02 鉄の味
無事に夏休みが終了したならば、二学期の到来である。
中学二年生の二学期には、特別なイベントが存在する。いわゆる、修学旅行というやつだ。県内の中学校では春先から六月までに実施するのが主流であるという噂であったが、和緒たちの通う中学校においては十一月の秋口に設定されていた。
さらに、行き先は京都・奈良が主流であるそうだが、こちらの中学校は長崎である。京都を鬼門と考えている和緒には、ありがたい限りであった。
ただし、修学旅行というイベントにはありがたくない余禄も付随する。どうもこの時期は、男女交際が発展する傾向にあるようであった。
夏休みが明けるなり、クラスの連中は惚れた腫れたで大騒ぎである。修学旅行の前に恋人を獲得しようだの、修学旅行の期間中に告白を決行しようだの、和緒にとっては心底どうでもいい話題で盛り上がっている。どうやら夏休みの期間に恋愛の体験をしそびれた層が、躍起になって騒いでいるような風情であった。
しかし和緒も、他人顔はしていられない。一学期で殲滅を終えたと思っていた男子連中が、また性懲りもなく和緒に群がってきたのである。それをいちいち撃退するのは、苦行以外の何ものでもなかった。
(いっそ校外に恋人がいるって噂でも流してやろうかな。……いや、のぼせた連中には大した効力も見込めないか。それより、女子連中の野次馬根性をかきたてるデメリットのほうがでかそうだ)
そんな思いを抱えながら、和緒は数日に一度の割合でばったばったと男子連中を切り伏せていくことになった。
しかしまあ、和緒にとってはこれも日常である。齢を重ねるごとにエスカレートしているのは事実であるものの、今さら我が身の境遇を嘆くほどのことではなかった。
よって――その面倒ごとは、別方向から飛来してきた。
九月も半ばを過ぎた頃、和緒が体育館の横手に向かうと、そこで思わぬ騒ぎが巻き起こっていたのだ。
「ふざけんなよ! せっかく仲良くしてやろうと思ったのによ!」
まずは、そんな怒声が聞こえてきた。
和緒が小走りでそちらに向かおうとすると、それよりも先にひとつの人影が飛び出してくる。小柄で、銀縁眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな男子生徒――和緒の記憶に間違いがなければ、それは隣のクラスの男子生徒であった。
顔を真っ赤にした男子生徒は、和緒の姿を認識した様子もなく校舎のほうに駆け去っていく。
それを横目で見送ってから、和緒は体育館の横手に足を踏み入れた。
「やあ。なんだか、面倒ごとみたいだね」
遠藤めぐるは、薄暗がりでぼんやりと立ち尽くしていた。
その目は力なく伏せられており、和緒のほうを見ようとしない。その小さな顔にも、表情らしい表情は浮かべられていなかった。
しかしとりあえず、暴力などを受けた様子はない。
それをひそかに安堵しながら、和緒は遠藤めぐるのもとに歩み寄っていった。
「この時期は、あちこちで騒ぎが起きてるみたいだね。さすがのあんたも、他人事ではいられないってわけだ」
「……はあ」と気のない言葉をもらし、遠藤めぐるは定位置にしゃがみこんだ。
そして、何事もなかったかのように、学生鞄から弁当箱を引っ張り出す。和緒もまた苦笑を浮かべつつ、その隣に陣取った。
「前言撤回するよ。愛の告白も、あんたにとっては他人事ってわけだ」
「愛の……告白?」
「違うの? どう見ても、あんたが告白をお断りした図だったけど」
「……そんな大した話ではなかったと思います」
遠藤めぐるはは弁当箱の蓋を開けて、ふりかけをかけた白米を口に運び始めた。
その姿に、和緒は若干の不安を覚えてしまう。
「ねえ。余計なお世話だってことは百も承知だけど、ああいう手合いは上手くかわしたほうがいいよ。逆恨みされたら、厄介でしょ?」
「はあ……でも、わたしは最初から、みんなに嫌われていますので……」
「それでも、男の逆恨みを甘く見たら、痛い目を見るよ。あんた、身を守る手段はあるの? 催涙スプレーとか、スタンガンとかさ」
「…………?」
「そんな、宇宙人でも見るような目で見ないでよ」
和緒は溜息をつきながら、スポーツバッグからコンビニ袋とは異なるものを取り出した。和緒にとっての必需品、防犯ブザーである。
「これ、わかる? このピンを抜くと、爆音が鳴り響くから。いつでも手に取れるように、ポケットにでも忍ばせておきな」
「そ……それは、あまりにも大げさだと思います」
表情のなかった遠藤めぐるの顔に、困惑の色がたたえられる。
それでまたひそかに安堵の思いを覚えつつ、和緒は彼女のベストの胸ポケットに防犯ブザーを差し込んだ。
「備えあれば憂いなしって格言があるでしょうよ。いいから黙って、受け取っておきなさいな」
「で、でも……美人さんの磯脇さんはともかく、わたしなんかは……」
「ああ。おかげさまで、あたしはもう何回もそいつのお世話になってるよ。そいつがなかったら、今頃こんな呑気な顔はしてられなかったかもね」
和緒がそのように言いつのると、遠藤めぐるは愕然とした様子で胸ポケットの防犯ブザーを引っ張り出した。
「そ、それならやっぱり、磯脇さんが持っていてください。もし磯脇さんの身に、何かあったら……」
「そいつは、予備だよ。バッグの中に入れてたら、いざってときに使えないからね」
和緒はスカートのポケットから、同じものを引っ張り出した。
そして、遠藤めぐるの小さな顔をじっと見つめ返す。
「あんたは今、あたしのことを心配してくれたんでしょ? それと同じで、あたしもあんたが心配なんだよ。こういうのは本人だけじゃなく、周囲の人間を安心させる効能もあるってことさ」
遠藤めぐるはぱちぱちとまばたきをしながら、何とか懸命に和緒の言葉を理解しようとしている様子であった。
そして――その末に浮かべられたのは、はにかむような笑顔である。
「わ、わかりました……磯脇さんがそんなに心配してくれるなんて……なんだか、すごく嬉しいです」
「ああもう、そういうのはいらないってんだよ」
和緒は呆気なく自制を失い、遠藤めぐるの頭を小突いてしまった。
そうすると、遠藤めぐるはいっそう口もとをほころばせてしまうのである。それがわかっているからこそ、和緒も自重しているわけであった。
ともあれ、和緒は苦心して遠藤めぐるに防犯ブザーを受け取らせたわけであるが――このたびの面倒ごとは、かえすがえすも想定外の方向から押し寄せてきたのだった。
◇
遠藤めぐるに防犯ブザーを押しつけた日の、翌日である。
和緒がひとりで登校すると、グラウンドのほうで何か騒ぎが起きていた。
サッカー部やら何やらはいつも通り朝練に励んでいるが、それとは別に人の輪ができている。その中心におさげの頭を垣間見た和緒は、反射的に足を向けることになった。
人の輪ができているのは、校舎のすぐそばのスペースだ。
数多くの野次馬が人だかりを作っており、その内側に何名かの教員と遠藤めぐるが立っている。そして、その足もとに転がっているのは――無惨にひしゃげた、生徒用の机と椅子であった。
「あ、磯脇さん。なんか、すごい騒ぎになっちゃってるね」
と、その人だかりを形成していたひとりが、こっそり和緒に呼びかけてくる。それは、クラスメートの女子生徒であった。
「……これ、なんの騒ぎなの?」
「遠藤さんの机と椅子が、二階のベランダから落とされてたらしいよ。そりゃあ先生がたもびっくりだよね」
そのように語る女子生徒は、爛々と目を光らせている。遠藤めぐるの不幸を喜んでいる様子はないが――何か、花火を見物する幼子のように昂揚しているようであった。
和緒はひそかに奥歯を食いしばりながら、人の輪の中心に視線を戻す。
教員たちは腕を組んだり溜息をついたりで、遠藤めぐるはぼんやりとした顔でうつむいている。まるで、彼女が叱責されているかのようであったが――どちらにせよ、彼女は持ち前の強靭さで無関心をつらぬいているようであった。
彼女たちの足もとには、何冊かの教科書も散乱している。きっと机の引き出しに残されていた教科書であろう。そちらの名前から机と椅子の持ち主を割り出し、そして、現場を片付けもせずに本人の登校を待ちかまえていたという構図であるようであった。
(それでこいつをさらしものにして、誰に何の得があるってのさ?)
和緒はどうしようもなく腹を煮やしながら、学年主任である教員の威張りくさった横顔をにらみつけた。
すると――その向こう側に、昨日の男子生徒の姿が見えた。
遠藤めぐるに暴言を吐いていた、あの男子生徒である。
人垣の最前列に陣取ったその男子生徒は、食い入るように遠藤めぐるの姿を凝視しており――そして、その口もとに歪んだ笑みをたたえていた。
(……そういうことかよ)
この男子生徒が、遠藤めぐるの机と椅子を二階のベランダから放り捨てたのだ。和緒は直観で、それを確信していた。
そうして和緒はその歪んだ笑みを脳裏に焼きつけてから、すべての騒ぎにに背を向けて教室を目指したのだった。
◇
その日の、放課後である。
制服のベストをスポーツバッグに収納した和緒は、ブラウスの上から体育用のジャージを羽織って決戦の場を目指した。
すでに放課後になってから、二十分ていどの時間が過ぎている。校内に居残っているのは、部活動に励む人間かおしゃべりに興じている暇人ぐらいであろう。そういった人々の目を忍びつつ、和緒は体育館の横手に向かった。
そちらで待ちかまえていたのは――くだんの、男子生徒である。
和緒が時間と場所を指定して、彼をこの場に呼び出したのだ。和緒が近づいていくと、その男子生徒は何とも言えない面持ちで笑った。
「や、やあ、磯脇さん。まさか、磯脇さんから呼び出されるだなんて、夢にも思ってなかったよ」
浮ついた声音で、その男子生徒はそう言った。
きっと、何かを期待しているのだろう。和緒もそういう効果を狙って呼び出しの言葉を考案したので、何も不思議なことはなかった。
体育館からは、床を踏み鳴らす音や掛け声などが壁越しに聞こえてくる。しかし、窓は床面付近の下窓しか存在しないため、こちらが窓を避けた場所に陣取っていれば盗み見される恐れはなかった。
「わざわざ悪かったね。でも、どうしても話しておきたい話があってさ」
「う、うん。どんな話だろう?」
「あんたはこの場所で、遠藤めぐるさんに告白してたよね。それでフラれた逆恨みで、あんな馬鹿な真似をしでかしたってわけだ」
和緒がストレートに切り込むと、男子生徒は真っ青になった。
いかにも文科系の風貌であるし、さして胆も据わっていないのだろう。だからこそ、あのように陰湿な真似で鬱憤を晴らそうと考えたのだ。
「な、なんの話だよ? 遠藤のことなんて……磯脇さんには、関係ないだろ?」
「関係ないことはないでしょうよ。今日は緊急で全校集会が開かれたりして、大変な騒ぎだったじゃん。あんたも大人しそうな顔して、ずいぶん大胆な真似をしたもんだよね」
「……俺がやったっていう証拠でもあるのかよ?」
と――いくぶんうつむいた男子生徒が、またあの歪んだ笑みをたたえた。
いったいどのように表情筋を操作したら、こんな醜悪な笑みを浮かべられるのか。見ているだけで、和緒は吐き気をもよおしそうだった。
「あたしは警察でも教師でもないから、証拠なんていらないんだよ。ただ、あんたがこれ以上馬鹿な真似をしないように、とっちめておきたいだけさ」
「へえ? お、俺と喧嘩でもする気かよ? ずいぶんなめたことを言うんだな」
「うん。なんだったら、ハンデをあげようか?」
和緒は、ジャージのポケットに隠し持っていたものを取り出した。
ハンカチでくるんだ、カッターナイフである。美術室から拝借した、ちゃちなカッターナイフであった。
和緒はハンカチを手もとに残したまま、カッターナイフだけを放り投げる。
なだらかな軌跡を描いたカッターナイフが胸もとに落ちると、男子生徒は困惑した顔でそれをキャッチした。
「……な、なんだよ、これ? 俺のこと、馬鹿にしてんのか?」
「うん。あたしの思いが伝わったんなら、何よりだよ」
「ふ、ふざけんな! 誰がこんなもん、使うかよ!」
男子生徒は顔を真っ赤にして、カッターナイフを和緒に投げ返してきた。
カッターナイフは和緒の肩に衝突してから、地面に落ちる。和緒はハンカチを手袋代わりにして、それをつまみあげた。
「はい、あんたの指紋つきのカッターナイフをいただきました。これでミッションは八割がた完了だね」
「はあ? お前、何を言って――」
「これであたしが切り刻まれたら、犯人はあんたで確定ってことさ」
和緒はカッターナイフに指紋をつけないように気をつけながら、刃をのばした。
そして、その先端を自分の顔に押し当てる。
「あたしはこれでも、けっこう人気者だったりするからさ。あたしの美貌に縫い傷でもつけたら、あんたは一躍有名人だろうね」
「お、お前……頭がおかしいんじゃねえの?」
男子生徒は真っ赤であった顔を真っ青にして、後ずさった。
「や、やれるもんなら、やってみろよ。そんな話、誰が信じるもんか」
「なるほど。あんたがあたしを襲う理由づけが必要ってわけだね」
和緒は右頬にカッターナイフの刃を押しあてつつ、左手をブラウスの咽喉もとにかけた。
そうして一気に手を引きおろすと、ボタンがぶちぶちとはじけ飛び――全開になったブラウスから、和緒の無駄に育った肢体があらわにされた。
「性欲に負けたあんたがあたしを襲って、言うことを聞かないからカッターナイフで切りつけたっていう筋書きはどう? 少なくとも、あたしがそんな小細工であんたを罠にはめたっていう筋書きよりは、説得力があるんじゃないかな?」
男子生徒は、その場にへなへなとへたりこんだ。
和緒は空いた左手で、今度は防犯ブザーを引っ張り出す。
「悲鳴をあげるのは面倒だから、こいつを活用させていただくよ。顔を切って、こいつのピンを抜くのに、二秒もかからないだろうね。その間に、ダッシュで逃げてみる? どっちみち、あたしの証言と指紋で犯人は確定するけどさ」
「お、お前……どうしてそんな……」
「あたしにとって、平穏な学校生活を守るためだよ」
和緒が一歩だけ近づくと、男子生徒はへたりこんだまま同じ距離だけ後ずさった。
銀縁眼鏡の奥の目は、化け物でも見るように和緒を見ている。和緒は自分がどのような表情をしているのか、あまり把握していなかった。
「じゃ、交渉を始めようか。あたしの要求は、二つだけだよ。一、金輪際、遠藤めぐるに近づかないこと。二、今日の騒ぎは自分の仕業だって学校に報告すること。その約束を守ってくれるなら、婦女暴行未遂と傷害罪の前科がつかないように取り計らってあげるよ」
「そんな……そんな、馬鹿なこと……」
「あれ? そんなきつい要求だったかな? じゃ、少年院だか鑑別所だかで臭いメシでも食ってきなよ」
和緒がカッターナイフを強く押し当てると、右頬にぷつりと小さな痛みが弾けた。
男子生徒は「ひいっ」と悲鳴をあげて、頭を抱え込む。
「わ、わかった! わかったから……もう勘弁してくれ!」
男子生徒は粗相をしてしまったらしく、嫌な臭いが鼻をついてきた。
和緒は防犯ブザーをポケットに仕舞い込み、代わりにスマホを引っ張り出す。
「じゃ、いちおう言質を取らせてもらうね。あんたが明日までに行動を起こさなかったら、この音声データを学校に送らせてもらうから。まずは学年とクラスと氏名から、元気よくいってみようか」
◇
そうしてすべての雑事を終えた和緒は、カッターナイフとスマホをポケットに戻してから、ジャージのジッパーを閉めてあられもない姿を隠した。
「はい、お疲れさん。いちおう言っておくけど、このカッターナイフがある限り、いくらでも今日の再現は可能だからね。頭が冷えても、ゆめゆめこの場の体験をお忘れなきように」
へたりこんだまま動けずにいる男子生徒に背を向けて、和緒は家に帰ることにした。
グラウンドでは、サッカー部や野球部が練習に勤しんでいる。真っ当なものに熱情の矛先を向けられる彼らは、果報者であった。
(ほんと、あたしは何やってんだろ。我ながら、トチ狂ってるよなぁ)
もしもあの男子生徒が和緒の脅迫に屈せず、すべての真相を周囲の人間にぶちまけたならば――和緒の平穏な学校生活も、木っ端微塵である。相手が自分よりも愚かであることに期待をかけなければならないというのは、何とも危険なギャンブルであった。
(ま、それならそれで、あたしも嫌われ者に仲間入りするだけだしな。べつだん、騒ぐような話じゃないさ)
和緒がそんな風に考えたとき、右頬を撫でられたような感触が生じた。
手の甲で右頬をこすると、少量の血が付着している。ほんの数ミリばかりカッターナイフの刃を押し込んだだけで、まだ出血が止まっていなかったのだ。
(こんなもんがドバドバ流れるぐらいのケガって、ずいぶん痛いんだろうな。……ま、知ったこっちゃないけど)
校門を目指して歩きながら、和緒は手の甲についた血を舐め取った。
和緒の血は、鉄の味がした。




