02 町田家の食卓
それから数分後、『KAMERIA』のメンバー四名は無事に合流することができた。
和緒も栗原理乃も、それぞれ小さからぬ荷物を抱えている。余所の家で夜を明かすための準備である。あとは和緒が襟なしのシャツにチノパンツ、栗原理乃がベージュ色のワンピースに夏用のカーディガンという、いまや見慣れた私服姿であった。
「お待たせー! 理乃は和緒にいじめられなかったー?」
「まさかでしょ。親睦が深まりすぎて、困っちゃうぐらいだよ」
と、和緒がいきなり長い腕をのばして、栗原理乃の肩を抱く。栗原理乃は真っ赤になり、町田アンナは「ちょっとちょっとー!」と声を張り上げることになった。
「理乃はデリケートなんだから、そーゆー冗談はやめておきなって! あんただって、そんなべたべたひっつくタイプじゃないっしょー?」
「あたしは人を困らせるためだったら、どんな困難も辞さない人間なんだよ」
「いいから、とっとと離れなって! めぐるが嫉妬しちゃうでしょー?」
「わ、わたしは別に……で、でも、栗原さんが困ってるみたいだから、かずちゃんもやめてあげたほうが……」
「うむ。三者全員を困らせることができたようで、あたしも感無量だよ」
和緒は栗原理乃の頭に頬ずりをしてから身を離し、深々と息をついた。
「ああ、暑苦しかった。栗原さんはひんやり冷たそうな印象なのに、意外と体温が高いんだね。なんだか、ガッカリだよ」
「どこをつついても失礼なやつだねー! もー、理乃はだいじょうぶー?」
今度は町田アンナが栗原理乃の肩を抱き、逆側のこめかみに頬ずりをする。それを横目で確認してから、和緒はめぐるに向かって両腕を広げてきた。
「よかったら、あんたも参加する?」
「し、しないよ。かずちゃんは、なんだかテンションが高いみたいだね」
「ほうかい。人生で初めてのお泊まり会で、柄にもなく浮かれてるのかねぇ」
そんな言葉も冷ややかなぐらいのポーカーフェイスで放たれるため、内心はまったくうかがえない和緒であった。
ともあれ、合流を果たした一行はあらためて町田家に進路を取る。その数分ばかりの道行きで、栗原理乃も平静な心を取り戻すことがかなったようであった。
「アンナちゃんの家に泊まらせていただくのは、けっこうひさしぶりだよね。今日は遠藤さんたちも一緒だから……エレンちゃんたちが、すごく喜びそう」
「あー、あいつらは昨日から大はしゃぎだったよー! 和緒の人間性はともかくとして、『KAMERIA』のライブには大満足だったからねー!」
「ほうほう。それなら、あたしの人間性とやらをたっぷり思い知らせてあげないとね」
「……言っとくけど、ローサのやつはゴリゴリに稽古を積んでるからね? 下手な真似をしたら、明日のライブに支障が出るかもよー?」
「へーえ。ちなみに、どっちがローサ嬢でどっちがエレン嬢なのかな?」
「上がローサで、下がエレンだよ。エレンはダンスにハマって道場の稽古をやめちゃったけど、あんたが相手ならローの一発でKOできるだろうねー」
そんな言葉を交わしている間に、町田家に到着した。
大きな家屋の立ち並ぶ一画で、町田家はひときわ大きな規模を有している。そして正門には、『町田道場』という堂々たる看板が掲げられていた。
「こいつは立派な道場だ。……ところでここは、何の道場なの? 父君は柔道家で、母君はキックボクサーだってんでしょ?」
「柔道家じゃなくて、柔術家! 寝技が主体の、ブラジリアン柔術ってやつね! だから、うちの道場では柔術とキックとMMAの三本柱でやってるんだよー!」
「えむえむえー? 聞き覚えのない競技だね」
「あ、そう? 一般人には、総合格闘技って言ったほうが通りがいいのかな? たまーにテレビとかで放送されたりしてるっしょ?」
「ああ、あのバイオレンスな格闘技か。あんたの荒々しさが理解できたような気がするよ」
「MMAがことさらバイオレンスってことはないと思うけどね! ま、ウチはリタイアした身だから、そーゆー話はママたちに任せるよ! じゃ、さっさと入ろっか!」
町田アンナの案内で、生垣に囲まれた敷地内に足を踏み入れる。砂利の地面に敷石が敷かれており、どこもかしこも和風の建築だ。正面に鎮座ましましていた巨大な道場を迂回すると、いかにも後から改築されたような小ぶりの玄関が見えてきた。
「ただいまー! 理乃たちを連れてきたよー!」
町田アンナが玄関のガラス戸をスライドさせると、小さな二つの人影がつむじ風のように駆けつけてきた。さきほど話題にのぼっていた、町田アンナの妹たちである。
「理乃ちゃん、和緒ちゃん、めぐるちゃん、いらっしゃーい! ごはんの準備、できてるよー!」
「奥の部屋を片付けておいたので、まずは荷物をそちらにどうぞ。スリッパは、そこにあるのを自由に使ってください」
先月のライブで面識を得ていたので、妹たちも屈託がなかった。町田アンナに劣らず元気であるのが小学四年生の町田エレンで、いくぶん丁寧な物腰であるのが中学一年生の町田ローサだ。前者は栗色の髪に白い肌、後者は黒い髪に小麦色の肌という違いはあったが、顔立ちや元気な雰囲気は姉とそっくりであった。
そんな両名の案内で、まずは板張りの廊下を真っ直ぐ進む。その行き道にいくつものガラス戸やふすまがあり、居住エリアもなかなかの広さであった。
その最果てに待ち受けていたのは、二十畳はあろうかという大広間である。畳敷きで、部屋の隅に布団が山積みにされており、壁には水墨画の掛け軸が掛けられていた。
「ずいぶん立派な客間だね。そんなに普段から大勢のお客が押し寄せてくるわけ?」
「んー、まあね! うちの道場も、しょっちゅう合宿とか祝勝会とかを開いてるからさ! それで集めた連中を寝かせる場所が必要なんだよー!」
それにしても、わずか三名の客には広すぎるスペースである。めぐるはたいそう恐縮しながら、部屋のすみっこにギグバッグを置かせていただいた。
「じゃ、さっそくディナーだねー! もー、おなかがぺこぺこだよー! あんたたちは、よく我慢がきいたもんだねー!」
「うん! みんなと一緒に食べたかったからねー!」
「そんなこと言いながら、あんたはずっとお菓子をつまんでたじゃん。油断してると、パパみたいな体格になっちゃうよ」
「エレンはあんなカタブトリしないもん! 毎日ダンスできたえてるんだからねー!」
三姉妹が一堂に会すると、三倍増の賑やかさである。めぐるは彼女たちのかもしだす濃密な生命力の波動に圧倒されてしまいそうであったが、それでも楽しくないことはなかった。
そうして今度は、食事の場に移動だ。長い廊下を逆戻りして、二つ目のふすまがその入り口であった。
「おお、いらっしゃい! さあ、座って座って! 何も遠慮はいらないからね!」
戸板を開けたとたん、三姉妹に負けない大声が響きわたる。中肉中背で浅黒い肌をした壮年の男性、町田家の主人である。そして、町田アンナをそのまま百八十センチの長身にしたような母親も、にっこり笑いかけてきた。
「いらっしゃいませ。この前のライブは、お疲れ様。大したものはないけど、いっぱい食べてね」
町田アンナの母親はオランダ出身であると聞いているが、日本語も至極流暢である。そして、町田アンナよりも長くのばしたオレンジ色の髪が、息を呑むほど鮮烈であった。
そちらも広々とした和室であったが、大きな座卓には西洋風の料理がずらりと並べられている。巨大なピザに、黄緑色のスープに、茶色いねっとりとしたソースが掛けられたフライドポテトに、鮮やかな黄色のオムレツに――たとえ八名がかりでも持て余してしまいそうな質量であった。
「こんな大人数で押しかけちゃって、すみません。これ、手土産です」
と、和緒が手にさげていた紙袋を差し出すと、町田アンナの母親は「まあまあ」といっそうにこやかな顔をした。
「わざわざお気遣いありがとう。次からは手土産なんていらないから、いつでも気軽に遊びに来てね」
「ありがとうございます」と、和緒は小さく頭を下げる。その姿に、町田アンナが「ほへー」とおかしな声をあげた。
「和緒はいったい、どうしちゃったのさ? ボージャクブジンのゴーガンフソンが、あんたの持ち味でしょー?」
「生憎と、社会常識ってやつがそれを邪魔するんだよ」
町田アンナに対しては、いつも通りの和緒である。それで他のご家族たちも、楽しげに笑うことになった。
「さあさあ! それじゃあ今日は、前祝いだな! また家族みんなで応援に行くから、明日の野外フェスってやつも頑張っておくれよ!」
「ああもう、親父は黙ってなって! あんたは車の運転だけしてりゃいいんだよ!」
町田アンナがそのように言いたてると、下の妹も笑顔で「そうだそうだー!」と追従する。どうやら町田家の父親は、長女と三女に受けが悪いようである。
そんな賑やかさの中で、ディナーが開始された。ピザもスープもオムレツも、めぐるにはずいぶん馴染みのない味付けであるようであったが――しかし、いずれも美味しかった。
「こちらは、オランダ料理なんですか? フライドポテトにピーナッツ風味のソースというのが、とても新鮮です」
和緒がそのように評すると、母親ではなく下の妹が「そうだよー!」と応じた。
「ママはオランダ料理と、おばーちゃんから習ったトルコ料理が得意なの! でも、日本の料理もおいしいよー!」
「肉じゃがだったら、俺のほうが得意だけどな!」
「パパはうるさいのー! ……めぐるちゃん、おいしい?」
いきなり矛先を向けられて、めぐるはピザを咽喉に詰まらせそうになってしまった。
「は、はい。美味しいです。普段、適当なものしか食べていないので……あ、だから美味しく感じるってわけじゃないですけど!」
「あはは! めぐるちゃんは、なんでそんなしゃべりかたなのー? エレン、まだ九歳だよー?」
「す、すみません。あんまり年下の人としゃべったことがないもので……」
栗原理乃は昔からこちらのご家族とつきあいがあったようなので、この場でもっともへどもどしているのはめぐるであった。
すると今度は、上の妹までもが語りかけてくる。
「演奏中はすごく堂々としてるのに、まるで別人みたいですね。でも、めぐるちゃんはすごく優しいんだって、お姉から聞いています」
「そ、そんなことはないんですけど……わたしはただ、気が小さいだけなので……」
「もー、あんまりめぐるに気を使わせるんじゃないよ! それより、この前のライブの感想でも聞かせてあげたらー?」
旺盛な食欲を発揮していた町田アンナがそのように声をあげると、妹たちはとたんにもじもじとした。
「ライブは、すごくかっこよかったです。今までにも何回か、お姉のライブは観に行ったことがあるんですけど……あんなかっこいいライブは、初めてでした」
「うん。おねーちゃんも理乃ちゃんも、めぐるちゃんも和緒ちゃんも、みんなかっこよかったよねー。エレン、イヤーマフを外したくなっちゃったもん」
ライブの当日は元気いっぱいに賞賛してくれた彼女たちであったが、今日は何やら様子が違っている。めぐるがそれを不思議に思っていると、町田アンナが意気揚々と解説してくれた。
「そいつらほんとに、ウチらの演奏が気に入ったみたいでさー! ほんでもって、めぐるや和緒にファンみたいな気持ちが芽生えちゃったみたいなんだよねー!」
「お、お姉はうるさいよ。二人に会うのはまだ二回目なんだから、緊張したって不思議じゃないでしょ?」
「さっきまでは、ぎゃーぎゃー騒いでたじゃん! でも、ライブのことを思い出すと、キンチョーしちゃうんでしょー?」
「う、うるさいってば!」と、上の妹は小麦色の頬を赤くする。
いっぽう下の妹は持ち前の無邪気さを復活させて、にぱっと笑った。
「おねーちゃんや理乃ちゃんは見慣れてるから、キンチョーとかしないのかなー! あ、でも、理乃ちゃんがリィ様になったら、キンチョーしちゃうかも! リィ様も、すっごくかっこよかったもん!」
栗原理乃は、喜んでいるとも困っているともつかない顔で微笑んだ。リィ様の扮装をしている際には完全に別人格になりきっているため、普段はどのように取り扱うべきか、まだ整理がついていないのだろう。『KAMERIA』のメンバー内でも、あまりリィ様について論じ合う機会はなかったのだった。
「まあとにかく、ウチらは明日も頑張るからさ! 海水浴のついでに、応援よろしくねー!」
妹たちははにかむように笑いながら、それぞれ「うん」とうなずいた。
すると今度は、母親が優しい笑顔で発言する。
「それにしても、アンナが理乃ちゃん以外のお友達を家に呼ぶなんて、いつ以来かしら。アンナは友達が多いけど、あまり家に呼ぶことはなかったものね」
「そりゃー昔は稽古で忙しかったし、今はギターの練習で忙しいからさ! あと、めぐるたちはただの友達じゃなくって、大事なバンドのメンバーでもあるしねー!」
「うん。アンナは本当に楽しそうだものね。あんなに熱心だった稽古をやめてまでギターを始めたのに、なかなか理想のメンバーを見つけられなかったみたいだから……わたしたちは、ずっと心配していたのよ?」
「えへへ。だけどまあ、二年で理想のメンバーと巡りあえたんだから、上等っしょ!」
町田アンナがいくぶん気恥ずかしそうに笑いながらそのように応じると、母親は「そうね」といっそう優しげに微笑んだ。
「実はアンナが道場の稽古をやめてギターを始めたいと言い出したとき、わたしたちは反対していたの。ギターやバンド活動が悪いっていうんじゃなく、この子は本当に熱心に稽古をしていたから……あとで後悔することになったら可哀想だなって思ったのよね」
「そうそう! だから、ギターの代金を立て替える条件として、理乃ちゃんと同じ高校を目指すことっていう約束をしたんだよな! 生半可な覚悟だったら、それであきらめるだろうと思ってさ!」
父親も、豪快な笑顔でそのように言い添えた。
「だけどまあ、ギターを買ったら道場の稽古と同じぐらい熱心に練習をしてたし、おまけにあんな立派な高校に合格してみせたし! ……だからまあ、余計に心配になっちまったんだよな」
「ええ。ギターを弾くのは楽しそうなのに、バンド活動は楽しくなさそうだったから……やっぱり稽古を続けるように説得するべきだったのかって、わたしたちもずいぶん悩んでしまったわよね」
そんな風に言ってから、母親は澄みわたった碧眼でめぐるたちを見回してきた。
「だから、遠藤さんたちにはとても感謝しているの。どうかこれからも、アンナと理乃ちゃんをよろしくね」
「やめてよー! 聞いてるこっちのほうが、恥ずかしくなっちゃうじゃん!」
と、町田アンナは珍しくも顔を赤くしながら、オレンジ色の頭をひっかき回した。
ただ、その顔に浮かべられているのは、いつも通りの朗らかな笑みだ。それでめぐるも上手い言葉を返すことはできなかったが、笑顔を返すことはできた。
そうして町田家の晩餐は、どこか温かいものを内包した賑やかさの中で終わりを迎えたのだった。




