04 来店
それから、およそ二時間後――午後の六時となって、軽音学部の活動は終了した。
部員一同は機材を抱えて、部室から撤退する。三年生が二名、二年生が四名、一年生が三名という大人数だ。まあ、一年生はいずれも仮入部の身であったが、こんなに部室が賑やかになったのは卒業式以来であった。
そして、野中すずみはひとりで目を赤く泣き腫らしている。彼女は『KAMERIA』の練習風景を目にしただけで、また落涙してしまったのだ。そして彼女の視線はずっとベースに釘付けであったので、めぐるとしては気まずさの極致であった。
(ライブならまだしも、練習で泣かれちゃうと……わたしも、どうしていいかわからないなぁ)
そうしてめぐるが溜息をついていると、部室に施錠をした森藤が笑顔で向きなおってきた。
「それじゃあわたしたちは、部室の鍵を返してくるけど……本当に同行しなくていいのかな?」
「ええ。この人数じゃ、キャパオーバーです。正直言って、六人でも入店できるかあやしいところですね」
めぐるたちは、これから『リペアショップ・ベンジー』に部室の機材をメンテナンスに出すために向かうのである。本来は、めぐると和緒が道案内を受け持ち、森藤と小伊田が機材の運搬を受け持つ予定であったのだが――それが、『KAMERIA』の四名と新入生の女子コンビに変更されたわけであった。
「……べつだん、あんたがたが同行する必然性はないんだけどね」
「ウチらだって、どんな風に話が落ち着くのか気になるんだよー! ひさびさに、アキちゃんやじっちゃまにも挨拶しておきたいしさ!」
と、町田アンナはにこにこと笑っている。親切で面倒見のいい彼女は、めぐるよりもよほど熱心に野中すずみの行く末を案じているのだろう。そうして町田アンナが動くからには、栗原理乃ももれなくついてくるわけであった。
「それじゃあ、店主さんによろしくね。メンテナンスが仕上がったら、わたしと小伊田くんが引き取りに行って、ご挨拶をさせていただくから」
「了解です。じゃ、そちらもお気をつけて」
ということで、森藤と小伊田は職員室に向かい、残る七名は裏門をくぐることになった。部室の機材であるギターとベースを運ぶのは、新入生の女子コンビの役割だ。
「膝は、大丈夫? しんどかったら、いつでも代わるよ」
「いえ。これぐらいは、荷物に入りません」
柔道の有段者であったという北中莉子は、引き締まった面持ちでそのように答えた。彼女が受け持ったのは部室のギターで、野中すずみはベースだ。初めてベースのケースを背負った野中すずみはやたらと昂揚した顔つきであったが、北中莉子はずっと不機嫌そうな様子であった。
(不機嫌っていうか……やっぱり野中さんのことを心配してるのかな)
幼馴染が四十万円以上もするベースを衝動買いしようとしていれば、心配になるのが当然であろう。さらに塗装の塗り替えに十万円ばかりもかかるとあっては、なおさらであった。
(でも……わたしがベースを買ったときには、かずちゃんも同じぐらい心配してくれたんだろうなぁ。わたしなんて、買った後に打ち明けたわけだしなぁ)
めぐるがそのように考え込んでいると、二人分の通学鞄を抱えた和緒が頭を小突いてきた。バスドラのペダルを部室で保管している和緒は、いつもめぐるの通学鞄を運んでくれているのだ。
「思い悩むのは、ご店主の話を聞いてからにしたら? あたしもあんたも、きっと楽器の基礎知識が足りてないから考えがまとまらないんだよ」
「う、うん。そうだね」
ただ、めぐるは感情の面で野中すずみの行動を止めたいと願っている。それが、楽器の基礎知識を補うことで形を得られるのか――めぐるには、まったく想像が及ばなかった。
「じゃ、僕はバス停があっちなんで、ここで失礼しますねぇ。今後とも、どうぞよろしくお願いしますぅ」
と、早い段階で嶋村亨が離脱した。彼には『リペアショップ・ベンジー』を目指す理由がないので、このまま帰宅するのだ。最後まで、彼はお地蔵様のように柔和な印象であった。
「今年の入部希望者は、みんな個性的だねぇ。ま、あたしらには言われたくないだろうけどさ」
和緒がそんなつぶやきをもらすと、町田アンナは「あはは」と笑い、北中莉子は距離を詰めてきた。
「ところで、みなさんは軽音学部でバンドを結成したっていうお話でしたよね。たった一年で、あんなすごいバンドを完成させたわけですか?」
「正確には、あとひと月ぐらいで丸一年だねー! それに、まだまだ完成にはほど遠いしさ!」
「あれでもまだ未完成なんですか。あたしは音楽の素人ですけど、あのバンドが物凄いってことは理解できてると思いますよ」
「それはコ-エイな話だけど、ウチらなんてまだまださー! 世の中には、すっげーバンドがゴロゴロしてるからねー!」
そんな風に言ってから、町田アンナはにっと白い歯をこぼした。
「それに、そーゆーバンドもこれからどんどん成長していくんだろうしさー! そーゆー意味では、バンドに完成なんてないのかもねー! 柔道とかでも、それは同じっしょ?」
「……まあ、そうかもしれませんね」
そんな具合に、やはり道中でもっとも発言の機会が多かったのは町田アンナと北中莉子であった。野中すずみは、発奮のあまりに――そしておそらくはめぐるの目を気にして、なかなか口が開かないようなのである。
(でも、わたしなんかに憧れるだなんて……そんなことがありえるのかなぁ)
そんな風に考えると、めぐるは溜息を禁じ得ない。いまだキャリア一年のめぐるに憧れるなど、何をどう考えても理にかなっていないとしか思えないのだ。それで余計に、彼女の暴走を止めたいという気持ちが生じるのだろうと思われた。
(まあ、最終的には本人の好きにすればいいと思うけど……なんか、わたし自身が嫌なんだよな)
そうしてめぐるが考えあぐねている内に京成線の駅に辿り着き、六人で電車に乗ったならば、『リペアショップ・ベンジー』ももう目前であった。
めぐるは卒業ライブの直前に弦を買いに行ったので、三週間と少しぶりの来訪だ。ちょうどいいタイミングであったので、本日も弦を購入する予定であった。
薄暗い路地を踏み越えていくと、その最果てに店の明かりが灯されている。店の前面がガラス張りで、その下半分はコンテナボックスや段ボール箱などで隠されている、相変わらずの店構えだ。この一年でもう何度となく通っている場所であるのに、『リペアショップ・ベンジー』を目の前にするとめぐるはいつも少しだけ胸が高鳴ってしまった。
今から一年と一日前、めぐるはこうして『リペアショップ・ベンジー』に足を踏み入れて、浅川亜季の手からリッケンバッカーのベースを買い求めたのだ。あれからまだたった一年しか経っていないというのが不思議な心地であり――それと同時に、その記憶は昨日のことのようにまざまざと脳裏に焼きつけられていた。
「いらっしゃい。……いやぁ、アンナっちと理乃っちはひさびさだねぇ」
和緒が先頭になってガラスのドアを引き開けると、さっそく浅川亜季のとぼけた声が聞こえてきた。
町田アンナは和緒の脇から顔を出しつつ、子供のようにぶんぶんと手を振る。
「アキちゃん、ひさしぶりー! しばらくライブに行けなくって、ごめんねー!」
「こっちもこの前のライブは行けなかったんだから、おたがいさまだよぉ。さあさあ、みなさんお入りなさいなぁ」
そんなやり取りを聞きながら、めぐるたちも入店する。
すると、浅川亜季はのんびりとした笑いを含んだ声を響かせた。
「いやぁ、今日は六人連れだって聞いてたけど、実際に目の前にすると圧倒されちゃうねぇ」
カウンターの向こう側に座った浅川亜季は、ダメージだらけのカーディガンを羽織った姿で、愛機たるチェリーレッドのレスポールを爪弾いている。真っ赤な髪も、ピアスだらけの耳も、年老いた猫のような笑顔も、以前に見た通りのままだ。まだひと月も経っていないのに、その姿がひどく懐かしく感じられてしまった。
「お忙しいところを、すみません。さっきお伝えした通り、ちょっとご店主からもお話をうかがいたいんですけど……やっぱり六人も入店するのは厳しそうですね」
「そうだねぇ。よかったら、何人かはこっちに上がっちゃいなよぉ」
浅川亜季は立ち上がり、居住スペースに通ずる戸板を引き開けた。「わーい!」とはしゃぎながらそちらに乗り込んだのは、和緒を無理やり追い越した町田アンナだ。店内は雑然としているため、人間がすれ違うのもひと苦労なのである。
「理乃も、こっちに来ちゃいなよー! ウチらは、オマケなんだからさ!」
「そ、そうだね。……それじゃああの、ちょっと失礼します」
ということで、町田アンナと栗原理乃の両名はそちらの入り口にちょこんと並んで座することになった。
レスポールを壁に立てかけた浅川亜季は、にんまり笑いながらめぐるの後方に視線を飛ばす。
「で、そっちが新顔のお二人ってわけだねぇ。めぐるっちたちに後輩ができるなんて、なんかあたしも感無量だなぁ」
「……あなたが、こちらの店主さんですか?」
北中莉子が鋭い目つきで問い質すと、浅川亜季は「まさかぁ」と応じつつひらひらと手を振った。
「あたしはただの店番で、浅川亜季ってもんだよぉ。よかったら、あなたたちも名前を聞かせてもらえるかなぁ?」
「あたしは、北中莉子です」
「わ、わたしは野中すずみと申します!」
「莉子っちとすずみっちねぇ。どうぞよろしくぅ。……じゃ、じーさまを呼んでくるから、ちょっと待っててねぇ」
浅川亜季はカウンターの横合いにある木製のドアをくぐって、姿を消した。そちらが、工房に通ずる入り口であるのだ。
その間に、めぐるは自前のギグバッグとエフェクターボードを町田アンナに受け渡す。せまい通路で少しでもスペースを確保するための措置である。それでようやく、二列縦隊でカウンターと向き合うことができたが――北中莉子に背中を押されてめぐるの隣に並んだ野中すずみは、また顔を真っ赤にしてしまっていた。
「……なんだ、これは。二本の楽器を預けるのに、どうしてこんな人数が必要になるのだ?」
工房から姿を現した店主は、さっそく深々と溜息をついた。
浅川亜季の祖父、浅川剛三である。くたびれたネルシャツにデニムのオーバーオールという格好をした彼は、いつも通りの不機嫌そうな面持ちで灰色の頭をかき回した。
「実はご店主にご相談があるんです。でもまずは、本来の役目を全うさせていただきますね。これが、メンテナンスをお願いしたいギターとベースです」
和緒の目配せで、新入生たちの手から二つのソフトケースが差し出される。それを受け取った店主は無言のままジッパーを開き、鋭い目で楽器の様子を検分し――そして眉間に、深い皺を刻んだ。
「……まったくもって、ひどい有り様だな。こいつらは、いったいどれだけ放置していたのだ?」
「はい。しばらく使う部員がいなかったんで、メンテに出すのは四、五年ぶりだって話でしたね」
「使わん楽器でも放置しておけば、寿命を縮めることになるぞ。最低でも年にいっぺんはメンテに出すように、顧問だか部長だかに伝えておけ」
店主はそれらの楽器を孫娘に押しつけつつ、預かり証を書き始めた。
「今は立て込んだ仕事もないから、何事もなければ三日。フレットのすりあわせが必要であれば五日。パーツ交換の必要があれば在庫次第で一週間から二週間。……どんな故障があろうとも、経費は一本につき二万円までという話だったな?」
「はい。それ以上かかるようでしたら、新しい機材の購入を検討するそうです」
「それじゃあ見積を出して、明日連絡を入れる。連絡先を、こちらに控えろ」
「お手数ですが、連絡はメールでお願いします。うちの部長様が対応させていただきますんで」
という感じで、本来の目的はこれで達成された。
店主は灰色の髭をしごきながら、「で?」と和緒のポーカーフェイスをねめつける。
「相談とは、何の話なのだ? 言っておくが、そんなもんを商売にした覚えはないぞ」
「はい。毎度毎度、ご厚意に甘える格好ですみません。本日は、こちらの新入部員の暴走を食い止めるためにお知恵を拝借したいんです」
和緒が軽妙に言葉を返すと、うずうずと身を揺すっていた野中すずみが声を張り上げた。
「わ、わたしはもう決心しているんですから、何もご迷惑をかけるつもりはありません! でも、りっちゃんがずいぶん心配しちゃってるんで、よければお願いします!」
「……またずいぶんと、かしましい新顔が増えたものだな」
店主は再び溜息をつき、浅川亜季はにまにまと微笑んでいる。そんな中、野中すずみは熱情のこもった声で宣言した。
「わ、わたしはめぐる先輩に憧れて、ベースを始めることにしました! だから、めぐる先輩と同じベースを買って、同じカラーリングにしたいんです! それって、そんなにおかしいことでしょうか?」
「それでこの子は、四十万円以上もする新品のベースを買って、十万円近くもかけて色を塗り替えるつもりなんですよ。あたしは、それを思いとどまってほしいんです」
北中莉子もすかさず言葉を重ねると、店主はますます仏頂面になり、浅川亜季はますますチェシャ猫めいた笑顔に変じた。
「……この娘どもは、いったい何を言っておるのだ?」
「さあ? だけどまあ、ヤングな熱情がまぶしいねぇ」
態度は両極端であるが、きっと浅川亜季も店主も内心では呆れ返っているのだろう。
ここ最近は、めぐるがこちらの店に大きな迷惑をかけた覚えもないのだが――ひさかたぶりにこんな騒ぎを持ち込んでしまい、めぐるはあらためて胸いっぱいの申し訳なさを噛みしめることに相成ったのだった。




