
そんな晶たちを前に、そのみは呪符を引き抜いて見せる。
「以前にお伝えした通り、水気は精霊力の中で最大の重質を誇ります。不変にして不動。常に在らんとする特性は、精霊技と非常に相性が悪い」
精霊力を封じる霊糸が、その掌で軽く揺れた。
「反面、水気は陰陽術、取分け呪符との相性が抜群に良い。
國天洲が陰陽師を多く抱える理由がこれです」
「……それは知っていますが、疑問が一つ残ります」
そのみの説明を聞いて尚、晶の記憶に疑問がこびりついていた。
焦げつくように、思考の片隅から剥がれない矛盾。
「――雨月家は武家華族の中で最強を誇っていると、嘗て聞き及んだ事があります。
ですがその説明では、最強を語るのも難しいはず」
「良い疑問です」
晶の浮かべた疑問に、そのみは首肯を返した。
門閥流派とは極論、精霊遣いが重ねてきた試行錯誤と研鑽の集大成だ。
その発祥から4千年。連綿と繋げてきた思想と技術に差は無く、畢竟、後に問われるのは相性と個人の技量だけである。
その最たる例こそ、弓削孤城と云えるだろう。
高天原最強こそ誰もが認めるも、それは飽く迄も弓削孤城個人に対する称号に過ぎないからだ。
それと同じく、雨月家にも他家を圧倒する最大の優位性がある。
「雨月家の興りより数えて4千年。
雨月家の歴史は、そのまま門閥流派の歴史と云っても良いほどに永い」
「歴史ですか」
その響きに嫌なものが蘇ったのか、晶の眦が歪んだ。
気持ちは理解できると首肯を返し、敢えて触れないままに言葉を続ける。
「歴史とは即ち、重ねた試行錯誤の差。
雨月家の強みは、その歴史を以て証明がされるはずです」
どうすれば成功して、何から失敗するのか。その知識は、門閥流派を支えてきた雨月家だけが独占をしていた。
――皮肉なものだ。
応えながら、そのみは内心で呟いた。
歴史こそが己の誇りと憚らなかった雨月家は、致命的な歴史を軽視したが故にその幕を自ら下すことになるとは。
それこそ誰も、夢にすら思わなかっただろう。
♢
――央都上洛。暮れ六つの頃。
夕刻に差す茜が終わりを迎える頃。御厨家の現当主である御厨弘忠は、覚束なくなり始めた足元を辿るように家路を急いでいた。
暮明へと誘われるかのように、踏み鳴る砂利の音がその背中を追う。
昔から付き合いのある商家との、日頃の商談を終えた帰りであった。
「――これは見栄を張らずに、提灯を頼んだ方が良かったかな」
随伴のいない寂しさを紛らわすように、苦笑が弘忠の口元を吐く。
一陣の木枯らしが追い抜く肌寒さを、肩を竦めて遣り過ごした。
商談の内容は充分に納得のいく結果で終わったためか、その足取りは苦笑の割に軽い。
井實業兼との取引締結を目前に、弘忠の目的は漸くの目途が立ち始めていた。
水脈に沿って走る水気の龍脈は、相克である央都にあって非常に数が少ない。
御厨家の狙いである人工風穴は、所領を持たない旧家にとって抗い難い魅力を持っていた。
父、御厨至心の進める軍権奪還と併せれば、これまで日陰であった御厨家に回天の時が巡ってくる。
それも後少し。明日の神嘗祭で義王院静美と雨月颯馬の婚約が叶えば、後は詰将棋を進めるようなものだ。
残る気掛かりはたった一つ。
「……あれの処分をどうするか、だな」
禁忌とまではいかないが、龍脈に孔を穿つ人工風穴は多くの問題を孕んでいる。
下流域での霊気の枯渇程度なら可愛いものだ。
意図しない瘴気溜まりの発生がある事も、過去の事例として弘忠は知っていた。
加えて雨月天山はあれで、密約にも誠実さを求める相手である。
水利権の裏でそのような行為に手を出していたと知られたら、御厨家と雨月家の関係性が一転する事は想像に難くなかった。
そうである以上、事が雨月の周知となるよりも先に、雨月家を切って保身に走る。
御厨至心は同盟に絶対の信頼を預けていたが、弘忠はその事すら危ぶんでいた。
僥倖であったのが、雨月颯馬の才覚か。
文武に於いて学院の史上でも類を見ない成績を残している器。
特に顕著であったのが、政治に対する手腕だ。
その手管は強引だとも噂に聞くが、それでも魅力の方が克つことは否めない。
颯馬を傀儡に敷けたならば、雨月家の沈黙は安い目標となるはずであった。
最悪でも都合のいい華族を傀儡とした颯馬に宛がえば、旧家の下に八家があると周知させることも可能になる。
――問題は、学院へと面会依頼の書状を送っても、雨月颯馬の面会に許可が下りなかった事か。
「全く。まあ期限が延びた分、余裕が生まれたが」
神嘗祭に焦る必要はなくなった。学院の卒業までに面会を重ねて、弱みを掴めば問題は無いだろう。
慣れた屋敷へと辿り着き、門に手を掛ける。
「――失礼。御厨様とお見受けします」
「誰かな」
その背中へと、誰何の声が投げられた。
口調に殺気は滲んでいない。
取り乱すことなく、弘忠は相手へ向き直った。
その視線の向こう。電柱の生む陰影から、一人の防人が進み出た。
未だ学徒だろう若い少年が、険しい表情のままに拝礼する。
「誰かと訊いても良いかな? 正直、君と面識を持った記憶は無いが」
「無理もありません。自分がお目に掛かるのは、これが初となりますので。
――雨月家陪臣筆頭。酒匂甚兵衛が孫の、酒匂康晴と申します」
「ふん?」
丁度、接触にやきもきしていた颯馬の子飼いか。
肩を竦め、弘忠は改めて少年へと向き直った。
ぢき。戻す腰から、納刀する精霊器が僅かに鍔鳴りを残す。
「その名からすると、颯馬くんの直臣と見て良いかな?
――私の事を、彼から聞いたのかい」
「はい。颯馬さまから、一ヶ月ほど前に。
央都に於ける雨月危急の折りには、必ず助力を願うようにと」
「成る程。判断としては間違っていない」
雨月颯馬との連絡がつかない今、御厨家としても状況を知るだろう相手は有り難い。
だが他洲の、それも央都旧家である御厨家を頼るとは、颯馬に余程の事が起きたと見て間違いはなかった。
「申し訳ありません。状況が混乱している上、孤立無援の身。
御厨様に接触するのも、神嘗祭の前日になってしまいました」
「……苦労したようだね。良いだろう、何を望みたい?」
「雨月御当主様へ、内密の取次ぎは可能でしょうか」
神嘗祭を控えた現在、雨月天山は間違いなく央都入りを果たしている。
康晴の願いは、弘忠をして充分に予想の範疇にあるものであった。
――だが、
「容易いと云ってやりたいが、内密となると難しい。
……と云うよりも、遅すぎた」
「やはり、ですか」
弘忠の浮かべた表情は、その苦衷を示すように渋いもの。
想定はしていたのか、康晴も申し訳なさそうに応えるだけであった。
央都に於ける雨月天山の宿泊場所は掴んでいるが、警護の名目で張られている近衛の人数は相当に多い。
御厨家が実権を握っていた頃ならいざ知らず、用意もしていない現状で内密の接触は不可能に近かった。
「断言はできないが、私が事情を聞くとしよう。
状況を把握できれば、助力する余地があるかもしれない」
「……判りました。雨月本統と御家の危機かもしれません。
是非とも、助力をお願いいたします」
「承知した。――ついて来たまえ、此処で話せる情報では無いだろう」
弘忠の気遣いに、康晴の感謝が短く返る。
それを背に門を開ける弘忠の口元へ、薄く嘲笑が浮かんだ。
天山との連絡が難しいのは事実である。
だがそれは難しいのであって、不可能ではない。
雨月家の処分で悩むところに、天啓の如く颯馬へ返しきれない恩を貸し付ける機会が訪れたのだ。
この一件の処理が巧く叶えば、御厨弘忠の野望へと大きく前進する事は間違いない。
その昂揚を胸に、弘忠は自身の屋敷へとつながる門を大きく開けた。
♢
明けを迎えた卯の刻。
白々と明ける央都を眺め、晶は大きく呼吸を吐いた。
「うん。似合っているよ、晶」
背中から掛かる咲の声に、晶は首肯だけを返して向き直る。
新しく与えられた衛士の羽織が、晶の所作に従った。
柔い手触り。しかし、しなやかで強靭な布地が朝日の中で軽やかに踊る。
「漸く、神嘗祭だね。
……覚悟は良い?」
「はい」
短く返る声に、隠せない緊張が強く滲む。
だがそれ以上の言葉も無く、肯いを返して咲は道場を後にしようとした。
それでも、背中に晶の呟きが届く。
「ありがとう、咲。
ここまで付き合ってくれて」
感慨深いその声に、少女の頬へ朱が散った。
返す言葉は無い。
ただ、少しだけ肩を寄せ合う。
そのまま視線が交じり合い、晶の瞳に爛漫と微笑む少女の相貌が落ちた。
今年最後の更新となります。
新たな挑戦や、貴重な経験も数多い一年でした。
より励めるよう、来年もよろしくお願いします。
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