3話 禊ぎ給え我が過去を、祓い給え我が業を1
全ての報告を終えてくたくたになった咲が華蓮にある輪堂の別邸に帰参したのは、朝と云うにはやや遅い時分の頃であった。
穢獣が放つ瘴気と自身の精霊技に曝された咲の着物は、所々が焼け千切れたり、擦り切れたりしている。
男どもは井戸水で身体を拭けば済む話であろうが、淑女の咲はそう云うわけにもいかず、着替えることも出来ないままでの帰参と相成っていた。
この姿で正門から帰るのもなんだかはしたないと云うか気まずい思いが有ったので、裏の通用門からこそこそと屋敷に入る。
裏庭に植えられた金木犀の間を抜けて、勝手口から屋敷の中に静かに入った。
名瀬領ほどでは無いとはいえ、慣れた自邸に辿り着いたことで一気に緊張が緩む。
「あ~、ふわぁ~あ」
ぐっと伸びをすると、妙な充足感と睡魔が一気に咲を襲った。
「んまぁ、お嬢さま! はしたのうございますよっ!!」
「ふぐぅっ!?」
突然の横からの叱責に、欠伸が喉奥に引っ込んだ。
声の方を見ると、縁側続きの扉から中年の女性が仁王立ちで睨み付けていた。
屋敷の管理を任されているお手伝いの芝田セツ子だ。
「あ、あはは……セツ子さん、ただいま戻りました」
はしたなさは自覚していたため、気まずそうに居住まいを正す。
言い募るのもどうかと思ったのか、セツ子は呆れたように嘆息を1つ。それで気持ちを切り替えた。
「えぇ、お帰りなさいませ。食事は食べられますか?」
「うん。何かある?」
「朝餉の残りしかありませんが……」
「はい、戴きます」
不寝番の間は食べる暇が無かったため、食べられるものがあるだけありがたい。
今更ながらの空腹感を覚えて、セツ子に食事を無心した。
「判りました。準備をしておきます。
風呂場に水を用意しておきました。お嬢さまは身体をお拭きになってくださいな。
――それと、旦那様が昨夜から此方に来ておられます」
「お父様が?」
驚いた。輪堂家の当主である輪堂孝三郎は、やや出不精気味の性格で知られている。
現在、対外的な交渉事は長男の輪堂祐之介に任せきりで、領地から離れた華蓮に出張ってくるなど、咲から見たら余程の椿事と云えた。
「半年に一度の奇鳳院への参内です。
一週間はこちらに詰められると」
「……あぁ。もう、そんな時期かしら」
輪堂孝三郎は交渉事に関しては輪堂祐之介にほぼ全権を渡してはいたが、未だ、祐之介に当主の座を譲ってはいない。
奇鳳院への参内は当主自ら赴く必要があるため、祐之介に任せる訳にはいかなかったのだろう。
「身体を拭いたら、旦那様にご挨拶をして下さいな。
……その後で、食事にいたしましょう」
身体を清めたらそのまま寝てしまいそうな程の疲労感があったが、こんな埃っぽい見た目のままで会うのもなんだろう。
仕方がない、眠気は何とか我慢するか。
そう覚悟して、咲は自室に続く縁側沿いの廊下を歩いた。
「――咲」
「お父様!?」
中庭を横目に歩いていると、居間の方から咲を呼ぶ声がした。
居間には壮年の男性が一人、居間の高座に座っていた。
奥の書斎にいると思ってたから、完全に油断していた。慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません。
――奥の書斎に居られるとばかり。直ぐに着替えてきます、ご挨拶はその後に…」
「構わん。
不寝番の後だろう。着替えたりしたら、気が抜けて思考の精度が落ちる。
今のうちに報告を聞こう」
「……はい。
失礼します」
どうあれ、父親の提案はありがたい。
居間に膝行で進み、孝三郎の対面に正座で座る。
「大まかな報告は聞いている。山狩りを行ったそうだな」
「はい。
妙覚山での山狩りです」
「――主を仕留めたとか」
「阿僧祇の叔父様曰く、主の成りかけだとか。
直前まではただの穢獣にしか見えませんでしたが、『緋襲』に容易く耐えて、見るうちに強大に変異していきました」
「八家の放つ『緋襲』に耐えたという事は、主にまず相違あるまい。よくぞ武勲を挙げた。
――それに厳次の奴、この手への嗅覚は相変わらずと見える。
これは、厳次の具申に乗ってやるのも一つの手段かもしれんな」
「はい」
「詳しい経緯を聞きたい。最初から申せ」
首肯して、咲は妙覚山についてからの行動を細かく話し出した。
守備隊の立てた作戦、現状との擦り合わせ、
――、『緋襲』に耐えた主が咲に肉薄する速度を超えて、晶が咲を庇って主の体当たりを受けた事、自前の水界符を行使して主を一時的にとは云え、封じ込めた事。
説明が進むにつれて、孝三郎の表情が怪訝なものから猜疑の強いものへと変化していった。
「……待て。咲よ、少し話を盛っとらんか?」
「盛る? いえ、全て正直に話していますが」
「その割に理解できん内容だったが……。
まず、一練兵が主の脚力に勝ったのか?」
「……勝ったと云っても、主は『緋襲』に逆らって走っていましたし」
「百歩譲ってその点はいいとしよう。
しかし、その者は主の体当たりを真正面で受けて、耐えきったということになるが?」
「……耐えきってません。楯が一瞬で駄目になったし、その後は、瘴気に中てられて倒れましたから」
「咲よ、瘴気に中てられたら、それは当然の帰結だ。
だが、体当たりと云うのはぶつかった瞬間に最も威力を発揮するのだ。
そこを凌ぎきったという事は、体当たりを耐えきった事と同義に見ねばならん」
「あ……」
その後の非常識な光景に気を取られて、その他の地味な非常識さを見逃していた。
「その後は、水界符を使って主を氷に封じ込めたと」
「は、はい」
「それもおかしい。
そもそも、本来の界符の用途とは全く違う使い方をして、そこまでの効果が得られるとは思えん」
「で、ですが、実際に効果は出ていました。
――お父様、私は嘘偽りを述べている訳ではありません」
「其方が、こんな下らんことで偽りを述べているとは思っておらんよ。
しかし、界符の正式な使用目的は恒久結界の補助だ。穢獣を封じる防御結界を張るために使うなぞ、無駄も良いところだし贅沢過ぎる使い方だ」
「……彼は確かに、自腹で購入した水界符と云ってました。
偽りを述べていた様子はありませんでしたし、実際に呪符を投げて発動させていたのを見ています」
「まぁ、水界符については心当たりがある。
呪符は常に一定の効果が出るよう調整されているが、ごく稀に当たりと外れがあると耳にしたことがある。
――その者が手にしたのは、そんな当たりの呪符だったかもしれん」
「……そう、ですね」
首肯して孝三郎の言葉を受け入れて見せるが、咲の歯切れは悪いままだった。
あまり意識はしていなかったが、学院での憧れの存在と印象が重なったため、薄ぼんやりと晶の立ち居振る舞いが脳裏に蘇る。
今から思い返してみたら、何ともおかしい出来事しか起きていなかった。
主の脚力に打ち勝ち、明らかに体躯の違う存在を受け止めきる。
高価な呪符を贅沢に使い、瘴気を受け付けない体質を持っている。
――そうだ、瘴気を受け付けない体質、お父様に心当たりを聞こうかしら?
ふと、そんな考えが浮かぶ。しかし――
「どうした?」
「……いえ、何でもありません」
結局、そのことを孝三郎に告げることなく、咲は曖昧に言葉を濁すに留まった。
当人は何とも思っていなさそうであったが、どうにも晶の体質は公にすべきでないと第六感が囁いたのだ。
「まぁ、その練兵のことは後回しでもいいだろう。
――本題に入るとしようか。咲、久我のご子息の件だ」
やはり、それか。
孝三郎が聞きたかったことは、山狩りでの事では無く久我諒太の事であろうと予測はしていた。
久我と輪堂、その当主たちが抱える喫緊の課題が、厳次の想像通り、奇鳳院の次期当主である嗣穂の伴侶選考であった。
純粋に人間が至れる華族としてほぼ最高位に当たる八家だが、この八家の中にも厳然と序列と云うのは存在している。序列の判断基準は曖昧だが、最大の一つが歴史である。
華族、貴種としてモノを云う背景が、歴史が持つ重みだからだ。
故に、最も古い歴史を誇る雨月が、揺るがずに序列の一位を名乗っているのだ。
問題は珠門洲にあった。
珠門洲に属する八家は久我と輪堂の二家である。それぞれが序列の二位と五位を認められているが、この二家は他の八家と比べて比較的に歴史が浅かった。
歴史背景の浅さは、発言力の弱さに直結する。
久我の発言力を補強する手段の一つが、奇鳳院との縁故であった。
「やはり、久我のご子息の態度は改められんかったか」
咲の表情で大まかに悟り、孝三郎はそう零した。
伴侶選考に八家の政治状況は一切考慮されない。である以上、久我諒太の性格を矯正して伴侶選考の判断基準を満たすようにするしかない。
伴侶選考の判断基準は明らかにされていないが、諒太は性格以外は基準を満たしていると云われていた。
「叔父様は、実戦で手痛い失敗を味わせるのが手っ取り早いって云ってました」
「天領学院で失敗したんだろう?」
「実戦じゃなかったからかもって……」
流石に、説得力に欠けると感じたのか、尻すぼみに言葉が切れる。
「ふむ……。まぁ、仕込みも含めて明日までに何か考えるか」
孝三郎は腕を組んで思考に沈み始めた。
こうなったら、長い時間動くことは無くなる。
咲はそう判断して、短く辞去の礼をしてその場を去った。
咲が床に入ったのは、正午を過ぎた頃だった。
明り取りの窓から入る薄ぼんやりとした陽光が、中途半端に誘われた眠気には煩わしく感じられ、何度か瞼を瞬かせる。
――眠れない。
脳裏に去来するのは、晶が猪に立ち向かう後ろ姿であった。
孝三郎に指摘されるまで不思議にすら思わなかったが、確かに晶の行動は異常の一言に尽きる。
穢獣に脚力で勝り、強大な体躯の突進を受け止めきる。
――防人なら可能だろう。
『現神降ろし』による身体強化の恩恵があれば、久我諒太は勿論のこと、厳次や新倉でも難なく可能だ。
――どうして疑問にも思わなかったのだろう。
当然だ。咲は八家だからだ。
常に周りを固めていたのは防人であり、練兵と組んで戦闘をするのはこれが初めてである。
防人にとって『現神降ろし』は初歩の精霊技であり、これ無しの戦闘は咲たちにとって未知の体験とも云えた。
孝三郎も気付いていなかったが、『現神降ろし』を使えない筈の晶が主の持つ暴力を凌いだという異常は、どう考えてもおかしかった。
とろり。思考が睡魔に呑まれかける。
――嗚呼。おかしいと云えば、もう一つあった。
心地よい泥濘の底に沈む前に、記憶の欠片が表層に浮かび上がった。
猪に踏み潰されようとした晶が、水界符を行使した瞬間。
晶の身体から精霊光が放たれなかったか?
見間違いかもしれない。しかし、刹那の狭間に視界に捉えたあの輝き。
――漆黒の輝きを湛えた精霊光が、晶を守護するように彼の身体を舞っていたような……。
――あれは、あの輝きは……。
その思考を最後に、咲は漸くの眠りについた。
――――――――――――――――
奇鳳院が居城を構える鳳山のすそ野は、華族たちが居を構える城下町となっている。
その城下町の直中に、厳次が紹介した茅之輪神社はあった。
一見して華族と判る小洒落た服装の参拝者たちが行き交う茅之輪神社の門前町を、晶は目立たぬよう参道の道端を歩く。
庶民も多く行き交う華やかな中央の繁華街と違い雑多な雰囲気は無く、どこか空気さえも晶を拒絶するような圧迫感を有していた。
石畳の参道を抜け、注連縄のかけられた赤い鳥居をくぐる。
――その瞬間、世界が変わった。
具体的に何が変わったという訳ではない。視界に映る光景は直前までと同じ光景だし、行き交う参拝客に変化がある訳でもない。
ただ、空気、ともいうべきものが変わった。
清浄な空気が、より透徹に清冽に。
――神力ある神柱の座に相応しい場所であると示すように。
鳥居から本殿に続く参道を歩く。
―――ちりん。
涼やかな音色に誘われて視線を向けると、夏の風物詩の風鈴が屋台の桟に鈴生りに架けられていた。
―――ちりん。りん、り……。
誘うように、請うように。背中から吹く微風と風鈴の涼音に押されて、晶は本殿脇の社務所へと足を向けた。
「……失礼します」
社務所の受付奥で何か書きつけていた巫女衣装を着た中年の女性に、恐る恐る声を掛ける。
「……あぁ、ごめんなさい。少し待ってくださいね」
女性は視線だけをちらりと向けて、手早く筆を走らせた。
書付か何かに一文を加えただけで、受付窓口へと座る。
「お待たせしました。何か御用かしら?」
「……あの、俺、氏子になりに来たんです」
「氏子? あぁ。『氏子籤祇』を受けに来たのね?」
氏子という言葉にピンと来たのか、おおらかに頷きながら晶の手前に何も書かれていない木札を置いた。
「それに名前を書いてちょうだい。貴方がこの神社で氏子になった場合、その札を本堂に掛けて登録が完了することになるから」
「あの、その前にこれ、紹介状です」
厳次から渡された紹介状を懐から見えるように抓み出して手渡す。紹介の宛先は加納民夫とのみ記されていた。
女性は紹介状の宛先に目を走らせる。
厳次が宛てた相手に何か問題があるのか、眉間に皺を寄せた。
「加納様? 困ったわね」
「何か問題がありますか?」
「加納様は先代の権禰宜なの。ひと月前に引退されて奥次に移られたわ」
「それは……」
確かに困った。奥次とは奥津城、つまり、墓場の隠語だ。
口ぶりからまだ亡くなられてはいないようだが、満足に身体を動かせる状態でもなくなっているのだろう。
紹介状の宛先が当の先代のみに限定されていたら、紹介状の有効性が失われている事になる。
阿僧祇厳次と当人の関係を知っている者がこの場での後見に入ってくれるならば紹介状も有効になるのだが、見も知らない子供のために神職がそこまでしてくれるとも思えなかった。
「あぁ、紹介状を書いたのは阿僧祇様ね? だったら……
ちょっと待って頂戴な。宮司様に訊いてみるわ、もしかしたら保証してくれるかもしれない」
「あ、お、お願いします!」
バタバタと忙しなく社務所を出ていく女性に頭を下げる。
覚悟を決めてここまで来たのだ、こんな処でとんぼ返りは流石に御免だった。
本殿に小走りに去っていく女性を見送りながら、ぐるりと神社の周辺に視線を巡らせる。
神社の広さはそこまでも無い、だが、門前町の繁盛ぶりを見るに充分すぎるほどの恩恵はあるのだろう。
神社は本殿に拝殿、社務所に神楽殿と基本の建物しかない質素なものだ。
だがしかし、五都神社、そう呼ばれるに相応しく思える重厚な佇まいが単純でない歴史を感じさせた。
何よりも三々五々とは云えひっきりなしに訪れる参拝客が、この神社の霊験を保証してくれる気さえした。
――ちり…ん、りん、りん。
屋台売りの風鈴の音が、涼やかに耳朶を打つ。その度に、肌に感じる暑気が和らいだ。
明らかに、外界と暑さの法則が違う。
見ている風景はそのままなのに、世界が薄皮分沈み込んだように感じられた。
こんなところまで人を意識させずに連れてこれる。権能ある神社、聖域とは、此処まで違うものなのか。
感嘆と共に、そう認識を覚えた。
「――待たせたわね。宮司様を連れてきたわ」
ややあってその声に振り向くと、女性と初老の男性が立っていた。
男性は手にした紹介状を開いて内容を改めると、にこやかに頷いて見せた。
「阿僧祇殿の紹介だね。彼が後見についているとなると中々に優秀なのだろう。
前権禰宜の加納殿はいないが、宮司の合馬が名代として内容を改めさせて貰った。……たまには神社に顔を出せと、私が云っていたと伝えてくれ。
守備隊なら金子の持ち合わせは無いだろう? 本殿じゃなく社務所での略式になるが構わないかね?」
「問題ありません。お願いします」
と云うか、正式に行われるなら本殿でやるという事自体、初耳だった。
祖母に連れられて行った故郷の神社も、社務所の傍らの陰で引いたから知りもしなかった。
まぁ、大々的に執り行って、その後の恥を公に晒さずに済んだと安堵するしかない。
「判った。後の事はこの浦戸さんに訊いてくれ。
――では、浦戸さん。後はお願いします」
「承知しました」
そう言い残して合馬と名乗った宮司が去る。浦戸と呼ばれた中年女性が頭を下げてそれを見送ってから、晶に向き直った。
「じゃあ、『氏子籤祇』を執り行いましょうか」
「お願いします」
漸くここまで来た。知れず、ほっと安堵の息を漏らして、晶は浦戸に頭を下げた。
TIPS:茅之輪神社について。
華蓮五都社の一角。
華蓮五都社の中で最も格式がある神社。
ただ、氏子の受け入れには寛容で、氏子数も最も多いことでも有名。
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