03 オレンジ色のギタリスト
その後も和緒は、さまざまな事態に立ち向かうことになった。
まずは、遠藤めぐるがベースを購入した中古ショップ――あらため、リペアショップの店主との対峙である。和緒はいずれその店に乗り込む心づもりであったが、ベースの弦が切れたために早々に実現することになったのだ。
ただ、その場で和緒の懸念はいちおう晴らされることになった。そちらの店主はいかにも厳格な人柄で、客に粗悪品をつかませるような人間にはとうてい思えなかったのだ。むしろ、融通のきかない頑固者であるからこそ、業界の相場などおかまいなしで格安の売り値をつけていたのではないかと思われた。
ただし、そのような印象だけで判断することはできなかったので、店主の述べた言葉をすべてその場で記憶して、のちのち裏を取ることになった。それでようやく、こちらのベースはコピー品ではなく本物のリッケンバッカーであろうと確信することがかなったのだった。
その後にやってきたのは、店主の孫娘であるという人物との対峙である。
遠藤めぐるにベースを売りつけたのは、店番をしていたこちらの人物であったのだ。
浅川亜季という名を持つその人物は、なかなかにつかみどころがなかった。二十歳前後の若い女性で、なかなかの美人であるものの、頭は真っ赤に染めあげたざんばら髪であるし、耳には二ケタに及ぶピアスを光らせているし、いかにもバンドマンめいたワイルドなファッションであるし――そして何より、一筋縄ではいかない奇矯な人柄であったのだった。
基本の部分は、善良なのだろうと思う。しかし和緒は、それなり以上の警戒心をかきたてられていた。彼女はいつも眠たげな目つきをしており、口調も物腰ものんびりしていたが――きわめて鋭い洞察力やら、どんな面倒ごとでも軽々と受け止められるような度量やらを備え持っているように感じてやまなかったのだ。
それもまた、本来であれば警戒するような要素ではないだろう。
しかし和緒は、警戒した。これだけの度量を持つ人間は、敵に回すと厄介であるのだ。そして、どれだけ善良であったり柔和であったりしても、彼女はその裏側に強靭な意志の力を隠しており――味方に対しては果てしなく優しいが、敵に対しては一切容赦しないのだろうという気配をたちのぼらせていたのだった。
(もしかしたら……このお人が、めぐるの救世主だとか?)
和緒は当初、そんな思いにもとらわれかけたが――それはすぐに、消え去った。確かに彼女は遠藤めぐるのすべてを受け入れる度量を有しているようであったが、遠藤めぐるの愛くるしい挙動に魅了された様子がないのだ。彼女は遠藤めぐるの特異性を面白がりつつ、よき先輩として導き役を担ってくれそうな気配が濃厚であった。
その次に対峙したのは、浅川亜季のバンドのメンバーたち――フユとハルである。
そちらの両名から、警戒心をかきたてられることはなかった。ただ、よくもまあこれだけ人柄の異なる人間が寄り集まったものだと感心するばかりである。
ハルというのは、きわめて陽気で朗らかな人柄であった。和緒の見る限り、裏も何も感じない。ひたすら善良で、親切で、屈託がなくて――和緒のように屈折した人間には、眩しい限りである。なおかつそれは、鈍感であるがゆえに保持された無邪気さではなく、強い意志と豊かな感受性で世間の荒波を乗り越えつつ守り抜いた純真さであるように感じられるので、いっそう大したものであった。
いっぽう、フユというのは――別の意味で、眩しい存在であった。彼女も大きくは屈折していなかったが、十分に偏屈者で、なおかつどこか和緒と通ずる部分を感じてやまなかったのだ。
初めて顔をあわせた際には、そこまでの思いに至らなかった。ただ、ポーカーフェイスで内心を隠そうとする部分が自分に似ているなと思ったていどだ。
しかし彼女は、それよりも深い部分で和緒に似た部分を持っていた。あえて言うならば――和緒が屈折していなければ、こういう大人を目指せたのではないかという風情であったのだ。
本当は激情家でありながら、クールぶった態度でそれを押し隠し、ぶっきらぼうな態度を取りつつも、周囲のことをよく見ている。偏屈であるのは確かだが、決して人を不快にさせるわけではないし――和緒の目には、とても魅力的な人柄であるように感じられた。
(だから、あたしに似てるっていうよりは……本来あたしが目指したかった大人像ってことなのかな)
彼女は思いやりの深い人間であるように思うが、和緒ほど他者のことを疑ったり、その奥底まで見透かそうとはしていない。そこがきっと、一番の違いであるのだろう。三年前の夏に大きく傷ついた和緒は、現在もなお他者の真情を探らずにはいられない屈折を抱え込んでしまっているのだった。
(それに、このお人はめぐるに魅了されそうな気配がぷんぷんしてるんだよな)
そういう部分も、和緒に似ているのかもしれない。とにかく遠藤めぐるという存在は、偏屈な人間の心をひきつけてやまないのだった。
ともあれ――和緒がそこまで分析できたのは、のちになってからのことである。
その前に、和緒は数々の騒乱を乗り越えることに相成ったのだった。
まず最初にやってきたのは、遠藤めぐるの暴走である。
まあ、ベースを衝動買いしたところから、彼女の暴走は始まっていたわけであるのだが――その後は、暴走に拍車が掛けられた。浅川亜季たちと交流を結び、自分を魅了したバンドの正体とその末路を知ることで、彼女はいっそう精神の均衡を失ってしまったのだ。
遠藤めぐるを魅了したバンドは、『SanZenon』というインディーズバンドだった。
そして、何より遠藤めぐるを魅了した女性ベーシストは、すでに他界していたのだ。その事実を知ったとき、遠藤めぐるはすべての感情を消し去って――そしてそののちに、滂沱たる涙を流したのだった。
彼女はこれまでどれだけの苦難に見舞われても、和緒の前で泣いたりはしなかった。せいぜいが、受験に合格して嬉し涙をにじませたぐらいである。それが、会ったこともない相手の死を知らされただけで、いつまでも涙をこぼし続けたのだった。
そしてその後、彼女は暴走した。浅川亜季の手から『SanZenon』の音源を受け取った遠藤めぐるはゴールデンウィークの期間中、ベースの練習に明け暮れて、また熱を出してしまったのである。
忌まわしき里帰りを終えた和緒は、三たび遠藤めぐるの面倒を見ることになった。和緒も最初から小さからぬ懸念を覚えていたので、京都からの帰り道にそのまま立ち寄ってみたところ、彼女はまんまと高熱にうなされていたのである。和緒にしてみれば、頭をかきむしりたくなるような顛末であった。
(こんなことなら、バンドの正体なんて探ろうとするんじゃなかったよ)
『SanZenon』というバンドの正体が知れたのは、和緒が会話の誘導をした結果であった。現役のバンドマンであれば何か手がかりを持っているのではないかと判じて、浅川亜季たちとの会話をそういう方向に引っ張っていったのだ。
よって和緒は、尋常ならざる後悔と自己嫌悪を味わわされることになってしまったが――それはこの事態に取り乱し、冷静な判断力を失っていたせいもあったのかもしれなかった。よくよく考えると、遠藤めぐるは最初から暴走していたので、いずれは同じ結末を迎えていた公算が高かったのだ。
遠藤めぐるはベースを手にしてからの春以降、ずっと暴走していた。毎日深夜の三時まで、血まみれの指先でベースの練習に取り組んでいたのだ。その執念は、傍から見ていて空恐ろしくなるほどであった。
遠藤めぐるは、何に対しても無関心な人間であった。そうして心を閉ざしていた三年間で鬱積された情念やエネルギーが、すべてベースの練習に向かってしまったのかもしれない。『SanZenon』というバンドが、遠藤めぐるの体内にくすぶっていた情念に向かうべき方向を示してしまったのだ。和緒はずっとゆりかごで眠っている赤ん坊を見守っているような心地であったのに、それがロックバンドの爆音の演奏で叩き破られたようなものであった。
(これって本当に、幸せな結末に向かってるんだろうね? もしもめぐるが、今よりも反社会的な人間になっちまったら……ただじゃおかないよ?)
和緒としては、名前も知らない『SanZenon』の女性ベーシストに、そんな言葉を叩きつけたい心地であった。
そうして遠藤めぐるが、復調したのち――ついに、その時が来たのである。
和緒にとっての本当の山場は、ここからであった。これまでの出会いや騒乱などは、のきなみ下準備に過ぎなかったのだ。後から振り返り、和緒はその事実をまざまざと実感させられることになった。
遠藤めぐるは浅川亜季にそそのかされて、高校の軽音学部の部室へと足をのばし――そこで、町田アンナというギタリストと巡りあうことに相成ったのだった。
◇
「あれー? お客さん? センパイがたなら、出ていっちゃったよー! ややこしい話は、今度にしてねー!」
それが、町田アンナの第一声であった。
その間も、けたたましいギターサウンドが鳴り響いている。彼女は机の上にあぐらをかき、オレンジ色のエレキギターをアンプに繋いでかき鳴らしていたのだ。
それは見るからに、猛烈な存在感を備えた少女であった。
まず、外見からして個性的である。彼女はその手のギターと同じぐらい鮮やかなオレンジ色の髪をしており、真っ白な肌で、瞳は鳶色に輝いていた。明らかに、西洋の血が入った風貌であった。
しかし、そのようなものはちょっとした彩りに過ぎない。特筆するべきは、彼女の身から発せられる生命力の奔流であった。彼女はその手で鳴らすギターサウンドと同じぐらい、荒々しい騒音めいた生命力を満身からほとばしらせていたのだ。
これほどの生命力にあふれかえった人間を、和緒はこれまでに目にした覚えがない。彼女はまるで、エネルギーの塊であった。その白い肌を針でつついたら、均衡を失ったエネルギーが大爆発を起こすのではないかと思えるほどであった。
そんな町田アンナの熱情に引きずられるようにして、遠藤めぐるはその場でセッションを行うことになった。
その結果は――惨憺たるものである。どうやらこちらの部室に保管されていたベースはコンディションが悪かったらしく、この数ヶ月の執念の成果を発揮させることもかなわなかったのだ。
それで遠藤めぐるは、涙をにじませるほど悔しがっていた。
あの遠藤めぐるが、それほどの激情を他者に垣間見せたのである。そもそも彼女が悔しいなどという感情をあらわにしたのも、これが初めてのことであった。
(もしかして……コレが、本命なのかな)
和緒はそんな思いで、遠藤めぐると町田アンナのやりとりを見守っていた。
町田アンナは同い年の少女であるが、まったくもって普通の存在ではない。これほどの猛烈なエネルギーの持ち主であるならば、複雑怪奇な遠藤めぐるの存在を丸ごと受け止めることも可能なのではないか――和緒は、そんな思いにとらわれていたのだった。
(しかもこいつは、どうやらフリーのギタリストだ。軽音学部に入部して、こいつとバンドを組んだら……それで、丸く収まるんじゃない?)
少なくとも、屈折しまくった和緒よりは、遠藤めぐるによほどいい影響を与えてくれるだろう。こうまで陽性の存在であるならば、遠藤めぐるの抱える負の要素を相殺できるのではないかという期待もかけられた。
いよいよ和緒も、身を引く時がやってきたのかもしれない。
そうして和緒は、胸が痛くなるほどの喜びと喪失感を同時に味わわされることに相成ったのだった。




