02 開演
本番前のステージは、小さく落とされた照明で薄明るく照らし出されていた。
もちろん幕は閉められたままであるが、客席のざわめきは嫌というほど伝わってくる。そんな中、めぐるはスタンドに立てかけておいたベースを担ぎ、アンプの電源を入れ、ボリュームとゲインの調節をした。
トップバッターのバンドはなるべく音を鳴らさないようにと言い渡されていたため、左手でミュートしながら軽く弦を撫でさすり、出音に異常がないか確認する。しかるのちに、チューナーの機能で音を切り、紙袋の覆面を手に取った。
それをかぶる前にステージを見回すと、ちょうど和緒と町田アンナも紙袋を手に取ったところであった。電子ピアノの前にたたずむ栗原理乃だけが、やはり直立不動である。
町田アンナは笑顔でめぐるたちにピースサインを送ってから、紙袋の覆面をかぶった。
和緒はひとつ肩をすくめてから、それに続く。
二人のそんな姿を見届けてから、めぐるも左頬の文字をこすってしまわないように気をつけつつ紙袋の覆面をかぶった。
「準備はオッケーですか? 幕を開けるタイミングは、どうします?」
スタッフがそのように呼びかけてくると、当然のように町田アンナが答えた。
「SEが一分ぐらい流れたら、こっちの音を鳴らすんで! そしたら、幕を開けちゃってくださーい!」
「了解です」と、スタッフは幕の端を細く開いて客席に下りていく。
ギターを抱えた町田アンナは、跳ねるような足取りでステージの中央に寄ってきた。今回も口もとに半月形の穴が開けられているので、隠されているはずの笑顔が透けているかのようだ。
「じゃ、めいっぱいかっとばしていこーね! ミスとかそんなのはどーでもいいから、とにかく最後まで楽しもー!」
「は、はい。どうぞよろしくお願いします」
そのように答えるのはめぐるだけで、栗原理乃は無言でうなずき、和緒は肩をすくめるばかりである。町田アンナは大きくうなずいて、本来の立ち位置に戻っていった。
めぐるは痛いぐらいに心臓が跳ね回るのを感じながら、ただ開始の刻限を待つ。
通算してこれが五度目のステージであったが、やはりこの瞬間に平静な心地ではいられなかった。
そんな中、客席ホールに流されていたBGMがフェードアウトしていく。
こらえかねたように歓声があげられたのは、きっとあちらの照明が落とされたためだろう。町田家の妹たちのはしゃいだ姿を想像すると、めぐるはとても微笑ましい心地であった。
そこに、場違いなぐらい和やかなBGMが新たに鳴り響く。
それはこちらが自前で持ち込んだ、SEと呼ばれるオープニング曲であった。
普通であれば決してライブハウスで流されることはないような、能天気に聞こえるぐらい牧歌的な音楽――『サラスポンダ』というオランダ民謡である。
「ギャップを狙って、アホみたいにノーテンキな曲をSEにしてみよーよ!」
町田アンナのそんな発案で、この楽曲がSEに選ばれることになったのだ。
客席からは、笑い声まであげられている。異国の子供たちによる可愛らしい合唱が、そのような効果を生んでいるのだろう。望み通りの結果を得られて、町田アンナは楽しげに身を揺すっていた。
めぐるはAのパワーコードの形を作り、チューナーのペダルに足を掛けて、和緒の合図を待つ。
一分ほどの時間が過ぎたところで、和緒は合唱団の子供たちを薙ぎ倒すがごとくスネアを鳴らし、それを合図にしてめぐるたちもそれぞれの楽器を鳴らした。
薄明りに包まれていたステージにスポットの光が乱舞して、幕が左右に開かれていく。
歓声と拍手と人の熱気が、驚くほどの勢いでステージ上に届けられてきた。
めぐるは胸を高鳴らせながら、客席を見回していく。
文化祭や『パルヴァン』の野外フェスでは、これとも比較にならないぐらいたくさんのお客が存在したはずであるが――しかし本日は、ライブハウスだ。たとえ数十名の人数であろうとも、人口密度が違っていた。
それに、めぐるたちが客席を出た折よりも、ずいぶん人数が増えているようである。
それを数えるいとまはないが、きっと六、七十名は参じているのだろう。もしかしたら、一階の待機スペースでくつろいでいた人々も何割かはこちらに下りてきたのかもしれなかった。
最前列では、町田家の妹たちがぴょんぴょんと飛び跳ねている。
それに現在はステージ上にスポットの光があふれかえっているため、宮岡部長や寺林副部長や『ケモナーズ』の面々――それに、町田アンナの個人的な友人や、ハルの姿も見えた。
浅川亜季の赤い頭やフユのスパイラルヘアーは、最前列から少し下がったところに覗いている。
そして、めぐるの正面にあたる右手側の壁際の中列に、柴川蓮の金髪がちかりと輝いていた。
本日は二十枚ものチケットを売っており、その過半数が最前列に押し寄せているためか、これまでに感じたことのないほどの熱気である。文化祭の終盤ではこれぐらいの熱気がわきかえっていたのかもしれないが、やはり今回は狭くて密閉された空間であるためか、その熱気が楽器の演奏に負けない勢いで渦を巻いているように感じられてならなかった。
めぐるがそんな感慨にひたっている間に、ギターやシンバルの音色がフェードアウトしていく。
めぐるは慌てて脳内のメトロノームを鳴らし、『小さな窓』のイントロを開始した。
ビッグマフとソウルフードでブーストされたラットのブレンド音が、熱気を突き破って響きわたる。
その聴こえ具合が、リハーサルの際といくぶん違っていた。客席に人間が入ると、音を吸われて響きが違ってくるという話であったのだ。
しかし、めぐるの悦楽を阻害するほどの違いではない。
そこに他なる楽器の演奏も加えられると、めぐるの心はさらに昂った。
普段以上に呼吸が乱れているためか、いくぶん息苦しい。
きっと口もとをふさぐ紙袋の影響もあるのだろう。文化祭においても、最後の曲に差し掛かった頃にはこれぐらいの息苦しさであったのだ。
それに、指も少しだけ重かった。
自分はそこまで緊張しているのかと、めぐるはふっと我に返り――それから、本当の原因に思い至った。『小さな窓』が、普段よりも少しだけ速いテンポになってしまっていたのだ。
(かずちゃんがハシるなんて、ありえない。きっとわたしが、速いテンポで始めちゃったんだ)
めぐるは激しく狼狽しながら、指板から離した目をステージ上に巡らせる。
しかし、和緒は淡々と力強くリズムを刻んでおり、町田アンナは元気いっぱいにギターをかき鳴らしている。紙袋などをかぶっているために、その内心はまったくうかがい知れなかった。直立不動で鍵盤に指先を走らせている栗原理乃も、それは同様だ。
(みんな、ごめんなさい!)と、めぐるは心中で全力で詫びる。
そこに、栗原理乃の鮮烈な歌声が響きわたった。
普段通りの、機械人形めいた歌声である。
その鮮烈さが、惑乱していためぐるの心を叱咤した。わずかばかりにテンポが速まっても、栗原理乃の歌声はよどみなく舞い踊って世界を蹂躙した。
めぐるは歯を食いしばり、ルート進行に従ってスラップの演奏を披露する。
いったん速めに始めてしまったら、途中でテンポを落としても勢いを損なうばかりである。練習時にはギターで始める『転がる少女のように』でしょっちゅう起きていたことなので、それは周知の事実であった。
ならば最後まで、このテンポでやり通すしかない。
それでも最善の演奏を届けられるように、力を尽くすしかないのだ。
Bメロでは、ピアノの音も再び加えられる。
そちらも、普段通りの流麗さであった。
ゆったりとしたフレーズを紡ぎながら、めぐるはサビに備える。
このていどのテンポであれば、指が限界を迎えることはないはずだが――より重要なのは、他なる楽器との調和であった。ミスタッチの有無よりも、四人のリズムの合致こそが重要であるのだ。もっとも音数が詰め込まれるサビやギターソロのパートこそ、いっそうの集中力が必要になるはずであった。
そうして、サビに突入すると――四人の音が、うねりをあげて走り抜けていく。
和緒のドラムは普段以上に力強く、町田アンナのギターは普段以上に荒々しい。さらにピアノのバッキングとともに、栗原理乃の歌声もアイスプルーの稲妻さながらであった。
懸命にリフのスラップを弾きながら、めぐるはひそかに息をつく。
誰ひとり、調子を乱している人間はいなかった。それどころか、テンポが速まって演奏の難易度が上がったためか、普段以上の切迫した迫力であった。
(みんな、ありがとう。ライブが終わったら、きちんとお詫びします)
熱気が物凄いために、紙袋の下はもう汗だくである。
もしかしたら、そこには涙も含まれているかもしれない。しかしめぐるはかまうことなく、演奏に没頭した。他のメンバーたちの支えによって、めぐるもまた普段以上の昂揚と悦楽を授かることができていた。
そうして瞬く間に『小さな窓』が終了すると――また盛大な歓声と拍手が鳴り響いた。
めぐるは呼吸を整えながら、すぐさまチューニングに取りかかる。ここには短いMCをはさむだけで、すぐさま二曲目に移行するのだ。
『ありがとー! ウチらは、『KAMERIA』でーす!』
モニターから、町田アンナの声が聞こえてくる。
それでめぐるが慌てて顔を上げてみると、彼女はすでに紙袋の覆面を脱ぎ捨てていた。
めぐるはあたふたと紙袋をひっぺがし、それをベースアンプの上に置く。その際に、こちらをじっと見ている和緒の姿が視界に入った。
すでに素顔である和緒は、ハイハットのネジの調節をしながら、にやりと笑う。
めぐるの心情など、きっとお見通しなのだろう。めぐるは精一杯の思いを込めて、頭を下げるしかなかった。
『初めての人もそうでない人も、最後まで楽しんでいってねー! それじゃあ、次の曲! 「青い夜と月のしずく」!』
その言葉に従って、栗原理乃が鍵盤に指先を走らせた。
音量を抑えた、物悲しい音色である。和緒もまた、そのひそやかさを際立てるように微かなライドシンバルのリズムを重ねた。
煌々と照らされていたステージには、暗く青いスポットだけが灯される。
それからじわじわと切迫感が増していき、四人が同時に轟音を鳴らすと、そのタイミングで眩いばかりの輝きが爆発した。
客席には驚きの声があげられたようだが、それも演奏の轟音にかき消されている。
めぐるはB・アスマスターを使ったもっとも極悪な音色で、もっとも難解な六拍子のフレーズである。カバー曲である『線路の脇の小さな花』よりも派手な演奏を目指したこちらのイントロは、今日もめぐるの胸を激しく昂らせてくれた。
栗原理乃のピアノから始まる曲であったため、テンポも正確だ。
こちらの曲でテンポが速まっていたら、めぐるなどはミスタッチの連続であったことだろう。それぐらい、めぐるは現時点における限界ぎりぎりのテクニックをここに詰め込んでいたのだった。
ローからハイまで指先を走らせて、チョーキングやスライドで弦をうならせる。町田アンナの高音のカッティングも、和緒のスネアの乱打も、凄まじい迫力だ。さらに、栗原理乃は低音のバッキングと高音の速弾きにいそしみ――その低音はベースに絡みつき、高音はギターとともに空気を引き裂く。この曲のイントロだけは、栗原理乃のピアノがすべての音を繋いでいるような印象であった。
そうしてAメロに到達したならば、めぐると町田アンナはフェードアウトする。
かつてハルに「縦のライン」と称された、栗原理乃と和緒のみによる演奏だ。確かにこの箇所は、硬質でデジタルな印象が強かった。
しかし、栗原理乃の歌声には生々しさも存在するし、それは和緒のドラムも同様である。どれだけシャープで正確な演奏でも、和緒のプレイには人間らしい情感も備わっているはずであるのだ。それが、機械じみた硬質さと機械では成し得ない脈動を両立させているのだった。
やがてBメロに入ったならば、めぐると町田アンナもひっそりと参入する。めぐるはラットを切ったB・アスマスターの粘ついた音、町田アンナはボリュームを絞ってクリーントーンに近づけた音色だ。めぐるは頭のルート音を弾くのみで、町田アンナは軽やかなアルペジオの奏法であるため、栗原理乃と和緒の織り成す玲瓏な演奏にわずかな彩りを添える格好であった。
そんな中、ステージには白い煙霧のようなものがたちこめている。
こちらがセッティング表によって要請した、スモークの演出である。曲中のどこで使用するかはお任せしていたが、演出担当のスタッフはベストのタイミングを選んでくれたようであった。
青いスポットと白い煙霧の中にたたずむ栗原理乃は、月の精霊のごとき美しさである。そして何より彼女を美しく見せているのは、彼女自身の歌声と『KAMERIA』の奏でる演奏の音色であるはずであった。
そしてサビでは、めぐると町田アンナが同時にラットを踏む。
栗原理乃と和緒もそれまでの静けさをかなぐり捨てて、イントロにも負けないほどの音圧と迫力を生み出した。
世界が、揺れているような心地である。
その悦楽に身をゆだねながら、めぐるはふっと面を上げた。
客席の人々は、不動でステージを見守っている。
町田家の妹たちまでもが、この際には地蔵のように固まっていた。
ただその顔に浮かべられているのは、陶然とした表情だ。
この重々しくも激しい楽曲に、不満を抱いている様子はない。それで心を満たされためぐるは、指板に目を戻して難解なるフレーズの演奏に没頭した。
静から動へのダイナミズムをひときわ重視したこちらの楽曲では、めぐるの心臓も大きく揺さぶられる。
激しいサビが終わったならば妖しさを強調した二番のAメロに、ギターとピアノの掛け合いのソロプレイ、ピアノだけを伴奏にしたBメロに、もっとも力を込めるサビ――絶え間なく上下する音の奔流に、めぐるの心もそのまま引きずられてしまうのだった。
日常生活では決して味わえないような、昂揚と躍動である。
それとも――普通の人々は、日常生活でもこれほどの悦楽を味わっているのだろうか。
余人のことは、わからない。
ただ、めぐるがこのような感覚を抱けるのは、『KAMERIA』のメンバーとともに演奏している間だけであった。
(他のみんなは、どう思ってるんだろう。かずちゃんや町田さんや栗原さんや……それに、客席の人たちは……)
そんな思いがわずかに頭をよぎったが、やはりこの悦楽の前では些細な話である。
ただ――少なくとも、『KAMERIA』のメンバーだけはめぐると同じ思いでいてくれている。そんな話を言葉で確認したことはなかったが、この演奏の心地好さだけでめぐるはそれを信ずることがかなったのだった。




