-Track 2- 01 出発
波乱に満ちた始業式から四日後――九月の第一日曜日である。
その日の朝、めぐるは町田家で目覚めることになった。予定通り、本日のお茶の水遠征に備えて泊まり込むことになったのだ。
今日までの日々は、何事もなく過ぎ去っていた。始業式の帰りには町田家に立ち寄って、夕食のお世話になり――そして、その後に数時間ばかりも語り合うことになったのである。
「やっぱめぐるは、見当違いの不安を抱え込んでたのかー! なーんかいつもと様子が違うから、ずーっと気になってたんだよねー!」
その日、町田アンナはそのように言いたてていたものであった。
「でも、何がそんなに不安だったの? ウチらがあんなムカつくメガネ女に乗り換えるわけないじゃん! てゆーか、どんな相手でも乗り換えるわけないけどさ!」
「はい。あの傍若無人な態度には、私も心から怒りをかきたてられてしまいました。あんな言葉や態度で、私たちが少しでも心を動かすなんて思われていたのなら……余計に腹立たしく思ってしまいます」
「ど、どうもすみません……」
「え? え? あ、違います違います! 遠藤さんじゃなくて、あの先輩に腹を立てていたんです!」
「でも、めぐるに不安がられるのも、やっぱシンガイだよー! ちょっとはウチらのことを信用してよねー!」
そんな感じに、一同は思いのたけを語ることになり――そうしてめぐるは大量の涙をこぼすことで、ようやく不安の思いを消し去ることがかなったのだった。
「まあ、町田さんもたびたびロックスターを目指そうだの何だの発言してたからね。目先の快楽にしか興味のないプレーリードッグには、そのあたりも不安要素になったんじゃないのかな」
「そりゃーバンドをやるからには、めいっぱい上を目指したいじゃん! でも、楽しくやるのが大前提っしょ? ムカつく相手とバンドを組んだって、長続きするはずないからね!」
「はい。私たちは遠藤さんの演奏力だけではなく、その人柄まで含めてお慕いしているんです。どうかそのことだけは忘れないでください」
「いいぞいいぞ。自己評価の低いプレーリードッグに思い知らせてやってくださいな」
「あんたも茶化してばっかりいないで、少しはめぐるを元気づけなってば!」
「そんな大役は、あんたがたにおまかせするよ。いやぁ、苦労を分かち合えるバンドメンバーってのは、ありがたいもんだねぇ」
と、その日は本当に最初から最後まで、大変な騒ぎであった。
しかしめぐるには、その騒がしさこそが必要であったのだろう。和緒に指摘されていた通り、めぐるはどのような話でもひとりで抱え込むことが常態になっていたのだ。
それにそもそも、めぐるはこれまで深く思い悩む経験がなかった。家族との死別や起伏の消失した人生も、めぐるは重荷と考えておらず――すべてをぼんやりと受け流してしまっていたのである。
しかしこのたびの一件は、決して受け流すことのできない内容であった。それでもめぐるは不安の念を押し殺し、何事もなかったかのように振る舞おうとしていたのだが――そんなめぐるを、メンバーたちが現世に引き戻してくれたわけであった。
(わたしはなんて、不出来な人間なんだろう。普通の人にとっては当たり前のことが、ぜんぜん当たり前にできないんだ)
めぐるの自己評価は下がるいっぽうであったが、しかし不安は解消した。めぐるの心中に渦巻いていた不安の思いは外の世界に引きずりだされて、和緒や町田アンナや栗原理乃の優しさによって木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。
(けっきょくわたしは、みんなのことを信用してなかったんだ。みんなも自分と同じぐらい幸福な心地でいるってことを……そんな高望みをしちゃいけないって思い込んでたんだ)
やはりそれも、自己評価の低さというものが起因しているのだろう。
自分にとって『KAMERIA』のメンバーはかけがえのない存在であるが、他者にとっての自分にそれほどの価値があるわけがない――そんな思いが、どうしても払拭できないのである。
正直に言って、これだけ語り合った後でも、めぐるはまだまだ自分の価値というものを信じられずにいる。
しかし、それならば、それだけの価値を持つ人間を目指すしかなかった。大切な人たちに見捨てられないように、立派な人間を目指すしかないのだ。もとよりめぐるはそういった思いで『KAMERIA』の活動を続けていたつもりであったのだが、轟木篤子の登場で認識の甘さを思い知らされたということなのかもしれなかった。
そうして時間が流れすぎ――この日を迎えたわけである。
日曜日の朝、町田家の客間で目覚めためぐるは、寝ぼけまなこのメンバーたちに囲まれながら、ひとり静かに奮起していた。
「あんたは何を、朝から気合をみなぎらせてるのさ。頼むから、おかしな暴走をしないでよ?」
あくびを噛み殺しながら、和緒が頭を小突いてくる。その常とは異なる無防備な姿が、めぐるにはひどく愛おしかった。
「じゃ、ちゃっちゃと準備しちゃおっか! 夕方にはスタジオも予約しちゃったから、あんまりのんびりしてられないもんねー!」
町田アンナの号令で眠気覚ましのシャワーを浴び、朝食をいただく。町田家の面々は、今日も朝から元気いっぱいであった。
「今日は東京でショッピングなんでしょー? いいなー! エレンも行きたかったなー!」
「あはは! ショッピングって言っても、楽器屋巡りだよー! ついてきたっていいけど、それじゃあエレンも退屈っしょ?」
元気な末っ子が「ぶー」と頬をふくらませると、母親が優しくその頭を撫でた。
「わたしたちだってショッピングなんだから、文句言わないの。お昼も何か、美味しいものを食べましょうね」
「エレン、焼き肉がいいなー! さいきん食べてないし!」
「昼から焼き肉? 服ににおいがついちゃうよ?」
「じゃー、おすし! 回らないやつ!」
「だったらどこか、海辺にでも出向くか! 回らない寿司屋よりは格安の値段で、そこそこの海鮮をいただけるだろうしな!」
「パパ、けちくさーい! でも、それでガマンしてあげてもいーよ!」
そんな町田家の賑やかな食卓も、めぐるの胸をじんわりと温かいもので満たしてくれるようであった。
そうして朝食を終えたならば、いざ出発である。楽器はスタジオの最寄り駅のロッカーに預ける必要があったので、そこまではまた町田家の夫妻が送ってくれる手はずになっていた。そのためだけに二台の車を出してくれるのだから、ありがたい限りであった。
「それじゃあみんな、気をつけて。何かあったら、すぐに連絡をちょうだいね」
駅前のロータリーで降車して、町田家の面々に別れを告げる。そうして『KAMERIA』の四名は、人で賑わうJRの駅に足を踏み込むことになった。
電子ピアノはスタジオでレンタルする予定であったので、それ以外の機材をロッカーに保管する。それでようやく、人心地つくことができた。
「それじゃあ、いざしゅっぱーつ! お茶の水はギターを買って以来だから、めっちゃ楽しみだなー!」
「それはいいけど、人混みで大声は控えなさいっての」
和緒はそのように言っていたが、どのみち人目をひいてやまない面々である。すらりとしていて王子様のように格好いい和緒も、清楚で可憐なお姫様のごとき栗原理乃も、オレンジ色のたてがみめいた髪で異国的な顔立ちをした町田アンナも、行く先々で注目を集めてしまっていた。
まだまだ残暑も厳しいので、一同のファッションにも大きな変化はない。和緒は襟なしのシャツにチノパンツ、栗原理乃はアイボリーのワンピースに薄手のカーディガン、町田アンナはチェックのベストにTシャツとハーフパンツとオレンジ色のブーツ――平均以上に派手な身なりであるのは町田アンナのみであったが、着ているものなど関係なく、彼女たちはいずれも魅力的な容姿をしていたのだった。
(わたしは外見にコンプレックスを持ってないつもりだけど……それでもやっぱり、自分だけが平凡以下っていう気持ちは消えないもんな)
そんな思いにとらわれそうになっためぐるは、慌てて背筋をのばした。たとえ平凡以下の人間でも、バンドのメンバーとしては立派な人間を目指す。めぐるは、そのように決意したのだった。
「お茶の水までは、五十分弱か。やっぱりそれなりの長旅だねぇ。あたしなんかは市内の楽器店で、十分に事足りそうなのにさ」
「いやいや! ドラムのことはよくわかんないけど、やっぱお茶の水は品揃えが違うと思うよー? 何せ駅からの徒歩圏内で、三十軒以上も店舗があるってんだからさー!」
町田アンナのそんな言葉に、めぐるは思わず「えっ」と身をのけぞらせることになった。
「お、お茶の水だけで、そんなに楽器店があるんですか? ちょ、ちょっと想像がつかないのですけれど……」
「でしょー? ウチも目移りしてしかたなかったもん! めぐるも新たな出会いがあるといいねー!」
めぐると町田アンナの目的は、新たなエフェクターを物色することである。町田アンナはディストーション、めぐるは歪み以外のエフェクターだ。そしてバンド合宿でハルにレクチャーを受けた和緒は、ついにバスドラのペダルを購入しようという心づもりであり――栗原理乃だけが、確たる目的を持っていなかった。
(用事もないのにお茶の水まで出向くなんて、ちょっと大変そうだけど……まあわたしだって、ひとりだけ留守番なんて寂しくてたまらないもんね)
めぐるはさまざまな思いに胸を弾ませながら、電車に揺られることになった。
ともすれば、轟木篤子の仏頂面を思い出しそうになってしまうが――そんなときは、バンドメンバーたちの楽しげな姿で心を満たす。このかけがえのない空間を守るためであれば、めぐるもなけなしの力を振り絞れるはずであった。




