06 最終日
明けて翌日――八月の最終日曜日である。
二泊三日のバンド合宿も、ついに最終日であった。
昨晩の練習も深夜まで及び、めぐるたちが寝室に向かったのは午前二時を過ぎてからとなる。それでも普段の就寝時間よりは早いはずであったが、めぐるはまたもや和緒と言葉を交わしている内にすぐさま寝入ってしまった。
そうしてリビングにおりてみると、町田アンナとハルが朝食作りにいそしんでおり、浅川亜季は下着姿でソファにのびている。栗原理乃はベッドの中で、フユは眠気覚ましのシャワーをあびており――何もかもが、昨日の朝と同じ光景であった。
このような日々が永遠に続いたら、いったいどれだけ幸福なことだろう。
しかし合宿は本日で終了であるし、ついでに夏休みも明後日には終わってしまう。そうしたら、めぐるはまた自宅の離れから、バンドメンバーの他には友人もいない学校に通わなければならなかった。
だが、それでもめぐるが気落ちすることはなかった。
そんな不毛な想念よりも、今この瞬間に味わっている幸福感のほうがまさっていたのだ。
それにめぐるは明日も明後日もベースを弾き続けるし、学校が始まってもそれは同様だ。何よりめぐるのかたわらには大切なメンバーたちがそろっているのだから、これで不満を述べていたらバチが当たるはずであった。
「それじゃあ予定通り、正午きっかりに出発ねぇ。ランチはファミレスなんで、そのおつもりでぇ」
朝食のさなか、そのように言いたてたのは浅川亜季である。
まだいくぶん寝ぼけ気味であるその顔に、にんまりと笑みがたたえられた。
「ところで、帰りにちょろっと寄りたいところがあるんだけどさぁ。『KAMERIA』のみんなは、夕方ぐらいのお帰りで問題ないかなぁ?」
「うん! 全然オッケーだよー! ……でも、昼に出発して夕方までかかるなんて、ずいぶんな寄り道だねー!」
「実はみんなに、サプライズのプレゼントがあってさぁ。喜んでもらえたら幸いだねぇ」
浅川亜季の言葉に、ハルも「ふふふ」と含み笑いをこぼした。二日酔いのフユは仏頂面で無言であるが、おそらく『V8チェンソー』のメンバーには周知されているのだろう。昨日の朝も、めぐるたちはサプライズで自分たちのライブ映像を見せつけられたのだった。
「なになにー? いったいどんなプレゼントなのー?」
「それを言ったら、サプライズにならないでしょ? まあ悪いようにはしないから、おねえさんたちにおまかせしなさいなぁ」
「うーん! だけどウチらって、ずーっとお世話になりっぱなしだよねー! せっかくの合宿だったのに、ブイハチのみんなはこれでよかったの?」
町田アンナがそのように問いかけると、浅川亜季の笑顔がふにゃんとしたものに変じた。
「最初に伝えた通り、あたしらの今回の目的は刺激を頂戴することだったからねぇ。目的は、無事に達成できたと思うよぉ」
「うんうん! あっという間の二泊三日だったねー! 次は一週間ぐらい合宿したいなー!」
「ふん。こんな面子で一週間も顔を突き合わせてたら、最後には血を見るでしょうよ」
『V8チェンソー』のメンバーによるそんな掛け合いも、この二泊三日ですっかり見慣れた光景であった。
そうしてめぐるは満ち足りた気持ちで、朝食を終える。早くも指先はベースを求めて疼いていたが、この安らかな場を離れるのも惜しいところであった。
(プレゼントなんて、もう十分なのにな。昨日と一昨日の二日間だけで、一年分の練習を積んだ気分だよ)
しかしまた、今日までの練習やディスカッションが実を結ぶかどうかは、明日からの行いにかかっているのだろう。そのように考えると、めぐるはますます胸が弾んでしまった。
そうしてたっぷり食休みしたのちは、昼の出発まで最後の合同練習である。
内容は、お遊び感覚のセッションだ。その場において、ずっとケースで眠らされていた三本目のベースが取り出されることになった。
ぱっと見は、フユがメインで使っているのと同じようなデザインである。ただし、メインのベースはワーウィック、こちらはスペクターというブランドであるとのことであった。
「もともとは、スペクターのほうが本家なんだよ。でも、スペクターを参考にしてベースを作り始めたワーウィックも、独自の発展を遂げて定番ブランドに仲間入りした。私は、どっちのベースも気に入ってる」
「ふーん。でもなんか、そのベースってフレットが面白い感じだねー。なんか妙に平べったい感じがするし……いやいや! これって、フレットレスじゃん!」
「そうだよ。今さら気づいたの?」
フユは取りすました顔で、チューニングをしている。
めぐるが「ふれっとれす?」と小首を傾げると、和緒が説明してくれた。
「フレットレスのベースなら、初日にも何かで話題に出たでしょ。その名の通り、フレットがないベースのことだよ。目印のラインだけは描かれてるみたいだけどね」
確かに和緒の言う通り、そちらのベースにはフレットが存在しなかった。通常のベースは指板が金属のフレットで区切られているものであるが、そちらのベースは然るべき場所にラインが引かれているだけであったのだ。
「つ、つまり指板は平面で、なんの区切りもされていないんですね! それで、どんな音が出るんですか?」
めぐるが思わず身を乗り出すと、フユは溜息をつきながらチューニングを終えたベースを差し出してきた。
めぐるは恐縮しつつそちらのベースを受け取って、つるつるの指板に指を走らせる。ラインだけは引かれているので、弾く要領に変わりはないかと思われたが――そうは問屋が卸さなかった。
「こ、これ! 同じフレットの枠内でも、手前と奥側で音程が変わっちゃうんですね! それになんだか、音がうにょうにょしています!」
「……それが、フレットレスの醍醐味だからね」
フユは仏頂面のまま、口もとをぴくぴくと引きつらせている。きっとめぐるの昂揚っぷりに、苦笑でもしたい心持ちであるのだろう。そしてめぐるは、和緒に「よ、人たらし」と耳打ちされることになった。
「だから、フレットレスは正確な音程を出すのがシビアなんだよねぇ。フユもきちんと弾きこなせる自信がついたら、ブイハチで使うことを許してあげるよぉ」
「やかましいよ。だったら、フレットレスに合うような曲を作ってみせな」
フユと浅川亜季のそんなやりとりに、町田アンナは「むむ?」と首をひねった。
「そーいえば、五弦ベースもブイハチでは使ってないって話だったよねー。それじゃあ、どこで使ってるの? 例の、ラッパーのユニットとかいうやつ?」
「フユちゃんはそれ以外にも、ジャズやフュージョンのバンドなんかにゲスト参加してるんだよー! そもそもフユちゃんが大好きなジャコパスってのも、そっち系のプレイヤーだしねー!」
「へー! そんな三つも四つもバンドを掛け持ちしてるんだー? でも、マジバンドはブイハチなんでしょ?」
「あはは。あたしたちは、そう信じてるよ! まあ、あたしもしょっちゅう他のバンドのヘルプで叩いてるしねー」
「うんうん。ブイハチ一本なのは、ナマケモノのあたしだけってわけだねぇ」
「ナマケモノっていうか、アキちゃんは作詞作曲まで受け持ってくれてるからね! あたしらよりも、ブイハチに使うカロリーが高いってことだよー!」
そう言って、ハルはおひさまのように笑った。
「だけど今は、あたしもフユちゃんも燃えまくってるからね! この夏はライブを控えて、アレンジとか新曲とかにカロリーを割いたから! 九月からは、また飛ばしていくよー!」
「うんうん! ライブをやるときは、また声をかけてねー! 行けるライブは、ぜーんぶ行くから!」
そんな一幕を経て、最後の練習が開始された。
フレットレスのベースが持ち出されたため、またこれまでとは異なる音が追加される。それに、めぐる自身も数々のエフェクターを駆使して、さらなる悦楽にひたることができた。
コード進行だけを決めたセッションというのも、胸が躍るものである。それに、二台ずつの楽器から奏でられる音圧が、『KAMERIA』だけでは得られない迫力を生み出すのだ。それでもめぐるは『KAMERIA』による演奏をもっとも好ましく思っていたが、この七名にはこの七名にしか生み出せない独自の魅力というものが確かに存在したのだった。
そうして最後に、七名全員で『小さな窓』と『転がる少女のように』を演奏して――バンド合宿におけるすべての練習が、終了した。
「よし。それじゃあ、後片付けと搬出だ。忘れ物を取りに戻るのは死ぬほど面倒だから、絶対に見落とすんじゃないよ」
フユの号令のもと、搬出と簡単な清掃作業が開始される。
合計七台ものエフェクターが詰め込まれたエフェクターボードは、ずしりと重かったが――その重さが、まためぐるの心を熱い気持ちで満たしてくれた。この重さこそが、フユの優しさそのものであるのだ。
(なるべく早くエフェクターを買いそろえて、これはフユさんにお返ししないとな。あと、フユさんに何かお礼をしたいけど……自分じゃ何も思いつかないから、それはかずちゃんや浅川さんに相談させてもらおう)
そんな思いを胸に秘めながら、めぐるは搬出作業に勤しんだ。
機材と私物をすべて車に詰め込んだならば、リビングの電動シャッターが閉められる。めぐるはひどく厳粛な心持ちで、そのさまを見守ることになった。
そんなめぐるも他のメンバーたちも、一日ぶりに外出用の衣服に着替えている。まあ季節が季節なのでラフな格好であることに違いはなかったが、フユなどはスパイラルヘアーをきっちりと結いあげて、眼鏡を外した目もとにメイクまでしていたので、ステージ上のように凛々しく思えてならなかった。
「さてさて。それじゃあ帰り道は、顔ぶれを入れ替えようかぁ。今度はアンナっちと理乃っちがこっちの車ねぇ」
「あ、そーなの? でも、アキちゃんとめぐるたちがご近所だから、そっちのほうが都合がいいんじゃなかったっけ?」
「ファミレスの後に寄り道するから、その後でまた元の顔ぶれに戻せばいいさぁ。それとも、あたしやフユとご一緒するのは気が進まないかなぁ?」
「そんなわけないじゃーん! ブイハチのメンバーは、みーんな大好きだよー!」
そんな風に明け透けに語ることのできる町田アンナの性格が、めぐるにはひどく羨ましく思えてしまった。
そうして一同は、それぞれの車に乗車する。めぐると和緒は、ハルの車だ。フユの巨大なワゴン車とは比べるべくもなかったが、こちらも普通車としては十分にゆったりとしたスペースであった。
「いやー、ほんとに充実した三日間だったねー! 合宿はいつも楽しいけど、今回は格別だったよー!」
小さな体でハンドルを切りながら、ハルは浮き立った声をあげる。ハルの気づかいで、めぐると和緒は後部座席に並んで収まっていた。
「あれこれおせっかいを焼いちゃったけど、みんなはとにかくバンド活動を楽しんでね! バンドって、とにかく楽しくやらないと長続きしないからさ!」
「はい。このプレーリードッグはひたすら快楽を追い求めているだけなので、そこは心配いらないかと思います」
「そ、それはその通りなんだけど、もうちょっと言い方を考えてくれない?」
めぐるが和緒の腕を引っ張ると、ハルは楽しげに笑い声をあげた。
「毎日十時間以上の練習を楽しめるなんて、すごいよね! めぐるちゃんのそういう部分がバンドを引っ張ってくれてるんだって、アンナちゃんが行き道で自慢してたよー!」
「い、いえ、そんなことは……一番バンドを引っ張ってくれているのは、やっぱり町田さんだと思いますし……」
「アンナちゃんも、元気いっぱいだもんねー! 理乃ちゃんも引っ込み思案かと思いきや、意外と我が強いみたいだし! それをまとめる和緒ちゃんは大変だね!」
「ああ、やっと理解者が現れましたね。後頭部にキスしてもいいですか?」
「あはは! 運転中はご勘弁ねー!」
ハルが朗らかな気性であるため、行き道以上の賑やかさである。
しかし、そんな賑わいも十分ていどでいったん終了する。有料道路の手前に存在するファミレスに到着したのだ。
世間も夏休みである上に、本日は日曜日であるため、駐車場はそれなりに混み合っている。なんとか空車のスペースを見つけて降車すると、フユたちはすでに店の前に立ち並んでいた。
「ああ、来た来たぁ。ハルたちも、ちょっとこいつを見てごらぁん」
浅川亜季がにんまりと笑いながら、そのように呼びかけてくる。
そうして町田アンナたちの視線を追っためぐるは、心から驚かされることになった。店頭には、巨大な広告用のポスターが張られており――そこに、見慣れた娘さんたちの画像がプリントされていたのだ。
「これはこれは。『オーバードライバーズ』のみなさんですか」
和緒の言う通り、それは去りし日のライブイベントで司会進行を務めていたアイドルバンドの面々であった。
金髪のショートヘアーをした、小柄で可愛らしい娘さん――『V8チェンソー』の元メンバーである土田奈津実もピンク色のギターをぶら下げつつ、その手にハンバーグの皿を掲げている。
「指定のメニューを注文したら、クリアファイルをプレゼントだってよぉ。これはフユも見逃せないねぇ」
「……ああ。おかげで、注文できるメニューが減っちまったよ」
フユが苦々しげに言い捨てると、ハルはそれをなだめるように笑いかけた。
「まあ、ナッちゃんのことはもういいじゃん。あたしらも、三人でやっていく目処が立ったんだからさ。今ならもう、ナッちゃんがいた頃のブイハチにも負けてないはずだよ」
「ふん。私は最初から、負けてるつもりなんてなかったよ」
それだけ言って、フユはさっさと入り口に向かい始めた。
他のメンバーもそれを追いかけたが、めぐるはしばしそのポスターに目を奪われてしまう。めぐるの頭には、あの夜のスペシャルライブのさまが蘇っていた。
『オーバードライバーズ』の演奏は、めぐるの心にまったく響かなかったのだ。
ただ、土田奈津実のギターソロだけは、めぐるの心を弾ませてくれた。
ならば――土田奈津実本人も、そのように感じていたのではないだろうか?
実際のところは、もちろん本人にしかわからない。
ただ、土田奈津実もかつては『V8チェンソー』のメンバーとしてバンド合宿に参加していたのだ。あんなに楽しい空間を捨ててまで、彼女はいったい何を欲し、何を手に入れたのか――めぐるには、それが想像もつかなかったのだった。
「……そんな部分まで、フユさんに共感しなくていいんじゃない?」
と、和緒が横からめぐるの頭を小突いてくる。
気づくと、その場にはめぐると和緒の姿しかなかった。
「まあ、年単位でバンドをやってると、いろいろ溜まっていくものもあるんだろうさ。今のあたしらがそれを想像するのは難しいんだろうと思うよ」
「うん……『KAMERIA』を何年も続けたら、それを理解できるようになるのかなぁ?」
「さてね。そんな話は、あんたがアイドルに転身してから考えることにするよ」
和緒は普段通りのふざけた物言いであったが、その眼差しだけは優しかった。
そうしてめぐるが言葉を詰まらせていると、入り口のドアから町田アンナが顔を覗かせた。
「ねー、ナニやってんのー? ウチ、おなかぺこぺこなんだけど!」
「あれだけたらふく食べておいて、もうそのざまかい。ずいぶん立派な胃腸をお持ちだね」
そんな風に応じながら、和緒はそっとめぐるの背中を押してくる。
その優しい力加減に思わず涙ぐみそうになりながら、めぐるは足を踏み出すことにした。




