閑話 思惑は何時か、擦れ違う
天領学院に在籍できた最大の収穫を訊かれたならば、晶は迷うことなく中央棟の奥に別棟として建てられた緑角館を選ぶだろう。
その名前の通り外壁を緑に塗られた、西巴大陸を意識した瀟洒な外観の建物。
夕刻と云うには未だ明るい時刻、その建物に晶の姿は在った。
晶と共に紛れ込んだ秋風に煽られたか、重い扉を開けた途端に窓枠が揺れる。
扉の軋みで余人の来訪に気付いたのか、ここ暫くで顔馴染みとなった受付の職員が視線を伏せて無言の挨拶に代えた。
晶の視界を迎えるのは、壁一面に収められた蔵書の数々。
嘗て陰陽省の所蔵でもあった希少なそれらには、平民は見る事も規制されている陰陽術の知識が記述されていた。
晶が欲していた撃符の知識が無造作に積まれている光景の衝撃は、晶にとって生涯忘れる事のないものだったろう。
それ以来、天領学院で空いた時間の全て、晶は呪符の知識を求めてこの書庫に入り浸っていた。
緑角館の中には、学生の姿が一人二人。
流石に無人という訳では無かったが、随分と人の気配が寂しい机の間を抜けて奥に向かう。
普段は足を止める撃符の棚に目も向けず、更に奥の棚へと足を向けた。
基本的に、この辺りの棚には誰も目を向けないのだろう。
僅かに埃の積もる古びた書物の縁を指でなぞるように、晶は自身の求める文字を追う。
「『真国神代系譜』、『仙境思想』。……この辺りか?」
神楽から告げられた情報を基に、真国の神柱に関する書物を抜き出した。
頼りなく揺れる光源を頼りに机へと戻り、手にしたそれを傍らに積み上げる。
神楽から伝えられた僅かな知識。滑瓢の真なる来歴を求めて、晶は積み上げた書物の一番上を取り上げた。
――真言とは、現世に干渉する音節を形状に押し込めたものである。
現世を文章として記述することにより、万世の破壊と再生を再現する輪廻の奇跡。
潘国を起源とするその知識は、究めれば偏在する概念ならば自在に出来るという。
名も伝わらぬ何処かの神柱が広めたとされるそれらは、一種の神器と謳う説すらある。
遠く、練武に励むその喧噪を耳にしながら、晶は何時しかその文字の連なりを只管に追っていた。
「――守備隊の防人が、緑角館に何か御用でしょうか?」
掛けられた声に視線を上げる。その先で少女が独り、怪訝な面持ちで座る晶を見下ろしていた。
少女の髪の先が、外風に煽られて肩の上を軽く踊る。
年上。水兵服の襟色から、高等部の女生徒と判断がついた。
その立ち居振る舞いを記憶に探るが、緑角館で彼女を目にした事は晶の記憶にも無い。
咎めるというよりも疑問の滲むその視線から逃げるように、所在なく晶は顔を伏せた。
「……自分は守備隊に所属していますが、短期で天領学院にも籍を置いています。
担任してくださった四倉教諭に問い合わせ頂ければ、許可の所在を明瞭にしていただけるかと」
「そうですか」淀みなく返る晶の返事に、少女の肩から力が抜ける。
「申し訳ありません。日常に緑角館を利用するものは、大体が顔馴染みだけでしたので。
――珍しくて声を掛けてしまいました」
「いいえ。部外者である事は理解しています。――お気になさらず」
声を潜めた謝罪の応酬。話題が途切れた事で、晶は再び書物の続きへと視線を落とした。
どこまで追ったか。視線が言葉の続きを探して彷徨いかける。
――晶の手元にある題名が目に入ったのか、少女が遠慮がちに再び声を掛けてきた。
「真国の資料をお探しですか?」
「……はい。龍穴を喪った神柱についての記述を探しています」
書物に書かれた知識は興味深いものだったが、求めている記述でもない。
半ば上の空で少女に応え、晶は書物を脇に積み上げた。
「龍穴を喪った? 荒神堕ちの事でしょうか」
神柱は龍穴と共に在る。それは変わることの無い事実であり、基本的に誰もが絶対と信じている真理の一種でもある。
絶対の範疇から逸脱したその出来事に対し、少女は自身の知りうる知識の中で最大の災いを口にした。
神柱の怒りを被った一帯が瘴気に沈む現象をして、荒神堕ちと呼ぶ。
歴史上に於いても記録が多く残っている訳ではない。だが、高天原では過去に三度、大神柱の激怒を受けて大地の形状を変えたという事実が記録として残っていた。
「……荒神は龍穴から去る訳ではありませんので、それとはまた別のものです。
信仰の喪失や他の神柱による侵略。理由は多くありますが、字義通り神柱が支配地を追われることで客人神と呼ばれるようになるのだとか」
はらり。一枚、頁を捲る指先と共に、少女の疑問へと応える。
「必要に駆られまして、真国の支配から放逐われた神柱の来歴を調べています」
「それは……、陰陽省が担うべき案件ではないでしょうか?」
「かもしれません。――ですが、知ってしまったので。
動けるのに、他人に委ねるだけっていうのは何か違うと思いますし」
はらり。更に頁が進み、晶は鉛筆を手に取った。
僅かに記述された神柱の名前を半紙に書きつけ、再び頁の踊る音が再開する。
その仕草に一つ頷き、少女はさらに声を潜めた。
「解決にご自身が黙っていられないのは理解できます。
……僭越ながら、助言を一つ」
「?」
改まった少女の声音に、晶は視線を再び浮かべる。
その先で少女は、真摯な視線を向けていた。
「龍穴を放逐された神柱とは俄かに信じられませんが、ただ人の歴史にはそれなりに理解がある心算です。
歴史が勝者の紡いできたもの。であるならば、敗者の歴史は隠すのが常道かと」
「辿れないと?」
「少なくとも真国のものであるならば、海を一つ越えた高天原での正確な情報は難しいです。
ですが、神柱の勲を知らしめるためにも、歴史を消す事はできません。
……ならば、都合のいい改変を入れて、正当な歴史を謳っていると考えるべきです」
神柱を神柱たらしめる偉業。――神話群には、常に強大な困難が語られる。
それは災禍であったり悪意であったりと種々様々ではあるが、共通する一点も存在する。
語られる困難には、常に敗北の運命を課せられているという一点だ。
――それが神柱の名を隠すために使われていたならば、探すものが違うのも判る。
少女からの助言に、晶も一つ頷く。
理路整然と告げられたその言葉に、反論を持てない説得力を覚えたからだ。
事実、現在読み進めている資料には、真国の神柱にとって都合のいい事実しか記載されていない。
手にした資料を捲るだけに進め、新たな一冊を取り上げた。
「ありがとうございます。
――探すものの目途が付きました」
「防人殿の一助と為れたなら、私も嬉しく思います」
晶が口にした感謝に、少女は嬉しそうに首肯を返す。
交わした言葉はそれだけの僅かなもの。
新たな資料に目を落とした晶の邪魔とならないよう気を遣ったか、少女は名乗ることも無く静かに席を外した。
上意たる少女よりも一足早く、少女が天領学院へと戻ったのは夕刻のことである。
盆地である央都の黄昏は、陽の落ちる時刻も随分と早い。差す茜に伸びる影が色味を増す中、少女が学院で一番に叩いたのは緑角館の門戸であった。
軋む音も僅かに、館内へと足を踏み入れて顔馴染みの司書へと会釈をする。
常日頃は仕事に厳格な彼女が、友誼を結んだ少女の帰還に微笑みを向けて歓迎を示した。
声を交わさず友情を確かめる儀式を過ぎて、少女は己の定位置である奥手前の長机へと向かう。
――己に宿る精霊が、僅かな囁きを返す。
滅多に感情を乗せる事のない精霊の珍しい注意。興味を惹かれた少女が視線を向けた先には、一人の防人が座っていた。
天領学院に集まる少年少女たちは、基本的に華族の中でも高位の出が集まる。
だが、基本的に所領持ちである高位の華族は、領地を守護するために武芸へ集中する傾向が高い。
その為、緑角館の設備は充実していたが、残念ながら学院生たちがこの書庫を利用するのは試験期を除けば稀であった。
それでも、陰陽省から下げられた資料まである緑角館の充実ぶりは、大学にも引けを取らない。
しかも緑角館に収められている知識には、希少な呪符の奥義書も含まれている。
如何に無防備と見えても、学院に籍を置かないものがこの建物に許可なく立ち入ることは出来ないようになっていることを彼女は知っていた。
紛れるように座る少年だが、その辺りを鑑みれば何らかの許可を得ている事は明瞭か。
気配を感じたか、少年が視線を上げる。
落ち着いた声に、明瞭な返事。疑念を下げた少女は、少年の手に持つ書物に興味を移した。
暫くの会話を交わした後、書物へと視線を戻した少年に背を向けて少女は自分の仕事に戻るべく席を立った。
暗がりを躊躇いなく進む。勝手知った棚の狭間を泳ぎ、隙間なく並べられた書物を一つ引き抜いた。
少年を真似するように、僅かな光源を頼って書物の頁を踊らせる。
巡りゆく文字の連なりを追うその記憶に過ぎるのは、少年の横顔であった。
凡庸な印象だけを残す少年。
鍛えられてはいるようだが、防人と云うには武張って見えない体躯。
――しかしその風貌に、何処かで見掛けた印象を受けるのは何故だろうか。
その疑問だけを心の底に飼ったまま、隣の書物に手を伸ばす。
陰陽術の奥義書、その一つを広げる。
道中に準備する呪符の種類を列挙しつつ、さらに隣の棚へと。
伸ばした指の向こうに、少年の背が垣間見えた。
それを視界に収めて、少女は口元を少しだけ綻ばせる。
巡る視線は、少し離れた棚の奥に移った。
資料関係だけと思われがちの緑角館だが、少ない冊数、娯楽の類も入っている。
文芸の目録で誤魔化し、輸入した原文詩集の幾つか。
少女もそうだが、自身の主はこれから始まる長い精進潔斎に備えなければならない。
気の抜けない日々。僅かにあるだろう休息の癒しに、それらを用意するのも一興。
少女はそう思いながら、目当ての棚へと踵を返し――。
「――晶くん」
その響きに、少女の爪先が床に触れる前に凍った。
聞き覚えのある声音。少年が座る机の方向へと戻る視界に、見覚えのある仔馬結びが踊って過ぎる。
――八家第五位、輪堂家の息女。咲。
「資料はあった?」
「残念ながら。ですが助言を頂いたので、それに沿って探してみようかと思っています」
気安く交わされるその口調に、近い関係である事は容易く伺えた。
晶が指差すその先へ、顔を近づけて和やかに声を潜める。
躊躇いが残りながらも寄り合う肩。二人、歩調を合わせて過ごしたのだと、想像に容易いその光景。
「此方の資料は俺の方で探しておきますが、――お嬢さまは?」
「陰陽省への渡りをつけたわ。八家の威光もこんな時は便利よね。
――向こうの書庫にはここにも無い知識が揃っているはずだし、陰陽師の知識に期待しましょ」
声量を潜めてはいるが、静寂が占めるだけの緑角館の中の事だ。声は良く通る。
届く内容を漏らさず心に留めながら、少女は連れ立って建物を後にする二人を見送った。
「どうしたの、そのみ?」
棚の影に背を預けて、幾らの時間が経ったのだろう。
呆然と過ぎるだけの思考を、司書である友人の声が引き戻した。
感情を抑えながら、友人の立つ方へと視線を向ける。
口にしたい疑問は幾つかある。だが何よりも、同行そのみは確信が欲しかった。
縋る思いを殺しながら、視線の先に立つ少女へと問いを投げる。
「先刻、私が話していた彼、いったい誰なの?」
「ああ。数日前から学院に短期で通っている、珠門洲の防人さんね。
凄いよ。奇鳳院の覚えも目出度くて、
――ここだけの話、数日前の実力試験で歴代上位の点数を取ったんだって」
あんな傑物、出る時には出るものなのね。感嘆の響きを余すことなく満たした口調で呟きながら、司書は修繕を終えた本を棚に戻していった。
「名前は?」
「夜劔、……確か、晶さん。
一ヶ月前に大功を立てて姓を賜ったって聴いたから、相当な出世頭よね」
「……………………」
それ以上は知らないのか、そのみがいない間の学院の様子を訥々と話していく。
事情を知らないためか、のんびりと呟く司書を脇にそのみは扉へと足を向けた。
「もう帰るの? 本を借りに来たんでしょ」
「準備しておいて。
ちょっと急用が出来ちゃった」
応える声は口早に。そのみは、慣れ親しんだ相手に本を押し付けた。
返し待ちで抱える本の上に、そのみの本が積み上がる。
鍛えていない女性の腕に、分厚い本が三冊、更に二冊。
流石に耐えられなくなったのか、振動一つで大きく揺れた。
「ちょ、一寸、そのみ!!」
「――ごめん。直ぐに戻る」
慌てる司書の引き留める声も空しく、そのみは扉の向こう側へと姿を消す。
この状態をどうしろと云うのか。呆然と見送った司書の腕から、一番上の本が崩れて床に落ちた。
♢
右府舎に用を残していた咲と別れて、晶は左府舎の廊下を急いでいた。
この後は、守備隊に移って夜番の予定だったのに、書物に集中し過ぎて気付けば夕刻も深まっている。
守備隊に遅れてしまえば、厳次の雷は想像に難くないからだ。
天領学院と晶の向かう守備隊の距離はそこまで開いていないとは云え、それでも走って10分は掛かる。
拳から逃げる為なら、現神降ろしだって強行してやる。内心でそう決意しながら、晶は棚から草履を手に取った。
その時、
「――失礼、夜劔くん。少々、待ってくれないか」
ぞくり。掛けられた声に、堪えきれない殺意が晶の背筋を舐める。
穏やかで理知的。しかし晶だけにとっては傲慢の象徴そのものの響きに、身動ぎすら忘れて歯を噛み締めた。
寂炎雅燿を以て辺り一帯ごと視界を灼き清めたい衝動を、それでも晶は噛み締める痛みに集中して無視をする。
「……何か、御用でしょうか。――雨月様」
振り返る表情は、不自然なまでに歓迎する笑顔そのもの。
引き攣れを起こしそうになる感情をどうにか無視して、晶は後背を追ってきた雨月颯馬を視界に収めた。
雨月陪臣の取り巻き数人を引き連れて微笑み立つ颯馬の姿に、晶は視線を逸らして隠形の強度を一段階引き上げた。
「朝の練武に参加できるよう計らって欲しいと、四倉教諭から、声掛けを頼まれたんだ。
夜劔くんが守備隊の練武に参加していると知ってはいるが、それでは単位にならないからね」
「このままで充分、自分は待遇に満足しています。
四倉教諭の御厚意は有り難く。――ですが、自分は阿僧祇師範に指南を頂いている身。船頭を増やして山を登っても、凄かろうが意味がありませんし」
「それは確かに。ただ四倉教諭は、真摯に夜劔くんを思っての事と理解してほしい。
学院の練武は――――」
晶の逃げ腰を塞ごうとしたか、颯馬の足が一歩を踏み出す。
無防備に踏み込もうとする爪先を、晶は視線を逸らすことなく睨みつけた。
――近づくなよ。その爪先が床に落ちた瞬間、一歩の代償を頸部で支払ってやる。
攻め足。相手の左半身に生まれた死角に捻じり込み、自分の身体で掌を隠しつつ抜刀。
逆袈裟から胴払い。返す刃で上腕ごと半身を断ちつつ、止めに頸を――!
「――済まねぇが、雨月」
猛る晶を抑えるように、馴れ馴れしい声と共に肩へ腕が回る。
絶妙に力が入らないよう、上から体勢が押さえつけられた格好。
初手ごと主導権を奪われた状況に、晶は肩の後ろへと視線を遣る。
その先で感情の読めない笑みを浮かべた久我諒太が、颯馬と不敵に視線を交わしていた。
「此奴は俺の組の所属なんだ。
級長の俺を差し置いて話を通そうとするなぁ、一寸とばかり筋が違うんじゃ無ぇか?」
「承知しているさ。――だが、久我くんも再三に渡る教諭の頼みを煙に巻いただろう。
君の協力が望めないなら、僕の方に話が流れるのは止む無しだと思うけど」
どうやら厄介の種になる前に、諒太の方で話を止めてくれていたようである。
ち。晶にだけ聴こえる舌打ちを返して、諒太は視線を強めた。
「此方が不要と判断したんだ。
四倉には後で釘を刺しておく、学年代表殿の手を煩わす事も無いさ。
――どうせ組が違うんだ。此奴程度、点数稼ぎも誤差以下だろ」
「別に気にはしていないよ。数点に目尻立てるほど汲々としてはいないしね。
――説得に協力した理由は、四倉教諭の御心痛を慮ったが故だ」
滔々と諒太に応えながら、颯馬は爪先の向きを後方へと向ける。
「説得は君に任せるさ、級長殿。
――頼まれてくれるよね?」
「確約はしないがな」
もう行け。掌をひらりと払う諒太に肩を竦めて返し、颯馬は心残りも覗かせずに歩き去った。
左府舎の廊下に人の気配が失せる。諒太と二人、颯馬の去った向こうを睨みつけた。
――やがて、
「朝の練武、見逃してくれていたんですね。
感謝いたします、久我殿」
「別に、手前ェの為じゃ無い。お前の評判は、咲の評価に繋がっているからだ。
あいつの夢を繋げるのも終わらせるのも、神無の御坐次第だから口を出した。
――こうなった以上、2、3回は練武に顔を出しておけ。四倉はそれで誤魔化してやる」
「……ありがとうございます」
終ぞ聞いた事の無い真摯な響きが、諒太の口を衝いて出る。
その事実に晶は逃げることを諦めて、承諾を返した。
既に10分を回りかけている。
遅刻は確定。肩を落としつつ、晶は草履へと履き替えた。
「待てよ」
その背中を、諒太の声が引き留める。
「丁度良い。もう少しだけ俺に付き合え」
何を意図するのか、諒太はそのまま校舎の裏へと歩き始めた。
借りを作った手前だ。断れないし、向こうも断らせるつもりもなさそうである。
――内容次第では、拳二つは確定か。
内心で慨嘆を漏らして、晶はその背に続いた。
――因みに、拳は四つ落とされた。
非常に痛かった事だけは、此処に記しておこう。
読んでいただきありがとうございます。
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