14話 天を徹れ、微睡みの涙3
至近で爆ぜる風圧を躱し、咲は純白の薙刀を振るった。
止めどなく己の心奧から湧き上がる神気を蕩尽し、現神降ろしの維持に注ぎ込む。
―――餓!!
振り下ろされる観経童子の拳に併せ、練り上げた神気を解放した。
奇鳳院流精霊技、初伝、――鳩衝。
地面から噴き上がる衝撃が、紅蓮を捲いて大鬼の足元を浚う。
嵩が大鬼ならば、支えきれずに虚空へと投げ出されるほどの衝撃。
しかし観経童子の拳は、渦巻く熱波を吹き散らし咲へと向かう。
「硬いのよ、大鬼如きが!!」
「――愚問。功徳ヲ積ミシ此ノ身ニ、神意如キガ届クコトハ無シ。
首ヲ垂レ、死ヲ以テ粛々ト御大将ヘ帰依スルガ善イ」
乱食いに覗く牙の狭間から、絶え間なく届く読経。
浄滅の炎を物ともせず、地を這う姿勢で観経童子が迫った。
幸いにして、年降りた大鬼の戦い方は、咲の知るものとそう変わりは無い。
大鬼の誇る肉体の護り、剛腕を以て蹂躙する暴力の権化。
だがその総てが、途轍もない高みで完成されている。
――否。それだけではない。
直感から咲は歯噛みをした。その程度なら、神気を前にして悠然と在ることなど出来はしない。化生は怪異と違い、その肉体へ宿し得る瘴気に上限が存在しているのだから。
瘴気を操り、肉体を理解し、途轍もない練度で昇華されている技術。
認めなければいけない。
――この大鬼は、
「強靭い!!」
押し寄せる絶望に、それでも退かず咲は真正面から立ち向かう。
その姿勢は地を征く燕の如く。噴き上がる菫の神気に、咲の足元が爆炎で抉れた。
奇鳳院流精霊技、中伝――。
「十字野擦」
腹から裂かんと刻む十字の剣閃が、そのままに烈火と変わる。
咲ごと呑み込む浄滅の炎。だが童子の放つ拳の嵐は、それすらも容易く吹き散らした。
「無駄ヨナ」
左右から繰り出される暴力の権化も、畏れることなく咲の神気が立ち向かう。
奇鳳院流精霊技、連技――。
「追儺扇」
遠き神柱より与った浄滅の炎が、強引に拳を弾いて観経童子の懐を曝け出した。
絶好の機会。咲の腕が翻り、爆炎を纏った純白の切っ先が正中を貫く。
奇鳳院流精霊技、中伝――。
「啄木鳥徹し!!」
幾重にも爆発を叩き込むその一撃は、確かに童子の腹へと突き立った。
だが、穂先が届いたのはその表層のみ。溢れる爆炎ごと巌の拳が掴み取り、咲の攻勢は呆気なく終わりを告げた。
「く、 、の」
「所詮ハ小娘ヨナ。木ッ端ノ神柱ニ肩入レ頂イテモ、振リ回サレルガ落チトハ」
――才能に振り回されるだけの未熟者。
告げられた嗤い声が、ラーヴァナの嘲弄と重なる。
どれだけ無尽の神気を与ろうとも、即席の域を出ていないのだ。
――咲にもその自覚はあった。
火力も継戦能力も、以前と比較にならないほど跳ね上がったのは間違いない。
だが、それだけ。精霊技すら拙い咲が行使するという事実に、何も変わりがない現実。
技量も練度も、咲には年齢相応のものしか無い。
拳に掴まれ、拮抗に揺れていた薙刀の穂先が不意に浮き上がった。
「くぁっ」
「未熟ノ代償――」
抗う事も出来ずに、華奢な体躯が虚空へと投げ出される。
「ソノ身デ贖ウガ良イ!」
空中で泳ぐ咲へと、観経童子の拳が放たれた。
逃げられないと侮った、直線的なそれ。
乾坤一擲の隙を見出し、咲の身体が宙を踊った。
奇鳳院流精霊技、裏伝、――隼翔け。
虚空に残炎の軌跡を刻み、拳を寸前で掻い潜る。
薙刀に宿る神気が一条の牙と閃いて、観経童子の額へと墜ちた。
一撃にパーリジャータの権能を重ね、神気の火力と咲に戻る反動を一点に集中。
咲の届き得る最大威力が鬼の顔面を呑み込み、螺旋の炎が後方へと駆け抜けた。
手元に返る確かな手応え。
「や、――っ!?」
「不遜ヨナ。
木ッ端ノ分際ガ、御大将ノ慈悲ニ噛ミツクトハ」
喝采を挙げた咲の脇腹を、観経童子の拳が振り薙いだ。
辛うじて盾にした薙刀越しに伝わる衝撃に、呼吸が詰まる。
観経童子の顔面は半分が灼け爛れ、それでも致命傷には程遠いらしい。
地面に落下して転がる咲の頭上へと、巨大な拳を象った死が影と落ちた。
躱せない。咲の脳裏に死が過ぎる。
「円烈」
そう告げる声と共に、霊道の一つから閃く飛斬が、観経童子の肩口に大きく裂傷を生んだ。
―――餓!?
堅牢な鬼の肌と理解を容易く越え、鋭く届いた理不尽な一撃。黒く噴き出る血潮に、戸惑いに大鬼の歩みが止まる。
「何者ヨ」
「成る程ね。待たせた挙句に師匠をさて置き、俺が神域に向かえとは変と思ったが。こうなってくると、納得だ。――因縁じゃないか、観経童子」
無骨なだけの太刀を手にした少年が、鳥居を潜って嘲るように嗤う。
「化生如きが神柱に傾倒するたぁ、笑い話としてもつまらんぞ。人食いが悟りの一つでも理解できたか」
「……百鬼丸。此ノ身ニ再ビ、敗北ヲ刻ムカ」
数百年の昔、奈切領で暴虐を揮った大鬼の首魁。その巨躯を見上げて、奈切迅は己の神器を一振りした。
神域に満ちる水気すら断ち切り、虚空にその軌道を刻む。
観経童子と殴り合えるまで所持者を強化する百鬼丸の権能。そして、間合いに在る鬼種の防御を蝕む神域特性。
鬼種に限るも、相対すれば一切の敗北を赦さない。
その無骨な神器は、観経童子にとって最も忌避すべき存在であった。
「良カロウ」
咽喉の奥から憤怒を漏らし、その巨躯が迅を睨む。
「此ノ身ガ味ワッタ屈辱、貴様ヲ磨リ潰シテ雪イデクレル!」
―――餓、亜、亜アァァアッッ。
最早、咲は眼中にないと、観経童子は吼え猛った。
ラーヴァナを斬り裂く寸前、晶の掌中で落陽柘榴の輝きが灰と変わった。
矛盾の刃は華奢な喉元に影を落とし、そのまま無為に散り消える。
「嘗て10の頭を持っていた頃、9の神柱を相手に身共は闘争を挑んだ。
多勢に無勢。敵う由も無く、力を求めて修めた荒行こそ我が神器」
ただ人の在りようを10の思想に分け、己が持つ10の頭に宿した神器。
――九法宝典。
真言で刻まれた経文を頭ごと斬り落とし、火山で燃やした荒行。
人間の本性を残し9つの頭を炎の神髄で燃やした時、ラーヴァナは如何なる神柱にも敗北しない力を得たという。
能面の神器はその荒行を鍛造した神器。火行に属する神気と神器で9枚の能面を割り尽くせば、ラーヴァナはその一切と引き換えに荒行の果てを神域特性として再現できるようになるのだ。
仮令、神柱殺しの権能であっても、9度に限りラーヴァナを傷つける事は能わない。
相手からの攻撃であっても、ラーヴァナへと届いた瞬間に敗北と変わるからだ。
神柱殺しではない以上、神器の消滅はできないものの、一時的な喪失には届く。
徒手と変わった晶の体躯が、致命的に泳いだ。
「神柱殺しの権能を宿す神器を封じ」
神柱の青い右腕が翻り。鞭の刃が唸りを上げる。
叩き落される莫大な質量は、盾とした晶の精霊器を一撃で残骸と変えた。
「――後は高御座を陥落して、五行の連環を解けばいい」
苦し紛れに晶の手から踊る呪符が、彼我の間合いで励起する。
膨れ上がる衝撃に鉄鞭の柔い刃金が吹き散り、晶の身体を反対側へと弾き出した。
転がり地面を舐めながら、残り全ての回生符を励起する。
青白い炎が神気を癒し、その総てを蕩尽して晶は自身の心奧に残る神器を希った。
「絢爛たれ、――寂炎雅燿」
掌中に顕れた神器の刀身は透き通ったまま、沈黙を保っている。
晶が握り締めるのは、ただ頑丈なだけの鉄剣と変わりはしなかった。
それでも、呼気を残して地を蹴る。
叩き落す斬撃に併せて、撃符を励起。
刀身へと仮初の神気が宿り、ラーヴァナへと向かう。
五行の巡礼は、晶へかなりの連戦を強いてきた。その手に残る呪符も最早僅かなはず。
酷薄に嗤い、少女の神柱が右腕を一振り。
返る鉄鞭の斬撃が、寂炎雅燿を絡め取った。
「――疾ッ!!」
鋭く刺し込まれる、静美の呼気。
晶の影に隠れて迫る回天極夜を左腕の独鈷杵で喰い止め、晶の身体へと残る左の掌を圧し当てた。
ラーヴァナの神域特性が晶の心奧へと忍び込み、朱華と晶の間に繋がる絆へと牙を剥く。
寂炎雅燿。次いで晶の心奧から、朱華の与えた総てが消える。
――莫大な喪失感と共に、寂炎雅燿が幻と消えた。
「何故、要山に神柱を呼び込んだと思う? ――神無の御坐を通して五行の連環を断ち切り、神柱を要山に封じるためよ。
この状態で高御座を陥落せば、身共が五柱の龍穴を掌握したのと同様となる」
一つの龍穴には一柱の神柱しか宿らない。だが、ラーヴァナが1つの身体に10の頭を有するように、複数の身体を持つ1つの神柱ならその原則はどうなるか。
高天原の神柱が持つ機能だけを残し、複数の龍穴を支配する新たな神柱と生まれ変わる。
それこそ、ラーヴァナが高天原を狙う真の目的であった。
「させるかぁっ」
総ての対抗手段を奪われて尚、晶の歩みは止まらない。
攻め足が崩れることは無く、無我夢中に伸ばした掌で虚空に踊る水気の精霊を掴んだ。
雪崩を打って晶へと満ちる水行の精霊力。黒く瞬く輝きを宿し、晶は丹田に渦巻く精霊力を加速させる。
現神降ろしで自身を強化。攻め足が地面を踏み砕き、迸る水気が右掌に鋭い刃を生み出した。
――國天洲の生まれでありながら、晶は義王院流を殆ど知らない。
穢レ擬きと忌み嫌われた嘗て、晶に見られることで精霊技が穢れると嘲った雨月のものたちは、極端に晶と精霊の干渉を遠ざけたからだ。
剣技の術理を知らない以上、幾ら晶でも精霊技を模倣する事は難しい。
だが奇鳳院流を基にすれば、拙い物真似程度なら再現は可能だ。
「征ぇああぁっ!!」
精霊の後押しを受けて、鉄さえも斬断を可能とする斬撃が重ねられる。
回天極夜を抑え込む独鈷杵を除いたラーヴァナの腕全てが、晶の散らす水気の斬撃を砕いて凌いだ。
舞い散る水気の中、嘲弄の崩れないラーヴァナと晶の視線が交差する。
刹那の間さえ圧し潰し、晶は掌を大きく横へ振り薙いだ。
生まれた飛斬が青く冷めた肌へと到達し、精霊光が儚く砕ける。
「身共は海原の神柱であると告げたはずだ。――この程度の一滴、身共に牙を突き立てられる道理は無いぞ」
「だけど、時間稼ぎはできるよなぁっ」
再び水気の刃を構えた晶の叫びに、ラーヴァナは余裕を口元に浮かべて応じて見せた。
「然り。
――畢竟それは、打つ手が無くなったと白状したも等しい」
「!」
図星を突かれ、息を呑む。
思わず後退した晶の間合いへと、ラーヴァナが瞬時に踏み込んだ。
「神無の御坐であろうと、火行に染め抜かれた魂魄を別の神柱で染め直すには、最低でも一晩ほどは掛かる。ここまで手間暇を掛けたのだ。そろそろ詰みとさせて貰おう」
「――させませんよ」
晶へと斜めに振り抜かれる鉄鞭を弾き、静美がその間に立つ。
回天極夜の穂先が踊り、生まれた衝撃がラーヴァナとの距離を広げた。
丹塗りの槍を象る神器が、天地を指してぴたりと定まる。
「神域解放」
桜色の唇から零れた少女の覚悟と同時に、神器の穂先が地面へ孔を穿った。
「水写し、ひたり揺らぐは、逆さ月」
回天極夜の穂先が概念と変わり、茅之輪山に流れる水行の龍脈へと突き立つ。
「巡りて消える、冬の朧気」
顕現した莫大な火気が水気を呑み込み、水蒸気が炸裂。
瞬後、轟音と共に熱波がラーヴァナを呑み込んだ。
五行を書き換え、火行を強引に茅之輪山へと引き込む。
ラーヴァナの権能を警戒しての迂遠な手段だが、火行の宿す浄滅に煽られれば無傷とまではいかないはずだ。
「……ふふ、驚かせてくれる」
涼やかに。晴れない蒸気の向こうから、少女の燥ぐ声が響いた。
「水行で無理なら、火行を当てて浄滅を狙うか。
狙い処は悪くないが、些かに甘い」
熱波の煽る微風が、神柱の着物を揺らす。
地面を踏み込む僅かな音。鉄鞭が水蒸気を幾重にも斬り裂き、無傷のままラーヴァナが静美へと迫った。
回天極夜へと伸びる、敗北を決定する神柱の権能。
嫣然と響いた声に槍の穂先が跳ね上がり、石突と穂先が入れ替わるように鉄鞭を弾いた。
「く!」
「これで仕舞いよ、神無の御坐。
後顧の憂い、ここで断つ」
勢いの乗った重圧い斬撃に、静美の身体が後方へと撥ね飛ばされる。
入れ替わりに、ラーヴァナは晶へと間合いを詰めた。
彼我の間合いで剣戟が重なり、水気の刃が放たれた鉄鞭を辛うじて弾き飛ばす。
だが、その向こうから抜き放たれた独鈷杵が、晶へと狙いを定めた。
地を蹴って後退を図るが、その奥からも鉄鞭が牙を剥く。
逃げ道を塞ぐようにうねる軌道に、逃げられないと悟った。
晶を満たしていた朱華の加護は既に尽き、神器は元より気配すら欠片も残っていない。
晶を縛り付けていた自由は総て喪われ、晶は懐かしい無力だった頃の己に戻っていた。
――のう、晶や。
腕の一本を覚悟した晶の脳裏に、嘗て誰かが呟いた声が不意に蘇った。
――憶えておおき。玄とはの……、
残暑に熱り、微睡みの狭間で刻まれた少女の願い。
懐かしい。幼い頃に忘れかけた、その詔。
――白々明けの暁を迎え、青天の日中を過ぎ、茜に染まる誰そ彼を終え。その総てを透き徹し、初めて生まれる吾の響きじゃ。
憶えておおき。黒曜の輝きが満ちる海の果てで、吾は晶を待つ。
晶の帰り路は、吾のもの。
無意識に鉄鞭へと手を差し伸べる。
刹那にも満たない永遠の狭間。晶の希う叫びに応じ、黒の輝きがその先で護りと変わった。
――それは、北限の霊亀。現世を微睡む不動。
鉄鞭を容易く弾き、独鈷杵を喰い止める。
小さく重なり合う亀甲紋の結界は小動と見せず、間合いに踏み込もうとしたラーヴァナを生まれた過流が弾き返した。
――黒曜の海に坐す、揺籃の主。
晶の瞳が黒く輝きを宿し、限りなく透き徹る。
白を透し、青を徹し、朱を通し、――やがて、夜天を彩る黒曜の輝きに変わった。
自然と魂魄が震えて、それまで封じられていた名前を希う。
「願い奉るは、磐生盤古大権現」
同じ水行に属する神気。ラーヴァナは神気を九法宝典に重ね、象られた槍で晶の護りを貫いた。
「静寂に微睡み給え、霊亀冬濫玄麗媛!」
――見つけた。
声なき声が、遥か高みから響き渡る。
晶の足元から噴き上がる水気の渦が総てを洗い流し、地を浚ってやがて消えた。
その中心に残っていた晶が目を開けると、そこに懐かしい少女の佇む姿が映る。
黒曜に散りばめた単衣、銀糸が彩る夜天の輝きを持つ着物。
あの頃と同じ、年齢10ほどの少女の名前。
「くろ、さま」
自然と、晶はあの時の名前を口にした。
華奢な肩が、動揺に震える。
「名を」
後は言葉よりも雄弁に、涙が頬を伝って応えた。
「名を呼んでくれたであろ。――吾の名を、もう一度」
「お久しぶりです。――玄麗」
晶から返る自身の神名に、拳を振り上げて晶を弱く叩く。
確かに返る、喪われたとも思ってしまった生きた証。
「何処にも行かないでおくれ」
困った表情を浮かべているのは判る。
だがそれでも、頭を振って玄麗は言葉を重ねた。
泣きながら、何度も拳を振り下ろし、
――そこにいる奇跡を何度も確かめて。
幼い頃は年上の少女だとしか思っていなかった。
華奢に震えるその肩は、その姿相応に弱々しく。
――何時の間にか追い越している事に、晶は初めて気が付いた。
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