02 エントリー
そうしてまた、練習に明け暮れる日々がやってきた。
栗原理乃は大きなトラウマを乗り越えつつあるし、イベントの参加も視野に入れている。さらにはバンド名まで決定されたということで、めぐるの昂揚はいや増すばかりであった。
もう二週間もしたら期末試験が始まってしまうが、そんな楽しからぬ事象までもが練習に対する意欲をかきたててくれる。それにめぐるも町田アンナと同様に赤点さえ取らなければよしというスタンスであったため、期末試験の存在が精神的な負担になることはなかった。
部室では合同練習、自宅では生音の個人練習、時には『SanZenon』の音源を聴いてより活性化し、寝落ちするまでベースを弾き続ける。睡眠時間はベースを購入してからずっと不足気味であったものの、多少なりとも滋養のある食事を心がけているためか、ゴールデンウィークのように体調を崩すこともない。それに、物流センターのアルバイトも回を重ねるごとに体が楽になってきて、運動不足の解消にもひと役買ってくれているように思えた。
そうした日々を繰り返すことで、演奏のクオリティはじわじわと底上げが為されている。町田アンナが録音している昔の音源などを聴かせてもらっても、現在との差異は明らかであったし――それにめぐるはリアルタイムでも、メンバー全員の成長を肌で感じ取っていた。
和緒は日を重ねるごとに演奏の安定感と力強さが増していたし、町田アンナはプレイが冴えわたっていくばかりでなく勢いあまってのミスも減ってきている。そうして演奏の完成度が上がっていくと、栗原理乃の歌声はいっそう鮮烈に響きわたるように感じられた。
そして、そんな三名とともに演奏することで、めぐるもさらなる高みに引っ張り上げられているような心地である。『SanZenon』にも『V8チェンソー』にも遠く及ばない『KAMERIA』であるが、めぐるはこのメンバーで織り成す音色が心地好くてならなかった。そしてその心地好さが、めぐるにまた大きな活力を与えてくれるのだった。
「でも、ライブを視野に入れるんだったら、めぐるも次のステップに進まないとねー! そのために、今日はこいつを準備してきたよー!」
そんな風に言いながら、町田アンナは新品のギターストラップを差し出してきた。
「わ、わたしのために、わざわざ買ってきてくれたんですか?」
「ちがうちがう! これは、ギターを買ったときについてきたオマケだよ! でも、ウチはレザーのストラップが欲しくて自分で買ったから、こいつは使う機会がなかったの! 気に入らなかったら、めぐるも自分で買いなねー!」
取り立てて、めぐるはストラップというものに思い入れは抱いていなかったので、町田アンナの厚意をありがたく頂戴することにした。
しかし、いざそのストラップを装着して、立った状態でベースを弾いてみようとすると――想像以上の弾きにくさである。何より難渋したのは、手を離すとベースのヘッドがずり下がってしまうことであった。
「あー、それがヘッド落ちってやつかー! ウチは苦労することもなかったけど、リッケンベースってヘッドが重いんだねー!」
「ヘッドが重いっていうより、きっとバランスの問題だろうね。このベースはネックがボディにかぶさってないから、重心がヘッド寄りなんじゃないかな」
理由はどうあれ、めぐるはそのヘッド落ちなる現象に悩まされることになった。左手でヘッドの重さを支えながらプレイするというのは、小さからぬ弊害であったのだ。
その結果、けっきょくめぐるは自前のストラップを購入することに相成った。和緒がインターネットでリサーチしてくれた情報によると、幅広で滑り止めの効果が強いストラップを選ぶとヘッド落ちも緩和されるとのことであったのだった。
「ナイロン素材よりはレザー素材、あとは肩当てが独立してるタイプよりベルトそのものが幅広であるタイプを選ぶべし、だってよ。素材は合皮でかまわないらしいから、二千円ぐらいで買えそうだね」
「ありがとう。今日の帰りに、楽器店で探してみるよ」
そうしてめぐるは楽器店の店員にも相談して、合皮で幅広で肩当てが独立していないストラップを購入することになった。
そうしていざ自腹で購入してみると、やはり愛着がわくものである。それに実際ヘッド落ちもずいぶん緩和したようなので、そのありがたさが愛着を増幅させてくれた。
「あと、めぐるはシールドを一本しか持ってないって話じゃなかったっけ? ライブやスタジオ練習では、自前のシールドが必要だよー!」
エフェクターを使用するには、長いシールドが二本必要になるのだ。部室の練習では備品を借りることもできたが、今後に備えるならばもう一本シールドを調達する必要が出てくるわけであった。
これに関しては、『リペアショップ・ベンジー』で購入することにした。今ではずいぶん楽器店のお世話にもなっているが、やはりなるべくは『リペアショップ・ベンジー』を優先したいという思いが強かったのだ。また、ベースを購入した際にはシールドをサービスでつけてくれたのだから、商品として扱っているのだろうという見込みも立てられた。
「おー、それは賢い選択をしたねぇ。うちのじーさまはあちこちから流れてくるジャンクのシールドを片っ端からリペアしてるから、新品よりも格安だよぉ。それに、下手な新品より頑丈なぐらいだしねぇ」
その日の店番は、店主ではなく浅川亜季であった。そして、和緒がさっさと帰宅してしまったために、めぐるのほうは単独行動である。浅川亜季とマンツーマンで向かい合うのは、ベースを購入した日以来のことであった。
「エフェクターも買って、ギグバッグも新調して、めぐるっちもすっかりいっぱしのバンドマンだねぇ。実際のところ、バンドの調子はどんな感じ?」
「は、はい。少しずつでも、成長はできていると思います。客観的にどう見えるかは、さっぱりわからないんですけど……とにかく、練習は楽しいです」
「めぐるっちがベースを買ってから、もう二ヶ月以上は経つんだもんねぇ。なんだか、感慨深いなぁ。ファーストベースを売りつけた身としては、我が子の成長を見守ってるような気分なんだよぉ」
その日も浅川亜季は、眠そうな目つきで笑っていた。
そしてめぐるは二度目のライブを目にして以来、この不思議な雰囲気を持つ女性にいっそうの思い入れを抱いていたのだった。
「あ、あの……あの日にベースを買うことを勧めてくれて、どうもありがとうございます。もし浅川さんからの後押しがなくて、ベースを買うことをあきらめていたらと思うと……わたしは、ぞっとしてしまうんです」
「あはは。そんなめいっぱい突き飛ばした覚えはないけどねぇ。めぐるっちはもう落ちる寸前だったから、あたしはちょんと指でつついたぐらいのもんだと思うよぉ」
「で、でもやっぱり、浅川さんがいなかったら、どうなっていたかもわかりませんし……」
「そんなことはないと思うよぉ。きっとこの店の入り口をくぐったところで、めぐるっちの運命は決まっていたのさぁ」
そう言って、浅川亜季はにんまりと微笑んだ。
「だけどまぁ、めぐるっちの運命に多少なりとも関われたのは、光栄な限りだねぇ。めぐるっちたちのライブを拝見できる日を楽しみにしてるよぉ」
「は、はい。もし予定が決まったら、すぐにご連絡します」
そうしてめぐるは新たなシールドばかりでなく、温かい気持ちをも授かって、待つ者もない離れに帰ることになった。
それからさらに日々が移ろって、ついに六月の最終週である。
明日から期末試験の一週間前となり、この日が部室での練習おさめだ。その練習を終えためぐるたちは、メンバー全員でショッピングモールの楽器店を目指すことになった。
目的は、『ニュー・ジェネレーション・カップ』なるイベントのエントリーを申し込むことである。奇しくもそちらの楽器店は、イベントの主催団体であるシバウラ楽器の系列店舗であったのだった。
「あーあ。必死の抵抗もむなしく、けっきょくエントリーかぁ」
「この期に及んで、まーだそんなこと言ってんのー? 和緒だって、最後には賛成したっしょー?」
「そりゃああんなきらきらした目に囲まれたら、あたしだって自分を曲げるしかなかったさ。こちとら、意志薄弱なもんでね」
「あんたが意志薄弱だったら、世界中の人間がそれ以下の軟弱モンだろーね! とにかく、いったん賛成したんだから、今さらごちゃごちゃ言わないの!」
町田アンナは上機嫌であり、栗原理乃はまた凛々しい面持ちになっている。和緒はひとりで相変わらずの調子であったが、めぐるも内心では大いに発奮していた。
そうしてめぐるたちが一丸となって入店すると、顔馴染みの店員が「いらっしゃいませ」と笑いかけてくる。めぐるはエフェクターとストラップを購入するために二度来店していたが、たまたま同じ店員に面倒を見られることになったのだ。
「あ、あの、実は……『ニュー・ジェネレーション・カップ』というイベントにエントリーしたいんですけど……」
「わ、それはありがとうございます。やっぱり最近はバンドとかも下火気味で、エントリーの数が物足りなかったんですよ」
店員はいつも通りの愛想のよさで、いそいそと申込用紙を準備してくれた。
「あと、いちおうデモテープの審査ってのがあるんですけど、音源を持ってきてもらえました?」
「もっちろーん! 昨日とれたてのほやほやだよー!」
音源の管理をしている町田アンナが、CDRのソフトをスポーツバッグから引っ張り出した。そこに収められているのは、『小さな窓』と『転がる少女のように』の二曲である。最近ではバラード調の『あまやどり』と六拍子の新曲も形になりつつあったが、やはり初期から練習しているこちらの二曲とは完成度が違っていたのだった。
「はい、確かにおあずかりしました。審査するのは本部の人たちですけど、こっちの店舗でも内容をチェックさせてもらいますので。どんな演奏か、楽しみにしていますね」
そんな言葉はプレッシャーにしかならなかったが、めぐるとしては「あ、ありがとうございます」と頭を下げるしかなかった。
「それじゃあ、申込用紙の記入をお願いします。書き終わったら、自分に提出してください」
そんな言葉を残して、店員は接客のために立ち去っていく。その申込用紙を一瞥した町田アンナは「ふむふむ」としたり顔でうなずいた。
「代表者って欄があるねー。ここはやっぱり、めぐるかな?」
「な、なんでですか! どう考えても、代表者は町田さんでしょう?」
「えー? なんで?」
「なんでって……ここにいる三人は、みんな町田さんに誘われてバンドに入ったんじゃないですか」
「それは単に、ウチが一番ゴーインな人間ってだけのことでしょ? バンドの中心人物って考えると、やっぱめぐるなんじゃないかなー」
「そ、そんなことないですよ。バンドを引っ張ってくれてるのは町田さんですし、音楽の知識が一番豊富なのは栗原さんですし、ネットでいろいろ調べてくれるのはかずちゃんですし……わたしなんて、なんの役にも立ってないじゃないですか」
「だから、主観と客観は一致しないんだよ」
と、和緒がクールに口をはさんだ。
「だけどまあ、代表者は連絡先を書かないといけないみたいだから、このプレーリードッグには荷が重いんじゃない?」
「あー、そっかぁ。じゃ、しかたないから、ウチが受け持つよ! めぐるもとっとと、スマホを買いなよねー」
町田アンナがようやくペンを手に取ったので、めぐるはほっと息をつくことになった。
しかしまだ得心していなかったので、おずおずと和緒の長身を見上げる。
「……かずちゃんも、わたしがバンドの中心人物だなんて思ってるの?」
「ある意味では、ね。でもまあ、町田さんや栗原さんも別の意味でバンドを引っ張ってるんだろうから、あたしがひとりで足を引っ張ってるって感じなんじゃないのかな」
「あはは! そんなことないってばー! でもそう考えたら、やっぱ四人全員がそれぞれバンドを引っ張ってるんだろうねー! それなら、誰が代表者でもおんなじことかー!」
それならば、めぐるも少しは納得することができた。
と、いうよりも――自分もみんなと同じぐらいバンドの力になれているなら、喜ばしい限りであった。
申込用紙には、町田アンナの意外に可愛らしい筆致で『KAMERIA』というバンド名も書かれている。その名を文字で見たことにより、めぐるの胸にはまた熱い感情がわきあがってきた。
めぐるたちは、これからこの四人でライブイベントに挑もうとしているのだ。
まだまだ時期尚早という思いはぬぐいきれなかったが――しかしめぐるは、それ以上の昂揚と喜びを噛みしめていた。自分もまた交換のきかないバンドメンバーのひとりであるのだと認められたことが、めぐるは今でも嬉しくてならなかったのだった。
(ほんの二ヶ月前までは、ずっとぼんやり過ごしてたのに……わたしの人生がこんなに激変するなんて、あの頃のわたしに話しても絶対に信じてもらえないだろうなぁ)
はたから見れば、めぐるは高校の部活動に参加したに過ぎない。しかし、めぐるの人生はまぎれもなく一変したのだ。しかもそれが、たった一回のクリックミスから生じたものであるのだと考えると――めぐるは得も言われぬ感慨に見舞われてしまうのだった。




