06 『Chun Chun Island feat.A』と『さくら事変』
『それじゃあ、演奏を開始しまぁす』
ひときわのんびりした声で告げてから、嶋村亨はマイクの前から身を引いた。
客席からまばらな拍手があげられる中、嶋村亨はぐるりとステージ上を見回していく。野中すずみは気合の入った顔で、北中莉子は仏頂面で、それぞれうなずき返し、ひとり表情のわからない町田アンナは座ったままサムズアップのジェスチャーを見せた。
嶋村亨はあらためて客席に向きなおり、ぺこりとお辞儀をする。
そうしておもむろに、美しいギターサウンドを響かせた。
まずはエスニックな旋律が、ゆったりとかき鳴らされる。
もちろん本番では北中莉子もクリックを聴いていないし、余計なカウントを鳴らすこともない。そのための練習も、この二週間でさんざん積んでいた。
嶋村亨の演奏は、すぐさま速弾きのプレイに切り替えられる。
他のバンドではまったく耳にする機会もない、トレモログリッサンド奏法のテクニックだ。そのきらびやかな音色とリズミカルな速弾きに、客席からはどよめきがあげられた。
そして、町田アンナの掛け声を合図として、すべての演奏が重ねられる。
たちまち、心地好い疾走感が現出した。
テンポは原曲よりも速い、BPM182である。
およそ二週間の鍛練で、彼らは何とかこのテンポで弾ききることがかなうようになったのだった。
野中すずみと北中莉子は、必死の形相である。
嶋村亨はのほほんとした面持ちであるが、リズム隊に負けないぐらい神経を集中していることがまざまざと伝わってくる。彼は直立不動の姿勢で、ただ細長い指先だけを俊敏な蜘蛛の足のように駆け巡らせていた。
もともとこちらの楽曲が備えている疾走感に、彼らならではの切迫感が上乗せされている。
彼らはいずれ原曲のテンポでもこの迫力が出せるようにという目標を掲げていたが、さすがに二週間では達成できなかったため、この過酷なアップテンポでステージに臨むことになったのだった。
そのおかげで、めぐるにとっては申し分のない荒々しい調和が体現されている。
もちろんライブハウスで目にする他のバンドと比べれば、まだまだ未熟なのであろうが――めぐるは、この演奏を好ましく思っていた。
ベースの野太い音色も、ドラムの力強い音色も、リードギターの鋭くて美しい音色も、サイドギターの躍動感にあふれかえった音色も、すべてが魅力的であり――そして、それらが組み合わされることによって、このバンドならではの魅力というものが生まれていた。
リズム隊はそれぞれ音の粒にバラつきがあるため、時にはそれがリズムの調和を揺るがしている。
リードギターはこのテンポでもミスタッチがなくなるぐらい上達していたが、ともすれば一人だけ突っ走ってしまいそうな危うさが感じられた。
そんなぎりぎりのラインで、彼らは何とか踏み止まっているのである。
その切迫感が、めぐるの胸を躍らせるのだった。
そして、そんな彼らを支えているのは、やっぱりサイドギターの町田アンナである。
紙袋をかぶってステージの中央に座り込んだ町田アンナは楽しげに身をゆすりながら、オレンジ色のテレキャスターをかき鳴らしている。その一見は荒々しいギタープレイが、後輩たちの危ういプレイをがっしりつなぎとめているのだった。
正直に言って、町田アンナが参加しなければ、彼らの魅力は半減する。そのさまは、めぐるも何度となく部室で見届けていた。
しかしそれもまた、今後の課題であるのだ。天地がひっくり返ろうとも町田アンナがこのバンドに正式加入することはありえないはずであるので、彼らは三人だけで理想の演奏を体現できるように練習を積まなければならないのだった。
(でも、このバンドにはヴォーカルがいないから……いずれは、メンバーを増やす必要が出てくるのかな)
しかし、そんな話で思い悩むのはのちのことである。
今の彼らは、この四人でステージに立っているのだ。重要であるのは、今この瞬間であった。
楽曲が中盤に差し掛かると、ドラムがスネアやタムを連打するパートが登場する。
練習の開始当初から、北中莉子がぶちぶちとぼやいていた難解なパートだ。
しかし和緒が脱力を心がけるように指導をしてから、このパートも格段に完成度が増していた。
それでも北中莉子は必死であるが、その必死さがまた得も言われぬ切迫感や緊張感を生み出している。さらに、その中で速弾きのソロプレイに取り組むリードギターのサウンドが、いっそうの危うい魅力をかもしだすのだった。
そう考えると、彼らの魅力の大部分は未完成であるがための荒々しさに由来しているのかもしれない。
それがこの先、どのような形で結実していくのか――めぐるは、そんな期待をかきたてられてならないのだった。
◇
「なかなか見込みのありそうなやつらじゃねえか」
『Chun Chun Island feat.A』のステージが終了した後、真っ先に声をあげたのは寺林であった。
以前から練習していた二曲目も、新たに追加した三曲目も、同じ切迫感を保持したまま終わりを迎えたのだ。寺林は彼らしい荒っぽい口調であったものの、その顔は実に満足そうな表情を浮かべていた。
「リズム隊は、入部してから楽器の練習を始めたってんだろ? それなら、及第点以上だよ。お前らみたいな規格外のバンドは、そうそう存在しないんだからな」
「うん。サポートの町田さんの力が大きいんだろうけど、個々に魅力があるからこその完成度だったね。これは、将来有望だと思うよ」
宮岡も嬉しそうな笑顔で、そんな風に言ってくれた。
めぐるは何だか、誇らしい気持ちでいっぱいである。早く本人たちに、その言葉を聞かせてあげたかった。
和緒と森藤と小伊田は次の出番に備えるため、しばらく前に姿を消している。栗原理乃のもとには町田家のご家族が集っていたので、めぐるはひっそりと『V8チェンソー』の面々に身を寄せた。
「あの……みなさんは、如何でしたか?」
「うん。何より、選曲が渋いねぇ。高一のみんながこんな懐かしの名曲にチャレンジしてくれるなんて、なんだか愉快な心地だよぉ」
「うんうん。それにみんな、それぞれ味があるよねー。これは本当に、将来有望だと思うよー」
「ふん。オレンジ頭が抜けたら、ずいぶん苦労しそうだけどね。ま、三人で骨っぽい音を活かすか、メンバーを増やして今の路線をキープするか……思う存分、試行錯誤すりゃいいさ」
誰に対しても厳しいフユを含めて、こちらの三名も将来性を感じてくれているようである。それでめぐるが安堵していると、浅川亜季がふにゃんと笑いかけてきた。
「めぐるっちは、嬉しそうだねぇ。すっかり先輩らしくなってきたみたいで、何よりだよぉ」
「あ、いえ。わたしなんかは、大して力になれていないので……もっとかずちゃんや町田さんを見習いたいと思います」
「その発言からして、先輩っぽいなぁ。すずみっちたちは、いい先輩に恵まれたねぇ」
そうしてめぐるが恐縮していると、宮岡と寺林も会話に加わってきた。
「『KAMERIA』はゴーイングマイウェイの気質が強かったから、わたしも少し心配だったんだけどさ。森藤さんからも、みんなのおかげで軽音部が盛り上がってるって連絡をもらってたよ」
「ふふん。来年になったら、またどうなるかもわからないけどな。誰が部長を務めることになるか、高みから見物させていただくぜ?」
寺林の発言に、めぐるはきょとんとしてしまった。
「あ、そうか……来年には、二年生の誰かが部長や副部長になるんですよね。それはまったく想像していませんでした」
「あはは。まあ、タイプ的には町田さんか磯脇さんだろうけどさ。遠藤さんたちも、サポートをよろしくね」
「そうそう。部長は無理でも、副部長ぐらいはありえるだろうしな。呑気にかまえてると、後で慌てることになるぞ」
めぐるが副部長など、想像を絶する話である。
しかしまあ――自分が和緒や町田アンナのサポートをするべくあわあわしている姿であれば、なんとか想像できそうなところであった。
しかしまた、そんな話は来年の春以降の話である。
今のめぐるは、本日の文化祭をやり遂げることで手一杯であったのだった。
「お、和緒ちゃんたちの登場だねー!」
ハルの声に、めぐるも壇上に向きなおった。
『さくら事変』の四名が、セッティングを開始したのだ。
ドラムの和緒は、やはり『KAMERIA』の黒いTシャツに制服のブリーツスカート、そして紙袋の覆面をかぶった姿である。
嶋村亨は下半身だけ制服のまま、淡いグレーのシャツに着替えていた。細長い首には、黒地のネクタイまでしめている。
森藤は、あえてレトロなファッションを狙っているのだろうか。やたらとフリルの大きなブラウスと淡いピンクのティアードスカートという組み合わせで、長い髪には大きなリボンを揺らし、頭には赤いベレー帽をのせていた。
小伊田は昨年の文化祭や卒業ライブと同系統の、制服ではないブレザージャケットとスラックスだ。そして本日は、黒いハットをかぶっていた。
「おー、和緒っちがなかなかの異彩を放ってるねぇ」
浅川亜季はそんな風に言っていたが、めぐるにとっては部室で見慣れた姿である。しかしまあ、紙袋をかぶっているだけで目立つことは確かであったし、四人がバラバラの格好であるとそれがいっそう際立つのかもしれなかった。
(外見的には、嶋村くんもしっくり馴染んでるもんな)
そして演奏のほうも、この二週間ばかりでさらに馴染んでいる。めぐるとしては、そちらに注意を向けたいところであった。
やがてそれぞれの音が鳴らされると、めぐるの期待はさらに高まっていく。
なおかつ、ステージの下で和緒の音を聴くというのは、なんとも落ち着かない心地であるのだ。どうして自分があの場所にいないのだろうという思いをぐっと吞み込んで、めぐるは開演の瞬間を待ち受けることになった。
『お待たせしました。軽音学部の二番手は、わたしたち「さくら事変」です』
やがてセッティングが完了すると、森藤が穏やかな笑顔で挨拶の言葉を告げた。
『正式メンバーはわたし森藤とベースの小伊田くんで、さっきのステージにも参加した一年生の嶋村くんと、この次に登場する「KAMERIA」のKさんにサポートをお願いして、今年も出場することができました。わたしと小伊田くんは三年生ですので、心残りのないように頑張ります』
いつでも折り目正しい森藤の挨拶に、温かい拍手が鳴らされる。また最前列に陣取っためぐるたちの周囲には、最上級生と思しき生徒たちも少なからず居並んでいた。
『それでは、「さくら事変」、スタートします』
そのように告げるなり、森藤がキーボードの鍵盤に指先を走らせた。
ちょっとジャズっぽい、軽やかな音色である。また、森藤らしい温かな音色でもあった。
その四小節目の終わり際で、他なる面々がユニゾンのリズムでいっせいに参加する。
そうしてすぐさま心地好い合奏が完成されて、めぐるの心を和ませた。
限りなくシャッフルに近いハネたリズムで、すべての音色が軽快である。こちらは和緒がもっとも苦手だと公言してはばからない、人間らしい生々しさと温もりを主体とした曲調であった。
しかし和緒は、まったく過不足なく軽快なリズムを打ち出しているように感じられる。
『KAMERIA』における『あまやどり』のように、音圧を抑えた演奏だ。そうでなければ、周囲の温かな演奏を圧倒してしまうのである。
嶋村亨は、九月分の給料で購入したワウペダルのエフェクターを駆使していた。
この曲ではディレイも使用せず、やわらかなクリーントーンのサウンドである。ゆったりとしたミドルテンポであるため、さきほどのステージとは別人のように悠然とプレイに励んでいた。
小伊田のベースの音色は、さらにやわらかい。彼はピック弾きであるがトーンを絞ったサウンドを好んでおり、ミュート弾きという奏法でもってこもり気味の音を基本にしていたのだった。
この曲は春先の卒業ライブでもお披露目されていたが、ずいぶん雰囲気が違っている。
宮岡と寺林がサポートする形態では、もうちょっと迫力のあるアレンジであったのだ。それがこうまで優しげなアレンジに落ち着いたのは、和緒の提案によるものであった。
「原曲も、けっこうライブごとにバージョンが違ってますよね。どうせだったら、とことん穏やかなアレンジを目指してみませんか?」
和緒が部室でそのように発言していた姿を、めぐるもこの目で見届けていた。
和緒であれば寺林以上の迫力を体現できるのではないかと、めぐるは不思議に思っていたのだが――彼らの練習風景を見学している間に、和緒の意図を理解できたように思えた。
おそらく和緒は、他の三名の資質に寄り添おうと考えたのだ。
森藤も小伊田も嶋村亨も、どちらかといえばゆったりとした曲調を得意にしている。もともと激しい曲調であるならば、彼らにも激しさを求めるしかなかったが――この曲のようにアレンジの幅が大きい場合は、過半数が得意とする曲調でまとめたほうが完成度も上がるはずであった。
(つまりかずちゃんは、自分から苦手なアレンジを提案したってことだよね。かずちゃんは、やっぱりすごいなぁ)
しかしそれは和緒の優しさではなく、冷静な分析力の賜物であるのかもしれない。和緒はより効率的に完成度を高めるために、客観的な判断を下しただけなのかもしれなかった。
それに、当時から嶋村亨は、合奏を苦手にしていたのだ。
そんな嶋村亨に畑違いの迫力を求めるよりも、自分が苦手なアレンジに取り組むべきである、と――和緒はそんな風に思案したのかもしれなかった。
何にせよ、和緒はきわめて合理的な人間であり、自分の存在すら駒のように扱うことのできる客観性を有している。
そしてやっぱり、根本が優しいのだ。
突き詰めれば、後輩たる嶋村亨ではなく先輩たる自分が苦労を背負うべきであると、そんな考えもしっかり存在するのだろうと思われた。
そんな和緒の采配もあって、『さくら事変』は素晴らしいステージを見せている。
こうまで優しい曲調というのは、めぐるの好みではなかったが――それでも個々の魅力が十分に引き出されているし、ドラムを叩いているのは和緒なのである。めぐるは昂揚するのではなく、とても和やかな安息の心地を授かることができていた。




