10 没入
『どうもありがとー! ウチらも十時まで粘るから、ヒマなヒトはカラんでねー!』
『虹の戯れ』の後には『僕のかけら』を披露して、その日の『KAMERIA』のステージは終了を迎えた。
黒い幕が閉められていくと、町田アンナは汗だくの顔を天井に向けながら「ふいー」と息をつく。
「いやー、やりきったやりきった! やっぱひさびさのライブハウスは、燃えるねー! たった十五分で、完全燃焼だー!」
「燃え尽きた割には、ずいぶん元気だね。とにかく撤収しないと、次の方々にご迷惑だよ」
あくまでクールな和緒にうながされて、めぐるたちは搬出の作業に取りかかった。
途中からは店側のスタッフも加わって、かさばる電子ピアノもバックヤードに片付けられていく。めぐるがエフェクターボードの蓋を閉めると、和緒がすぐさまかっさらっていった。
次の出番は、『マンイーター』である。
ベースを抱えて楽屋に上がっためぐるは、ソファにふんぞりかえった柴川蓮におずおずと声をかけた。
「あ、あの、ベース側の機材は撤収しましたので、どうぞ」
柴川蓮は「おう」と勇ましい声をあげて立ち上がり、壁に掛けていたワーウィックのベースと足もとのエフェクターボードをひっつかむ。そうして彼女がドアの向こうに消えていくと、ギターを抱えた坂田美月がのんびり笑いかけてきた。
「『KAMERIA』の直後はひさしぶりだから、レンレンも気合入りまくりだよー。二人の歌とめぐるちゃんのベースに張り合わないといけないレンレンは、あたしらの三倍ぐらい大変だからねー」
「うんうん。みんなに恥ずかしい姿を見せないように、頑張ろぉ」
亀本菜々子もまたのほほんとした笑顔で、柴川蓮の後を追った。
めぐるがベースに付着した汗を拭いていると、電子ピアノを担いだ町田アンナもやってくる。これにて、『KAMERIA』の撤収作業は完了であった。
「あらためて、おつかれさまー! いやー、今日もバッチリだったね! ソッコーで着替えて、『マンイーター』のライブも楽しまないと!」
「はいはい。せわしないこったね」
いつ男性が踏み込んでくるかもわからないので、ひとりずつシャワーユニットのカーテンに隠れてTシャツを着替えていく。栗原理乃は純白のワンピースをベージュ色のワンピースに着替えて、三つ編みをまとめた黒髪にはフレアハットを装着だ。
ライブ直後の、慌ただしいひとときである。この時間、めぐるはステージの余韻にひたりながら浮遊感にも似た感覚を楽しむのが通例であった。
そうして客席フロアに下りたならば、誰かと挨拶を交わすいとまもなく『マンイーター』のステージが開始される。
『マンイーター』は『KAMERIA』の直後でも、調子を乱すことはない。彼女たちは、それだけの魅力と演奏力を兼ね備えているのだ。そもそもめぐるは勢いのあるバンドの直後だと調子を乱すという理屈が、いまひとつ理解できていなかった。
(確かに自分たちの周年イベントで『V8チェンソー』の直後に演奏するのは、すごく恐れ多い気分だったけど……あれは、自分たちで決めたことだしなぁ)
ただめぐるは、和緒から別の論も耳にしたことがあった。調子を乱すというのは極端な例であり、何より重視されているのはお客の側の印象なのではないかという論調であった。
「うちらはベースが極悪非道な上にピアノまで入ってるから、オーソドックスなバンドよりも音が分厚いんだよ。それでもって勢いだけは大したもんらしいから、どうしたって直後のバンドは音が薄く聴こえちゃうんだろうね。あげく、若輩者の集まりだから、勢い以外の部分では負けてない熟練バンドの後に据えるのは難しいんじゃないかな」
確かにジェイ店長は、『ジェイズランド』は実力主義で出順を決めると語っていた。どんなに若輩であろうとも、実力があるバンドに前座を押しつけたりはしない、ということなのだろう。
しかし『KAMERIA』は、おそらくその実力というもののバロメーターが極端な形状であるのだ。熟練バンドに比べれば演奏力も完成度もまだまだであるが、勢いや迫力だけは一人前――といった評価であるのだろうと察せられた。
まあ何にせよ、そんな話で思い悩むのはステージの出順を決定する側の役割である。
そうしてジェイ店長は本日、『マンイーター』を『KAMERIA』の直後に据えて――彼女たちは、素晴らしいステージを見せていた。
客席の盛り上がりも上々で、物足りなさを感じているお客などはいないことだろう。めぐる自身、『マンイーター』の魅力的な演奏で存分に心を浮き立たせることがかなった。
「いやー、やっぱ『マンイーター』はかっちょいいねー! またセッションで、一緒にやらせてほしいなー!」
『マンイーター』のステージが終了すると、町田アンナも満面の笑みでそのように語っていた。
そしてそこに、大勢の人間が寄り集まってくる。出演バンドや常連客の面々だ。その内の何名かがTシャツを買い求めてくれたので、ビニールバッグを抱えた町田アンナが応対に追われることに相成った。
おおよそは、周年イベントで買いそびれた人々であるのだろう。『KAMERIA』のグッズが目の前で購入されるのは初めての体験であったので、めぐるは感無量であった。
平日である本日は、『KAMERIA』の個人的なお客というのは野中すずみと北中莉子しか存在しない。嶋村亨も本日は所用があるとのことで、欠席であったのだ。しかし、『KAMERIA』のTシャツは次々に売れていき、ぱんぱんにふくらんでいたビニールバッグもすぐに半分ていどの厚みにしぼんでいくことになったのだった。
「今日のステージも、最高だったよ! 次のライブが十一月なんて、待ち遠しいなー! こうなったら、マジで文化祭にもお邪魔しちゃおっかなー!」
と、時にはめぐるに熱情をぶつけてくる者もいる。二十代の半ばぐらいに見えるその女性は、たしか野外イベントで挨拶をさせてもらった常連客のひとりであった。
「ど、どうもありがとうございます。文化祭のステージも十五分ですけど、もしよかったら……あ、かずちゃんや町田さんは、別のコピーバンドにも出る予定ですので……」
「町田さんって? アンナちゃんのこと? ふーん! 『KAMERIA』のメンバーが他の高校生とコピバンなんて、なんか想像がつかないなー! でも、あたしみたいなババアが押しかけちゃっても大丈夫なのかなぁ?」
「は、はい。年齢制限はないはずですので……」
「あはは! そこはババアじゃありませんよって否定してほしかったなー!」
斯様にして、対人能力に難のあるめぐるは目を白黒させることも多かったが、なんとか笑い話でおさめることがかなった。
それにやっぱり、縁もゆかりもなかった相手がこうまで『KAMERIA』に価値を見出してくれるというのは、誇らしい限りである。これではめぐるもなけなしの力を振り絞って、誠実に応対する他なかった。
そうして次なるバンドの演奏が開始されたならば人々の関心はステージに集中して、それが終了したならば再び取り囲まれる。それを二回繰り返すと、『V8チェンソー』の出番が巡ってきた。
今日はまだ、『V8チェンソー』の面々と挨拶できていない。そんな三名がステージに現れると、めぐるの胸は普段以上に高鳴った。
浅川亜季はタンクトップの上にワッペンだらけのワークシャツを羽織っており、チェリーレッドのレスポールを黙々とかき鳴らす。フユはエスニックな柄のブラウスに黒いスキニーパンツといういでたちで、相変わらずの凛々しさであった。
『二十四周年、おめでとー! これからも、どうぞよろしくー!』
Tシャツ姿のハルがシンバルを乱打しながら、そんな声を張り上げる。
そしてすぐさま、頭打ちの激しいビートが披露された。オープニングの定番曲、『キック・ダウン』である。
本日も、『V8チェンソー』のステージは申し分なかった。
ようやく自らのステージの余韻から抜けきっためぐるの心臓が、新たな昂りに見舞われていく。たとえ一週間のインターバルでも、めぐるが『V8チェンソー』のステージに見飽きることはありえなかった。
『どうもありがとー! ……いやー、他のみんなも言ってたけど、二十四周年ってすごいよねー! あたしたちは当たり前みたいにジェイズのお世話になってるけど、その当たり前のために頑張ってくれてる店長やスタッフさんたちには、心から感謝してまーす!』
『キック・ダウン』が終了すると、ハルがまた元気に語り始めた。
『あたしたちもジェイズを見習って、十年二十年と頑張っていきたいなー! 今後も末永くよろしくお願いしまーす! ……ではでは、時間もないから、次の曲ね! さっきAちゃんも言ってた通り、うちらと「KAMERIA」で新曲を作ったんだー! 「KAMERIA」のアレンジもめっちゃかっこよかったけど、うちらも負けないよー!』
大歓声の中、浅川亜季がおもむろにギターをかき鳴らした。
粘ついたワウのサウンドによる、リズミカルなバッキングだ。それだけで『虹の戯れ』であることに疑いはなかったが――ただそのサウンドには、ファズの歪みも重ねられていた。
ファズとワウを重ねるのはギターの常套手段であるようだが、『虹の戯れ』では初の試みだ。深い歪みがかけられた分、軽妙さよりも狂暴さが強調されている。
そしてそこにベースとドラムが加えられると――めぐるの心臓は、さらに高鳴った。『V8チェンソー』の演奏が、普段以上の圧力で迫ってきたのだ。
ハルはシャッフルすれすれの、弾んだビートを叩き出している。
それはいかにもハルらしいプレイであり、夏の合宿でも何度かお披露目されていたが――フユのほうは、まったく毛色が変わっていた。もとよりフユはめぐるに本来の座を譲って上物に徹していたし、時おりベースらしいプレイを見せる際にもクリーンサウンドでファンキーなフレーズを奏でていたのだ。
だから『V8チェンソー』は自分たちだけで『虹の戯れ』を演奏する際、軽妙かつファンキーな要素を強調するのではないかと考えていたのだが――これはまったく、異なるアレンジであった。ワウにファズを重ねた浅川亜季に対して、フユもベースを歪ませていたのである。
これはおそらく、ブードゥーというエフェクターの歪みであろう。中低音をブーストさせたブーミーなサウンドであり、輪郭のにじんだ野太い音色がギターとドラムの両方に絡み合っていた。
然してそのフレーズは、縦横無尽にフレットを駆け巡る難解な仕上がりである。
細かい十六分の音符で、ローからハイのポジションまでせわしなく行き来する。フユの長くてしなやかな指先は、その一本ずつが別々の生き物であるかのように複雑な動きを見せていた。
ただし『虹の戯れ』はミドルテンポであるため、現在のめぐるであればこの難解なフレーズを真似ることも不可能ではない。
ただそれは同じフレーズを辿ることが可能なだけであり、これほどのグルーブを再現させることは不可能であるに違いなかった。
フユはただ難解なフレーズを紡いでいるわけではなく、ピッキングの強弱とリズムの緩急でフユならではのグルーブを完成させているのだ。
細かなグリスや、要所に織り込まれた休符や、ゴーストノートも重要であるのだろう。これほど難解なフレーズの中にどれほど微細かつ巧妙なテクニックを組み込んでいるのかと、めぐるは我が目と耳を疑うほどであった。
そしてめぐるはどれだけ懸命にベースの音を追おうとしても、すぐに心を乱されてしまう。
それはベース単体で成立する魅力ではなく、ギターとドラムがあってこそであるのだ。他なる楽器と合奏することですべての魅力が成立しているのだから、ベースの音だけを追うというのは本末転倒の極みであったのだった。
(すごい……フユさんはいつだってすごいけど、この曲は……普段よりも、もっとすごい)
めぐるが初めて『V8チェンソー』のステージを目にしたとき、フユのベースは今よりも難解なフレーズを多用していた。土田奈津実の穴を埋めるべく、当時は誰もが派手派手しい演奏を心がけていたのだ。中でもフユは卓越した演奏力を有しているため、浅川亜季やハルよりもさらに難解かつ華やかなプレイを披露していたのだった。
しかしそれは、『V8チェンソー』の魅力を損なう行いであった。悪い意味で各人の音がぶつかって、ただ派手なだけの演奏に成り下がってしまっていたのだ。それですべてのアレンジをイチから見直したからこそ、今の『V8チェンソー』があるのだった。
今のフユは、あの頃にも負けないほどの難解なフレーズを紡いでいる。
しかし決して、悪目立ちはしていない。それどころか、その手腕のすべてはギターとドラムと絡み合い、おたがいを補強しあうためにこそ振るわれているのだった。
赤い照明に照らされながら、フユはまぶたを閉ざしている。
おそらくは、音の中に没入しているのだろう。
そんなフユの姿を見つめているだけで、めぐるの目に涙がにじんでしまった。
(きっとフユさんは……自分だったらどうやってコッフィさんに立ち向かうかって、そんな風に考えぬいたんだ……)
そんな考えがよぎると同時に、めぐるの頭にサックスの音色が鳴り響いた。
とてつもない存在感を有する、コッフィのサックス――もし今この瞬間に彼女が乱入してきても、『V8チェンソー』は真正面から受け止めることができるだろう。『V8チェンソー』は、それだけの演奏を完成させていた。
(やっぱりわたしたちは、まだまだだ……でも……このまま『KAMERIA』を続けていったら、いつかきっと……)
そんな思いも、やがて散り散りになって消え去っていく。
今は何を考えようとも、雑念にしかならないのだ。
そのように考えためぐるは、あらためて『V8チェンソー』の演奏に没入し――そうすると、目もとににじんだものが熱いしずくとなって、何度も頬を伝っていったのだった。
2025.8/7
今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。




