02 荒療治
「なるほど。指導に熱が入りすぎて、プレーリードッグがひとり感極まったってわけね」
部室内の騒ぎがひとまず落着すると、和緒はいっさい感情のうかがえない声でそう言った。
みんなを心配させてしまった責任を取るために、めぐると嶋村亨は話し合いの内容を余すところなく打ち明けることになったのだ。パイプ椅子に着席させられた嶋村亨はのほほんとした面持ちのまま、おずおずと言葉を返した。
「あのぉ……本当に誤解は解けたんでしょうかぁ? もしまだ怒ってらっしゃるなら、きちんと弁明させてくださいねぇ?」
「ほほう? 嶋村くんには、あたしが怒りを押し殺しているようにでも見えるのかな?」
「いえ。今の磯脇先輩はこれっぽっちも内心が見えないから、怖くてしかたがないんですよぉ」
「ふうん。まあ、内心の読めないミステリアスさがあたしの売りだから、こればかりは致し方のないところだね」
そのように語る間も、和緒の顔は完璧なまでの無表情である。
その切れ長の目にも、取り立てて特別な感情はたたえられていないように感じられる。めぐるとしては、その一点に希望をかけるしかなかった。
「ま、めぐるはこー見えて、めっちゃ熱いからねー! うっかり涙をこぼしちゃうこともあるっしょ!」
もっとも早い段階で納得の姿勢を見せてくれた町田アンナは、けらけらと笑いながら嶋村亨の薄っぺらい背中を引っぱたいた。
「でも、めぐるはみんなに愛されまくってるからね! そんなめぐるを泣かせちゃったら、シマ坊も針のムシロっしょ! 理乃もすずみんも、そろそろカンベンしてあげなって!」
「……だけど、めぐる先輩を泣かせるだなんて、そう簡単には許せません」
と、野中すずみは天然で赤みがかった頭から湯気をたちのぼらせている。
いっぽう栗原理乃もひとまずは納得できたようだが、今度は心配そうな眼差しになっている。そしてその目は嶋村亨ではなく、ずっとめぐるのほうに向けられていた。
「でも要するに、あたしらが不甲斐ないから嶋村くんも遠藤先輩に相談を持ち掛けることになったんでしょ? だったら、何割かは連帯責任なんじゃない?」
最初からもっとも冷静であった北中莉子が、ぶっきらぼうに言い捨てる。
野中すずみが憤然と振り返ると、北中莉子は幼馴染の気安さで舌を出した。
「こちとら、体育会系の根性がしみついてるもんでね。理不尽な連帯責任なんて、しょっちゅうだったんだよ。文科系でも部活は部活なんだから、あんたもちょっとは耐性をつけたほうがいいんじゃない?」
「でも! わたしたちの演奏に不満があるんだったら、直接言えばいいじゃん! めぐる先輩に八つ当たりするなんて、筋が通ってないよ!」
「だから、八つ当たりじゃなくて相談でしょ。それがヒートアップしたのは話の流れだっていうし、遠藤先輩がそこまで親身になってくれたんなら光栄に思うべきじゃない?」
北中莉子のそんな言葉に、野中すずみはわたわたと慌て始める。そしてこちらに向きなおってきたので、めぐるは何とか笑ってみせた。
「き、北中さんの言う通りです。さっきも説明した通り、わたしは勝手に動揺してしまっただけですので、嶋村くんに責任はありません」
「で、でも……けっきょくは、わたしたちが下手だから合奏が楽しくないっていうお話だったんでしょう?」
「それで、そんな風に考えるのがそもそもの間違いだって指導してくれたんでしょうよ」
めぐるよりも先に、北中莉子が発言した。
「そりゃああたしはずぶの素人なんだから、下手くそなのは百も承知さ。下手でもかまわないから文化祭に出ろって言いつけたのは部長たちだから、文句を言われる筋合いはないけどね」
「部長たちは最初から、演奏を楽しむことを最優先にするべしって主張だったしね。ただ、嶋村くんはその演奏を楽しむってところでつまづいて、プレーリードッグに相談を持ち掛けたわけだ。そういう意味では、筋が通ってると言えなくもないね」
相変わらずのクールな口調で、和緒も発言した。
「ただその原因がリズム隊の未熟さにあるのかもなんて考えたもんだから、話がややこしくなったわけだ。けっきょくその点に関しては、解決の目処が立ったのかな?」
「はあ……それに関しては、けっきょく僕の心がけ次第なのかと……」
「心がけでいきなり合奏が楽しくなったら、世話はないだろうね」
和緒の不敵な物言いはいつものことであったが、嶋村亨はまだ恐縮している様子である。しかし和緒は、かまわず言いつのった。
「気分転換に、あれこれ試行錯誤してみたら? そうする内に、心持ちにも変化が期待できるかもしれないしね」
「はあ……試行錯誤と申しますと……?」
「もう本番まで時間もないから、大胆なアレンジをするのは難しいだろうね。たとえば、テンポを変えてみるってのはどうだろうね」
いきなり話が具体性を帯びたので、多くの人間がきょとんとした。めぐるも、そのひとりである。
「テンポを変えるって……どんな風に?」
「一年生バンドの課題曲は疾走感が売りだから、テンポを落として上手くまとめるのは至難の業だろうね。だったら、テンポを上げるしかないんじゃない?」
「おー、高速バージョンに仕上げるとか? でも、それはそれでハードル高そうだなー!」
「そうまで極端に変える必要はないさ。ちょいとテンポを上げて難易度を上乗せするだけで、心持ちを変えるのは十分なんじゃないかな」
そうして和緒がきびきびと動き始めたため、なし崩し的に一年生バンドの練習が開始されることになった。
野中すずみはまだ納得がいってない様子であったが、話しているだけでは埒が明かないと思いなおしたのだろう。ロッカーから愛用のムスタングベースを引っ張り出して、誰よりも先に準備を整えた。
「インストの曲は、BPM172だったっけ? それじゃあ試しに、10だけ上げてみようか」
和緒の指示に従って、北中莉子はスマートフォンにインストールしたメトロノームのアプリを操作する。ただその顔には、最初から不満の表情がたたえられていた。
「やっとこの曲のスピードについていけるようになってきたところなのに、テンポを10も上げたらまたミスだらけになりそうですよ。嶋村くんより、あたしのほうが過酷なんじゃないですか?」
「中盤の連打以外は、そこまで厳しくないんじゃないのかな。音数を減らして簡略化してもいいけど、前のめりの疾走感を二の次にしないようにね。テンポを上げてもリズムがヘタったら、原曲の魅力も台無しだろうからさ」
「……初心者に、要求が高いですよ」
「うんうん。あたしも去年は、そんな台詞を何度も繰り返してたもんだよ」
しばらくして、町田アンナと嶋村亨の準備も完了した。
和緒とめぐると栗原理乃は、彼らを正面から見守る位置取りでパイプ椅子を並べる。波乱ぶくみのスタートであったが、バンドメンバーたる四名のたたずまいはおおよそいつも通りであった。
「準備ができたら、いつでもどうぞ」
和緒にうながされて、イヤホンをつけた北中莉子がスマートフォンを操作した。
そしてその右手が、クローズしたハイハットを叩き始める。サーフミュージックの定番曲であるこちらの曲はギターのソロプレイからそのまま合奏になだれこむため、北中莉子の打ち鳴らすテンポに合わせてソロプレイが披露されるのだ。
確かにハイハットのカウントは、普段以上にせわしなく感じられる。BPMというのは一分間の拍数のことであり、それが172であれば立派なアップテンポであるのだ。BPM182ならば、一秒に三つ以上の拍が詰め込まれるということであった。
(だいたい、『僕のかけら』と同じぐらいかな? でも……ギターは『僕のかけら』よりも速弾きだもんなぁ)
めぐるがそのように思案する中、嶋村亨がソロプレイを開始した。
ディレイのエフェクターがかけられた、幻想的で美しいサウンドだ。テンポが上昇しても、彼がその難解なフレーズをミスすることはなかった。
ただ――いつも機械のように正確な指づかいが、わずかながらに揺らいでいるように感じられる。
前のめりの疾走感というものも、いささかならず損なわれているのではないだろうか。速いテンポで打ち鳴らされているカウントに、ぎりぎり遅れずについていっているような風情であった。
そんな中、ベースとドラムとサイドギターも演奏を開始する。
そちらもいくぶん、出だしは不安定に感じられたが――それは、すぐに落ち着いた。ひたすら速弾きのリードギターに対して、他の演奏は八分のリズムを基本にしているのだ。町田アンナは楽々とギターをかき鳴らしていたし、ベースとドラムもいったん安定すると大きな不備は見られなかった。
しかし、リードギターはどんどん過酷さを増していく。
そちらはひとりで、倍の音数が詰め込まれているようなものであるのだ。しかも歌がないインストゥルメンタルというジャンルであるため、その過酷な速弾きが延々と続けられるのだった。
もとより嶋村亨は演奏中に身動きしないタイプであるが、今は石像のように直立不動でプレイに集中している。
北中莉子や野中すずみも決して楽々弾いている様子ではなく、必死の形相になっていた。ひとり楽しげなのは、町田アンナのみである。
中盤に入ると、北中莉子がいっそう苦しげな顔をみせた。
中盤には、スネアやタムの連打が入れられるのだ。
なおかつ、要所ではリードギター単体となるアレンジであるが、その間もクリックのテンポを伝えるためにハイハットを鳴らし続けなくてはならない。そこからすぐさま派手なフィルインに繋げるのは、普段から難易度が高そうであったのだ。
それでも北中莉子は、ぎりぎりのラインで踏ん張っているようであったし――嶋村亨も、それは同様であった。
気づけばめぐるは、手に汗を握ってしまっている。
町田アンナを除く三名の必死さが、めぐるの心臓を締めつけてくるのである。もともと疾走感を売りにしている楽曲が、いつ砕け散るかもわからない危うい均衡の中で普段以上の切迫感をかもし出していた。
(でも、これは……)
普段以上に、魅力的なのではないだろうか?
少なくとも、崩壊寸前のぎりぎりのポイントでぶつかりあう音の調和というのは、めぐるの琴線を揺さぶってならないのだ。
嶋村亨のギターは、悲痛に泣き叫んでいるかのようである。
それを支えるリズム隊も、なりふりかまわず突進しているような迫力であった。
そんな中、やっぱり町田アンナだけは余裕の表情であったが、彼女はその余力でもって躍動感を上乗せさせている。今にも崩れ落ちそうな合奏を裏でがっしりまとめあげているのは、彼女のサイドギターに他ならなかった。
そうして楽曲は、スネアを連打する印象的なビートに切り替えられると同時に収束する。
アウトロの最後の一音を鳴らすなり、北中莉子は「ああもう!」とスティックを放り出した。
「やっぱり、無理でしたよ! あたしには、荷が重すぎます!」
「ほうほう? なんとかかんとか、最後まで突っ走ったように見えたけどねぇ」
「……気づいたら、クリックが裏の拍になってたんですよ。気持ち悪くて、ずっと死にそうでした」
恨みのこもった声で言いながら、北中莉子はベリーショートの頭を引っかき回す。
いっぽう野中すずみは、頬を火照らせて達成感をあらわにしていた。
「確かに、すごい緊張感だったね! でも、りっちゃんのドラムはカッコよかったよ! クリックとズレてたなんて、わたしには全然わからなかったもん!」
「聴衆としても、同じ意見だね。ちょっとしたミスタッチが増えた分、迫力も増したんじゃないかな。サポートメンバーとしては、どうだった?」
「うん! ウチもいつもより楽しかったよー! みんなの気合がびんびん伝わってきて、面白かったー!」
「ま、こいつはずいぶんな荒療治だけどね。うだうだ考え込む余裕もなく、演奏に集中できたんじゃない?」
和緒に視線を向けられた嶋村亨はハンカチで額をぬぐいながら、「はい……」とうなずいた。
「なんだかわけもわからない間に、演奏が終わっちゃった感覚ですねぇ。僕たち、ちゃんと合奏できてたんですかぁ?」
「大事なのは、自分が何を感じたかじゃない?」
和緒の素っ気ない返答に、嶋村亨はふにゃんと微笑んだ。
「なんていうか、周りの演奏を耳で聴くゆとりもなかったっていう感じですねぇ。だからもう、音の響きにのっかるしかないっていうか……これが、リズムに乗るっていうことなんですかぁ?」
「さてね。リズムに乗るなんてのは感性の範疇だろうから、感じ方は人それぞれだろうと思うよ」
「そうですかぁ。でも、これは……生演奏ならではの感覚なんでしょうねぇ」
そう言って、嶋村亨は和緒に向かって深々と頭を下げた。
「ご指導、ありがとうございましたぁ。遠藤先輩も、色々とありがとうございましたぁ。まだまだわからないこともたくさんありますけど……僕も僕なりに頑張ってみますねぇ」
「は、はい。どうか頑張ってください」
そうしてその後は、別なる楽曲もテンポを速めて合奏されることに相成った。
嶋村亨の悩みが解決したのかは、まだわからない。しかし今の演奏は、めぐるにとってもっとも好ましく思える出来栄えであったのだ。文化祭の本番まで、残りはおよそ二週間――まだまだ成長の時間は残されているはずであった。
「……やっぱり、かずちゃんはすごいね」
別なる曲の演奏のさなか、めぐるがそのように囁きかけると、一瞬の沈黙の後、ほっぺたの肉をふにっとつままれた。
「嶋村くんの本音を引き出したのは、あんたでしょうよ。泣くほど感情移入したんなら、最後まで面倒みなさいな」
「べ、べつに感情移入したわけじゃ……むしろ、合奏が楽しくないって言われた野中さんたちが気の毒だっただけで……」
「だから、そっちの側に感情移入して、エキサイトしたんでしょうよ。他にも山盛りの妄念があったんだろうけどさ」
それは和緒の言う通りであったので、めぐるには返す言葉もない。
そしてその間も、和緒はめぐるの顔をじっと見据えながら、痛くなる寸前の力加減でほっぺたの肉をふにふにとつまみ続けたのだった。




