02 出陣
和緒たちのバンドは、『KAMERIA』と命名されることになった。
そして何故だか、『ニュー・ジェネレーション・カップ』なる音楽イベントに出場することになってしまった。
どれだけ頭をひねっても、どうしてそのような事態に至ったのか、和緒にはさっぱり理解できなかった。
(そりゃあ、栗原さんを励ましたのはあたしだけど……まさか本気で出場したいなんて言い出すとは、想像できるわけないじゃん)
『V8チェンソー』のライブを観戦に出向いた場で、栗原理乃は腹痛を起こしてしまった。ハルたちに『ニュー・ジェネレーション・カップ』への出場を軽く提案されただけで、甚大なるストレスを抱え込んでしまったのだ。
ただそれは、人前で歌うことのストレスだけが原因ではなかった。むしろ、自分のせいでバンドに迷惑をかけることこそが、彼女にとっては何よりの精神的苦痛であったのだ。
だから和緒は、説教まじりに彼女を励ますことにした。
それほどまでにバンドメンバーを思いやっている彼女が、苦しむ必要はない――そんな当たり前のことを、彼女に思い知らせてやりたかったのだ。
その結果として、彼女は暴走してしまった。人前で歌う気後れを克服して、このバンドを続けていきたいという意欲を燃えさからせることになってしまったのだった。
(まあ、この子はもともと町田さんの幼馴染だったし……それだけ長いつきあいだったら、暴走気質に感化されてもおかしくはないか)
それに彼女は、町田アンナを頼りに生きている。町田アンナこそが、彼女の救世主であったのだ。であれば、臆病な自分をねじ伏せて、町田アンナのように果敢に足を踏み出すことが、もっとも正しい選択である――という考えにとらわれてしまっても、何ら不思議はないように思われた。
(晴れてあたしは、ひとりで引きずり回される運命ってわけか。ミンチになる日も遠くないな、こりゃ)
和緒はそんな感慨を噛みしめつつ、腹をくくるしかなかった。
そちらのイベントに関しては、遠藤めぐるもすっかり乗り気になってしまっていたのだ。あの遠藤めぐるがまた自ら足を踏み出そうとしているならば、和緒にそれを邪魔立てすることはできなかった。
(あとひと月半で、ライブイベントに相応しい力量を身につけろってことね。畜生め、やってやろうじゃないの)
まあ、和緒としては為すべきことに変化が生じるわけでもない。ライブイベントに出場しようがしまいが、和緒は全力でこのバンドのドラマーに相応しい力量を追い求めるしかないのだ。
そのように考えると、和緒も自分の変貌っぷりにいささかならず呆れてしまう。この段階で、和緒はまだバンドを結成すると決意してからひと月ていどの身であったのだが――バンドのために努力するというのが、すっかり当たり前の心境になっていたのである。
それはもちろん、遠藤めぐるのそばに居座るという覚悟の結果であった。
しかし、その原動力というのは――やはり、日々の生活の楽しさなのだろうと思われた。遠藤めぐるとともにバンドを組んだ和緒は、想定を超えるほどの幸福な日々を送ることができていたのだった。
もはや遠藤めぐるとは、週六のペースで顔をあわせている。それもただ漫然と交流しているのではなく、バンド活動に励んでいるのだ。その濃密な時間が、和緒の胸を否応なく昂らせるのだった。
やはり遠藤めぐるは、目に見えて変質していった。弱気で内気なことに変わりはないが、本来の魅力を惜しみなく振りまいて、数々の相手と交流を深めることがかなったのだ。
まあ、現時点でしっかり交流できているのは『KAMERIA』のメンバーのみで、『V8チェンソー』のメンバーに対してはまだおっかびっくりの様子であったが――それでもライブの後などには、熱意を剥き出しにして好意的な感想を口にしていた。あんな可愛らしい姿を見せられては、フユたちが篭絡されるのも時間の問題であった。
町田アンナや栗原理乃などは、最初から遠藤めぐるに信頼と敬愛の念を抱いている。ひたすら真っ直ぐな町田アンナはもとより、遠藤めぐるに負けないぐらい内気な栗原理乃でも、それは明らかであったのだ。遠藤めぐるのベースに傾ける情念が、そんな作用を生み出したのだった。
(たぶん栗原さんは、自分に負けないぐらい内気そうなめぐるが必死に頑張ってる姿に胸を打たれたんだろうな)
ある意味、栗原理乃は遠藤めぐるに憧れているのかもしれない。もともとの憧れは町田アンナであったのであろうが、彼女はあまりにも持っている資質が異なっている。自分と似たような気質でありながら、挫折も困難も恐れずに暴走している遠藤めぐるの姿が、栗原理乃に深い感銘を与えたのだろうと思われた。その果てに、彼女は遠藤めぐるをモデルにした『転がる少女のように』という歌詞を書きあげてみせたのだった。
それに、生命力の権化たる町田アンナでさえも、遠藤めぐるの情念には舌を巻いているのだ。ものすごく正直に言ってしまうと――和緒としては、誇らしい限りであった。遠藤めぐるが他者からの憧憬や賞賛を集めるたびに、和緒はびっくりするぐらい胸が満たされてしまうのだった。
(そんなのは、あたしの手柄でも何でもないんだけどな。それでもまあ……自分が好きなもんを褒められたら、悪い気はしないさ)
よって和緒も、『KAMERIA』の活動で楽しい時間を過ごすことができていた。
遠藤めぐるが他者に心を開いたならば、多かれ少なかれ喪失感や寂寥感を抱くことになるのではないかと覚悟を固めていたのだが、それを上回る充足感を得ることがかなったのだ。
遠藤めぐるが町田アンナや栗原理乃と語らっている姿を眺めているのは、楽しい。さらに自分もちょっかいをかければ、楽しさも倍増である。自分が集団行動の場でこれほど気楽に過ごせるなどとは、なかなか想像の及ぶものではなかった。
町田アンナは、楽しい人間だ。ちょっかいをかけるとすぐにムキになるところが、可愛らしい。そして彼女は瞬間的に激情をほとばしらせる代わりに、沈静するのも早かった。それで遺恨を引きずらないために、感情を剥き出しのまま安楽に過ごすことができるようであった。
いっぽう栗原理乃は、相変わらずおどおどとしている。とりわけ和緒に対しては、恐れ入っている部分が強いようだ。まあ、和緒も遠慮なくちょっかいをかけているので、それが当然の話であるのだろう。ただ、彼女がもっとも恐れているのはバンド内で孤立することであろうから、和緒も分け隔てなくちょっかいをかけざるを得なかった。
そしてやっぱり、遠藤めぐるである。
和緒が楽しい気持ちでいられるのは、やっぱり彼女のおかげであった。彼女は町田アンナや栗原理乃と交流が深まっても、最後には和緒を頼るという態度に徹しており――それが和緒に、またとない喜びと安心感をもたらしてくれるのである。
(これが計算だったら恐ろしい話だけど、あんたは天性の人たらしだもんね)
遠藤めぐるは、日を重ねるごとに情感が豊かになっていった。バンド活動が楽しくて楽しくてたまらないという気配が、小さな体からあふれかえっているのだ。
そして、そこに和緒も加わっていることが、何より嬉しくてならない――と、そんな思いまでもが噴出しているため、和緒も満ち足りた思いで彼女の頭を小突き回す事態に至ったわけであった。
和緒はいまだに、彼女に失望されるのではないかという危機感を抱いている。
しかし遠藤めぐるは、その愛くるしい表情や所作でもって和緒の危機感を温かくくるんでくれるのだ。つかず離れずの距離からすぐ隣に身を寄せ合ったことで、和緒はそれほどの温もりを授かることがかなったのだった。
(で、バンド活動っていう外に向かうベクトルも作用してるから、病的な共依存には陥らずに済んでるわけか)
和緒も遠藤めぐるも、おたがいの存在だけに寄りかかっているわけではない。『KAMERIA』という船の中で過ごしながら、おたがいの存在を頼りにしているのだ。そして荒波を乗り越えるには、同じクルーたる町田アンナと栗原理乃の存在も不可欠であり、そして時には『V8チェンソー』という外来の船とも交流を結んでいるわけであった。
バンドの練習中などは、温かいどころの騒ぎではない。身を焦がすほどの熱気の中で、おたがいの音をぶつけあうのだ。他のメンバーはどうだか知らないが、和緒にとってそれは真剣勝負の場に他ならなかった。
他の三名の打ち出す凶悪な音に屈しないように、自分も死力を振り絞って音を叩きつける。それで屈せずに済んだとき、初めて幸福な調和が得られるのだ。日に日に増していく三名の迫力に、和緒は毎日死ぬような思いであり――そして、死ぬほど楽しかったのだった。
◇
そんな地獄のように楽しい日々は、あっという間に流れ過ぎ――ついに、その日がやってきた。
七月の最終土曜日、『ニュー・ジェネレーション・カップ』の当日である。
幸いなことに、和緒は万全の体調でその日を迎えることができた。和緒は自分がどれだけ脆弱な人間であるかを自覚していたが、その反面、人並み外れてしたたかな人間でもあったのだ。ストレスで胃を痛くすることもなく、緊張で不眠に陥ることもなく、普段通りのコンディションでバスに乗り込むことになった。
(楽しい要素が存在するだけで、あの忌々しい里帰りとは比較にもならないだろうさ)
そうしてバスが次の停留所で停車すると、ベースのギグバッグを背負った遠藤めぐるが頬を火照らせながら乗車してくる。その小さな体からもここ数ヶ月で体得した明るいオーラがあふれかえっていたので、和緒はほっと息をついた。
「おはよう、マイフレンド。昨日は、きちんと眠れた?」
和緒がそのように問いかけると、隣の席に腰を下ろした遠藤めぐるはたちまち眉を下げながら「ううん」と首を横に振った。
「いちおう布団には入ったんだけど……眠くなる前に、起きる時間になっちゃったの」
その言葉に、和緒は心から驚かされることになった。遠藤めぐるは顔色もよかったし、どこからどう見てもベストコンディションであるように思えたのだ。今は和緒に叱られたりはしないかと心配げな面持ちになっていたが、不調を抱えている要素はいっさい感じられなかった。
それで話を聞いてみると、とりあえず三時間ぐらいは布団で横たわっていたという。
それは体力を回復させるのに有効な手立てであっただろうし、何より和緒は遠藤めぐるの精神的な成長に感じ入ることになった。ゴールデンウイークあたりの彼女であれば、おそらく熱情のままにベースを弾き続けていただろうと思うのだ。
(こいつはベースのせいで暴走することになったけど……その反面、真人間にも一歩近づけたんだよな)
その顕著な例が、食生活の改善とアルバイト活動である。滋養のある食事と適度な運動が、彼女に健康的な肉体と安定した精神状態を与えたようであるのだ。
以前は水気がなくてパサパサであった髪にも、潤いが生まれている。乾ききっていた肌にも艶が出て、顔色も格段によくなっていた。幼い顔立ちに小さな体は相変わらずであったが、中学時代の陰気な雰囲気はもはや完全に払拭されていたのだった。
(でも、一睡もしてないってのは、さすがに心配だな。どこかでぶっ倒れないように、しっかり目を光らせておかないと)
そんな思いを胸に、和緒は遠藤めぐるとともに待ち合わせの場所を目指した。
他なるメンバーたちと待ち合わせていたのは、京成千葉駅からほど近い場所にある、ショッピングロードのバーガーショップだ。
和緒はそこで、また小さからぬ驚きに見舞われることになった。
栗原理乃が、別人のごとき姿で待ちかまえていたのである。
「それではご紹介いたしましょう! こちらは『KAMERIA』でヴォーカルを担当する、リィ様でございます!」
こちらは相変わらずの町田アンナが、フライドポテトを口に運びながらそのように言い放った。
栗原理乃は、アイスブルーのウィッグと黒いレースの目隠しで素顔を隠している。言ってみれば、それだけの話であるのだが――しかし和緒は、驚きを禁じ得なかった。そんな扮装とは関わりなく、栗原理乃はまさしく別人のごときたたずまいであったのである。
出会ってから二ヶ月半ほどが経過しても、栗原理乃の内気な人柄に変わるところはなかった。いざというときには凛々しい表情を見せるようになったものの、基本の部分は繊細かつ臆病なままであったのだ。暴走の頻度は遠藤めぐるのほうがはるかにまさっていたため、バンド内でもっとも大人しいのは栗原理乃であると言い切れるほどであった。
そんな栗原理乃が、別人のような顔でソファの席に座している。
ウィッグや目隠しなどは、関係ない。問題なのは、あらわにされている鼻から下だ。もともと抜けるように色の白い彼女は、それこそ本物の機械人形のようにすべての情感を消し去っていたのだった。
(マジかよ……あんたはどこまで、浮世離れしてるのさ)
彼女は本当に、別の人格に成り代わってしまったかのようであった。
たとえベテランの俳優でも、こうまで別人のような空気を織り成すことは難しいに違いない。町田アンナは呑気に笑っていたが、和緒としては心配になるぐらいの話であった。
(察するに……あんたには、もとから変身願望ってやつがひそんでたのかな)
栗原理乃は、町田アンナにべったり甘えているように見受けられる。しかし、それを恥じる気持ちがあるのなら――気弱で無力な自分というものを心から忌み嫌っているのならば、その奥底には別人になりたいという強烈な欲求が渦巻いていてもおかしくはなかった。
(よくよく考えたら、この子は物心がつく前からピアノのレッスンを強要されて、自我を抑圧されてたんだもんな。中学時代にピアノをやめて、大部分は発散されたのかもしれないけど……そこまで根の深い抑圧が、二年やそこらで完全に解消されるわけもないか)
しかしまた、彼女はそれだけの業を背負っているからこそ、あのように歌えるのかもしれない。機械のように正確な歌唱の中で、隠しようもなくにじみ出ている生々しさ――あれこそが、忌まわしき世界と自分自身に対する糾弾の叫びであるのかもしれなかった。
(ヴォーカルなんて、ちょっとエキセントリックじゃないと務まらない領分なんだろうしね。……あんたが気持ちよく絶叫できるように、あたしもせいぜい頑張らせていただくよ)
そうして和緒は遠藤めぐるばかりでなく、他なるメンバーたちにもさまざまな思いを向けながら、人生で初めてのライブに挑むことに相成ったのだった。




