05 仲介
その後もめぐるたちは、飽くことなく練習に取り組んだ。
軽音学部の先輩がたは部室でミーティングを行うことをあきらめたらしく、一度として顔を見せていない。放課後の部室は使い放題で、町田アンナのアルバイトが入っていない日は最終下校時間までみっちり練習を積むことができた。
なおかつ、町田アンナが途中で帰ってしまう日は、音作りおよび和緒とのコンビ練習に没頭である。エフェクターの音作りにはなかなかゴールが見えなかったし、ドラムと二人きりの練習というのも普段とは異なる楽しさが秘められていた。歌やギターが消えてしまうと、リズムのズレというものが誤魔化しようもなくあらわにされるようであるのだ。
「それを楽しいとのたまうあんたの感性には、もう脱帽だね。ドMを通り越して、もはや修行僧の域なんじゃない?」
「あはは。でも、うまくいってない部分がハッキリすれば、いっそう完成に近づけるじゃん」
和緒と二人きりになると、めぐるも思うさま気安く語らうことができた。もちろん他のメンバーたちが同席していても楽しいことは楽しいのだが、やはり二年来の気安さというのはめぐるにとってかけがえのないものであるのだ。
そして、バンドを結成して一週間ほどが経過した頃、練習中にベースの弦が切れることになった。
以前に弦交換をしてからおおよそひと月が経過しているし、予備の弦も準備していたので、何も慌てることはない。ただし弦交換を行うにあたっては、いささか手間をかける必要があった。
「すみません。弦交換のついでに指板のクリーニングをしたいので、ちょっとだけ時間をもらえますか?」
「あー、指板の手入れをするには、弦をぜーんぶ外さないといけないもんねー。……あれ? だけど、そのリッケンも指板を塗装でコーティングされてるんでしょ? だったら、手入れとか必要なくない?」
「あ、はい。ただ、念入りにクリーニングしたいならポリッシュを使うといいと言われたので……月に一度は、そうしようかと思って……」
「へー、マメだねー! ま、磨きたいなら好きにすりゃいいさ! ウチもボディを磨くのは大好きだからねー!」
そんな具合に、余人と楽器について語らうのも、めぐるにとってはささやかな楽しみのひとつであった。
ただし、楽しいだけでは終わらない部分もある。こうして予備の弦を使用したからには、また新しい弦を購入しなければならなかった。
「あの、町田さん……以前に言っていたアルバイトって、どういう内容なんでしょう?」
「おーっ! めぐるもついに、キンローの意欲に目覚めた?」
「はい……やっぱり色々と出費が重なってしまうもので……」
めぐるは毎日ベースを部室に持ち込んでいるので、自宅から駅までのバス代というものが生じてしまっている。あとはひと月にいっぺん弦交換をしなければならないし、ボディや指板を磨くポリッシュというクリーニング剤は消耗品であるし、三ヶ月にいっぺんはフレットのクリーニングもしようと考えているし、いずれは新しいエフェクターが欲しくなってしまうかもしれないし――なおかつ、体調管理のために以前よりは栄養のある食事というものを心がけているので、生活費にもまったくゆとりがなかったのだった。
「それに、あの……わたし、新しいケースも欲しいんですよね。町田さんが使ってるような、頑丈そうなやつを……」
「あー、ぺらっぺらのソフトケースは、やっぱ不安だよねー! ウチもギターを壊したくなかったから、速攻でこのギグバッグに買い替えたんだよー!」
「は、はい。わたしもベースを持ち運ぶときは、十分に気をつけていたつもりなんですけど……いつの間にか、おしりのほうに傷がついちゃってて……それに気づいたときは、泣きそうになっちゃいました」
「今も泣きそうになってんじゃん! もー、めぐるはときどき、ボセーホンノーをくすぐってくるよねー!」
町田アンナは陽気に笑いながら、その手のギターをかき鳴らした。
「ウチがやってるのは、物流センターの仕分けのバイトだよ! あっちはいつでも人手不足だし、シャチョーさんはうちの道場の門下生だから、色々とユーヅーをきかせてくれるんだー! 時給もそんなに悪くないし、ウチを通せば明日からでも働けるよー!」
「あ、明日からは、ちょっと……それに、保護者の許可とか必要だったりしますか?」
「そんなもん、いらないよー! ウチの紹介だったら、履歴書だっていらないぐらいだもん! ……でも、めぐるがウチと一緒に働きだしたら、和緒が嫉妬しちゃうかなー?」
「いや、まったく。それより、あんたの相棒の心配でもしたら?」
ここぞとばかりにスマホをいじっていた和緒が、スティックで栗原理乃のほうを指し示す。そちらでは、パイプ椅子に座した栗原理乃が目を泳がせていた。
「えー? なーんで理乃が嫉妬するのさー! ウチがバイトに誘ったら、あんたはあっさり断ったっしょー?」
「べ、別に嫉妬してるわけじゃ……でもきっと、二人はいっそう仲良くなるんだろうね」
「だったらあんたも、仲良くなれるように頑張りなってば! もー、メンバーの半分が人見知りキャラってのは、どうしたもんだろうねー!」
町田アンナは何を気にする様子もなく、けらけらと笑った。
「それじゃあとりあえず、日曜日から始めてみる? 日曜だったら、部室も使えないしさ! ウチもこれからは、平日の七時以降と日曜の昼間に固めようと思ってるんだよねー!」
「は、はい。それじゃあ……どうぞよろしくお願いします」
そんなわけで、めぐるはまた新しい境地に足を踏み出すことになってしまった。
しかしそれも、バンド活動を滞りなく継続させるためである。そうでなければ、めぐるがこうまで能動的に動けるわけがなかった。
そしてその日の練習を終えた後は、『リペアショップ・ベンジー』に出向いて弦の購入である。今にして思えば、めぐるは浅川亜季のすすめで軽音学部に入部したというのに、いまだ何の報告もしていなかったのだった。
「そういえば、かずちゃんは浅川さんと連絡を取り合ってるの?」
「うんにゃ。向こうからも連絡はないし、あたしから連絡を入れる筋合いもないからね」
そういう部分は、徹底的にドライな和緒である。しかし、連絡先の交換もしていないめぐるには、何を意見する資格もなかった。
「……ところでどうして、今日もオマケがひっついてるんだろうねぇ」
「えー? だってめぐるは、そのお店でリッケンと運命の出会いをしたってんでしょー? それに、ギターの上手い美人店員ってのも気になるしさ!」
本日もまた、町田アンナと栗原理乃が同行していたのだ。四日前の、エフェクターを購入した日の再現であった。
本日は練習後から直帰であったので、時刻は六時半を少し過ぎたぐらいだ。五月も終わりに差し掛かり、だいぶん日がのびてきたものの、日没はもう目の前であった。
そうして薄暗い路地を踏み越えて、めぐるたちは『リペアショップ・ベンジー』に乗り込んだわけであるが――残念ながら、ギターの上手い美人店員は不在であった。本日の店番は、その祖父たる店主であったのだ。
「なんだなんだ。押し込み強盗か?」
店主は普段以上の仏頂面で、めぐるたちを出迎えてくれた。
めぐると和緒が店主と再会するのは浅川亜季からライブのチケットを頂戴した日以来であったので、ほとんどひと月ぶりとなる。めぐるとしては、月日の流れの速さに驚かされるばかりであった。
「はじめましてー! めぐるとバンドを組むことになった、町田アンナでーす! こっちは、ヴォーカルの栗原理乃だよー!」
町田アンナは店主の不機嫌そうな態度に怯んだ様子もなく、いつも通りの元気な声を張り上げる。そのかたわらで、栗原理乃はめぐるよりも小さくなってしまっていた。
店内はとても雑然としているため、せまい通路が四人の人間で埋め尽くされた格好だ。老眼鏡を外した店主は、肺の中身を振り絞るようにして溜息をついた。
「なんと騒々しい娘どもだ……しかしお前さんも、ついにバンドを組んだのだな」
「は、はい。ご報告が遅れてしまって、どうも申し訳ありません」
「そんな話を俺に報告する義理はなかろう。まさか、顔見せのためにわざわざ連れてきおったのか?」
「い、いえ。そういうわけではないのですけれど……何となく、話の流れでこうなってしまって……」
めぐるの煮え切らない返答に、店主はもういっぺん溜息をつく。めぐるとしては、申し訳ない限りであった。
「あ、それと、先日は突然お電話してしまって、申し訳ありませんでした。エフェクターも、無事に購入できましたので……」
「ビッグマフと、ラインセレクターか。初のエフェクターで、ずいぶんなチョイスをしたものだ。……それで今日は、何の用だ?」
「あ、はい。予備の弦を買わせていただこうかと思って……今回は、何とかひと月ぐらいもちました」
めぐるの言葉に、店主は眉間に皺を寄せた。
「その言い草からすると、また弦を切ったようだな。言っておくが、ひと月で弦交換というのは音の劣化を考えてのことだ。普通、ベースの弦はそんな頻度で切れるものではないのだぞ」
「え……それじゃあやっぱり、力みが取れていないんでしょうか? ゴールデンウィークが明けてから、もう軍手は使っていないんですけど……」
「ふん。そうでなければ、よほど執念深く練習しているということだろうな」
そう言って、店主は外したばかりの老眼鏡を鼻にのせた。
「もののついでだ。そいつを見せてみろ。どこかにガタがきていないか、確認してやる」
「あ、ありがとうございます」と、めぐるはせまい通路で苦労をしながらベースを取り出した。
それを受け取った店主は、底光りする目でベースを隅々まで検分していく。
「……お前さんは本当に、こいつで練習をしているのか? どこもかしこも、磨きぬかれているではないか」
「は、はい。ちょうど今日、指板の掃除をしたところですので……」
「指板ばかりでなく、ペグやブリッジにも指紋ひとつついておらんぞ。埃のたまりやすい弦の下も、綺麗に磨かれているな」
「は、はい。楽器が汚れると、音にも悪い影響が出るという話だったので……練習の後は、なるべく綺麗にしようと心がけています」
店主は「ふん」と鼻を鳴らしつつ、水平に支えたベースの下部からネックの状態を確かめた。片目を閉ざしているために、まるでライフルでも構えているような格好だ。
「ネックも反ってはいないようだな。うちに置いていた頃と、まったくコンディションは変わっておらん。しかし――」
店主はやおらベースを構えて、4弦5フレットのA音を奏でた。
「これは確かに、ずいぶん弾き込んでいるようだ。放置された楽器というのは、音が曇るものだからな」
「あはは! めぐるは毎晩ぶっ倒れるまで、練習ざんまいって話だもんねー! さすがのあたしも、負けちゃうなー!」
そんな風に語る町田アンナはどこか誇らしげな面持ちであり、めぐるは何だか胸の内側をくすぐられたような心地であった。
店主は自分で触れた箇所をざっとクロスでぬぐってから、ベースをめぐるに差し出してくる。
「ブリッジのサドルにも異常はないし、弦の巻き方もまあ合格点だ。弦が切れてしまう原因は、人間のほうにあるようだな。不必要に力んでいるか、練習時間が尋常でないかのどちらかだろうよ」
「そ、そうですか。なるべく力まないように、気をつけようかと思います」
めぐるは恐縮しながら、ベースをケースに仕舞い込んだ。
そのタイミングで、カウンターの向こう側に設置されたドアが開かれる。そこから顔を出したのは、浅川亜季に他ならなかった。
「あれぇ? なんか賑やかだと思ったら、めぐるっちと和緒っちじゃん。しかも、女子高生が山盛りだぁ」
「あ、ど、どうも。浅川さんも、いらっしゃったんですね」
「あはは。そりゃあいちおう、あたしもここに住んでる身だからねぇ」
くたびれたTシャツにだぶついたスウェットパンツというラフな格好をした浅川亜季は、サンダルをつっかけてカウンターのほうに出てきた。
「お、そっちの娘さんもギターケースを担いでるねぇ。ひょっとしたら、軽音部でお仲間を見つけられたとか?」
「は、はい。実は、そうなんです。もっと早くご報告しようかと思ったのですけれど……」
「いいさいいさぁ。めぐるっちが楽しくバンド活動を始められたんなら、それで十分だよぉ」
真っ赤な髪をかきあげながら、浅川亜季はのんびりと笑った。
「あたしはこのじーさまの孫娘で、浅川亜季ってもんだよぉ。『V8チェンソー』ってバンドで、ギタボをやってるの。よかったら、今後ともよろしくねぇ」
「ウチは町田アンナで、こっちは栗原理乃だよー! ウワサ通り、美人のおねーさんだねー!」
「いやぁ、そっちの顔ぶれには太刀打ちできそうにないなぁ」
浅川亜季は確かに美人の部類であろうが、和緒や栗原理乃はまごうことなき美少女であるのだ。それに町田アンナとて、口さえ開かなければ異国的な美形と言える顔立ちをしていた。
「で? 今日は何のご用事? また弦でも買いに来たとかぁ?」
「は、はい。実は、そうなんです。エフェクターは、あっちの楽器店で買うことになりましたので……」
「えー? めぐるっちは、エフェクターを買ったのぉ? それは初耳だったなぁ」
「そ、そうですか。在庫があれば、こちらで買わせていただきたかったのですけれど……どちらも取り扱ってないというお話だったので……」
「んー? ってことは、じーさまに相談をしてたとかぁ? だったら、こっちにも教えてほしかったなぁ。情報の独り占めとか、ずるくなぁい?」
「何が独り占めだ。用がないなら、引っ込んでおれ」
店主はいっそう仏頂面になってしまったが、身内の浅川亜季は気にする風でもない。そしてその眠たげな目が、苦笑の気配を漂わせつつ和緒のほうに転じられた。
「それに、和緒っちも連絡をくれればいいのにさぁ。やっぱあたしも遠慮しないで、ガンガン連絡しとくべきだったかぁ」
「あたしは引っ込み思案なんで、そんな真似をされたら委縮しちゃいますね」
「あはは。どのクチが言ってんのさぁ。相変わらず、和緒っちも面白いなぁ。……それで、めぐるっちは何のエフェクターを買ったのかなぁ? やっぱ『SanZenon』に影響を受けて、歪み系? それとも、空間系とかぁ?」
再び出番が巡ってきたので、めぐるは「は、はい」と背筋をのばすことになった。
「わ、わたしが買ったのは、歪み系です。ビッグマフとラインセレクターというのを買うことになりました」
「おー、いきなりビッグマフとは、大胆なチョイスだねぇ。でも、ラインセレクターは何に使うのかなぁ?」
「は、はい。ビッグマフはギター用のエフェクターなので、ラインセレクターで原音と歪みの音をブレンドさせています」
浅川亜季は、眠たげな目をぱちくりさせた。
「ラインセレクターを、ブレンダーとして使ってるんだぁ? ちょっと見ない間に、めぐるっちも成長したねぇ。こいつはライブのお披露目が楽しみだぁ」
「い、いえ。わたしなんて、ライブを考えられるようなレベルではありませんので……」
「そんなことないよー! 曲はまだまだ未完成だけど、めぐるの腕に不足はないって! ……ま、今はそれより、練習を頑張らなきゃだけどねー!」
と、町田アンナはにこやかな面持ちで、栗原理乃の華奢な肩を抱え込む。町田アンナはライブ活動を念頭に置いているようだが、それでも大切な幼馴染の心情を二の次にはしていないのだ。
そんな町田アンナたちの姿を見回してから、浅川亜季は「ふうん」と笑う。
「じゃ、こっちが営業させてもらおうかなぁ。もうちょいしたら、和緒っちに連絡を入れようかと思ってたんだけど……来月の半ば、飛び込みでライブをやることになったんだよねぇ。知り合いのバンドのイベントなんだけど、急にひと枠あいちゃったみたいでさぁ。場所も千葉なんで、どう?」
「あ、そうなんですか。もちろんわたしは、チケットを買わせていただきます。そういうお約束でしたので……」
「そんな約束は忘れてくれていいけど、生まれ変わったあたしらの姿をめぐるっちに見てほしいんだよねぇ」
そう言って、浅川亜季はゆったりと笑った。彼女たちは『SanZenon』のミニアルバムを聴くことで、迷走状態から脱することができたという話であったのだ。それならば、めぐるも本心から彼女たちのライブを観たいと思うことができた。
「だったら、ウチらもご一緒させてもらおっかなー! 来月の、何日?」
「日付は忘れちゃったけど、たしか第二土曜日だねぇ。あたしらの出番は、六時半ぐらいになると思うよぉ」
「土曜日かー! バイトが一回つぶれちゃうけど、ま、いっか! ライブハウスに出向くなんて、春休み以来だしさ!」
「あはは。だったら、大して空いてないじゃん。あなたはそんな初心者でもないのかなぁ?」
「ギターを始めたのは二年前で、ライブハウスに通い出したのもそれぐらいだね! ただ、この春までは地獄の受験だったからさー! 去年の夏ぐらいから春休みまでは、じーっとガマンの毎日だったんだよねー!」
人見知りという概念を持っていない町田アンナは、すみやかに浅川亜季と親睦を深められたようであった。別々の場所で知り合った者同士がめぐるを介して交流を結ぶという、これまためぐるにとってはほとんど初体験のような出来事だ。
ともあれ、ひさびさに『リペアショップ・ベンジー』まで出向いためぐるは、人生で二度目のライブ観戦に招待されたわけであった。




