2話 日々は続く、埋火の如く1
百鬼夜行が収束したその夜。央都上洛に建つ玻璃院の屋敷は、俄かに緊張を孕んだ騒がしさを迎えていた。
苛立ちも露わに、玻璃院誉は書斎へと続く扉を開ける。
後背に続く者たちを一瞥。無言だが明瞭な意図を受け、1人を残し全員が退室した。
屋敷の中庭に面した書斎は、外界から遠い2階にある。
普段なら盗み聞きの心配もしないが、誉は厚手の窓掛けで夜闇と電球の揺れる書斎を別けた。
樫材の書斎机を漁り、引き出した木界符を部屋の四隅に放つ。
青白い炎を残し、呪符が励起。誉の神気を上乗せする事で、一時的にも強固な結界が立ち上がる。
――そこまで念を重ね、漸く誉は大きく嘆息を吐いた。
部屋の脇に設えられた重厚な長椅子へと、崩れるように倒れ込む。
「行儀が悪いね、姫さま」
「誰の所為だと思っているんだい。
……否、これは僕の所為でもあるけど」
居残った方条誘の呆れ声に、誉は靴下を脱ぎつつ険を向けた。
乾いた泥が靴下から零れ、床の上で砂煙へと変わる。
土塊の匂いに擽られたか、少年のように鼻を鳴らして、誉は腕を頭に回した。
軋む長椅子から、天井で揺れる電球を瞼越しに眺める。
揺れる光源に慰撫されて、ぽつりと口の端から呟きが漏れた。
「……雨月颯馬は?」
「あれなら、奥の座敷牢へ放り込んでいる。
――あんな設備が残っていたとはね、少し意外だよ」
「時代錯誤は承知の上。壁樹洲の華族が仕出かしたやんちゃを、内々に処理する為のものだよ」
精霊技を行使できる防人は、下手な穢獣よりも厄介な存在だ。
しかも、そうなった相手の大抵が、公になっては困る情報を持ち合わせている。
沙汰も公にできない事案への対処として、この類の施設が各所に設けられていることを誉は知っていた。
「霊脈封じの座敷牢に閉じ込めたなら、一旦は安心か。
颯馬くんが連れてきた郎党は?」
「あれと隣接の牢だよ。声は届くから、連中の無聊は慰められるだろうさ」
「――そう」
戦場に出張った雨月郎党に颯馬の姿が見当たらない。
その報告こそ、誉が事の露見に気付かせてくれた切っ掛けであった。
間に合ったとは云い難いが、それでも最悪を回避できたのは僥倖でしかない。
「放置した方が良かったと思うけどね。あれじゃ、感情の整理もつかんだろう」
ぽつりと漏れた呟きは、颯馬では無く晶への憐れみから。
言葉の裏に滲む皮肉に、それでも誉は気付かぬ振りを決め込んだ。
晶たちの間に割り込むのは、悪手であると理解はしている。
憎悪の応酬を慰撫する方法は、蟠る感情を吐き尽くす事だけだ。
だが感情論の下す裁きは、往々にして陰惨な結末を許容してしまう。
行き着く悲劇は、誰もが素知らぬ振り。
誉はそれを、何より恐れた。
「……方条当主は、400年前の詳細は知らないのかい?」
「不破家が出した神無の御坐の事かい? あれが原因で、他洲との力関係が崩れたって事くらいさね」
「ほんの触り程度じゃないか。今後を見据えて、詳細を知っておいてくれ」
当たり障りのない応えを返され、誉は呆れて視線を向けた。
「当時、神無の御坐が生まれた際、不破家は御家の危機ってやつでね。
力を上げていた隣領に呑み込まれる寸前だったそうだ」
三宮四院からすれば、八家も所詮はただ人の範疇でしかない。
神代契約から御家の優遇はしているが、他に好条件が持ち上がれば挿げ替えに躊躇いも無いのが本音だ。
事実、高天原の歴史上に於いて、八家の入れ替えは珍しくない。
重要なのは、五行陰陽の維持と龍脈の守護に必要な武力を有しているか否か。
加えて、権勢の所在を明確にするため、神器を与るという結果そのもの。
三宮四院並の歴史を誇るのが雨月本統だけという現実こそ、確たるその証左。
力量に衰えをみせた八家などに用はない。他の華族が台頭したと云うならば、新たな可能性を贔屓するだけ。
事実、400年前の不破家も又、数多に起きた八家の凋落と同じ結末を辿る。
――はずであった。
「そこに神無の御坐が生まれて、状況が逆転した。
――ああ。相手方からすれば、運気に見放された気分か」
飄々とした誘の推察に、誉も身動ぐだけの首肯を返す。
「その華族は、神柱よりも権勢欲を優先する手合いだったらしい。
僕としてはだから、どう、とも思わないが、」
「――そんな連中なら、伯道洲の華族と手を組んで神無の御坐を奪うくらいはやりかねんか」
何を抗弁しようとも、神無の御坐を産んだ不破家の優勢は決定してしまったのだ。
この一点だけで、壁樹洲に於ける敗北は確実。
その華族にとって障碍が神無の御坐だけならば、排除は当然の決断だったろう。
――神無の御坐を奪い、他洲へと譲渡する。
神無の御坐という知識が華族の常識だった時代に於いて、起きるはずの無かった暴挙にその華族は及んだ。
生まれたばかりの幼子ならどうとでもなる等、――甘すぎる見積もりを重ねた果ての結論。
「陣楼院にしてみたら迷惑な話だろうな。
神無の御坐は望んでいても、別に戦を起こしたいとは思っていなかっただろうから」
「強引に囲わなかったのかい」
「大神柱だけだったなら、迷わずに己がものにしようと動くだろうさ。
だけど、四院が生きるのも人の御世だからね」
今も昔も、一発逆転を狙う華族など掃いて捨てるほどにいる。
事態を知った小領の華族たちが奈切領一帯で起こした争乱こそ、400年前の出来事。
「400年前の救いは、三宮四院八家の関与が一切無かった事。
お陰で実質、大きく華族を整理するだけで事が済んだ」
慨嘆混じり、誉は身体を長椅子から離した。
休息を求める本音を隠し、当主代行の威光を盾に書斎机へと向かう。
「内乱で三宮四院の学んだ事こそ、八家を除く華族に御坐の知識は必要ないという結論。
厳罰を以て不可触を周知させるよりも、無知無関心でいる方がお互いに倖せだしね」
「けど結局は、起きてしまったしねぇ
姫さまは良いのかい? 神無の御坐を退かせるために、随分と安請け合いを重ねたけど」
揶揄う誘の呟きに、誉からは苦笑だけしか浮かばなかった。
どれだけ対策をしても、問題は擦り抜けてくる。
誉が現状に望めるのは、何処まで穏便に事を済ませるかの事後処理でしかないからだ。
「ハッタリは利かせたが、勝算は無い訳じゃない。
義王院も奇鳳院も、絶対に現状を歓迎しないからね」
「断言するね」
「輪堂家が、晶くんの教導に就いている。
間違いなく、今後の八家を見据えた采配だ」
央都近傍で起きた騒動は、藤森宮の監督責任となる。
奇鳳院家が藤森宮の派閥である以上、上位の膝元で不興を買う行為は得策で無い。
「なら、義王院には逆に働くだろう? 向こうが騒ぎ立てないってのは、
……雨月が騒動を察知するのを、遅らせるためか」
「そう。雨月の処断を、神嘗祭で下す心算だろうね。
下手に這いずり回られるより、気持ちよく首を差し出させてやれば醜態も少なく済む」
「成る程。姫さま、やったね?」
誘から向けられる含む笑顔は、誉の仕込みを理解したものであった。
重要なのは誰が何を歓迎していないか。奇鳳院と義王院の温度差こそ、誉の勝算。
その間隙を利用すれば、玻璃院の立ち回りは難しくない。
誉が約束した颯馬の拘束は、長期的に判断すると利益へ置き換わる可能性が高いからだ
南北の洲太守を相手取り、気付かれない利益を得る事が誉の狙い。
玻璃院を静かに支える女傑は、同情を買う陰で望める最大の利益を掠めたのだ。
「別に問題は無い。短期で見れば玻璃院は場を譲っただけだし、
――寧ろ、恩だって覚えてくれるかもね」
「善いねぇ。姫さまの謀りはあたしの好みだね、全力で支持させて貰うさ。
だとすれば、陣楼院に繋ぎを取っておくべきかね」
「その通り。
――さて。方条当主への義理はこれで果たせたかな?」
誉の狙いを看破した、大方の本音は其処だろう。
苦笑を浮かべる誉へ、方条誘の笑顔が大輪と咲いた。
この狙いを成立させる鍵は、陣楼院との歩調合わせにこそ有る。
央都に滞在している陣楼院家は、陣楼院神楽のただ独り。未だ幼い次期当主と会談を持つならば、声掛けをするべきは弓削孤城となるからだ。
軋みを残し、長椅子から身体を起こす。
電球の揺れる灯色を頼りに、誉は書斎机へと手を延ばした。
積まれている報告に目を通す。
壁樹洲の戦場に参加した、華族子弟の名簿。大鬼の強襲に脇を食い破られたため、衛士候補に大きな犠牲が生まれてしまった。
軽重総ての負傷も併せれば、今後の立て直しに相当な資本の投入が要求される。
返す返すも山巓陵守護を言い訳に、前線から逃げた近衛が憎らしい。
青軍の維持には、相当な手間が割かれているのだ。その結果がこのお粗末だとは、誉は勿論、誰の目にも認め難く映るはずである。
――三宮。特に軍権を与る藤森宮も、業腹なのは同じかな?
当然か。穏健を弱腰と囀る旧家が、三宮から実権を蚕食しているのは有名な噂だ。
旧家共が噛み切る寸前だった軍権も、これで少しは言い分に余裕が……。
そこまで思考を進めて、誉は頤を僅かに上げた。
旧家の目的が軍権の掌握であるのは、誉のみならず知られた有名な噂である。
直感が囁く違和感に、誉は旧家の動きを具に思い浮かべた。
「陣楼院との会談は良いとしても、三宮はどうすんだい?
宮家はどうしても、姫さまが伝手を繋がないと無理だが」
「不要だよ」思い出すように問いかけた誘へと、誉は短く応えた。
「藤森宮は兎も角、間違いなく雅樂宮は知っているさ」
「そりゃ、どうして?」
苛立ち紛れに、誉は報告書を机上へと投げた。
虚空に煽られた藁半紙の白が、机を覆うように広がる。
「僕が呪符組合視察を願い出た時、随分と簡単に許可が下りた。
それに、義王院の静美さまが一時帰郷する際の許可もね。
――何方も、雅樂宮が噛んでいなければおかしい」
「呪符組合は祭祀の管轄に入るから姫さまは理解できるが、義王院の方はどうしてだい?」
怪訝な誘の疑問を余所に、誉は万年筆を手に取った。
滑らかに筆が奔る音が、和紙を通して室内へと響く。
「学生である静美さまの帰郷許可を出したのは天領学院だ。
院家の意向が絡むなら、立場が静美さまに比肩しないと面子が邪魔をする」
ややあって、筆の奔る音に誉の推測が混じった。
否。推測ではなく、これは確信だ。
「天領学院に在る緑角館は元々、陰陽省の書庫だ。その関係上、天領学院の管轄は雅樂宮が持っている」
そして五行結界の崩壊。
暴走からの崩壊でありながら、央都の家屋にはその余波が殆ど無かった。
誰かが被害を制御するように立ち回っていなければ、この程度では済まないはずだ。
結界の維持管理は雅樂宮の管轄。
一つ一つは偶然で済ませても、ここまで重なれば必然だ。
「ここ最近、旧家の専横は目に余ったがね。特に昨今の流行りが軍権の利権漁りときた」
「権力に隙を目立たせて、雑多を群がらせたか。
――百鬼夜行の顛末、宮家は旧家の整理で締める心算だね」
神嘗祭の中日程にある三宮御覧は、央洲華族である旧家も参加しなければならない。
時期から考えても、今回の功罪論考はそこで行われるはずだ。
宮家から軍権を奪った挙句の、この醜態。
その結論が厳しいものになるのは、予想に容易かった。
「――丁度良い。近衛青軍の連中も、便乗で裁かせて貰おう。
央洲華族ですらない木っ端に期待を寄せるほど、旧家も暇でないだろうしね」
くつくつと忍ぶように、誉は咽喉の奥で嗤う。
その様子を一目、誘が呆れたように返した。
「怖いねぇ、姫さま。
それで? 雨月颯馬には、懇切丁寧に現状を教えてやるかい」
「不要だよ。神無の御坐の情報は、八家当主とその次期までだ。
――そう云えば、箝口令は間に合ったかな」
「あたしから指示を出しておいたよ。壁樹洲の衛士には利いているはずさ」
結構。満足に一つ首肯して、誉は手紙を認め終えた。
机に仕舞い、厳重に鍵を閉める。
「明日から神嘗祭まで、連日会談だと思ってくれ。
方条当主も付き合って貰うよ」
「あたしの義理も叶えてくれたしね。
――不満は無いよ、玻璃院の姫さま」
欠伸を一つ。踵を返した方条誘の後を追って、誉は書斎の扉へと向かった。
揺れも終えた電球へと手を延ばし、電源を切る。
ぱちり。無慈悲な音が、静かに書斎へと響いた。
書斎に落ちる、唐突な夜。
書斎机の一角。雨月郎党の名簿を始めとしたそれらも斉しく、諸共が闇へと沈む。
――後に残るのは、ただの変哲もない夜の静寂だけであった。
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