3話 禊ぎ給え我が過去を、祓い給え我が業を2
『氏子籤祇』とは、その土地を支える土地神との契約の儀式の事だ。
契約そのものは人間の一生に於いてそこまで意識するものではないが、氏子になるという事は、世間に於いて一人の人間と認められる最低条件であると認識されている。
故に氏子として認められなかった晶は、生きているだけのモノとしてしか認識されていないのだ。
――緊張する。
張り詰めた呼吸で、肺が破裂してしまいそうだった。
「そこまで緊張しなくてもいいわよ。茅之輪神社の神さまはすごく広く民を受け入れるの、ここ何百年も人を拒む事は無かったと聞いているわ」
晶の緊張を感じ取ったのだろう。浦戸と呼ばれた女性が笑いながらそう告げてきた。
「……そう、ですか」
強張った頬の筋肉を無理矢理動かして、笑いの表情を何とか作る。
――張り詰めた頬の痛みが、笑みを作るのに成功したとは云い難い結果を伝えてきた。
「……あぁ、あったあった。
――はい、籤箱ね。引いて頂戴」
社務所の受付に六角柱の形をした白木の箱が置かれた。
『氏子籤祇』は、その名の通り、神に託宣を求める籤引きだ。
大陸の易占が変化して伝わったその儀式は、占いの体を成しているが実際に結果を出すのは精霊であり、神社を治める土地神である。
そのため、与えられる結果は当然、先に引いた結果と同一であり、絶対と見做される。
『氏子籤祇』の結果は大きく分けて5つ。これは、宿す精霊の位階と相性によって変化する。
最も多い下位精霊は、『氏子』の結果で固定となる。
華族が宿す中位から上位精霊は、主に争いに向く精霊が『防人』、それ以外が男性であれば『神使』女性であれば『巫女』が振り当てられる。
――そして、上位精霊でも特に強力な精霊を宿す者、それも護国を担う八家であればほぼ間違いなく『衛士』の宣が下される。
晶の問題は此処に有る。精霊無しの晶の結果は、当然、土地神も判断の下しようが無い。
その結果が、白紙で出される籤紙だった。
この結果は拒否や変更が願えるものではない。何しろ、判断を下しているものは聖域を生み出せる高次の存在だ。只人たる存在が意見できるものではない。
目の前に置かれた白木の籤箱に、晶は我知らず怯懦を覚えた。
6年前、何度も引き直した白い籤紙は、晶にとって忌まわしい記憶でしかない。
あの結果の後、雨月の家人たちは露骨に蔑みの目を向けてきたからだ。
その光景が、守備隊の仲間たちと重なって見えた。
――もう嫌だ。あんな、思いをするくらいなら、いっそのこと逃げた方がマシなのかもしれない。
――逃げる?
――そうだ。逃げて、逃げ続けて、何処かで果てるのだ。
――それが、精霊無しに相応しい惨めな最期……。
その破滅的な思考の甘美さに、籤箱に伸ばした指先が僅かに震えているのが見えた。
「――どうしたの? 顔色が悪いけど、大丈夫?」
女性の気遣わし気な声。
名前は何と言っただろうか。一気に重たくなった思考の片隅で、そんなどうでもいいような事を考える。
「……大丈夫です。不寝番明けにこちらに来たので、今頃になって眠気が襲ってきたみたいです」
「そう。
――後日に引く事もできるけど、どうする?」
「いえ、大丈夫です。
――今、引きます」
露骨な誤魔化しだったが、どうやら疑われずに済んだようだ。
白木造りの籤箱を手に取って、2、3回、軽く振る。
かさかさと紙がぶつかる乾いた音。その箱は、晶の記憶にあるそれよりもひどく軽く感じられた。
できる限り意識を向けずに、箱を逆さ向けにして大きく振る。
――一回、二回、三回。
そこまで振った時、軽い音と共に二つ折りの紙が受付台の上に落ちた。
その瞬間、突風が吹いた。
鳥居から、拝殿に向けて吹き込む夏の風。
―――しゃ、ら、ら、ら、らぁぁぁぁ………ん。
その突風に煽られて、風鈴が一斉に鈴鳴った。
涼やかな音の細波が、世界を塗り替えていく。
――とぷり。音に例えるならそんな感じの感触と共に、晶の身体は世界の深みに沈んだ。
「……え?」
風鈴の音が、味覚を刺激する。現実ではありえない刺激に、五感が完全に混乱した。
その強烈な違和感に、背後を振り向く。
晶の視線の先には、表面上は先ほどと何も変化のない神社の境内が広がっていた。
ただ、それだけであった。
――先刻までいた参拝客がいない?
そう、参拝客の立てる喧騒が無くなり、静寂に支配された境内が晶の視界に広がっていた。
いったい何が。そう考えようとするが、その瞬間、思考に靄が懸かったかのように結論が出なくなる。
「――どうされました?」
「……いえ、参拝客が…いなくなったなと」
結論に結びつかない思考をどうにか浮かび上がらせて、それだけを何とか口にした。
「此処は神域に御座います。この地に足を踏み入れるものはおりません」
「そう、ですか」
明らかにおかしい会話だが、疑問が形を結ぶ前に焦点が呆けて消えていく。
億劫になる身体と思考の重さに、何とか受付の方へ向き直る。
――…あれ、誰だっけ?
其処に居たのは、明らかに浦戸とは違う美しく年若い女性だった。
白衣に緋袴だけの浦戸と違い、常には着ないはずの千早まで纏っている。
感情の見えない美貌が、晶をひたと見据えていた。
「あの、先刻の女性は……?」
「此処には私め一人のみにて御座います」
「そ、そう、ですか」
どうにかその返しだけをひねり出す。
思考は重く空回りを続けているが、どうにも拭えない違和感が晶の焦燥感を煽り立てた。
――何かおかしい。妙なことが起きている。
それは間違いないのだが、具体的に何がと問われるとそれが思考の表層に浮かび上がらない。
無意識のうちに疑問が溶けて消えていく。
「託宣を検めて下さいませ」
微動だにしない晶に焦れたのか、受付台の上にある籤紙に手が差し伸べられた。
「え、あ、……はい」
女性の言葉には、抗いがたい遵守の響きが含まれていた。
その声に疑問が瞬時に消えていき、大人しく晶は籤紙を開いた。
――開かれた籤紙は、記憶に焼き付いた通りの真白い表面を晶に見せつけていた。
身体中から力が抜ける。
ここまで必死にやってきて、その結果が報われないこの様か。
情けないやら悔しいやらで、自然、自嘲の笑みが零れた。
6年前は真白い現実が受け入れ難く何度も何度も籤を引き直したが、ここまで来たら引き直す気力も最早ない。
「……あの、白紙です」
嘲笑されるのだろうか、侮蔑の目で見られるのだろうか。
あの思いは、雨月に居た頃で充分だ。
戦々恐々としながらも、短くそれだけを口にする。
「白紙?」
恐怖から縮こまって肩身狭く俯く晶の頭上から、不思議そうな女性の声がした。
「はい、判ってたことです。
……俺は、」「そんなはずはありません」
精霊無しですから。そう続けようとする晶を遮り、女性の声が告げる。
「託宣は降りています。
――内容の検めを」
「ですから、白紙、だ、と……」
繰り返される確認の促しに、苛立ちを隠せずにそれでも籤紙に目を落とす。
手に在る籤紙は小さく切られた長方形の紙だ。見落としたなど考え辛いし、先程は、確かに白紙であることは確認した。それでも、再度目を落とした先には……。
――短い一文が浮き出ていた。
「……え、あ? 文字?」
呆然と、信じられない光景に思考がぐらぐらと煮え立つ。
廿楽では、何度引いても白紙のみが応えとして返ってきた。
白色は、精霊無しと云う現実を嫌と云うほど見せつけた忌まわしい色だった。
心の中で吹き荒れる喜怒哀楽の嵐に、現実が滲む。
――なんで、今さら。
――なんで、あの時は。
――なんで、なんで、なん……。
「託宣の内容を」
抑揚のない女性の声が、晶を促した。
その言葉一つで、晶の思考から疑問と感情の嵐がさらりと流される。
「……はい」
奇妙なまでに凪いだ思考は、導かれるように籤紙へと視線を変えた。
『氏子籤祇』の結果は、先に述べた通り『氏子』を始めとした五つしか存在しない。
であるのに、晶の視線の先には文章が記されていた。
「――『鐘楼の地にて、奉じる由』…?」
「……鐘楼?」
どこか聴いた事のある名前に眉根を寄せるが、答えが降ってくるわけでもない。しかし、意外なところから答えが返ってきた。
「華蓮の裏鬼門を鎮護する杜に御座います」
裏鬼門とは、方角にすれば南西に当たる。
晶のいる茅之輪神社が北端にあるならば、殆ど反対側と云っていい位置に向かえと云っているのだ。
「……今から、ですか?」
「既に儀式は始まっておりますれば、■■様には選ぶ事は出来ませぬ」
「? ……・…………・・……はい」
また奇妙なことを云われた気がしたが、疑問として形を成す前にまた言葉が消えていく。
だが、消える事のない疑問もあるようで、こちらの方はすんなりと口を吐いて出た。
「あの、鐘楼の地って行ったことないんです」
「あちらを」
振り向くと、先刻に潜ったばかりの鳥居があるだけだった。
「?」
晶の疑問に、女性が抑揚のない口調で淡々と告げる。
「霊道は開かれております。
惑うことなく、ただ只管に歩まれますれば、必然必定、求めの地へと辿られるでしょう」
消えゆく疑問の代わりに、女性の声がするりと脳に染み渡っていく。
晶の思考が、漠然とそうなるように方向づけられていった。
「……判りました」
「忠告を」
鳥居の外へと踵を返した晶の背中に、女性が声を掛ける。
相も変わらず抑揚のない口調ではあったが、その中に確かに晶を案じる響きを感じて、歩みだそうとした足を止めた。
「神域の外は、現世とは異なる理で動いております。
地の遠近を決めるのは、人でなく神でなく、ただ己の心の澱であることを心得ますよう。
――真っ直ぐに足を進めなさい。
……止まるは良し。膝をつくも良し。
歩みを終えるは悪し。横を向くは悪し。後ろに足を向けるは悪し」
淡々と告げられる内容は、どうやら、真っ直ぐ進む以外の行為を禁じるものであるようだった。
「何があろうと、どうなろうと足を止めなければ、必ずや彼の地に辿りつけるでしょう」
云わんとすることの半分も理解はできなかったが、それでも尚、かけられた忠告は嬉しいものだった。
頭を下げて、忠言に対する謝意を示す。
あとは振り返ることなく鳥居に向かって足を踏み出した。
―――しゃ、ぁああ、ぁぁぁああん。
誰もいない静寂に支配された境内を抜けるとき、本殿から鳥居に向かって一陣の颶風が抜けていく。
一斉に鈴鳴る風鈴の音に背中を押されながら、晶は足を止めることなく鳥居の外へと抜けていった。
――後に一人残された女性が、瞳をそっと伏せて呟いた。
「――ご武運を。貴方が挑むは”禊ぎ祓いの儀”なれば、これから貴方は心の深さを測り、曝け出さねばなりません」
「貴方が挑むは試練でなく、貴方自身の過去への巡礼なれば」
――敵も味方も、きっと貴方自身でしかありえないでしょう…。
――――――――――――――――
鳥居を抜けた瞬間、空気が、否、世界そのものが粘質を帯びたように重くなった。
呼吸は出来るのに、肺が酸素を取り込めない異質な感触。
「……かっ、は・・…」
泥濘の重さの空気を吸い、必死になって吐き出す。
吐き出した呼気が、こぽんと拳大の泡沫になって浮かんでいった。
泡沫に視線を取られそうになるが、女性の忠告が脳裏に蘇り、慌てて前に視線を固定する。
視界に広がる世界は、鳥居を潜る直前とは様相をがらりと変えていた。
明らかに街並みが違う。先ほどまではそこかしこに見えていた小路への入り口が見当たらず、門前町の軒先を連ねる店が隙間なく立ち並んでいる。
参道から続く石畳の道は、本来は数間も行けば表通りに出るはずなのに、陽に照らされた石畳の果ては真っ直ぐ霞んで消えている。
周りの店は開いているように見えるのに、見える範囲に店番をする丁稚小僧の姿は無い。
――否。誰もいない。
色彩鮮やかな初夏の陽光に照らされたその世界は、うそ寒く感じられるほどに人の気配が無かった。
――真っ直ぐに足を進めなさい。
女性の言葉が耳の奥に蘇る。
もう疑問を持つ余裕もなかった。
徹夜の疲労もあってか、身体は重く意識は曖昧だ。
晶の精神は、白紙ではない籤紙と云う僥倖にのみ支えられて何とか保っている状態でしかない。
身体に纏わりつく粘ついた世界の重さを押し退けながら、一歩、足を踏み出した。
―――・・・!……・・ぁ……・・は‼
その時、嗤い声が聴こえた。
人間の声ではない。世界そのものを波打たせて渡る嗤い。
快活なものではない。晶の記憶によくある侮蔑や嘲りの濃く入り混じったそれ。
必死に虚勢で糊塗してきた精神の傷跡が、ぴきり、ぱきりと悲鳴を上げた。
「は、ぁ、ぐう、ぅ、う……」
我知らず、あの日流した涙が頬を伝う。
勝手、跪きそうになる脚を鼓舞して、涙を呑んで前を向く。
何処までも続く直線の石畳。その先に鐘楼の地とやらがあるのだと自身に言い聞かせながら、晶は二歩目を頼りなく踏み出した。
――――――――――――――――
何処までこの道は続くのだろう?
ぼんやりとどうにも動かない思考の片隅で考える。
重い体を引き摺りながら、一歩、また一歩と歩を重ねる。
道を歩き始めてどれだけ経ったのか、時間の感覚はとうに麻痺しきっていた。
相も変わらず道の途上には、人間の気配は一切存在していない。
夏の猛る暑気は晶を容赦なく灼いているのに、何処まで云っても無味乾燥な光景がうすら寒ささえ覚えさせる。
――そして、
――――は、ははっ‼ …は・は・は! ひぃ、ひぃ、くく、く……。
歩き出して以来、断続的に、絶え間なく、耳障りに浴びせかけられる嘲笑は、晶の心の傷を過去ごと掘り起こしてきた。
――穢レ擬き……。
――良くも恥ずかしげもなく生きていられるものだ……。
――御当主様の温情でようやっと生きていられるだけの屑が……。
それは、かつて晶が雨月の家臣たちから面と向かって云われた言葉の数々であった。
物心ついた時から、晶は多くの嘲笑に晒されて生きてきたのだ。
晶は、産まれた時から不要と断じられた子供であった。
公的には殆ど表に出ることはなく、雨月の屋敷の片隅で細々と勉学を学び、木刀を振るうことしか赦されていなかった。
偶に道場に呼び出されたと思えば、訓練と称した私刑紛いの乱取り稽古で明らかな憂さ晴らしに叩き伏せられる日々。
不破直利が晶の教導に手を挙げなかったら、それこそそのままどうにもならない人間の外面を被った獣の成り損ないしかそこにはいなかったであろう。
何時しか晶は、追放の憂き目を見た10歳の姿でとぼとぼと石畳を歩いていた。
何処にこれだけの水分があったのか不思議になる量の涙が、晶の頬を伝って濡らす。
その涙は、かつて己の心から流れ出した善いものに似ていたが、心が冷えていく感覚が無く、その質は非なるものであると判断が付いた。
―――ひ、ひ、ひぃ、くくっ、くくくく……。
……そう云えば、母親の顔はどんなだったろうか?
ふと、場違いなまでの呑気な疑問が脳裏を過ぎった。
雨月の記憶は忌まわしいものばかりであるため無意識に避けていたが、そもそも、晶と雨月の家族が接する事自体そこまで無かった。
雨月天山の正妻。つまり、晶の母親となる雨月早苗は、晶が精霊無しと判明した時点で育児を放棄した。
翌年に颯馬を出産すると、完全に颯馬を長男として扱い、晶を宛がわれた部屋から蹴りだして見向きすらしなかったほどだ。
幸運にも晶の発見が早かったのと、祖母の房江が隔離対応を取ったためそれ以上の被害は出ることがなかったが、この事件は表沙汰にならなくとも少なくない爪痕を雨月の屋敷に残した。
晶は、雨月の人間であると同時に、婚約関係にある義王院の子供という立場を与えられていた。
これはつまり、主家となる義王院から預けられた子供ということを意味している。
主家の、それも赤子に手を上げるのは、どう甘く見積もっても反逆行為と見做される。
八家第一位、義王院に侍る忠節の徒を自他共に認める雨月としては、気持ちは分かるものの難しい判断を迫られる羽目になった。
――結局は、産褥で気が立っていた処での事故。と云う、表沙汰にならなかった事を良いことに玉虫色の結論で強引に落ち着かせて終わったが、祖母の激怒は相当なものだったという。
雨月の屋敷は、広いがそれでも限りはある。しかし、晶の生活圏をぎりぎりまで削らせることで早苗と晶の間を徹底的に隔離した。
その甲斐もあってか、晶と早苗が顔を合わせるのは、年に一度あればいい方であった。
わずかな時に垣間見る早苗が自身の血縁上の母親だと知ったのは、祖母が死期を悟ったころである。
――故に、晶は早苗の顔すらあまり憶えていない。
それが、良いことか悪いことか、知ることすらできなかった晶は、おそらく幸運な方であったのだろう。
少しずつ母と云う存在が晶の記憶から消えていった。
――とぼとぼと、嘲笑に塗れながらも歩みを止めない。
麻痺しきった忌まわしい記憶が剥がれて、涙になって流れていく。
その度に、少しずつ晶の年齢が若返っていった。
記憶に蟠る澱みが僅かに尽きた時、晶の視界が不意に光で満たされた。
TIPS:神域について。
有り体に云うなら、神柱の座す領域。
神社とは、神柱と人間が意思を疎通するために建てられた、神域の最表層部、つまりは入り口にあたる。
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