04 出番前
四番手のバンドがステージで演奏している十分間、めぐるは楽屋でひたすらベースを爪弾くことになった。
ステージの音がそれなり以上のボリュームで響いているので、ベースの生音はほとんどかき消されてしまう。しかし、ベースのボディに触れた箇所から重い振動が伝わってくるため、めぐるは滞りなく心を和ませることができた。
町田アンナはギターを抱えたままストレッチに励んでおり、和緒はぼんやりとソファに座している。壁に向かって直立不動のリィ様こと栗原理乃は、精神集中に努めているのだろうか。ライブ直前の過ごし方は、人それぞれであるようであった。
「おっ、二曲目に入ったね! そろそろチューニングしておこっかな! めぐるも出番前にチューニングを済ませておくと、転換の時間をまるまる音作りに使えるよー!」
「そ、そうですか。忠告、ありがとうございます」
めぐるはすでにチューニングを終えていたが、念のために再確認しておくことにした。
浅川亜季のアドバイスで、弦は二日前に交換している。ライブではなるべく新しい弦を使うべきであるが、交換したての弦はチューニングが安定しないため、数日前に交換するのがベターであるという話であったのだ。この二日間で数十時間ばかりも練習したので新しい弦はすっかり指に馴染んでおり、それでいて金属的なきらめきもしっかり残されていた。
(いよいよ本当に、本番なんだ……)
チューニングを終えためぐるは、あらためて練習に没頭する。そうして指を動かしていないと、心臓が高鳴りすぎて胸が詰まってしまいそうであったのだ。不安と期待の思いがぐんぐんと膨張して、めぐるの小さな体を破裂させてしまいそうな心地であった。
『ありがとうございました! わたしたちはこちらのライブハウスの野外フェスにも出演しますので、よかったらそっちにも遊びに来てくださいねー!』
と、ステージ上の声が少しくぐもった感じに聞こえてくる。
それと同時に、ライブハウスのスタッフが楽屋に入室してきた。
「次の出番の、『KAMERIA』さんですね? まずは前のバンドの機材を搬出しますんで、それまで待っていてください」
代表者たる町田アンナが、「はーい!」と元気に応対する。二名のスタッフたちは壁に向かって不動である栗原理乃のほうをちらちらと見やりながら、ステージに出ていった。
「さー、いよいよ本番だねー! ここはいっちょ、円陣でも組んどくー?」
「やだよ、かったるい。熱血の素養は皆無だって、なんべん言ったらわかるのさ?」
「もー、ノリが悪いなー! ま、ステージをバシッとキメてくれたら、文句はないけどさ!」
「だから、ド素人に高い要求をするんじゃないよ」
和緒は大きくのびをしてから、スティックケースを手に立ち上がった。
そのタイミングで、栗原理乃もこちらに向きなおってくる。その黒いレースに隠された目が、めぐるたちを見回したようだった。
「……みなさん、よろしくお願いいたします」
栗原理乃は白魚のような手を前で合わせて、深々と一礼してきた。
町田アンナはギターの生音を元気に響かせてから、「うん!」と応じる。
「みんな、めいっぱい楽しもーね! ミスだの何だの、そんなのは気にしなくていいからさ! いつも通り、かっとばそー!」
「は、はい。よろしくお願いします」
めぐるがそのように答えたとき、ライブを終えた面々が楽屋に戻ってきた。男女混合の四人組だ。わずか十分間のステージであったが、彼らは誰もが汗をしたたらせつつ、頬を上気させていた。
「お疲れ様です。そちらも頑張ってくださいね」
「お疲れさまー! それじゃあ、出陣だねー!」
町田アンナを先頭にして、『KAMERIA』のメンバーはついにステージへと足を踏み出した。
そちらにはうっすらと照明が灯されていたが、客席は黒い幕で隠されている。そして、これまでの出演者たちの熱気がこれでもかとばかりに渦を巻いており――それがいっそう、めぐるの胸を高鳴らせた。
めぐるはベースをスタンドに立てかけてから、他の機材を持ち運ぶために楽屋へと舞い戻る。そちらでは、まだ先刻の出演者たちが楽しげに語らっていた。
めぐるたちも、ライブを終えたらこのように笑顔で語らえるのだろうか。
そんな想念に胸を騒がせながら、めぐるは両手いっぱいにエフェクターやケーブル類を抱えて、メンバーたちの待つステージを目指した。
町田アンナは早くもアンプの音を鳴らしており、和緒はスタッフの手を借りてドラムのセッティングに取り組んでいる。ドラムはドラムでプレイヤーによって使用するシンバルやタムの数が異なり、高さや角度も調節しなければならないため、こういったセッティングが必須であるようなのだ。
それを横目に、めぐるはエフェクターを設置する。そういう作業に取り組んでいると、心が安らぐような――あるいは、余計に昂揚するような――なんとも説明し難い心地であった。
この黒い幕の向こう側には、数十名もの人間が待ちかまえているのだ。
さらには、『V8チェンソー』のメンバーや部活の先輩がたや町田アンナの家族までもがたたずんでいる。他の人間はどうあれ、その十名だけはまぎれもなく『KAMERIA』の演奏を聴くためにこのような場所まで参じているのだった。
めぐるたちは、それらの期待に応えるために頑張るべきなのだろうか。
まったく今さらの話であるが、めぐるにはあまり実感がわかなかった。めぐるはあくまで自分が楽しむために演奏をしているので、それを他者のために頑張るという感覚がいまひとつ理解できなかったのだ。
もちろん、情けない姿は見せたくないと思っている。とりわけ、『V8チェンソー』のメンバーに対してはそういう意識が強かった。もしも彼女たちに呆れられたり失望されたりしたならば――めぐるは相当に落ち込んでしまうのではないかと思われた。
そんなリスクを背負いながら、めぐるたちは今この場に立っているのだ。
その果てには、いったいどのような結果が待っているのか。めぐるはそれを知るために、ライブに臨もうとしているのかもしれなかった。
(まあ、ややこしい話は考えないで……町田さんの言う通り、いつも通り楽しく演奏できるように頑張ろう)
エフェクターの設置を終えためぐるは、いざ巨大アンプと向かい合った。
確かにこれは、スタジオで使用していたものと同じモデルである。それでめぐるは、エフェクターのアウトプットからのばしたシールドをアンプのインプットに差し込もうとしたのだが――そこにはすでに、別の配線が繋がれていた。
ベースアンプの上に、手の平サイズの四角い機材がちょこんとのせられている。アンプのインプットには、そちらの機材からのばされた短いシールドが差し込まれていたのだ。
めぐるが思考停止していると、斜め方向から和緒の声が飛ばされてきた。
「何かわからないことがあったら、スタッフさんに聞いてみなよ。うかうかしてると、音作りの時間がなくなるよ」
めぐるがあわあわしていると、ドラムのセッティングを手伝っていたスタッフがこちらを振り返ってきた。
「どうしました? 何かアクシデントですか?」
「あ、いえ、その……アンプに何か、小さな機材の配線が繋がれていて……前のバンドさんの忘れ物でしょうか……?」
「ああ、それはDⅠですよ。シールドは、そっちに繋いじゃってください」
「でぃ、でぃーあい?」
「そのDⅠから、PAにラインの音を送っているんです。DⅠに、インプットのジャックがあるでしょう? そこに繋げば、音が出ますよ」
スタッフの説明はおおよそ理解できなかったが、確かに小さな機材の前面にはインプットのジャックが存在した。それでめぐるがそちらにシールドを差し込んで、アンプを操作してみると、何事もなかったかのように音が出力されたのだった。
「で、出ました! どうもありがとうございます! かずちゃんも、どうもありがとう!」
「ああもう、いいからとっととセッティングしちゃいなよ」
肩をすくめる和緒に頭を下げてから、めぐるはあらためて巨大アンプに向き直った。
脳裏に焼きつけておいた記憶を頼りに各種のツマミをセッティングして、いざベースの4弦を弾いてみると――好ましい重低音が、うねりをあげる。
スタジオ練習の際とはいくぶん響きが違っているようにも思えたが、心地好いことに変わりはない。エフェクターを踏んでみると、歪みの音色もいい具合にステージ上の熱気をかき回してくれた。
が――そこに新たな違和感が生じる。
めぐるがベースを鳴らすなり、町田アンナのギターサウンドが遠ざかってしまったのだ。
いや、そもそも彼女のギターは、最初から音圧が足りていなかった。まだあちらもセッティングの途中であろうと思って気にかけていなかったが、スタジオ練習の際とは比較にならないぐらい、存在感が薄かったのだった。
(そっか。ライブハウスみたいに広い場所だと、音の響き方が変わるんだって言ってたっけ)
よって、最終的な音作りは現地で手早く仕上げるしかない――二人きりのスタジオ練習の後、町田アンナはそのように語っていたのだった。
めぐるはエフェクターで歪ませた音を適当に鳴らしながら、他の音に集中する。
セッティングを終えた和緒もドラムを叩き始めていたが、その音もまた遠かった。普段よりもドラムセットの位置が遠い分、音も遠ざかってしまうのだ。
それにもう一点、音の遠い理由が判明した。部室にせよスタジオにせよ、ギターやベースのアンプはいつもドラムやヴォーカルをはさむような角度で設置されていたのだ。しかし現在は二台のアンプとドラムセットが横並びの形であるため、すべての音が正面に逃げてしまうわけであった。
(客席が正面にあるから、こういう配置になるんだ。でも……これじゃあ、駄目だ)
めぐるが心地好く演奏するには、他のメンバーの音色こそが重要なのである。このようにベースの音ばかりが強烈に響きわたっていては、きちんと合奏することさえ困難なはずであった。
(よし。みんなに合わせて、ベースのボリュームも落とそう。部室ではもっと小さな音でも気持ちよく演奏できてるんだから、問題はないはずだもんね)
めぐるはアンプのもとまで戻り、右手で開放弦を弾きながら左手でマスターボリュームの調節をした。
とたんに、町田アンナが「ちょっとちょっとー!」とわめき始める。
「なんでボリュームを落としちゃうのさ! ウチはもっと上げてほしかったぐらいなんだけどー?」
「あ、い、いえ、でも……このままだと、ギターやドラムの音が聴こえにくくなっちゃうので……」
「それはこっちも一緒だよー! ぎりぎりガマンできるレベルだったんだから、ボリュームを下げられたら困っちゃうなー!」
「そ、それじゃあ、どうしたら……?」
めぐるの思考が停止しかけると、ステージの真ん中でひっそりと立ち尽くしていた栗原理乃がやおらマイクのほうに進み出た。
『ベース側のモニターに、ギターとドラムの音を返してください』
栗原理乃の声音が肉声ばかりでなく、足もとのモニタースピーカーからも響きわたる。
一瞬の間を置いて、幕の向こう側から笑い声が聞こえてきた。
『PAさん、聞こえましたかー? ベースさんに、ギターとドラムの音を返してほしいそうでーす!』
それは、土田奈津実の声であった。幕の向こうでは、『オーバードライバーズ』の面々が場繋ぎのトークに励んでいるさなかであったのだ。
「あー、そしたらウチも、ドラムの三点を欲しいかも! リィ様、おねがーい!」
『……ギターの側にも、ドラムの三点をお願いいたします』
「ほらほら、和緒も叩いてよ! どれぐらい聴こえるか、確認しておかないと!」
和緒は肩をすくめつつ、8ビートを叩き始めた。
すると、モニターからもドラムの音色が聴こえてくる。生音よりは硬くてシャープな音色であったが、これは間違いなく和緒のリズムであった。
「めぐるも最初のボリュームで弾いてみてよ! それで足りなかったら、ベースも返してもらうから!」
「は、はい。わかりました」
めぐるはマスターボリュームを最初の数値に戻して、ベースの音を鳴らした。
その間に、町田アンナもギターをかき鳴らしている。ギターとベースとドラムの音が、混然一体となってめぐるの身を包み込んだ。
「歪みでこれだと、クリーンが物足りないかなー! リィ様、ベースの音も返してもらってー!」
『……ギターの側に、ベースの音をお願いします』
「おー、いい感じいい感じ! やっぱめぐるのベースは、これぐらいガンガン鳴らしてもらわないとねー!」
ギターを弾く手を止めて、町田アンナがめぐるに笑いかけてきた。
「普通のライブだと、中音もこうやって調節するんだよ! めぐるも、バッチリかなー?」
「は、はい。問題ないかと思います」
「よーしよし! じゃ、これで準備オッケーでーす!」
町田アンナが、スタッフのほうに向きなおる。
スタッフは、べつだんこちらの騒ぎに驚いた様子もなく首肯した。
「では、幕が開くまで音は出さないでください。幕を開けてから十分間が、持ち時間となります」
「はーい! よろしくお願いしまーす!」
スタッフたちは楽屋に引っ込み、町田アンナはステージの中央に寄ってくる。それにつられて、めぐるも栗原理乃のもとまで歩を進めることになった。
「リィ様、判断が早かったねー! おかげで中音もばっちりだよ!」
「ええ。一度だけ、アンナさんのライブにリハから立ちあう機会がありましたので。その経験を活かすことができました」
栗原理乃は町田アンナに対しても丁寧な言葉づかいで、呼称まで変えられている。彼女はそれぐらい別人格になりきっており――そうであるからこそ、あれほど迅速に対応できたのかもしれなかった。
「それじゃあ、あとはかっとばすだけだねー! 何度も言うけど、失敗とかどーでもいいからさ! いつも通り、楽しもー!」
町田アンナは、普段以上の意欲と活力をみなぎらせている。いっぽう栗原理乃は人形のように感情を隠しており、和緒はいつも通りのポーカーフェイスだ。
そんな面々の姿を見回してから、めぐるは「よろしくお願いします」と頭を下げた。
そして、それと同時に黒い幕が開かれて――ステージ上に、これまで以上のまばゆいスポットが照らされたのだった。




