04 邂逅
和緒は、中学二年生に進級した。
身体測定はこれからであるが、相変わらず背丈ものび続けている。おそらくもう百六十五センチぐらいには到達しているのだろう。顔はすっかり母親と生き写しになり、第二次性徴も留まるところを知らず、高校生に間違われるどころか中学生だと言っても信じてもらえないほどであった。
しかしもちろん、和緒の心境に変化はない。町を歩けばナンパ目的の男が寄ってくるようになっていたが、忌まわしい記憶がフラッシュバックすることもない代わりに、自尊心をくすぐられることも恋心をかきたてられることもなかった。自分の容姿やら色香やらに惹かれる人間など、誘蛾灯に集まる蛾も同然だとしか思えなかった。
さりとて和緒には、誇るべき内面というものも存在しない。しょせん和緒など持って生まれた小器用さだけを頼りにのらくらと生きている、無個性で退屈な人間に過ぎないのだ。そうであるからこそ、こんな空っぽの人間の見てくれに惑わされて近づいてくる者たちが愚かしく思えてしかたなかったのだった。
(なんか、質の低い中二病みたいな思考だよな。まあ、こちとらまごうことなき中学二年生だけどさ)
そんな思いを適当に漂わせながら、和緒は始業式を迎えることになった。
まずは昇降口の前で新たなクラス表を確認し、指定された教室へと向かう。そちらで簡単なホームルームを終えたならば、今度は体育館で退屈なスピーチの拝聴だ。学年が上がっても、和緒を取り巻く環境には何ら変化も感じられなかった。
そうして教室に舞い戻ったならば、再びのホームルームである。
ここで担任の教員が、余計な熱情を発露させた。
「それじゃあクラス内の親睦を深めるために、ひとりずつ自己紹介をしてもらおうか! 所属している部活動だとか、あとは趣味や特技など、なんでもいいから簡単に自分をアピールしてくれ!」
クラスメートの何名かが不満げなざわめきをあげたが、担任の教員はめげた様子もなく面倒なイベントを実行に移した。
教室の席は、男女別で五十音順に並べられている。忌まわしいことに、磯脇という姓を持つ和緒は二列目の先頭だ。右端の男子の列が終了したならば、すぐさま順番が回ってきた。
「磯脇和緒です。一年生のときは、B組でした。部活には入ってないし、趣味も特技もありません。こんなでかい女が先頭だと迷惑でしょうから、迅速に席替えを希望します」
和緒がそんな言葉を並べたてると、あちこちから笑い声がさんざめいた。いったい何が楽しいのか、きわめて好意的な空気である。
「磯脇は運動神経抜群らしいから、今からでも何か部活を始めてみたらどうだ? ……それじゃあ、次」
と――担任の教員が何気なくうながすと、教室内の空気がわずかに変わった。
和緒がそれをいぶかしく思っている間に、後ろの席であった女子生徒が椅子を鳴らして立ち上がる。そして、和緒の頭上に覇気のない言葉が降りかかってきた。
「え、遠藤めぐるです。……部活は、入っていません。……趣味も、ありません」
それだけ言って、遠藤めぐるなるクラスメートは着席した。
周囲の面々は、かすかにざわついている。その理由が、和緒にはさっぱりわからなかった。
「はい、静粛に。それじゃあ、次」
自己紹介が再開されると奇妙なざわめきは速やかに終息したが、あちこちで囁き声が交わされている様子である。どうもクラスメートの何割かが、遠藤めぐるという生徒に何らかの感情を抱いているようであった。
(一年生の頃に、何か問題でも起こしたやつなのかな?)
和緒は体を横に傾けて、自己紹介を拝聴しているふりをしながら遠藤めぐるという生徒の姿を確認してみた。
ずいぶん小柄で、水気のない髪をおさげにくくった、これといっておかしなところのない女子生徒である。
ただ――机の上にぼんやりと視線を落としたその目つきが、いささか気になった。まるで目を開けながら眠っているかのように、何の感情も感じられなかったのである。和緒は十三年間生きてきて、こんな目つきをした人間を見たのは初めてのことであった。
(何か悪さをするような人間には見えないけど……こういうやつこそ、キレると危ないのかな)
それでひとまず好奇心を満たした和緒は、正面に向きなおって退屈な自己紹介を聞き流すことにした。
やがて自己紹介が終了すると、担任の教員は満足そうに「よし」と笑みをこぼす。
「三年生に進級するときにはクラス替えもないから、このメンバーで二年間を過ごすことになる。いずれはともに受験戦争に取り組む戦友になるんだから、みんな仲良くな」
そんな大仰な言葉で、ようやく帰りのホームルームは締めくくられた。
和緒がさっさと帰り支度を始めると、そうはさせじと何名かの女子生徒が寄り集まってくる。
「磯脇さん! 今年は同じクラスになれたね! どうぞよろしく!」
「わたしは連続で同じクラスになれて、ラッキーだったなぁ。修学旅行とか、楽しみだね」
「先生もさっき言ってたけど、今からでもバレー部に入部してくれない? 磯脇さんだったら、レギュラーを狙えると思うんだよねー!」
和緒はどのように素っ気ない言葉で蹴散らしてくれようかと、思案する。
すると――女子生徒のひとりが、「いてっ」とはしたない声をあげた。後ろの席の遠藤めぐるがその脇を通りすぎようとして、鞄か何かをぶつけてしまったらしい。
「痛いなぁ。あたしに何か文句でもあるっての?」
その女子生徒が眉を吊り上げると、遠藤めぐるは目を伏せたまま「いえ……」と覇気のない言葉をもらした。
「どうもすみません。……失礼します」
遠藤めぐるは相手の顔も見ようとしないまま、そそくさと立ち去っていった。
その姿がまだ教室内から消えない内に、別の女子生徒が「陰気なやつー!」と聞こえよがしに声をあげる。
「あんなやつと一緒のクラスになっちゃったのは、アンラッキーだったなー! 磯脇さんなんて、すぐ前の席だもんね!」
「うんうん! あんなやつに関わらないように、気をつけてねー!」
どうやらこの女子生徒たちは、あの遠藤めぐるという存在を見知っているようである。
和緒は再び、なけなしの好奇心をかきたてられることになった。
「あれって、誰なの? 有名人?」
「うん! 悪い意味でねー! 何をやらせても鈍臭くて、すっごく迷惑なの!」
ただ要領が悪いだけで、そんな悪しざまに罵られなくてはならないのだろうか。
要領のよさだけで生きてきた和緒には、いまひとつ腑に落ちないところであった。
「それだけで、アンラッキー扱いされちゃうの? 何か実際に迷惑をこうむったとか?」
「あんなやつ、いるだけで迷惑だよ! クラスの空気だって悪くなるしね!」
「ホントだよー! しかも、反省する気もゼロだしさ! 自分が迷惑になってることにも気づいてないんじゃない?」
「どうせ悲劇のヒロインでも気取ってるんでしょ! 不幸自慢は勘弁してほしいよねー!」
最後の言葉が、和緒の神経に不快な刺激をもたらした。
「悲劇のヒロインって? あの子に何か、不幸でもあったの?」
「なんか、交通事故で家族を亡くしたらしいよー! だからって、人に迷惑をかけていいってことにはならないけどね!」
「家族って、誰を?」
「よく知らないけど、両親じゃない? それでこっちに引っ越してきたみたいだから」
そんな曖昧な情報で、遠藤めぐるという娘はこのように疎まれているわけである。
であれば、よほど素行が悪いのかと思って追及してみたが――そこのところは、さらに曖昧であった。
「とにかく不愛想で、何を話してもまともな返事が返ってこないの!」
「あれって絶対、こっちのことを見下してるよねー! テストの点数ぐらいしか取り柄もないくせにさ!」
「ああいうやつこそ、裏で何をやってるかわからないよ! 磯脇さんも、気をつけてね!」
そんな不愛想なだけの人間を相手に、いったい何を気をつければいいというのか。
それよりも、和緒は目の前で騒いでいる女子生徒たちのほうこそが醜悪に見えてならなかった。
(なんか、動物園の猿みたい)
時として、学校の教室にはこういう騒ぎが勃発する。集団生活からはみ出した生徒は、どのように扱ってもかまわないという空気が生まれるのだ。あの遠藤めぐるという娘も、不愛想な態度でそんな環境を構築してしまったようであった。
(でも、悲劇のヒロイン、か……そんなもんを気取ってるようには見えなかったな)
彼女はまるで、起きながら眠っているような――夢遊病者のように、地に足がついていないような印象であった。
そうしてそのひたすらぼんやりとしているだけのたたずまいが、妙に和緒の関心をかきたててやまなかったのだった。
◇
翌日である。
始業式の翌日から、学校はもう通常の時間割になっていた。
列の先頭になってしまった和緒は、居眠りすることも許されない。そして、遠藤めぐるという不可解な存在をすぐ背後に抱えて、いささかならず落ち着かない心地であった。
(どうやらこいつも、周りの状況をどうにかしようって気はさらさらないみたいだな)
遠藤めぐるは、誰とも口をきこうとしない。休み時間はずっと自分の席でぼんやりしているか、あるいは教室の外に出ていた。夢遊病者のように呆けた挙動にも変わりはなく、周囲のことなど一切認識していないように思えてならなかった。
(両親を亡くしたショックを、まだ引きずってるとか? ……って、あたしがそんなこと考えたって、どうしようもないけどさ)
そうして落ち着かない心地のまま、午前の授業が終わって昼休みを迎えた。
予想通り、数多くの女子生徒が弁当箱を掲げて和緒のもとに寄り集まってくる。しかし和緒も、大事な昼休みを騒がしく過ごす気は毛頭なかった。
「悪いけど、先約があるんでね」
それだけ言い残して、和緒はさっさと教室を後にした。昨年の下半期も、和緒はこの手で静かな休憩時間を死守したのだ。
(さて。校舎が変わったから、もとの巣穴まで出向くのは面倒だな。新しい穴場でも探すとするか)
和緒は昇降口を出て、人気のないスポットを探し求めた。
こちらの中学校はニュータウンの誕生から生じる人口の増加に備えて設立されたので、無駄に大きいのだ。しかしそれから数十年を経て、現在は少子化の波にさらされている。それで、敷地面積に対する人口密度が低いため、あちこちに人目を忍べる穴場が存在するわけであった。
スポーツバッグを肩からさげた和緒は、おのれの嗅覚に従って歩を進めていく。
そうしてけっきょく体育館の横手にまで遠征してみると――そこにぽつんと座り込んでいる人影があった。
(ちぇっ。先を越されたか)
和緒は、Uターンしかけた足を止めた。
その人影は、遠藤めぐるに他ならなかったのだ。
体育館のこちらの面は、ちょうど日陰になっている。その薄暗がりで、遠藤めぐるは体育館の壁に寄りかかってちょこんと座り込み、弁当箱の中身をつついている。それは何だか、地面の餌をついばむスズメのような風情であった。
和緒はしばし逡巡したのち、そちらを目指して歩を再開させる。
どれだけ距離が詰まっても、遠藤めぐるがこちらを振り返ることはなかった。
「こんなところで、孤独にランチ? ずいぶんいい趣味してるね」
和緒がそのように声をかけると、遠藤めぐるはびくりと身をすくめた。
どうやら無視をしていたのではなく、本当に和緒の接近に気づいていなかったらしい。そこまでぼんやりできるのは、むしろ大した話であった。
「クラスの外に友達がいるってわけでもなかったのか。わざわざ自分から距離を取るなんて、親切なことだね」
「あ、いえ……」ともごもご言いながら、遠藤めぐるは顔を上げようともしなかった。
そして、その手が抱えていたのは――白米にふりかけをかけただけの、実に簡素な弁当であった。
「何それ? ずいぶん貧相な弁当だね。成長期の真っ只中に、それじゃあ栄養が足りないんじゃない?」
「あ、いえ……」
「あ、いえ、じゃわかんないよ。あたしの言葉、脳髄まで届いてる?」
和緒は衝動のおもむくままに、しつこく言葉を重ねてしまった。
遠藤めぐるは、どこか溜息でもこらえているような面持ちになっている。いちおう返事はするものの、頑なにこちらを向こうとしないのだ。もしかしたら、彼女は和緒がすぐ前の席のクラスメートであるということも認識していないのかもしれなかった。
(なるほど。これが噂の、塩対応ってやつね)
和緒は五十センチほどの距離をあけて、遠藤めぐるの隣に腰を下ろした。
すると遠藤めぐるは、いっそう目を伏せてしまう。どうしても、和緒のほうを見る気にはなれないようであった。
「あたしは同じクラスの、磯脇和緒ってもんだよ。あんたは、遠藤めぐるさんでしょ?」
「……はあ」
「あんたはずいぶん、孤立してるみたいじゃん。クラスに馴染もうって気は、さらさらないわけ?」
「……はあ」
のれんに腕押しとは、このことであろうか。
和緒とて、周囲の物事に対して無関心であることには自信を持っていたが――彼女は、さらなる高みに到達しているようであった。
「……あんた、両親がいないんだって? それはそれで、面倒が少ないのかもね」
和緒がそこまで踏み入った言葉を口にしたのは、この娘がどこまで無関心をつらぬけるか試してみたいという思いに駆られてのことであった。
然して、その返答は――「……はあ」である。
「それは、肯定と受け取っていいのかな。あんたは両親を亡くしてこっちに引っ越してきたって聞いたけど、その噂に間違いはないってこと?」
「はあ……去年の春、両親と弟を事故で亡くして、こちらの祖父母に引き取られました」
遠藤めぐるは何の感情もこもらない声で、そのように言いつのった。
無理に感情を押し殺している気配はない。ただ淡々と事実を語っているような――それも、他人の境遇でも語っているような、無感動な声音であった。
和緒もまた、小学三年生の頃に母親を交通事故で亡くしている。
それをこのように平坦な声で、他者に語れるだろうか?
答えは、「否」であった。
(かといって、家族を亡くしたことを喜んでるわけでもないみたいだし……こいつ、いったい何なんだよ?)
和緒は、遠藤めぐるの横顔を凝視した。
とても幼げな、小さな顔だ。血色不良で、肌が乾燥しており、髪にも艶がない。地味で、陰気で、野暮ったくて――ただ、きょろんと大きな目が、何かの動物のように可愛らしく思えた。
(きちんと身なりを整えたら……いや、普通に笑うだけで、可愛くなりそうなのにな)
そんな風に考えてから、和緒はいくぶんたじろいだ。和緒がこのように他者を検分して、その内面にまで踏み込もうとしたのは――去年の夏に家庭が崩壊して以来、初めてのことであったのだった。
(よりにもよって、なんでこんな面倒な相手に絡もうとしてんだよ。あたしもいよいよ、焼きが回ったかな)
そうして和緒が口をつぐむと、辺りには静寂がたちこめた。
この場には二人しかいないのだから、それが当然の話であるのだ。
そういえば――和緒が誰かと二人きりで時間を過ごすというのは、忌まわしき里帰りで父親と新幹線に乗って以来であるはずであった。
(まあ……あのときに比べたら、そんなに悪い気分でもないか)
腹をくくった和緒は、スポーツバッグから昼食が詰め込まれたコンビニのビニール袋を引っ張り出すことにした。
すると遠藤めぐるもこちらを振り返ろうとしないまま、もそもそと食事を再開させたのだった。




