05 セッティング
『さくら事変』なる名前を持つ先輩バンドが二曲目を終えたところで、めぐるたちは用具室に引き返すことにした。
そちらでは、轟木篤子がひとりでウォームアップに励んでいる。町田アンナが非友好的な視線を突きつけると、轟木篤子は指を止めないままベースのヘッドで用具室の奥側を指し示した。
「お仲間だったら、パーティションの裏だよ。あたしがにらみつけられる筋合いはないと思うけどね」
「別に、にらんでないし!」と怒った声で言いながら、町田アンナはずかずかとパーティションのほうに向かっていく。めぐるも心配であったので、それを追いかけることにした。
「リィ様、お待たせー! 何もおかしなことはなかった?」
栗原理乃はパーティションの裏側で、壁に向かって立っていた。町田アンナが呼びかけると、首だけをねじってこちらに向けてくる。
「はい。あちらの御方とはひと言たりとも口をきいていませんし、機材にも指一本触れさせていません。みなさんも、どうぞ準備をお進めください」
「うん、りょーかい! 今日もめいっぱい頑張ろうねー!」
町田アンナはようやく陽気な表情を取り戻し、ギグバッグからギターを取り出した。めぐるも安堵の息をつきながら、それにならう。当然のこと、二人の楽器に異常は見られなかった。
(もしかして……栗原さんは、轟木先輩が機材に悪さでもするんじゃないかって考えて、ここに居残ろうと考えたのかな)
もしもそうだとしたら、ずいぶんな警戒心である。自分の機材に深い執着を抱いているめぐるとて、そこまでのことは想像していなかった。
(確かに轟木先輩は、わたしたちのことをひっかき回してくれたけど……それはそれだけ栗原さんや町田さんに魅力を感じたってことなんだから……『KAMERIA』の演奏を邪魔しようなんて考えたりはしないんじゃないのかな)
そのように考えるめぐるは、呑気すぎるのだろうか。
しかし今は、そのような話に思い悩んでいる場合ではない。運指のウォームアップに取りかかると、『さくら事変』の演奏で和んでいためぐるの心も急速にライブ前の昂揚を取り戻していった。
ステージのほうからは、『さくら事変』の演奏がうっすらと聴こえてきている。最後の曲はなかなか勢いのある曲調であるようだが、やっぱりどこか軽妙な雰囲気だ。原曲もこういう雰囲気であるのか、それともアレンジの結果であるのかは、無知なるめぐるには知るすべもなかった。
そうして演奏が終了すると、町田アンナが「よーし!」と声を張り上げる。
「それじゃー、ウチらも変身の準備だね! ま、そんな大した話じゃないけどさ!」
町田アンナの号令で、めぐると和緒もジャージの上着を脱ぎ捨てた。『KAMERIA』のTシャツに制服のブリーツスカートという、至極シンプルなステージ衣装だ。
それから町田アンナがボストンバッグから引っ張り出したのは――何の変哲もない、茶色の紙袋であった。
「はい、めぐると和緒の分ね! こんなもんで、どこまで正体を隠せるかわかんないけどさ!」
「ふん。首から上を隠せれば、こっちは何でもかまわないさ」
そんな風に応じながら、和緒は頭から紙袋をかぶった。
目と耳の部分に二つずつの穴が開けられており、それ以外には何の細工もない。これが、めぐるたちの準備した変装の小道具である。発案者は、リィ様の扮装でもさまざまなアイディアを出したという、町田家の末っ子であった。
もちろん演奏に支障が出ないかどうか、部室の練習時に確認済みである。それで最初は目の部分にしか開けられていなかった穴が、耳の部分まで開けられることになったのだ。あとはよほど激しく暴れない限り、紙袋がずれたりすることもないはずであった。
「にっひっひ。なーんか顔を隠すと、イタズラしたいような気分になってくるよねー! そーいえば、そろそろハロウィンだしさ!」
同じく紙袋をかぶった町田アンナが、愉快げに笑う。そんな彼女の分だけ、口もとに半月形の穴が開けられていた。彼女は歌も担当しているため、そうしなければ声がくぐもってしまうのだ。それに、首の脇にはオレンジ色の髪がぼわぼわとはみだしていたため、彼女に限っては正体を隠す役には立ってなさそうであった。
そうしてめぐるも紙袋をかぶると、和緒がゆっくりと近づいてくる。顔が見えないためか、何やら普段にはない迫力であり――そしてその手がめぐるの首にのばされてきたので、思わず身をすくめてしまった。
しかし和緒のしなやかな指先は、めぐるの首ではなくその両脇にのばされる。そして、おさげに結っていたゴムバンドを取り外した。
「正体を隠したいなら、髪型ぐらい変えておけば? 演奏の邪魔になりそうだったら、後ろでひとつにまとめておこうか」
「う、うん。……それじゃあ、お願いするね」
和緒は「あいよ」と応じながら、めぐるの背後に回り込み、首の後ろで髪をくくってくれた。
「ゴムがひとつ余っちゃったね。お守り代わりに借りておくか」
と、和緒は余ったゴムバンドを自分の右手首にはめながら、紙袋ごしにめぐるを見下ろしてきた。
「なんだい、その顔は? これで勝ったと思うなよ?」
「か、顔は見えてないでしょ?」
「うん。当てずっぽうで、威圧しただけさ」
丸い穴の向こう側で切れ長の目を細めつつ、和緒は紙袋ごしにめぐるの頭を小突いてきた。
そこでようやく、『さくら事変』の面々が用具室に戻ってくる。その先頭に立っていた宮岡部長が、「うわ」と長身をのけぞらせた。
「これはこれは……何だかずいぶん、アングラな扮装だね。あなたたちは、そういう路線を目指してたのかな?」
「あはは! これは、ウチの妹のアイディアだよー! 一周回ってかっちょいいって主張だったんだけど、どうだろー?」
「ある意味、似合いすぎてて怖いぐらいだね。それであんな凶悪な演奏を披露したら、ちっちゃい子供が泣きだしそうだ」
宮岡部長が苦笑を浮かべると、続いてやってきた森藤と小伊田ははしゃいだ声をあげた。思いの外、このお手軽な扮装は好評なようである。
「さ、時間が押すと運営委員の人らがうるさいから、そっちも準備を始めちゃってね」
「はーい! それじゃあ今日も、かっとばしていこー!」
「……アンナさん。エフェクターボードをお忘れですよ」
「あー、そーだったそ-だった! ステージにボードを持ち込むのは初めてだったからさー!」
ギターを抱えた町田アンナは、オレンジ色のエフェクターボードを手にステージへと上がっていく。栗原理乃の巨大な電子ピアノは、親切な小伊田が搬入を手伝ってくれた。
この段に至っても、轟木篤子は我関せずでウォームアップに励んでいる。
そちらを横目で見やってから、めぐるもステージを目指すことにした。
体育館の客席には、小さからぬどよめきがあげられている。やはり紙袋の覆面というのは、見る人間に不安を与える要素もあるのだろう。そしてそれ以上に、生ける人形のごときリィ様の美しさが人々を驚嘆させているに違いなかった。
めぐるは紙袋がずれないように気をつけながらしゃがみこみ、エフェクターボードの蓋を外す。合計八台に増殖したエフェクターにも、異常は見られない。チューナーのTU-3、ラインセレクターのLS-2、ビッグマフ、ソウルフード、ラット、B・アスマスター、トーンハンマー、電源を供給するためのパワーサプライ――それらのツマミやパッチケーブルがずれていないことを確認してから、めぐるは二本のシールドを接続し、その片方をベースアンプのほうにのばした。
そちらで待ちかまえているのは、ハートキーというブランドのアンプである。
これまでライブやスタジオで使用していたアンペグのベースアンプよりも小ぶりであり、ツマミの内容も少なからず違っている。そちらでも音作りで困らないように、『KAMERIA』は同じ機種を置いている楽器店のスタジオで三回ほど練習に入っていた。
トーンコントロールは足もとのトーンハンマーで調整するため、基本的にはフラットだ。
コンプレッションというダイナミクスを調節するツマミも存在するが、そちらは手をつけない。他のベースアンプで応用のきかない機能に関しては、基本的にタッチしない方針であった。
もっともめぐるを悩ませたのは、「プリアンプ」という二種のツマミである。Aのツマミは真空管、Bのツマミはトランジスタという内容で、その調節の加減で基本の音色がずいぶん変化してしまうのだった。
「Aを上げると温かい音、Bを上げるとシャープな音っていう区分みたいだね。ちなみに、普段のアンペグは真空管のアンプらしいよ」
そんな情報をもたらしてくれたのは、いつでも助けとなってくれる和緒である。
ならばAのみを上げるべきかと考えたが、それでもアンペグと同じ音になるわけではない。試行錯誤の結果、Aはフラットの十二時で、Bはややカット気味に十時に設定することに相成った。
そうしてアンプの上にのせられたDⅠことダイレクト・ボックスにシールドを差したのち、右手で開放弦を弾きながらボリュームを上げていく。やはり会場が広いためか、スタジオ練習の際よりもボリュームを上げる必要があった。
自分で心地好いと思える音量に達したならば、アンプから離れてエフェクターをオンにする。まずビッグマフとソウルフードでブーストされたラットのブレンド音を鳴らすと、いくぶん低音が物足りなかった。
めぐるは再びしゃがみこみ、開放弦を鳴らしながらトーンハンマーで低域を上げていく。
すると重低音の圧力が過剰になっていくため、適当なところでベースアンプのもとに引き返し、ボリュームをわずかに下げた。それで何とか、バランスは取れたようである。
ならばお次は、新参のB・アスマスターだ。
とはいえ、こちらも購入してからひと月半以上は経過している。ビッグマフを除くエフェクターとの差は一週間ていどであるので、誤差の範囲内であった。
B・アスマスターは、ビッグマフと同じBラインに繋いでいる。スタジオや部室であれこれ試した末、めぐるはこちらのB・アスマスターもソウルフードおよびラットの音とブレンドすることに決めたのだ。
ビッグマフを切ってB・アスマスターをオンにすると、世にも凶悪な音色が響きわたる。こちらはビッグマフ以上に、ノイズじみた音が混じるのが常であった。
しかしその制御不能な部分も含めて、B・アスマスターの特性であるのだろう。
この破壊的なノイズじみた残響が、他のエフェクターにはない粘り気を生み出すようであるのだ。そこにラットの金属的な質感を混ぜるのが、めぐるにとっては心地好くてならなかった。
こちらは、微調整も不要なようである。
ただその代わりに、歪みのエフェクターを踏めば踏むほど、他の楽器の音がかすんでいった。これまでのステージでも毎回味わわされていた感覚である。
「あ、あの……ドラムとギターとピアノの音を、もう少しモニターで返していただけますか?」
機材と一緒にレンタルしたという音響スタッフに声をかけると、ぎょっとしたように身を引かれた。おそらくは、紙袋の覆面が生んだ効果であろう。
「は、はい。了解しました。……これで、如何です?」
スタッフがインカムで指示を送ると、わずかながらに他の楽器の音圧が増す。
しかし、B・アスマスターを使用する歪みの音が、まだ上回ってしまっていた。
「す、すみません。もう少しだけ……あ、ピアノはこれぐらいで大丈夫です」
「それじゃあ、ドラムとギターですね。……これでどうです?」
和緒の力強いドラムと町田アンナの荒々しいギターが、普段に近い感覚でめぐるの身にしみいってくる。
めぐるは「ありがとうございます」と一礼して、とりあえずの音作りを完了させた。
そうして客席のほうを見回してみると、また町田家の面々や軽音学部の先輩がたが壇のすぐ手前にまで詰めかけてくれている。寺林副部長は三歩ほど下がった場所で腕を組んでおり、『V8チェンソー』の面々は――浅川亜季が寺林副部長よりもやや後方のど真ん中、ハルは左寄りでさらに後方、フユに至っては右側の壁際に佇んだままあった。
おそらくは、三ヶ所の立ち位置で外音の具合を確認しようとしているのだろう。
めぐるとしては、身の引き締まる思いであった。
(でも……外音がどんな状態でも、今はこれがわたしの精一杯だ)
めぐるは八月初頭の野外フェスで、不本意な外音を鳴らすことになってしまった。それでフユたちに音作りの指南をされて、プリアンプのエフェクターを借り受けることになったのである。
めぐるは足もとで音を作り、ベースアンプのトーンコントロールはすべてフラットに設定している。PAに送られるラインの音と異なるのは、ベースアンプのもともとのキャラクターと、ABに分かれたプリアンプの調節の加減のみであるはずであった。
しかし、めぐるが足もとで作った音が大音量で流すのに不適当な設定であれば、PA卓で調整されてしまう。また、たとえ不備がなかろうとも、多少は調整されるのが常であるという話であった。
それがめぐるの理想と乖離していない調整であるかは、神のみぞ知る――いや、客席の人々のみぞ知ることであった。
めぐるは紙袋の下側をつまんで隙間を広げつつ、深呼吸する。
それからステージの中央を振り返ると、他のメンバーたちも試奏の手を止めてめぐるのほうを見やっていた。直立不動で客席のほうを見据えているのは、栗原理乃ただひとりだ。
町田アンナは遠い位置から、ガッツポーズを見せてくる。口もとに半月形の穴が開けられているため、普段通りに笑っているかのようであった。
和緒は身じろぎもしないまま、ただめぐるのことを黒い穴の目で見つめている。そちらもまあ、ある意味では普段通りのポーカーフェイスであった。
めぐるの姿は、どのように見えているのだろう。
そもそもめぐるは覆面などかぶっていなくても、普段の自分がステージでどのような顔をしているのか知らない。かつてジェイ店長がこっそり撮影させたライブ映像でも、そこまでは確認できなかったのだ。昂揚した面持ちであるのか、不安げな面持ちであるのか、緊張した面持ちであるのか――めぐる自身、自分の心境は把握しきれていなかった。
(でも、やっぱり……顔を隠すのは、文化祭だけにしておきたいかな)
そういえば、客席にはめぐるのクラスメートなども集まっているのだろうか。
しかしそちらは、見知らぬ家族連れなどと同列の存在に過ぎなかった。
ただもちろん、めぐるは決してそれらの人々を軽んじているわけではない。どのような相手であっても、『KAMERIA』の演奏を楽しんでもらえれば嬉しかった。三度のライブを重ねることで、めぐるはようやくそんな思いを抱くことがかなったのだった。
「それじゃあ、オッケーですね? そちらのタイミングで、演奏を始めてください」
スタッフが、階段で客席におりていく。
そうしてめぐるは和緒の合図で、凶悪に歪ませたベースの音色をおもいきり響かせてみせたのだった。




