04 いざ出陣
「めぐるー! 起きる時間だよー!」
そんなけたたましいモーニングコールによって、めぐるは飛び起きることになった。
「あ、あれ? 町田さん? どうして町田さんが、わたしの家に……?」
「あはは! ここはウチの家だよー! めぐるもぐっすり眠れたみたいだねー!」
めぐるが寝ぼけた頭で周囲を見回すと、そこに広がっていたのは広大なる和室の様相だ。隣の布団では和緒があぐらをかきながらあくびを噛み殺しており、その向こうでは栗原理乃がこちらに背中を向けて横たわっている。そして、町田アンナはめぐるの枕もとで傲然と立ちはだかっていた。
「ウチもけっきょく、朝までぐっすりだったよー! 前回のライブでは、和緒しか眠れなかったはずなのにねー! めぐるたちは、何時頃に寝たの?」
「あ、いえ……どうでしょう……午前0時ぐらいまでは、かずちゃんと話していたはずなんですけど……」
昨晩は午後の十一時ぐらいで練習を取りやめて、そののちはしばし歓談することになった。しかしそれからいくらも経たない内に、まず栗原理乃が眠気を訴えてきたのだった。
「すみません。なんだか、まぶたが重たくて……ちょっと横にならせてもらってもいいですか?」
「いいも悪いもないっしょー! 眠くなったんなら、ラッキーじゃん! 明日は八時起きなんだから、眠たいうちに眠っちゃいなー!」
そんな町田アンナの大声に眠気を阻害されることなく、栗原理乃はあっさり寝入ることになった。そして、その安らかな寝息を聞きながら、町田アンナもあくびをこぼすことになったのだ。
「ウチも寝ちゃおーっと! めぐるもなるべく眠れるように頑張りなよねー! 野外だと、体力のショーモーもハゲしいだろうからさ!」
最後の最後まで大きな声をあげながら、町田アンナも寝入ってしまう。それでめぐると和緒は照明を小さく落としつつ、部屋の片隅でひっそりと語らうことになったのだ。
「かずちゃんも、眠くなったら遠慮なく寝ちゃってね。わたしも今日は、アルバイトで体力を使ってるから……たぶん、いつもの時間には眠れると思うよ」
「ふーん。ま、あんたはひとりで取り残されても、かわいいかわいいベースくんが待っててくれるもんね」
そんな調子で、めぐると和緒は小一時間ほど語らうことになった。そのような夜ふけに和緒と語り合うというのも、めぐるにとっては初めての経験であったため、ひどく満ち足りた心地であったのだ。
「中学時代の修学旅行は、わたしが病欠しちゃったもんね。せっかくかずちゃんと同じ班になれたのに、すごく残念だったよ」
「ふーん。アレはずる休みじゃなかったんだ? あんたは班行動を死ぬほど嫌がってたじゃん」
「それはまあ、かずちゃんとは二人きりで話すのが普通だったから、班行動っていうのは気が重かったけど……でも、仮病を使うんだったら、かずちゃんにはこっそり打ち明けてたよ」
「ふふん。あたしは班行動なんておかまいなしで、ひとり楽しく長崎観光を満喫させてもらったけどね。ずる休みだったんなら、ご愁傷様」
「だから、ずる休みじゃないってば。たぶん、期待と不安で熱を出しちゃったんだよ。かずちゃんとの旅行は楽しみで、班行動は気が重かったからさ」
そんな風に語りながら、めぐるは暗がりの中で和緒に笑いかけてみせた。
「でも、今月はこの後にバンド合宿もあるし……今日だって、初めてのお泊まり会だもんね。実はわたし、昨日も楽しみであんまり眠れなかったんだ」
「へーえ。それなのに、あっちのお二人はさっさと寝ちゃって、残念なことだったね」
「ううん。かずちゃんさえいてくれたら、なんにも残念なことはないよ。……あ、でも、眠くなったら遠慮なく眠ってね?」
「ほうほう。さっさと自由の身になって、ベースの練習に没頭したい、と」
「だから、そうじゃないってば」
そうして取りとめもなく言葉を交わしている間に、壁の時計は午前の0時を過ぎ――最初のあくびをこぼしたところで、めぐるの記憶は曖昧になっていた。
「なんだか、眠そうじゃん。昨日の寝不足とやらが効いてきたのかね」
「うん、そうかも。でも、もっとかずちゃんとおしゃべりしていたいな……」
それがめぐるの覚えている、最後の言葉であった。
布団の上に身を起こしためぐるは、あらためて和緒のほうに向きなおる。
「あの……もしかしたら、かずちゃんが布団まで運んでくれたの?」
「さて、どうだったかね。ま、どこで寝落ちしようと、夏の盛りに風邪をひくことはないだろうさ」
あくびまじりに答えながら、和緒は寝ぐせのついたショートヘアーをかき回した。和緒のこんな無防備な姿というのはなかなか目にする機会もないため、めぐるはひとりでどぎまぎしてしまう。そんな中、町田アンナはいまだ横たわっている幼馴染のもとに駆けつけた。
「オージョーギワが悪いなー! 理乃もいいかげんに起きなってばー!」
「ううん……あと五分だけ……」
「ダメダメー! 遅くても、九時には出発するんだからねー! 理乃はただでさえ低血圧なんだから、本番に備えてウォームアップしておかないと! 眠気覚ましに、シャワーでも浴びよーよ!」
ほとんど町田アンナに持ち上げられるようにして、栗原理乃は身を起こす。その目はほとんど閉ざされたままであり、白く端麗な面は赤ん坊のように茫洋としていた。
そうして一行はそれぞれ着替えを携えて、シャワールームを目指す。いったん母屋を出て、道場に設置されたシャワールームをお借りするのだ。そちらには複数のシャワーユニットが完備されていたため、メンバー全員がいっぺんに身を清めることがかなったのだった。
ぬるめのお湯でシャワーを浴びると、めぐるの寝ぼけた頭も冴えわたっていく。めぐるがこれほどの睡眠を取ったのは、ゴールデンウィークに倒れて以来であったのだ。そうして頭がはっきりすると、今度は指先がベースを求めて疼いてきてしまった。
「じゃ、お次は朝食ねー! 向こうに着いたらすぐに出番なんだから、がっちりカロリーを補給しておかないと!」
そんな町田アンナの宣言で、昨晩もお邪魔した和室の食事場に進軍する。そちらでは、すでに立派な朝食が準備されていた。
「朝はいつも日本食なの。ライブに備えて、たくさん食べてね」
町田家のご家族も、勢ぞろいしている。その活力のほどは、昨晩から変わるところはなかった。
朝食のメニューは、焼き鮭に白米に納豆に生卵、わかめと豆腐の味噌汁に大豆とひじきの和え物という、絵に描いたような和食のラインナップだ。いつも玄米フレークで済ませているめぐるには、とうてい食べきれないように思えたが――ごくありふれた和風の食事が思いのほか美味しくて、綺麗にたいらげることになってしまった。
「それじゃーお次は、リィ様の準備だね! エレン、よろしくー!」
客間に引き返したのちは、下の妹たる町田エレンの手によって、栗原理乃のロングヘアーが三つ編みにまとめられていく。ここぞとばかりにベースを爪弾きながら、めぐるはそのさまを見守らせていただくことにした。めぐるの目下の課題である、指板を見ないで弾く練習である。
「三つ編み、お上手ですね。この前のライブでも、エレンさんが準備してくれたんですか?」
「うん! おねーちゃんは、ぶきっちょだからねー!」
「うっさいなー! ぶきっちょだったら、ギターなんて弾けないよ!」
そんな風に応じながら、町田アンナは「そーだ!」と立ち上がった。
「今日も会場がどんな感じかわかんないから、あらかじめステージ衣装を着込んでいったほうがいいんじゃない? 出順が二番目なら、なおさら時間はないだろうしねー!」
「ステージ衣装って、例のTシャツのことかい。まあ確かに、見知らぬ人間の前で着替える気にはなれないね」
言いざまに、和緒は自前のTシャツを脱ぎ捨ててしまう。いきなり友人の下着姿を見せつけられためぐるは、またどぎまぎすることになってしまった。
「あんたは何を恥じらってるのさ? 中学時代は、同じ更衣室で着替えてたでしょうよ」
「う、うん。だけど、それから何ヶ月も経ってるから……」
その数ヶ月で、和緒はいっそう女性らしい肢体に成長していた。和緒はただでさえ着痩せするタイプで、十五歳とは思えないプロポーションをしているのだ。
「あはは! あんたもさー、下着姿でふんぞり返ってるんじゃないよ! うちの親父がひょっこり出てきたら、どーするのさ!」
町田アンナは愉快げに笑いながら、丸めたTシャツを和緒に投げつける。それを片手でキャッチした和緒は、すみやかにバンド名とツバキの花一輪がプリントされたTシャツを着込んだ。
同じものを受け取っためぐるも、壁のほうを向きながらこそこそと着替えを済ませる。そうして背後に向きなおると、町田アンナも着替えを完了させていた。
めぐるは淡いパープルの生地にペパーミントグリーンのプリント、和緒はローズピンクの生地にボトルグリーンのプリント、町田アンナはターコイズブルーの生地にスパニッシュオレンジのプリントだ。そうして三名で同じTシャツを纏うと、めぐるはまた胸が高鳴ってきてしまった。
その熱情が暴発してしまわないように、めぐるはベースの練習に没頭する。その間にヘアーセットを終えた栗原理乃もまた、純白のワンピースと白地にアイスブルーのプリントがされたTシャツに着替えた。
栗原理乃の長い黒髪は、細い三つ編みにされた上でアップスタイルにまとめられている。そうして下の妹がアイスブルーのウィッグに手をのばしかけたところで、町田アンナが「ちょっと待ったー!」と声を張り上げた。
「変身を完了させる前に、日焼け止めを塗っておいたら? ウィッグと目隠しをしちゃったら、顔に塗りにくいだろうしねー!」
そんな風に語りながら、町田アンナは自身の手足に日焼け止めクリームを塗り込んでいる。その姿に小首を傾げたのは、和緒であった。
「ずいぶん準備のいいことだね。あんたの白いお肌は、そういう入念なお手入れで保たれてるわけだ」
「てゆーか、ウチとかママとかエレンとかは、肌が弱くってさ! 油断してると、すぐ火傷みたいになっちゃうんだよー! そこだけは、ローサや親父が羨ましいかなー!」
自らの処置を終えた町田アンナは、クリームのボトルを下の妹に投げ渡す。それをキャッチした下の妹も、慣れた手つきで栗原理乃の身にクリームを塗り始めた。
「めぐると和緒も、塗っておいたほうがいいよ! 今日の会場って、屋根があるのはステージだけだからさ! あと、帽子とかもちゃんと持ってきたー?」
「帽子は好きじゃないんだよ。生命の危機を感じたら、タオルでもひっかぶるさ」
そんな一幕を経て、栗原理乃の変身が再開された。
下の妹の小さな手によってアイスブルーのウィッグがかぶせられ、何本ものヘアピンで固定される。最後のとどめは、黒いレースの目隠しだ。
「よーし、これで準備オッケーだねー! 今日は出番も早いから、リィ様もちゃちゃっと人格を切り替えないと!」
「ええ。問題はないかと思われます」
栗原理乃が、冷ややかで無機的な言葉を返す。ウィッグと目隠しで半ば隠された細面も、すでに人形めいた無表情だ。
「じゃ、ちょっと早いけど出発しよーか! 道が混んでて遅刻でもしたら、出番を取り消されちゃうかもだからねー!」
それは何としてでも回避したい事態であったので、めぐるも慌ただしくベースを仕舞い込むことになった。
時刻は、八時四十五分である。野外フェスの開始は午前の十時であり、町田家から会場までは車で四十分ていどであるという話であった。
「お、もう出発するのかい? いいともいいとも! それじゃあまずは、荷物の積み込みだね!」
町田家の主人の案内で、駐車場へと導かれる。そこに待ちかまえていたのは、巨大なワゴン車と軽自動車であった。
ワゴン車の背面のドアが開かれると、そこには大きなコンテナボックスと二枚の古びた毛布が詰め込まれている。その毛布のほうを指し示しながら、町田アンナはえっへんとばかりに胸をそらせた。
「念のために、ギグバッグをこいつでくるんでいこうと思ってさ! 車の振動ぐらいは大丈夫だろうけど、念には念を入れてね!」
「ありがとうございます。これなら、いっそう安心ですね」
町田アンナの気づかいを心からありがたく思いながら、めぐるはギグバッグを毛布でくるんで荷台に積み込ませていただいた。
その間に、和緒はコンテナボックスを覗き込んでいる。
「何かと思ったら、水遊びの道具一式か。そういえば昨日、海水浴がどうとか言ってたね」
「そーそー! 今日の会場って、海岸のすぐそばだからさ! 妹どもは、ウチらのライブが終わったら海水浴なんだよ!」
「なるほど。もちろんあたしらは、ご遠慮させてもらっていいんだよね?」
「ウチらは、他のバンドを見物しなきゃでしょ! 海やプールは、今度べつの日に行こうねー!」
「つつしんで、ご辞退申しあげるよ。アウトドアってのは、性に合わないんでね」
めぐるとしても、海やプールに魅力は感じなかった。めぐるの関心はただひとつ、バンドの演奏に関わるイベントのみであるのだ。
「それじゃー、いざ出陣だねー! ママ、運転よろしくー!」
「はいはい。あんまりはしゃぎすぎないようにね」
町田アンナの母親が、笑顔でワゴン車の運転席に乗り込んでいく。いっぽう父親と妹たちは、軽自動車のほうであった。
こちらのワゴン車は八名乗りであったが、荷物を積むには三列目のシートを犠牲にしなければならないのだ。町田アンナが助手席に収まったため、めぐると和緒と栗原理乃は二列目のシートに並ぶことになった。
実のところ、めぐるが自家用車というもののお世話になるのは、家族を失って以来、初めてのことである。それで同乗するのがバンドのメンバーであり、運転するのがその母親であるというのは、何とも非日常的な体験であり――もともと高鳴っていためぐるの胸を、いっそう大きく揺さぶってやまなかったのだった。
なおかつ、もう二時間もしない内に、めぐるは見知らぬ場所で演奏をすることになるのだ。
まだ目を覚ましてから一時間も経っていないのに、めぐるを取り巻く状況は目まぐるしく変転していく。それはまるで、ここ数ヶ月の動乱に満ちた日々がさらなる加速を見せたような心地であったのだった。




