06 重圧
『リペアショップ・ベンジー』にて二度目のライブ観戦にお誘いされたのちも、めぐるの日常は平穏かつ賑やかに過ぎ去っていった。
そこで新たに加えられたのは、町田アンナに紹介された物流センターにおけるアルバイトである。五月の最終日曜日を皮切りに、めぐるは勤労の過酷さと喜びを同時に味わわされることになったわけであった。
そちらの作業は、実に単純なものであった。巨大なカゴ台車というものに指定された荷物を積み込み、指定された場所まで移動させる。ただそれだけの内容である。しかしそれは頭を使わない代わりに肉体を酷使するため、発育不良と運動不足と怠惰な人間性という三重苦を背負うめぐるにはたいそう過酷であったのだった。
「でもきっと、パワーがついたらベースの音もよくなるよ! 楽しいバンド活動のために、頑張ろー!」
同じ場で働く町田アンナは、そんな言葉でめぐるを鼓舞してくれた。そしてそれはめぐるにとって、何より有用な言葉であったのだった。
文字通り、めぐるはバンド活動のために経済的なゆとりを欲しているのだ。ここでめげたらバンド活動もままならないのだと考えれば、めぐるもなけなしの根性を振り絞ることができた。
そして、その過酷なる労働の報酬は――きっかり、時給千円である。町田アンナの助言で六時間のシフトに入っためぐるは、初日だけで六千円の給金を授かることがかなったのだった。
毎週日曜日に同じだけ働けば、ひと月で二万四千円から三万円の稼ぎをあげることができる。それでエフェクター関連の費用は、すっかり取り戻すことがかなうのだ。さらにはほんの数ヶ月で、ベース本体の費用もまかなえるわけであった。
「えー? めぐるは毎週、働くつもりなの? 日曜以外は毎日練習の予定なんだから、遊ぶ時間がなくなっちゃうじゃん!」
「はあ……でも別に、練習以外に用事はありませんので……そういえば、町田さんは平日の夜にも働いてるんですよね?」
「うん! でも、物流センターは夜の八時までだから、メインは別のバイトだよ! 近所のカフェで、ウェイトレスね! フリフリの制服が、けっこー可愛くてさー! めぐるも一緒にやるー?」
それはつつしんで、辞退することにした。めぐるが接客業などに携わったならば、頭や心を削られるに決まっているのだ。それならば、肉体を酷使するほうが何倍も望ましかった。
「あとは物流センターのほうで勤務時間をのばすって手もあるんだけど、六時間以上にすると休憩時間の分をさっぴかれちゃうんだよねー! 六時間のシフトだと十五分間の休憩時間はサービスしてくれるから、お得っしょ? だからウチも、だいたい六時間のシフトにしてるんだー!」
「そうですか。今はまだ、体がついていけそうにないので……しばらくは、六時間のシフトでお願いします」
「うん、りょーかい! ぶっ倒れないていどに、頑張ろうねー!」
そのようにのたまう町田アンナは体力のオバケであったため、物流センターの労働もまったく苦にしていない様子であった。
「ギターやベースってのは費用がかさんで、大変なこったね。こっちは数千円の出費で収まったんで、肩身がせまいぐらいだよ」
と、和緒はいつも通りの颯爽たるたたずまいで、そのように語っていた。和緒も自分のスティックとそれを収めるスティックケースというものを購入していたが、アルバイトを始めるほどの出費ではなかったのだ。
まあ何にせよ、めぐるも過酷な労働を苦にしているわけではなかった。最初の出勤日こそ多大な疲労感と筋肉痛に苛まれてしまったものの、日課の個人練習を怠ることはなかったし、その翌日からはまた部室で有意義な練習に取り組むことがかなったのだ。経済的な不安が解消された分、むしろ心が軽くなったぐらいであった。
そしてめぐるは予定通り、最初の給金でベースの新しいケースを購入することに相成った。ギグバッグという名を持つその品はナイロン生地の内側に1センチ以上の厚さを持つ緩衝パットが詰め込まれており、収納ケースもたっぷりとしたサイズであったため、エフェクター類を持ち運ぶのにも便利なことこの上なかった。
価格はちょうど、一日分の給金ていどである。めぐるにしてみれば大きな出費であるが、しかし大切なベースを保護するためであれば、どうということもない。それでめぐるはいっそう心置きなく、部室での練習に励めるようになったわけであった。
部室における練習は、めぐるに絶大なる充足感をもたらしてくれる。アンプおよびエフェクターに繋いだベースの音色と、四人で織り成すバンドサウンドが、めぐるを悦楽にひたらしてくれるのだ。眠くて退屈な授業の時間も、この後にバンドの練習が待っているのだと思えば、これまで以上に浮き立った気持ちで乗り越えることがかなった。
「でもさすがに、二曲だけじゃマンネリだよねー! 気分転換も兼ねて、他の曲も進めていこーか!」
そんな町田アンナの提案によって、課題曲も増やされることになった。町田アンナがストックしていた楽曲をすべて聴かせていただき、そこからもっとも相応しいと思える一曲を選び取ったのだ。それで選出されたのは、『あまやどり』というタイトルを持つ、もっともゆったりとした楽曲であった。
「やっぱ、雰囲気の違う曲のほうが楽しいもんねー! ウチはアップテンポのほうが作りやすいから、こういうバラード調は貴重だしさ!」
「テンポが遅くなるほど、あたしの負担は増大するっぽいけどね。バラードなんざ、ますます誤魔化しがきかないよ」
和緒はそのように言っていたが、『あまやどり』を練習することに異議はないようであった。さらに言うならば、こういった楽曲を練習することが、全員のスキルアップに直結しているように思えてならなかった。
和緒の言う通り、ゆったりとした曲というのは難易度が高いようなのである。テンポが遅ければ演奏は楽になるはずであるのに、それを理想の形に仕上げるにはこれまでと異なるノウハウが必要であるようであったのだった。
「それがいわゆる、フィーリングってやつなんだろうね。テクニックだけじゃ済まない話だし、かといってテクニックがいらないわけでもないし……あたしみたいに感性も技術も乏しい人間には、苦行以外の何物でもないよ」
「いやいや! 和緒もずいぶん頑張ってると思うよー! 少なくとも、キャリアひと月足らずとは思えないもん! 鼓笛隊の経験が、よっぽど活かされてるのかなー!」
「どうだかね。なんなら、この素敵なバラードをマーチング調にしてあげようか?」
そんな軽口の応酬はともかくとして、この困難な試みもめぐるに新たな悦楽をもたらしてくれた。ベース本体のトーンを絞って普段以上にやわらかい音を作り、歌の邪魔にならないようにゆったりとしたフレーズを奏でるというのが、これまでと異なる楽しさであったのだ。
もとよりめぐるは歪みをきかせた荒々しいサウンドと同じぐらい、ベースの優しい低音というものを好ましく思っている。それはまた、歌声やギターやドラムに関しても同様であった。栗原理乃も町田アンナも和緒も、アップテンポの楽曲とはまったく毛色の違う魅力でもって、めぐるの心を満たしてくれたのだ。めぐるは何だかメンバーたちの優しさにくるまれているような心地で、ともすれば涙をこぼしてしまいそうなほどであった。
また、たとえバラード調であっても、町田アンナの作る曲にはどこか熱情というものがひそめられているし、栗原理乃の歌声もまた然りであった。スローテンポで、音の圧力が控えられても、サビではそれらの熱情が沸騰し、めぐるはアップテンポの楽曲と変わらないぐらいの昂揚を覚えることがかなった。栗原理乃などは、本当に生命を得た機械人形さながらの迫力で、痛切な歌声を振り絞っていたのだった。
「あとはやっぱり、このメンバーでゼロから曲を作っていきたいよね! なんなら次からは、理乃も歌メロを考えてよ!」
ということで、それらの練習の合間には、積極的にセッションというものも実施されていた。おおよそは、町田アンナがコード進行やリフなどを提唱し、めぐると和緒がそれを追いかける格好だ。そちらで最初に輪郭が見えたのは、『小さな窓』に負けないぐらいヘヴィな曲調である、八分の六拍子の楽曲であった。
「だからさ、次から次へとハードルを上げるのは勘弁してくれない?」
そのように文句をつけるのは、やはり和緒の役割である。楽曲に飽きがこないようにという意向で話が進められているためか、次から次へと新たな課題が生まれる構図になっていたのだ。
しかしそちらの楽曲も、めぐるは楽しいばかりであった。要するに、めぐるは課題が難しければ難しいほど――つまりは、自分の知らない領域に踏み込めば踏み込むほど、楽しい気分を授かれるようであった。
そんな調子で、日は過ぎていき――めぐるが二回のアルバイトをやりとげて、六月の第二週に差し掛かった頃である。
その日もめぐるたちは、部室で練習に励んでいた。『リペアショップ・ベンジー』を訪れてからは二週間ほどが過ぎており、今週の週末には『V8チェンソー』のライブが迫っている。だからというわけではないが、めぐるも他のメンバーもいっそう練習に熱が入っているように感じられた。
帰りのホームルームを終えて教室を出られるのはおおよそ午後の三時半頃で、完全下校時間は午後の六時となる。この二時間半という時間が、めぐるにとっては一日でもっとも充足したひとときだ。よってその日もめぐるは大いに浮き立ちながら、練習に臨んでいたわけだが――練習の序盤で『小さな窓』を弾き終えたところで、思いも寄らぬ出来事が勃発したのだった。
「あなたたち……ずいぶん上達したんだね」
めぐるは心から仰天して、部室の入り口側を振り返ることになった。
演奏を始める前は確かにめぐるたちしかいなかったはずであるのに、現在はそこに先輩部員たちが立ち並んでいる。宮岡部長を筆頭とした、顔馴染みの四名である。その先輩部員たちが、驚嘆の面持ちでめぐるたちを見やっていたのだった。
「あれー? センパイさんたち、いつの間に来てたのさ? ウチはちっとも気づいてなかったよ!」
「部室に入ったのはずいぶん前だし、いちおうノックもしたんだけどね。まあ、それだけの爆音だったら、気づかないのが当然か」
宮岡部長はきゅっと表情を引き締めて、こちらに近づいてきた。三名の男女も、おっとり刀でそれを追いかけてくる。
それを迎えるこちらの側は――和緒はすました無表情、町田アンナは不敵な笑顔、栗原理乃は委縮しきった面持ちで、相変わらずと言えば相変わらずであった。
「そんなことより、すごい演奏だったじゃん。粗いって言ったら、それまでだけど……でも、心から驚かされたよ。ギターのあなた以外は、キャリアに見合わない実力だったね」
「なんだよー! ウチのギターが、そんなにショボかったってのー?」
「あなたはキャリア、二年ちょいでしょ? そんなあなたに負けてない三人が、すごいと思ったんだよ」
そんな風に言いながら、宮岡部長はめぐるのほうに視線を転じてきた。
「遠藤さん。あなたは……これでキャリア二ヶ月ぐらいになったのかな? でも、そんなレベルの技術じゃないよ。歪んだ音もスラップもすごい迫力だったし……うわ、ギター用のビッグマフなんて使ってるのか。それでよく、まともな音を作れるもんだね」
「はあ……ど、どうもすみません」
「何を謝ってるのさ? まあ、経歴詐称をしてたんなら、謝罪が必要かもしれないけどね」
「け、経歴詐称?」
「本当に、あなたはベースを始めて二ヶ月ていどなの? そうとは思えないレベルだったように思うけど」
「あはは! めぐるって、毎日十時間ぐらい練習してるっぽいんだよねー! それならまあ、納得のかっちょよさじゃない?」
町田アンナの気安い返答に、宮岡部長以外の三名がざわめいた。
宮岡部長は「ふうん」と言いながら、和緒のほうに向きなおる。
「それに、磯脇さんは……たしか入部の時点で、完全に未経験だって話じゃなかったっけ?」
「ええ。経歴詐称はしてませんし、家ではせいぜい雑誌をパッド代わりに叩いてるぐらいですよ。あたしに限っては、そんな驚くほどの腕じゃないでしょう?」
「いや。派手なテクニックとかはなかったけど、音は綺麗に抜けてるし、テンポキープもタイトだったし、十分に驚くレベルだと思うよ。それで大して練習してないって言うんなら、もとの才能が違ってるんだろうね」
「家では自堕落に過ごしてますけど、部室では毎日練習につきあわされてますからね。あたしらが入部して、三週間ぐらいは経ってるんでしたっけ? それならまあ、順当な成長ってやつなんじゃないですかね」
和緒はあくまで、ポーカーフェイスである。
宮岡部長はそれを突き崩すのをあきらめた様子で、おどおどと身をすくめる栗原理乃のほうを見た。
何となく、めぐるや和緒に対するよりも、非友好的な眼差しである。男女ともに人気を博する和緒と異なり、栗原理乃は同性から反感を買いやすいタイプであるようなのだ。
「……歌っていうのは、それこそ才能による部分が大きいのかな。あんな歌声、狙って作れるもんじゃないだろうし……栗原さんは、ずいぶん才能に恵まれたみたいだね」
「えー? サイノーのひと言で片付けられるのは、なーんか納得いかないなー! 理乃にはピアノのキャリアがあるから、それが活かされてるんじゃないのー?」
気弱な栗原理乃に代わって、元気な幼馴染が不服を申し立てる。
宮岡部長は引き締まった面持ちのまま、何かを振りきるように「そう」と言い捨てた。
「まあ、才能でも努力の結果でも、何でもかまわないよ。あなたたちは、すごい演奏をしてたと思う。そんなレベルに達してるなら……いっそ、コンクールにでもエントリーしてみたら?」
「なに言ってんだよ!」と、先輩部員のひとりがわめきたてた。副部長でドラマーの、たしか寺林という名の男子部員である。
「確かにキャリアを考えりゃあ、それなりの完成度だったけどよ! こんなやつら、コンクールで通用するわけねえだろ!」
「それなりの完成度? それ、本気で言ってるの?」
「当たり前だろ! 音はグチャグチャだし、リズムだって今にも崩れそうだったじゃねえか!」
「それが最後まで崩れなかったから、あんなに凄い演奏だったんじゃない? 音だって、ここの機材じゃアレがめいっぱいでしょ」
「とにかく! こんなやつらをコンクールに出したら、俺たちがOBにシメられちまうよ! よくも過去の栄光を汚してくれたってな!」
寺林副部長は、妙にいきりたってしまっているようであった。
それに呼応して、宮岡部長のほうも険しい目つきになってしまっている。二年生である男女の部員は、おろおろしながらそれを見守るばかりであった。
「だけどさ、わたしたちはロクに練習時間を取れないから、けっきょくエントリーを断念しちゃったじゃん。この軽音部がひと組もエントリーしないなんて、数年ぶりの事態なんだよ?」
「それで無理やりエントリーして、去年はどうだったよ? これ以上の恥をさらすのは御免だね!」
「チャレンジする前にあきらめるほうが、よっぽど恥ずかしいんじゃないの?」
「だったらお前が、その一年坊たちと一緒にエントリーしろよ! 手前は恥をかく覚悟もねえくせに、好き勝手言ってんじゃねえ!」
両名の言い争いは、どんどん加熱していく。
それを断ち切ったのは、町田アンナの雷鳴のごときギターサウンドであった。
「あのさー、ウチらをネタにしてモメないでもらえるかなー? コンクールだとか何だとか、意味がわかんないんだけど?」
宮岡部長は我に返った様子で、町田アンナのほうを振り返った。
「……そうだね、ごめん。あなたが入部したときに説明したと思うけど、年にいっぺん軽音学部のコンクールってやつがあるんだよ。昔はうちの学校も、当たり前みたいに優勝を飾ってたんだけど……この数年は、さっぱりでさ。去年なんかも、わたしとこいつのバンドがあえなく玉砕しちゃったわけ」
「なるほどねー。でも、ウチらは入学したばっかだからさー。それで学校の看板を背負うってのは、ちょっとばっかり荷が重いかなー」
そう言って、町田アンナは陽気に笑った。
「それに、ウチらもまだまだ曲を煮詰めてる最中だからさ! 今は、練習に専念したいんだよねー!」
「……うん。そうだよね。あなたたちの演奏がすごかったから、わたしもつい先走っちゃたよ」
そう言って、宮岡部長はいくぶん寂しげに微笑んだ。
「コンクールなんて、別に義務でも強制でもないからね。あなたたちは、自分のペースで活動すればいいよ。もし他にライブとか決まったら、声をかけてね。受験勉強に差しさわりがなければ、駆けつけるよ」
「うん、りょーかい! センパイたちも、あれこれ頑張ってねー!」
宮岡部長はひとつうなずき、真っ先に部室を出ていった。
二年生の男女は慌ててそれを追いかけて、寺林副部長はこちらをひとにらみしてから最後に退室する。そうしてもとの四人に落ち着くと、町田アンナは「ふひー」と息をついた。
「なーんか、青春してるねー! あのセンパイがたも、本当はバンドを頑張りたいんだろうなー!」
「ああいう熱血は、性に合わないね。あんたがコンクールとやらを断ってくれて、ほっとしたよ」
「あはは! ウチはもともと、コンクールとかキョーミないからさ! じゃ、次は何の曲に取りかかろっか!」
町田アンナは元気いっぱいに、めぐるたちのほうを振り返ってくる。
すると――栗原理乃が、ぺたんとしゃがみこんでしまった。
「わっ! 理乃、どーしたの?」
「ごめんなさい……急におなかが痛くなってきちゃって……」
栗原理乃は、もともと青白い顔が蒼白になってしまっていた。
町田アンナはギターを背中のほうに振りやって、栗原理乃のもとに膝をつく。そしてその手が、幼馴染の肩にそっとあてられた。
「コンクールとか聞いて、アレルギー反応が出ちゃった? そんな話はきっちり断ったんだから、なーんも心配はいらないよ!」
「うん……ごめんなさい……アンナちゃんは、ライブをやりたいのに……私のせいで、せっかくのお話を断ることになっちゃって……」
「理乃のせいじゃないってば! コンクールにはキョーミないって言ってるっしょー?」
町田アンナは笑っていたが、栗原理乃は今にも泣き出してしまいそうな顔であった。
そうしてその日は栗原理乃の容態が回復するまで、演奏陣のみの練習が続けられたのだった。




