05 個別指導(下)
「エフェクターの役割は、二種類。基本の音作りと、曲ごとに使い分ける音の装飾だね。ここまでの説明で、基本の音作りは完了ってことさ」
あくまで仏頂面を保ちながら、フユはそのように説明してくれた。
「私が装飾で使ってるエフェクターは……今は、六種類か。そっちに関しては、ちょくちょく入れ替えてる。エフェクターってのは新商品が次から次へと開発されるし、思わぬビンテージ品が中古屋やオークションに流れてきたりもするからね」
「フユちゃんも、ネットオークションの巡回が日課だもんねー! あたしなんかは、古いCDをあさるばっかりだけどさ!」
ハルはにこにこと笑いながら、相槌を打つ。ドラムの話題はすっかり置き去りにされてしまったのに、至極満足げな笑顔だ。それも彼女の親切で面倒見のいい人柄の表れなのだろうと思われた。
「それでそれで? ブイハチで使わないエフェクターは、ここでしか耳にする機会がないもんねー! あのふよんふよんした不思議な音とか、どのエフェクターで作ってるんだろー?」
「順番に説明するから、せかすんじゃないよ。……私がスイッチャーに組み込んでるのは、オクターバー、オートワウ、プリアンプ、ディストーション、リバーブ、コーラスの六種類だ。最後に組み込んでるこのコーラスってやつは、モジュレーション系に区分される」
フユがスイッチャーのスイッチのひとつをオンにすると、ベースの音色が美しい響きを帯びた。ふわふわと、幻想的に音が揺らいでいるような質感だ。
「コーラスは、モジュレーション系ってもんに区分されるんですか。ド素人のあたしは、空間系の筆頭なんだと思い込んでました」
「そういう区分もあるみたいだけど、厳密には違う。モジュレーション系は音の揺らしで、空間系は残響なんだよ。私が使ってる空間系は、ディレイだ。こいつはコーラスと一緒に使うことが多いんで、同じループの中に組み込んでる」
フユはコーラスのエフェクターをオフにして、ディレイのエフェクターをオンにした。それでめぐるが5弦のEを鳴らしてみると、やまびこのように音が反復する。
「残響のピッチを変えると、まるで違う効果が得られる。これひとつでも、十分遊べるだろうね」
フユがディレイのエフェクターを操作すると、残響が細かく反復されたり、ゆったり反復されたりという変化が見られた。その美しい音色に、めぐるはいっそう昂揚してしまう。
「あ、あの、『SanZenon』でもこういう音が使われてましたよね。あれは、ディレイの効果だったんですね」
「……あれはきっと、コーラスも重ね掛けしてるだろうね」
フユがコーラスのエフェクターをオンにすると、原音にも残響にも美しい揺らぎが追加される。それでいっそう、めぐるの知る『SanZenon』の音色に近づいた。めぐるたちが練習している『線路の脇の小さな花』では極悪な歪みのエフェクターしか使われていなかったが、ミニアルバムの他の楽曲では実にさまざまなエフェクターが駆使されているのだ。
「それに他の曲では、オートワウも使われてたね。そいつは、フィルター系に区分される」
フユの手がスイッチャーを操作すると、美しい音色が奇怪な音色に変じた。ポコポコと弾むような、ベースらしからぬ愉快な音色である。和緒は「へえ」と小首を傾げた。
「ギターのワウペダルとは、ずいぶん趣が違ってるみたいですね。これは、オートと手動の差なんですか? それとも、ギターとベースの差なんですか?」
「おそらく、どっちもだろうね。ただし、アキのやつなんかは歪みと併用してるから、これとは比べられないでしょ。クリーンでワウを使ったら、それほど掛け離れた感じにはならないはずだよ」
「ああ、ファンク系のバンドだったりすると、ギターもチャカポコしてますもんね。確かにそっち系統のほうが、この音に近いみたいです」
「でも、『SanZenon』の音源でこんな音が使われてたっけ?」
ハルがそのような疑念を呈すると、またフユの指先がボードにのばされた。
「『SanZenon』のベースも、歪みとオートワウを同時に使ってるんだよ。私はファズを使ってないけど……こいつなら、まあイケるかな?」
フユが黒いエフェクターとスイッチャーの両方を操作すると、愉快な音色が極悪な響きを帯びた。めぐるのビッグマフに負けない凶悪さで歪んだ音色が、バウバウと獣の吠えるような響きを帯びたのだ。
これは確かに、『SanZenon』の音源で耳にしたのと同系統の音色である。
めぐるの昂揚はいや増すばかりであった。
「す、すごいですね。これは、ファズじゃないんですか?」
「こいつはいちおう、ディストーションに区分されてるよ。でも、歪み系の区分なんて適当だからね。このブードゥーは強烈に歪むから、ローをブーストさせればファズに近い質感になるだろうさ」
「ブードゥーなんて、名前からして迫力満点ですね。真っ黒な見た目も、あたしの好みです」
そのように語ったのは和緒であったが、めぐるの心情も似たり寄ったりであった。どのエフェクターも魅力的であるが、やはり歪み系というのは音色を暴力的に仕上げる武器のように感じられて、めぐるの胸を躍らせるのだ。
「ただ、私は普段、ここまで歪ませない。アキの出す音とぶつからないように考えないといけないからね」
またフユの指先があちこちを操作して、オートワウの効果を消し、歪みの加減を調節した。太くて重い歪みの音色だが、ビッグマフのように総身を震わせるような感覚ではなく、どっしりとした芯のある音色であった。
「ドンシャリのディストーションサウンドはこっちのプリアンプでまかなってるから、ブードゥーのほうはこういう調節にしてる。どちらかというと、オーバードライブに近い音作りだろうね」
「さ、『SanZenon』でもこういう音は使われてましたよね。あれは、オーバードライブなんでしょうか? それとも、ファズを調節してるんでしょうか?」
めぐるの発言に、フユはきゅっと眉をひそめた。
「……あんたはさっきから、『SanZenon』の話ばっかりだね。そういえば、わざわざ元メンバーに話を聞きほじってまで、同じエフェクターを買ったっていう話だし……あんたは、『SanZenon』の音を丸パクリするつもりなの?」
「え? いえ、決してそういうわけでは……でも、わたしが理想的だと感じるのは、『SanZenon』のベースの音なので……」
「だからって、機材までそっくり真似るってのはどうなんだろうね。私が一番好きなベーシストはジャコパスだけど、フレットレスでもジャズベを使ったりしちゃいないよ」
めぐるは、言葉を失ってしまった。
すると、ハルが朗らかに笑い声をあげる。
「でもフユちゃんも、理想のジャズベと巡りあったら貯金をはたくつもりなんでしょ? 色んなベースを買いあさってるのは、本命と出会う前に自分を磨くためだって言い張ってたじゃん」
「それは、話が違うでしょ。私はたとえジャズベを買っても、ブイハチで使うことはないだろうからね」
「それは、ブイハチとジャコパスの方向性が違ってるからでしょ? 『SanZenon』と『KAMERIA』の方向性が似てたら、機材がかぶってもしかたないんじゃない?」
「そもそもこいつは『SanZenon』にハマってバンドを始めたっていう話なんだから、方向性が似るのは当たり前でしょ。その上で、機材を丸パクリするのはどうなんだって話だよ」
「あたしはドラムだからよくわかんないけど、ギターやベースはアーティストのシグネイチャーモデルってのがバンバン出てるじゃん。好きなアーティストと同じ機材を使うのって、そんなにおかしな話なのかなぁ?」
ハルはあくまで朗らかな面持ちであるが、フユのほうは明らかにヒートアップしている。
それでもめぐるが言葉を出せずにいると、和緒が軽妙に声をあげた。
「『SanZenon』と『KAMERIA』の方向性が似てるだなんて、恐れ多いばかりですね。似てる点があるとしたら、ベースの音作りと歌詞の雰囲気ぐらいじゃないですか?」
「……それでも、そいつが『SanZenon』を丸パクリしてるって事実に変わりはないでしょ?」
「だったらそれは、方向性の違う『KAMERIA』ってバンドに『SanZenon』の要素が何割かだけブレンドされるって結果に落ち着くんじゃないですかね」
フユの剣幕に物怖じする様子もなく、和緒は「よっこらしょ」と腰を上げた。
「論より証拠で、実践してみましょうか。町田さん、栗原さん、ご指名ですよ」
「んー、なになに? なんか面白い話?」
抑えめのボリュームで浅川亜季のギターを弾いていた町田アンナが、笑顔で振り返ってくる。和緒はそちらにポーカーフェイスを届けつつ、肩をすくめた。
「ブイハチのみなさんに、この二週間ばかりの成果をお聴かせしようかと思ってね。悪いけど、四分だけ時間をもらえる?」
「おー、いいねいいね! アレはまだまだ未完成だけど、どーゆー感想になるのか気になるもんねー!」
町田アンナは浅川亜季のほうに向きなおり、パチンッと勢いよく手を合わせた。
「アキちゃん、お願いがあるんだけど! ラットのエフェクター、貸してくれない? これ、ウチらのやってる曲にハマると思うんだよねー!」
「いいよいいよぉ。なんか、面白いものを聴かせてもらえそうだねぇ」
そうしてめぐるが言葉を失っている間に、段取りが整えられてしまった。
町田アンナが使いなれないエフェクターの調整に四苦八苦している間に、めぐるはドラムセットの和緒に囁きかける。
「あ、あの、かずちゃん……わたし……練習通りに弾いていいのかなぁ……?」
「それ以外に、やりようはないっしょ。いいからあんたは思う存分、憧れの君を追いかけなさいな」
本当にそれでフユの不興を緩和させることができるのか、めぐるにはさっぱり見当もつかなかった。
しかし、フユに対してどのように弁明すればいいのか、めぐるにはまったく言葉が見つからない。それならば――和緒の言う通り、実際に演奏を聴かせるしかないのかもしれなかった。
(わたしは別に、フユさんのためにベースを弾いてるわけじゃないけど……でも、できればフユさんには嫌われたくないな……)
すると、町田アンナが「よーし!」と元気な声をあげた。
「とりあえず、こっちはオッケーだよー! めぐるの音とちょっとばっかりぶつかっちゃうかもしれないけど、今回だけはカンベンねー!」
めぐるは惑乱する心をなだめながら、ただうなずいてみせた。
町田アンナもまたひとつうなずき、ギターアンプの前で待機する。マイクをつかんだ栗原理乃も、ドラムセットに陣取った和緒も、無言でめぐるを見守っていた。
めぐるはひとつ大きく息をつき――そして、エフェクターを踏むと同時に、指板に指を走らせた。
激しく歪んだ音色で、疾走感と躍動感に満ちあふれた『線路の脇の小さな花』のイントロのフレーズを奏でる。これは指弾きの奏法であるが、ビブラートとスライドとチョーキングの技法を駆使して極限まで音色をうねらせるのが肝要であった。
めぐるの技量ではスピードが追いつかず、多くの音符を簡略化するしかなかったが、それでもフレーズのうねりだけは減じないようにと考え抜いている。それを支えてくれるのが、ビッグマフの強烈なサウンドであった。
そこに、スネアの乱打とギターのバッキングがかぶさってくる。
ドラムはタムやシンバルの音数を抑える代わりに、スネアの数を増やしていた。和緒はあちこちに手を動かすよりも同じ場所でスティックを振るうことを得意にしていたので、自然にそういうアレンジになったのだ。
いっぽう町田アンナのギターは、完全に本家と別物である。『SanZenon』のギターは空間系やモジュレーション系のエフェクターを駆使して浮遊感を担うのが本領であったが、町田アンナは歪んだ音色でせわしなくフレーズを動かすことを好んでいるのだ。しかも今回は浅川亜季のエフェクターを使用しているため、普段以上に攻撃的な音色であった。
そうしてイントロが終了すると、栗原理乃が歌い始める。
彼女こそ、『SanZenon』とは対極的である。『SanZenon』のヴォーカルは痩せた獣の咆哮めいた切迫感と噛みつくような歌唱が醍醐味であり、むしろ浅川亜季に近いタイプであろう。機械のようななめらかさと耳に突き刺さる鋭利さを兼ね備えた栗原理乃の機械人形めいた歌声とは、まったく似たところもなかった。
しかし、栗原理乃の魅力はこちらの楽曲でもまったく損なわれていない。和緒と町田アンナも、それは同様だ。彼女たちは彼女たちらしい歌声と演奏で、この楽曲に新たな魅力をもたらしていた。
そんな中――めぐるだけが、『SanZenon』のベースを追いかけている。
ただし、めぐるの紡ぐ音も、この二週間ばかりで変化を見せていた。フレーズそのものにはさして手を加えていないのに、『SanZenon』の音源とともに演奏するときとは、自ずと心持ちが異なっているのだ。
たとえフレーズに変化はなくとも、歌やギターやドラムが変われば、めぐるの側も変化を余儀なくされる。もっとも顕著であるのは、リズムのアクセントであろう。ギターやドラムが『SanZenon』とは異なるアクセントを生んでいるために、めぐるもそちらに合わせなければ調和が得られないのだ。
めぐるは『SanZenon』に果てなき憧憬を抱いているが、それよりも大切であるのは『KAMERIA』で楽しく演奏をすることである。
その欲求を一番に据えるならば、めぐるは目の前のメンバーたちとの調和を求めるしかなかった。そして、そうすることによって、めぐるはまたとない悦楽を手中にできるのだった。
町田アンナのギターサウンドが大きく変化しているために、また普段とは異なるうねりや迫力やアクセントが生じている。
それもまた、めぐるに新たな悦楽をもたらした。そうしてめぐるは心地好い音の奔流に心をゆだねることで、演奏前の苦悩や煩悶を忘れることができた。
そうして、あっという間に四分ていどの時間が過ぎ去って――めぐるたちは、浅川亜季とハルから笑顔と拍手を贈られることになったのだった。
「すごいすごーい! 『SanZenon』のカバーにチャレンジしたんだねー! 原曲とは全然雰囲気が違ったけど、すごくかっこよかったよー!」
「うんうん。アンナっちも和緒っちも、自分の持ち味を活かしてるねぇ。めぐるっちのベースも冴えわたってるし、理乃っちの歌もハマりまくってるなぁ」
二人がそのように評する中、フユは無言で腕を組んでいる。
和緒は額の汗をぬぐってから、「どうでしょう?」とそちらに呼びかけた。
「どんなに強く憧れたって、同じ人間にはなれないんです。同じ機材を使って、同じようなフレーズを弾いたって、そんなのは些末な話じゃないですかね」
「んー? なんの話? これってただのお披露目じゃなかったの?」
町田アンナが不思議そうに声をあげたが、和緒はフユを見つめ続けた。
フユはしばらく黙りこくってから、「ふん」とそっぽを向く。
「もういっぺん聞いておくけど、あんたはそいつの保護者か何かなの?」
「いえいえ。あたしはしがないマイフレンドにすぎませんよ」
「……マイフレンドの使い方を間違ってるんじゃないの?」
「マイを外すと本来の意味が強調されるから、小っ恥ずかしいんですよ」
すると、町田アンナが「もー!」と声を張り上げた。
「こっちはさっぱりわけがわかんないよー! ウチらはアキちゃんとのおしゃべりに戻らせてもらうからねー!」
「はいはい、どうぞ存分に。あたしもそろそろ、ペダルの検分ってやつに取りかからせてもらいましょうかね」
「そうだねー! じゃ、フユちゃんとめぐるちゃんもごゆっくりー!」
ぽつんと取り残されためぐるは、勇気を振り絞ってフユのほうに近づいていく。
フユはエフェクターボードの前であぐらをかき、めぐるの顔をじろりとにらみあげてきた。
「それじゃあ、さっきの続きだよ。エフェクターの調節や組み合わせなんて、無限にパターンが存在するんだからね。何か新しいエフェクターを狙ってるなら、最低限の知識を頭に叩き込んでおきな」
「は、はい……どうぞよろしくお願いします」
けっきょくめぐるは、今回も和緒に助けられてしまったようである。
あとでどれだけ和緒にお礼を言って、どれだけ頭を小突かれることになるか――めぐるはそんな思いを胸に、フユからエフェクターの知識を叩き込まれることに相成ったのだった。




