14話 天を徹れ、微睡みの涙2
咲の一撃が、少女自身を生き写した能面の左頬から下を削り割った。
――瞬転。千々に割れた木片が、瘴気へと換わり視界を冒す。
神域に満ちる浄滅すら抗う濃度の赤黒い瘴毒。寸前で反対方向に逃れた晶たちは、地面を蹴立てて油断なく身構えた。
「咲、未だだ!」
「ええ。判っている!!」
交差する二人の警戒。
晶が実際に見た通り、能面の神器は滑瓢の身代わりとなる権能が存在する。
その威力は、大神柱が見ている前で逃げ果せ、手ずから編んだという縁の呪法を騙し切るほど。
央都の神域を目前にして逃げることこそ無いだろうが、これからが本番であるという確信が二人にはあった。
濃密な瘴気の渦が、神気に当てられて青白く燃え尽きる。
一際、赤黒く蟠る瘴毒の陰に、ひらりと布の端が舞った。
「「征ぇぇえっっ!」」
呼気は同時に。
――晶と咲。通じ合う視線へと吸い込まれるように、二人は渦捲く瘴気へと神器を叩き込んだ。
二つの斬閃が刻む、必中の軌道。
にぃ。迫る死を見据え、瘴気の奥で青黒い唇が歪んだ。
蒼く冷めた肌をした右の腕が、同時に二度、迎撃に翻る。
――双方向から到達した斬閃が噛み合い、鋭く火花が刃鳴り散らした。
晶が放った朱金の神意が膨れ上がり、僅かに残った瘴気を吹き飛ばす。
衝撃。その奥から、深く昏い黒瞳が晶を睨みつけた。
緩やかに波打つ、蒼く美しい肢体。紺碧を基調とした服布が視界に踊る。
しゃらり。鉄輪の鈴鳴る音が耳朶を撃ち、くねるように放たれた鉄鞭が晶たちを弾き飛ばした。
と、と、と。軽やかに地肌を啄む爪先。踊るような独特の歩法が、晶の間合いを滑るように侵す。
「――疾っ」
「甘ぅ御座いますなぁ」
晶と神柱の視界で木撃符が舞い、衝撃が爆ぜた。
身体を打ち据えて過ぎる衝波はしかし、神柱の右腕から放たれた二つの刺突に貫かれる。
彼我の距離は一足すら無く、回避すらも難しい。
晶は半ば本能だけで、寂炎雅燿の刀身を盾にした。
激突、重なる轟音。寂炎雅燿の刀身越しに、凡そ常人には不可能な衝撃が重なる。
耐え切れない事は承知の上。地を蹴る晶の体躯は、抵抗もなく後方へと弾き飛ばされた。
「ああ。己の姿に戻るのは幾年振りの事か。
身共の神器とは云え、能面越しの視界は少々窮屈でして」
「吹ぅうっ!!」
くつくつと咽喉を鳴らし、瘴気の奥から現れた少女は左の人差し指を唇に当てる。
その仕草を隙と見出したか、残炎を刻んだ咲が踏み込んだ。
真白の薙刀が上段の軌道を描き、相手の左半身、死角からの必中を狙う。
菫色の神気が炎を伴い、鋭く重圧く大気を割って落ちた。
業火の踊る咲の斬撃が、深く呑み込む昏い黒瞳へと落ちる。
それでも踊る爪先は、咲への興味さえ示すことは無かった。
――撃音は鈍く鋭く。咲の狙った一撃は、神柱の左掌が構える三叉の独鈷杵が揺らぐことなく噛み込む。
そして尚、白魚の如き嫋やかな左の指は、濃紫の唇から揺れてはいなかった。
「忌まわしいな、その真白。
救世を騙る小娘の棘か。身共の編んだ言葉の神器で、十重二十重と縛り付けてやったと云うに」
己が神代の斜陽。自身を神柱の頂から崩した杭の面影を薙刀に見て、それでも神柱たる少女は嗤う。
「総ての縛りを解き放ったか、乳海を導く棘!」
神柱は嘘を吐けない。何故ならば、神柱は己の司る象そのものだからだ。
世界とはそのままの真実であり、現時点に至るまでの歴史そのものでもある。
嘗て己が味わった敗北は、九法宝典自体に刻まれた歴史。
どれだけ神器を以て偽ろうとも、この敗北を偽ることは不可能だ。
畢竟、パーリジャータを前にして、この神柱に防ぐ術はない。
当然、警戒は密にして怠りなく。
パーリジャータが立ち塞がる事は、己が策動へと組み込んでいた。
敗北を刻んだ神器を防ぐこの独鈷杵は、西巴大陸の欲望に潜んで潘国から簒奪した神器。これが無ければ、為ったばかりの神霊遣いが相手であろうとも、神柱である少女に勝ち目は無かった。
「シータからの伝言よ。
――ランカーに在ってこそ、貴女の歩みは燈火を戻す」
必中必勝の確信を防がれて尚、激情のままに咲は相手を見据える。
見えるだけの年齢は15の辺りか。視界に映るその少女は、冷めるほどに青い肌をしていた。
豊かに波打つ紫の髪。底を見せない深い黒瞳。
昏く咲く色彩が、見るものを圧倒する。
肩から伸びる2対の腕が異質に、しかし怖気を奮うほどに美しかった。
――神代の始まり、神柱たちは暴虐で世界を攪拌したと云う。
乳海が白く濁り、山海の臼は削れ落ちた。
――正者たちは嘆き悲しみ。それでも尚、創世の踊りは止むことを知らず。
或る二柱だけが、そのか細き悲嘆を聞き届けた。
一柱はやがて訪れる終焉と始まりを繋げるためだけに踊り、
――そして、残る一方の神柱は現世を護るために踊ることを約定したという。
言葉で真理を編み、秩序を刻み。それらを壊して踊ろうとする神柱たちへと、その神柱は孤独に戦いを挑んだのだ。
乳海の最果て。昏い水底で孤独に踊る闘争の宿命。
――ただ人足れと寿ぎを象とする神柱。
「本道へと立ち戻れ、
――ラーヴァナ!!」
「吼ざくな、シータめの走狗に成り下がった小娘が。
未だ生まれてすらいない神柱の囁きに尻尾を振って、勝利を思い上がるは未熟の証と躾けてやろう」
交わす言葉に負けじと、剣戟が火花を散らして重なる。
その後背へと、晶も残り僅かとなった呪符を放った。
青白い励起の炎が散り、水撃符が飛沫を上げる。
僅かなだけの水行が象る矢を視界に、ラーヴァナは嘲りを舌に乗せた。
「身共は海原に坐す神柱であるぞ。
可愛らしい一滴に、抗う術を赦すとでも?」
「ああ。元より思っていない」
ラーヴァナの右腕が閃き、何れかの神柱から簒奪した鉄鞭が水撃符の矢を弾く。
水気の飛沫が無為に散り、その陰から木撃符が地面へと突き立った。
「――ほう」
意表を突かれたのか、2対の腕を持つ神柱が感嘆を漏らす。
――励起。
水生木。水気を呑み込み、勢いを得た木気が雷を生んだ。
雷鳴が真冬の輝きを得て、ラーヴァナを呑み込む。
だが、それさえも鉄鞭は斬り裂いて、虚空へとその身を躍らせた。
「は。才能に振り回されるだけの未熟ども。
シータも朱華媛も、期待を重ねるだけとは随分と耄碌したものよ」
「そうか?」
これまでラーヴァナは、晶に向けて絶好の隙を垣間見せてきた。だがその際にすら呪符の神気に頼っている現状、晶の神気は既に尽きているのだろう。
その呪符すら神気を宿す火撃符を惜しむならば、晶に赦された足掻きは残り数撃有るか無いか。
自身が最も警戒する落陽柘榴の権能は、現状で封じる事が叶ったとラーヴァナは判断した。
それでも晶たちの瞳で、抗う輝きが翳る様子は見られない。
嘗てラーヴァナが愛した、ただ人たちの輝き。
堕ちて永く。それでも忘れ得ず愛おしいその感情を嗤い捨て、ラーヴァナは最後の策を駄目押しに打った。
「本来、神域で鬼種の招来は望めん」
独鈷杵を構えているものとは別の左腕。空であった最後の掌に、数枚の呪符が顕れる。
それは、晶たちが九法宝典の破壊に届かなかった際の、最後の保険。
年降りた大鬼の棲む瘴気溜まりから汲み上げた瘴毒の澱。その精髄を封じた、ラーヴァナのとっておきだ。
蒼く冷めた指先から虚空へと呪符が舞い、赤黒い励起の炎が浮かび上がる。
「――だが、庚の霊道に穿った孔へ、直接、大鬼が侵入すればどうなるか」
央都内部へ侵入した百鬼夜行は、大鬼と鎧蜈蚣の率いる二つ。
指示通りであれば鎧蜈蚣は火行の要山に、大鬼は茅之輪山へと別れて向かったはずだ。
大鬼の一体。最後に備えた巨大な鬼種は、百鬼夜行ごと囮として庚神社へ向かう。
庚神社は、茅之輪山に最も近い霊道の急所。
既に穿たれた孔を潜る程度であれば――、
周囲に広がる霊道の鳥居。その一つが弾け飛び、相克の霊道を圧し退けて巨大な躯が姿を顕した。
「地ニ伏セルガ善イ。斃レルガ善イ。
五体投地デ死ヲ望ムナラバ、経文ノ一ツデモ諳ンジテヤロウ」
―――餓、亜ァ!
その姿は巌の如く、乱杭に生えた牙の隙間から流暢な経文が流れ出る。
己が殺め喰らう相手へ、最後に経文を詠む時間を赦したと謂れを持つ古い大鬼。
その性格ゆえに観経童子と謳われる巨大な化生が、晶たちの前に立ち塞がった。
罅を擦るような唸り声に混じり、硬くも明確な人語が晶たちの耳に届く。
回避。危険を知らせる直感に従い2人は地を蹴った。
同時に振り下ろされる、大人ほどもあろう巨きさの拳。
どぉん。地を衝く轟音と、茫漠と巻き上がる土埃が視界を染める。
警戒に距離を取る2人を余所目に、悠然と地面から拳を引き抜いた観経童子は、ラーヴァナを向いて嗤ってみせた。
「待タセタカ、御大将?」
「然程には。丁度、刻限には善い頃合いよ。――嗚呼、産霊の霊道が開かれた」
会心の笑みがラーヴァナの口元を彩る。その双眸が見据えるのは、晶の真後ろ。
視界の端を向けたそこに、何時の間にか鳥居が佇んでいた。
――高御座の神域へと続く霊道の入り口。
「残るは、手札も少ない未熟な遣い手のみ。
童子殿が油断なされなければ、手を煩わせることも無いでしょうな」
「無用ノ心配。デハ、小僧共ノ首級二ツホド、刈リ尽クストシヨウカ」
観経童子の呟きが終わるよりも早く、巨大な体躯が撓んで跳ねた。
晶たちの頭上よりも高く、そこから振り下ろされる拳が圧力を伴って地面を揺らす。
地面を抉る拳から回避した晶は、それでも必死に残り全部の金撃符を宙へと放った。
僅かな望みを掛けた呪符が、励起の炎を散らして金気の刃へと変わる。
大鬼は木行の化生だ。何よりも優れた身体能力と堅牢な護りを以て、戦場を蹂躙する暴力の権化。
金克木。相克の呪符だが、それで抗えるなどと晶もおめでたく考えていない。
僅かな。本当に僅かな隙が生まれる事を願っただけの、呪符の無駄撃ち。
それでも晶は、無我夢中で神域に満ちる精霊へと命じた。
――久方振り、晶が願う声。
水行の精霊が歓喜を返し、金気を呑み込む刃と変わる。
威力も質も変わった刃が、無視できない威力となって観経童子の頸へと迫った。
一縷の望みを賭けた晶の一撃は、
「――微温イ」
それでも届くことなく、観経童子が払った巨腕に砕け散る。
くそ。吐き捨てる余裕も無い。年降りた大鬼の猛攻に、晶は回避の一択しか選べなくなった。
拳を嵐と替えた観経童子の後背で、ラーヴァナは悠然と神域の鳥居へ歩む。
咲はその進路へと立ち塞がろうとするが、観経童子の翻した拳に晶と同じく回避を余儀なくされた。
「くぅっ」
「不敬。御大将ノ征路ヲ塞グコトハ赦サジ」
意に添わぬ後退に、咲の咽喉が悔悟で呻く。
それでも攻め口が見えないまま、ラーヴァナが鳥居に到達するまであと数歩。
「降り頻れ」
その時、静かに凛とその声が響いた。
「――回天極夜」
天から墜ちる一撃が、轟音と共に大地へと突き立つ。
揺らぐ事の無い威力を伴ったそれは、大人の背丈ほどもあろう丹塗りの槍。
警戒に飛び退いた少女の神柱は、その神器を一瞥し嘲弄を舌に乗せた。
「これはこれは。何処で油を売っているかと心配しておりましたが、身共の凱旋には間に合ったご様子で。
――一安心いたしましたよ、義王院どの?」
「何とでも。間に合って事態に追いついた。なればこそ問題はありません」
鳥居の前へと降り立った義王院静美は、晶を視界に僅か眦を緩めただけ。
引き抜かれた槍は、舞うように軌跡を刻んだ。
「高御座の神域へと届く鳥居が開いている以上、貴女が滑瓢ですか」
「然り。神柱たるこの身と相対する不敬、巫であればこそ赦そう。
逍遥と首を垂れるなら、後の安寧も約定するが?」
愚問。声に出すことなく、半神半人たる少女の神気が昂る。
本殿へ向かう途上の遭遇。顕神降ろしこそ叶わないが、神域に立つ以上、巫の少女には無尽の神気が約束されているのだ。
この場を放棄する選択肢は、誰であっても有り得ない。
言葉は不要とばかりに、静美は眼前の神柱へと間合いを詰めた。
回天極夜の権能は、五行運行の一時的な書き換え。
仮令、土行であろうとも、回天極夜の前に在って彼我の優位は逆転する。
他行が相手であればこそ、絶対とも云うべき威力だが。
鈍く金切り音を立てて、鉄鞭が回天極夜へと絡みつく。
「他行であれば、冷や汗程度は垂らしたでしょうが。生憎と身共は水行に近い出自ゆえ」
「そうですか。――それが?」
それでも、静美の声に焦る響きは滲まない。
静美の引き抜いた火界符が宙を舞い、直後に二人の周囲を炎が舐めた。
渦巻く熱波へ向けて、続けざまに土撃符が宙を舞う。
火生土。煽られて威勢を増した衝撃が、空間ごと捩じ切るようにラーヴァナへと吸い込まれた。
土撃符を回天極夜の権能で加速させ、相克となる水行を圧殺したのだ。
至近で直撃を受ければ、神柱であろうとも後退を余儀なくされる。
「真逆、水行だというだけで勝ち誇られるのも心外でしょう。
その程度、回天極夜の前にどれほどの障碍とも為り得ません」
淡々と告げる静美の左手に見える、数枚の呪符。
一呼吸に呪符が宙へと舞い、同時に静美の足は地を蹴った。
水行は精霊器との相性が最低となる。だが、陰陽術との相性は五行中で最高だ。
陰陽術と精霊技の併用。五行を超えた汎用性こそ、義王院流の神髄。
貫く回天極夜の刺突に、土行の衝撃が舞い踊る。
土克水。相克にあるはずの二極が、螺旋と化してラーヴァナへと迫った。
否。期待した手応えが返らない。
「――ふ、ふ。こうなると想定したからこそ、勝ち誇ったのよ」
その穂先を掻い潜ったラーヴァナが、動揺する静美の至近で口元を歪めてみせる。
左から貫かんとする独鈷杵と、右から迫る鉄鞭。同時に撃ち込まれる二撃が、静美の逃げ道を奪った。
「く」
回避にはもう遅い。護りを最大に固めるべく、静美は神気を高めた。
独鈷杵の切っ先が静美へと迫る。
――その直前。静美を押し退けた晶が、その前へと立つ。
嗤い、困惑、覚悟。様々な感情が交差。
それでも晶は、自身に残っていた切り札を迷いなく切った。
静美の攻勢で、観経童子とラーヴァナが見せた最大の隙。
勝利を確信しているからこそ、回避へと意識を向けることは無い。
これが本当に最後の一滴。
「斜陽に沈め」
虚空を泳ぐ掌が、心奧に在るその柄を掴む。
「――落陽、柘榴ォッ!」
神柱殺しを為し得る矛盾の刃。朱金の神気を振り絞り、晶は最後の一薙ぎを繰り出した。
すみません。もう一寸進められる予定だったんですが。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマークと評価もお願いいたします。





