05 深入り
さらに翌日――始業式から数えて三日目のことである。
和緒がその日の昼休みにも体育館の横手のスペースにまで出向いてみると、遠藤めぐるはまたひとりでぽつんと座り込んでいた。
「ああ、また先を越されたか。あんた、こういうときだけは素早いんだね」
和緒がそのように声をかけると、遠藤めぐるはまた溜息をこらえているような顔になった。
「あの……何かご用事ですか?」
「そりゃあもちろん、ひとりで静かにランチを楽しもうとしてるんだよ。またあんたに先を越されちゃったけどね」
「…………」
「んー? 声が小さくて、よく聞こえないんだけど?」
「あ、いえ……だったら、他の場所を探すとか……」
「どうしてあたしがすごすごと引き下がらないといけないのさ。静かなランチを邪魔されたからには、そっちの邪魔もしてやらないと不公平でしょ」
遠藤めぐるはもごもごと口を動かしたが、今回は反論の言葉も思いつかなかったようであった。
ようやく一手を返せたようで、和緒は清々しい心地である。そんな心地のまま、和緒はまた遠藤めぐるの隣に腰をおろすことにした。
遠藤めぐると口をきくのは、昨日の昼休み以来である。昨日も食事を終えた後は別々に教室まで戻り、それ以降は申し合わせたように会話を控えたのだ。遠藤めぐるの思惑は知れなかったが、和緒としては騒がしいクラスメートたちの前で彼女と口をきく気持ちにはなれなかった。
(どうせあいつらは、やいやい騒ぐに決まってるしな)
和緒はコンビニのビニール袋をまさぐって、カレーパンを取り出した。
それを頬張る前に遠藤めぐるの手もとを覗き込んでみると、本日の弁当も昨日と同じ内容だ。
「だから、白米にふりかけって弁当はどうなのよ。肉を食え肉を」
「……お金が、もったいないので」
遠藤めぐるは溜息をつくようにして、そんな言葉をこぼした。
和緒は「へー」と応じながら、カレーパンをかじり取る。
「ずいぶんつつましい生活を送ってるんだね。保護者の方々が、そういう方針なの?」
「……いえ。食費にいくらつかうかは、自分で決めています」
「ふうん。そいつは、ご立派だね。でも、食費をけちったらのちのち痛い目を見るんじゃないかな。あたしらは、まごうことなき成長期の真っ只中なんだからさ」
「…………」
「お、静かなランチが台無しってお顔だね。これはあたしも、我が身を削って居座った甲斐があったってもんだ」
遠藤めぐるはしばらく地面に視線をさまよわせてから、しかたなさそうに口を開いた。
「あの……どうして、わたしにかまうんですか? わたしのことが気に食わないなら……近づかなければいいと思うんですけど」
「そう? でも、こうしてあんたが嫌な思いをしてるなら、近づいた甲斐もあるんじゃない?」
「…………」
「それにべつだん、あんたのことが気に食わないわけじゃないしね。そもそもそんな判断をくだせるほど、あんたのことを知らないしさ」
それはいちおう、和緒の本音であった。
気に食わない相手に近づくほど、和緒も酔狂な人間ではないのだ。ただ、どうしてわざわざ自分から彼女に近づこうとしているのかは――いまだに自分でも、答えを見いだせていなかった。
(まあ、確かなのは……クラスの騒がしい連中に比べたら、何倍もマシってことかな)
とにかく和緒がこの陰気な娘に好奇心をかきたてられているのは、まごうことなき事実なのである。どうせ家に帰れば好きなだけ静かな時間にひたれるのだから、昼休みの数十分間ぐらいはどのように消費しても惜しくはなかった。
「あんたこそ、あたしが気に食わないなら尻尾を巻いて逃げればいいじゃん。そうしたら、おたがいに静かなランチの時間を確保できて、ウィンウィンでしょ」
「……それは、面倒です」
「わざわざ腰を上げるぐらいなら、あたしの相手をしてるほうがマシってことか。じゃ、おたがい気兼ねなくランチを楽しもうじゃないの」
カレーパンを完食した和緒は、ハムカツのサンドイッチを引っ張り出した。
遠藤めぐるは、どこか不本意そうな目つきをしていたが――それでもやっぱり、腰を上げようとはしなかったのだった。
◇
そんな具合いに、和緒の日々はなだらかに過ぎ去っていった。
昼休みの時間を除けば、一年生の頃と大きな変わりはない。授業は退屈なだけであるし、女子生徒たちは騒がしい。そしてまた、上級生やら隣のクラスの男子生徒やらに、愛の告白を届けられることになった。
(いいかげん、しつこいな。あたしなんかとつきあったって、なんもいいことなんてありゃしないよ)
それに、体育の授業などでは、男子生徒の視線がいっそう煩わしくなってきた。和緒はずいぶん着やせするタイプであるのだが、やはり制服よりは体操着のほうがボディラインが出やすいのだ。今は春先でジャージの上下を着込んでいるのに、それでも男子連中の煩悩をかきたててしまうようであった。
(他の女子連中は、こういう視線がストレスになったりしないのかね)
それとも和緒は義兄にまつわる体験で、神経が過敏になっているだけなのだろうか。
まあ真実がどうであるにせよ、和緒が不愉快であることに違いはなかった。
いっぽう、遠藤めぐるはというと――体育の授業で、ずいぶんと微笑ましい姿をさらしていた。彼女が鈍臭いという風聞は事実であったようで、どんな競技でも人並み以下の技量であったのだ。
ただ和緒は、それを愛くるしいものと認識していた。バスケでパスを取りこぼしてわたわたする姿も、短距離走で子供のようにちょこちょこと走る姿も、油断していると微笑みを誘発されるぐらい愛くるしく思えてならなかったのだった。
(ただ、スタミナがなさすぎだよ。だから、しっかり食べろって言ってんのに)
女子連中は、そんな遠藤めぐるの姿を冷ややかに見守っていた。
ただ――一部の男子連中は、まだしも好意的な視線を送っているようである。遠藤めぐるはあまりに陰気かつ内向的であったが、顔立ちはけっこう可愛らしいし、ちまちまとした外見は庇護欲をかきたててやまないのだ。同性の和緒でもそう感じるのだから、同じように考える男子生徒も少なくはないはずであった。
(もしかしたら……それで余計に、女子連中の反感をくらってるのかな)
和緒も全人類に好かれるわけではないので、時にはやっかみの視線を向けられることがある。とりわけ、愛の告白をお断りした直後などは、その傾向が顕著であった。自分が想いを寄せていた相手が和緒に告白をしたと聞き、嫉妬の思いにとらわれてしまうのだろう。それも含めて、和緒は煩わしいと考えていた。
(つまり、誰にとってもあたしの側の感情はおかまいなしってことだもんな。勝手に好きになったり嫌いになったり、慌ただしいこった)
ともあれ、それらの雑事はこれまでの延長に過ぎないので、和緒にとっては変わらぬ日常であった。
それよりもスリリングであるのは、やはり学校のない土日のほうだ。両親が朝から出かけていれば面倒もないが、日によってはどちらか片方がリビングに居座ったりしているので、そういう日は寝室に引きこもるか、隙をついて外出するしかなかった。
しかし外出したところで、行くあてもない。上っ面の交友関係をシャットダウンした和緒は、休日に遊ぶ相手もいないのだ。それは自ら望んだことであったが、退屈であることに違いはなかった。
(かといって、誰に会いたいとも思わないしな)
そこでふっと頭に浮かんだのは、遠藤めぐるの姿である。
彼女に会いたいと思ったわけではない。ただ、彼女がどのようにして休日を過ごしているのか、まったく想像がつかなかったのだった。
(家でぼけーっとしてんのかな。それとも、学校の外には友達がいるとか……案外、彼氏と仲良くしてたりしてな)
それはあまりに想像を絶したが、和緒は彼女のことを何も知らないに等しいのだ。裏にどのような顔を持っていたとしても、驚くには値しないはずであった。
(別に、そんな話を知りたいとも思わないし……ていうか、こんな風にあいつのことを考える心理も、謎だしな)
そうして和緒はその日もあてどもなく町をさまよい、不毛な休日を消化することになったのだった。
◇
中学二年生に進級して、二週目の月曜日である。
その日の昼休み、和緒が性懲りもなく体育館の横手に向かうと、遠藤めぐるはまたひとりで座り込んでいた。
ただ、弁当箱が見当たらず、手もとに水筒を抱え込んでいる。和緒は小首を傾げつつ、とりあえず定位置に腰を下ろした。
「弁当はどうしたの? まさか、誰かに強奪されたとか?」
「あ、いえ……」と、今日も遠藤めぐるの返事は覚束ない。
「それじゃあ答えになってないよ。まさか、ダイエットじゃないだろうしね。それ以上痩せ細ったら、あんたなんて骨と皮だよ」
「……昨日、お金をつかっちゃったから……今日は、節約です」
相変わらず和緒のほうを見ようともしないまま、遠藤めぐるはそんな言葉をこぼした。
スポーツバッグからコンビニのビニール袋を引っ張り出しつつ、和緒は「ふうん?」と眉をひそめる。
「あんたの家では、小遣いと食費が連動してるわけ? まるで、小遣い制のサラリーマンだね。それで、何にお金をつかったってのさ?」
「別に……ネットカフェに行っただけです」
「ネットカフェ? そんなもん、大した出費じゃないでしょうよ」
「……わたしにとっては、大きいんです」
普段の弁当の内容からも察せられたが、彼女はずいぶんと清貧の生活に身を置いているようである。
しかし、和緒には納得がいかなかった。
「家に通信の環境がないってこと? それにしたって、ネカフェ通いで食費を切り詰めるってのは、感心できないね。そんな生活してたら、いつか体を壊すんじゃない?」
「…………」
「都合が悪くなると、黙り込むよね。あたしがうるさいんなら、真っ当な反論で黙らせてみたら?」
和緒がしつこくたたみかけると、遠藤めぐるはいかにも渋々といった様子で口を開いた。
「ネットカフェに行くのは、月に一回です。……貧乏人には、そんな贅沢も許されませんか?」
和緒は思わず言葉を詰まらせてから、苦笑した。
「やればできるじゃん。まんまと論破されちゃったよ。……なるほどなるほど。クラスの連中が言う不幸自慢ってのが、これかぁ。これっぽっちも、自慢してる風には思えなかったけどね」
「…………」
「まあ恵まれた環境にいる人間は、自分より劣悪な環境に置かれてる人間を前にすると、同情するか見下すしかないんだろうね。そうやって心のバランスを取らないと、いわれのない罪悪感の虜になっちまうわけさ」
「…………」
「じゃんけん、ぽん!」
和緒がひさびさに気合を入れて声を張ると、遠藤めぐるは仰天した様子で握った拳を突き出してきた。
人は不意を突かれると、グーを出す確率が跳ねあがるのである。チョキを選択した和緒は、まんまと敗北することになった。
「あーあ、負けたか。それじゃあ景品の、牛そぼろのおにぎりでございます」
「え? え?」と、遠藤めぐるは目を泳がせた。
その胸もとにおにぎりの包みを放り投げると、わたわたとしながらキャッチする。
「な……なんですか、これ?」
「だから、景品のおにぎりだよ。あんたは勝負に勝ったんだから、遠慮なく腹を満たしなさいな」
この期に及んでも和緒の顔を見ようとしないまま、遠藤めぐるは力なく眉を下げた。
「つまり……わたしに同情したわけですか?」
「なんだ、ぼんやりした顔で、しっかり聞いてたんだね。だったら少しは、リアクションしてよ」
「…………」
「ただ、その考えは見当はずれだね。あたしは人並みの感受性なんて持ち合わせちゃいないから、どんな不幸な人間を前にしたって罪悪感にとらわれたりしないよ」
「それじゃあ……どうして……」
「だからそいつは、じゃんけんの景品だよ。あとはまあ、あたしを論破したご褒美ってところさ。月に一度のお楽しみに文句をつけちゃってごめんなさいっていう謝罪も込みでね」
遠藤めぐるはまたせわしなく目を泳がせた後、おずおずと和緒の顔を見上げてきた。
すると、その大きな目がいっそう大きく見開かれる。
「どうしたの? 何をそんなに驚いてるのさ?」
「あ、いえ……い、磯脇さんって、こんな美人さんだったんですね」
もとより和緒は座っていたが、そうでなければ膝から砕けていたかもしれなかった。
「あんた、始業式から何日経ってると思ってるのさ? 今まで一回も、あたしの顔を見たことがなかったっての?」
「はあ……興味がなかったので……あ、す、すみません! け、決して悪い意味じゃなくて……」
「いい意味で興味がないってのは、どういう状況なんだよ」
和緒はついに抑制を失って、遠藤めぐるの頭を小突いてしまった。
すると、遠藤めぐるは申し訳なさそうに目を伏せて――それから、はにかむように口もとをほころばせた。
遠藤めぐるが、ついに笑顔を見せたのである。
それは笑顔と呼ぶには、あまりに力ない表情であったが――ただ、彼女が持っている本来の魅力を、わずかばかりは垣間見せているようであった。




