03 方向転換
和緒が茶番を演じてから、数日後――くだんの男子生徒が、転校した。
噂では、机と椅子を二階から投げ捨てたのは自分であると、親や学校に白状したらしい。そうして三者面談の末、転校するという結論に至ったようであった。
どうやら彼は、和緒以上に愚かであったようである。
あんな子供だましの脅迫に、あえなく屈することになってしまったのだ。もしも和緒が彼の立場であったなら、いくらでも逃げようはあったように思うのだが――まあ、敵が愚かであったことを嘆くいわれはなかった。
その後も和緒が職員室に呼ばれる事態には至らなかったので、彼は余計な口を叩くこともなく学校を去っていったのだろう。のちに復讐の鬼と化して再来しないことを祈るばかりであるが――まあそのときは、和緒の構築した茶番が現実化するだけのことだ。彼がおのれの人生をかけて復讐を果たそうとするならば、和緒も全力で相手取るだけのことであった。
そうして表面上は、何事もなく日々が過ぎていった。
遠藤めぐるの行状にも、変わりはない。自分が原因で全校集会が開かれても気にする風でもないし、くだんの男子生徒が転校したことなど耳にすら入っていないのかもしれない。彼女の徹底した無関心は、ヒビのひとつも入っていないようであった。
ただ――周囲の目は、いっそう冷ややかになっていた。彼女に陰湿な嫌がらせを行った男子生徒が、学校を去ることになったのである。かつて彼女の教科書や上履きを切り刻んだ人間などは戦々恐々であろうし、恐怖心というのは反発心を内包しているのである。彼女はこれまで以上に腫れもの扱いされて、女子連中よりは好意的であった男子連中までもが遠ざかってしまったようであった。
(あたしが余計な真似をしたばっかりに、余計に孤立しちゃったわけか)
和緒はそのように考えたが、べつだん後悔はしていなかった。誰であれ、中学生などに彼女を救えるとは思えなかったのだ。いずれ現れるであろう救世主を迎えるまで、せいぜい静かに人生を送ってもらいたいものであった。
しかし和緒も、一点だけ気がかりな点があった。
じわじわと目前に迫りつつある、修学旅行である。
そのために、和緒はまた余計な世話を焼く事態に至ったわけであった。
◇
「遠藤めぐるさん。今日は、一緒に帰ろうか」
十月の始めから開始された中間試験の、最終日――和緒がそのように声をかけると、周囲のクラスメートたちがざわめいた。
当の遠藤めぐるは、きょとんと目を見開いている。それからゆっくりと和緒の言葉を理解したようで、にわかにわたわたと慌て始めたのだった。
「い、磯脇さん……そ、それはどういう……」
「一緒に帰ろうかってお誘いしてるんだよ。帰る方向はだいたい一緒だろうから、別に問題はないでしょ?」
しかし、和緒が教室内で彼女に声をかけたのは、これが初めてのことである。だから彼女は慌てており、クラスメートたちはざわついているのだ。
「さあさあ、腰をお上げなさいな。忌まわしい試験が終わって、何よりだったね。さっさと帰って、自由な放課後を満喫しようじゃないの」
「え? あ、はい……え? え?」
と、目を泳がせる遠藤めぐるの手を取って、和緒はさっさと教室を出ることにした。
廊下を歩き、階段を踏み越えて、昇降口を出る。そうして下校する生徒たちの波に呑まれても、遠藤めぐるはまだ目を泳がせていた。
「い、磯脇さん、いったいどうしたんですか……? わ、わたしと一緒に下校するなんて……」
「うん。とりあえず、釈明しておこうか。実は、来たるべき修学旅行に備えて下準備しておこうと思ってね。……いくら金欠でも、修学旅行には参加するんでしょ?」
「は、はい。修学旅行は、全員参加なので……病欠以外は、認められないそうです」
「うんうん。で、修学旅行ってのは班行動が基本なわけだよ。いきなりあんたと同じ班になるなんて宣言したら大層な騒ぎになりそうだから、ならし運転を開始したってわけさ」
和緒がそのように言いつのっても、遠藤めぐるの小さな顔から困惑の色は消えなかった。
「よ、よくわからないんですけど……班行動……?」
「そう、班行動。今のままだと、あんたを押しつけ合うためにじゃんけん大会でも開催されそうな勢いじゃん。それはあまりに居たたまれないから、あたしも重い腰を上げることになったわけだよ」
「で、でも……磯脇さんがそんな無理をする必要は……」
「こんな手間をかける面倒さと、あんたが孤立する居たたまれなさを天秤にかけての判断さ。それとまあ、あんたと同じ班になりたいっていう気持ちもなくはないような気がしなくもないからね」
遠藤めぐるは眉を下げながら、おずおずと和緒の顔を見上げてきた。なんだか、とても申し訳なさそうな――それと同時に、いくぶん悲しそうな面持ちである。
「なんでそんな目で、あたしを見るのさ? あたしが何か、あんたを悲しませるようなことを言っちゃったかい?」
「あ、いえ……磯脇さんがわたしと同じ班になりたいだなんて、そんなことはありえないと思うんですけど……でも、磯脇さんが嘘をついてるとは思いたくないですし……」
またこの娘は、わけのわからない方向に思考を飛ばしてしまったようである。
和緒はその頭を小突いてやりたい衝動をこらえながら、「あのね」と目をすがめた。
「あんたはどうして、そんなに卑屈なのさ? 週の半分はランチをともにしてるんだから、ちょっとばかりは親睦が深まったとは考えられないわけ?」
「す、すみません……でも、せっかくの修学旅行でわたしと一緒の班になりたいだなんて……」
「だから、小っ恥ずかしい言葉を連呼しないでくれる? 傍から聞いてたら、あたしがあんたにめっちゃ執着してるみたいじゃん」
「す、すみません。決してそんなつもりではないのですけれど……」
彼女はそのように弁明していたが、和緒の気持ちは収まらなかった。よくよく考えれば、彼女は受動的に和緒の接触を許しているだけなのだから、どちらがより執着しているかといえば、それはまぎれもなく和緒のほうなのである。
「……なんか、腹が立ってきたな。その頭を、思うさま小突き回してくれようか」
「ご、ごめんなさい。そ、それで磯脇さんの気が晴れるなら……」
「そんな風に受け入れられると、けっきょくあんたの手の平の上じゃん。何かあんたに嫌がらせでもしないと、この憤懣は消えないかな」
和緒は通学路を歩きながら、真剣に思案した。
遠藤めぐるはまたあわあわと慌てながら、和緒の姿を見守っている。そんな愛くるしい姿を見せつけられると、和緒の憤懣はつのるいっぽうだった。
「よし、決めた。今日はこのまま、あんたの家に押しかけることにしよう」
「ええ? で、でも……ま、前にも言いましたけど、わたしは小さな離れで暮らしていますので……」
「だから、気の合わないご老人たちとも顔をあわせずに済んでるんでしょ? だったら気兼ねなく、あんたの巣穴を検分できるじゃん。よし、そうしようそうしよう。あたしの好奇心は満たせるし、あんたは嫌な思いを抱え込むし、これぞ一石二鳥だね」
和緒がそのように言いつのると、遠藤めぐるは「はあ……」とうなだれてしまった。
すると、和緒の胸にはまた異なる思いが去来する。
「あんたさ、ほんとに嫌なら嫌って言えばいいじゃん。そんな弱腰だと、世間で生きていけないよ?」
「は、はい……でも、こんな強引な真似をするのは、磯脇さんぐらいしかいないので……わたしも、どうやって対処したらいいのか……」
遠藤めぐるは、ほとほと困り果てている様子である。彼女がこんな顔を見せるのは、きわめて珍しいことであった。
そして和緒は、また思う。遠藤めぐるが例の男子生徒からどのような話を持ちかけられたのかは不明のままであるが、彼女はそれを拒絶したからこそ、逆恨みされることになったのだ。それならば、本当に嫌なものは拒絶できるという証拠になるはずであった。
(それならまあ、今はそこまで深刻に嫌がってないってわけか)
そんな風に考えると、和緒の胸の中でもやもやとしていた感情はどこへともなく消え去っていくようであった。
◇
遠藤めぐるの祖父母の家は、中学校から徒歩で十五分ほどの距離にあった。
和緒の家とは、それなりに離れたエリアである。学校までの距離は同程度であるが、おたがいの家を行き来するには七、八分ばかりもかかりそうだった。
遠藤めぐるは裏手に回り、裏門から敷地内に踏み込む。この辺りの家にしては珍しく広々とした庭が広がっており、母屋と離れも生垣で区分けされていた。
遠藤めぐるの暮らす離れは、物置のような外観をしている。入り口の脇には苔むした石灯籠が門番のように立ちはだかっており、さらにその向こう側には古びた自転車とプロパンガスのタンクが垣間見えていた。
遠藤めぐるは溜息をこらえているような面持ちで、ブリーツスカートのポケットから家の鍵を引っ張り出す。その鍵に防犯ブザーがひっついていることに気づいた和緒は、思わず笑みをこぼしてしまう。ななめ前方に立っている遠藤めぐるにそれを気づかれなかったのは、幸いな話であった。
玄関のドアを開いた遠藤めぐるは、無言のまま土間に入っていく。
和緒がそれに続くと、遠藤めぐるは眉を下げつつ振り返ってきた。
「あの……本当に散らかっているので……やっぱり、よしたほうが……」
「そんな台詞は、家に入れる前に言うべきじゃないのかね。さあさあ、初めてのお客様を存分にもてなしておくれよ」
遠藤めぐるはこらえかねたように溜息をついてから、デッキシューズを脱いで部屋に上がった。
上がってすぐはキッチンで、小さなシンク台と小さなガスコンロ、それに背の低い冷蔵庫がうかがえる。コンロの脇の壁にはレードルやらしゃもじやらが掛けられており、生活感があふれかえっていた。
冷蔵庫と反対の側に目をやると、そこには小さな洗濯機が鎮座ましましている。その手前に並んでいる二枚のドアは、トイレやバスルームへの入り口であろうか。せまい空間に、生きていくための設備がきゅっと押し込まれているような風情であった。
そうしてガラス戸を開けると、そこには四畳半の部屋が待ちかまえている。
散らかっているなどと言っていたが、散らかるほどの家財もない。こたつと、扇風機と、カラーボックス――調度と言えるのは、そのていどである。すでに布団が掛けられているこたつのテーブルにも、なにひとつ置かれていなかった。
「ふむ。こたつと扇風機が不思議な調和を織り成してるね。我が家では、彼らが顔をあわせる機会はないように思うよ」
「は、はい……押入れがせまいので、扇風機をしまうスペースがないんです。こたつ布団も外に出したほうが、布団の出し入れが楽なので……もし暑かったら、ごめんなさい」
「それはつまり、着席してもよろしいということだね」
和緒はスポーツバッグを部屋の隅に放り出し、こたつの席に腰を下ろした。
「なるほど……なかなか快適そうな巣穴じゃん」
「ええ? ほ、本気で言っていますか?」
遠藤めぐるが心から驚いている様子であったので、和緒はしてやったりという心境であった。
「あんたは極貧の生活を送ってるみたいだから、もっとボロ小屋みたいなもんを想像してたのさ。いかにも年季は入ってそうだけど、きちんと清潔にしてるみたいだし……これだけ家具が少なかったら、掃除もはかどりそうだね」
「はあ……」
「カラーボックスは、教科書だけか。ま、世間で流行りのミニマリストよりは賑やかな部屋なんじゃない? 何もかもがほどよく古びてるのも味わい深いし、べつだん暮らしにくそうとは思わないね」
少なくとも、両親の存在を常に気づかわなければならない和緒の家よりは、よほど快適な環境であろう。
そこまで考えて、和緒ははたと思いあたった。
「あーでも、あんたはスマホもパソコンも持ってないんだっけ。それでテレビすらないってのは、ちょっとばっかり厳しいなぁ。これじゃあ、勉強ぐらいしかやることもないわけだ」
「そ、そうなんです。これでテレビでもあったら、本当に不満はないのですけれど……でも、そんな贅沢は言えませんし……」
と、和緒の向かいに座った遠藤めぐるは、小さな体をもじもじと揺すった。常ならぬ形で和緒と接しているためか、今日は愛くるしい所作が頻発するようである。
「あんたは何をもじもじしてるのさ? 今の心境を簡潔に述べよ」
「あ、いえ、その……暮らしやすそうだって言ってもらえたのは、ちょっと嬉しかったですし……でも、暮らしやすいだけじゃないって言ってもらえたのは……もっと嬉しかったです」
と、ついにははにかむような笑顔を見せる始末である。
自ら乗り込んできた身でありながら、和緒はすっかり敗残兵の心地であった。
(畜生め。嫌がらせのはずが、あたしのほうが翻弄されてるじゃん)
誰も知らない遠藤めぐるの私生活に踏み込んだということで、和緒は少なからず昂揚してしまっている。そしてこの部屋には、遠藤めぐるの生活感がしみついており――それがまた、和緒に居心地のよさを感じさせてやまなかったのだった。




