-Track1- 01 前準備
和緒が母親を失ったのは、小学三年生の頃だった。
原因は、交通事故である。残業で帰りが遅くなった母親は、飲酒運転をした大学生のグループに立派なワゴン車で轢き殺されてしまったのだ。
心の準備ができていなかった和緒は、悲しいと感じるいとまもなく葬式に出て、母親と永遠にお別れすることになった。そしてその数日後、千葉県のさくら市という場所に引っ越すことになったのだった。
「パパひとりじゃ和緒の面倒を見るのは難しいから、お祖母ちゃんを頼ることにしたんだ。ママを亡くした上に転校までするのは辛いだろうけど……どうか我慢してくれ」
父親は、そんな風に言っていた。
父親は和緒と異なり、母親の死をしっかり実感しているのだろう。げっそりとやつれて目を赤くした父親があまりに気の毒であったので、和緒は「あたしは大丈夫だよ」と答えるしかなかった。
それに実際、和緒は転校や引っ越しというものを苦にしていなかった。祖母のことは嫌いでなかったし、もともとの学校はそれほど楽しくもなかったし――母親を失うという一大事の前では、騒ぐほどのこととも思えなかったのだ。
元来、和緒は冷めた子供であった。人並みの情感は持ち合わせているつもりであるのだが、何事に関しても熱くなれない性分であったのだ。それは和緒にとって最大の特性である「器用貧乏」というものに根差しているのかもしれなかった。
和緒は昔から、何をやらせても人並み以上にこなせる才覚を有していた。勉強しかり、運動しかり、人間関係しかりである。和緒はさしたる苦労もないままテストでいい点数を取ることができたし、おおよそのスポーツが得意であったし、友達というものにも不足しなかった。そもそも和緒は大人数で群れることを好いていないのに、放っておいても向こうのほうから寄り集まってしまうのである。
「かずちゃんは可愛くて優しいから、みんな仲良くなりたいと思ってくれるのよ」
生前の母親は、そんな風に言っていたものであった。
そのように語る母親のほうこそ、たいそうな美人であると評判であったのだが――ただ、和緒は誰に会っても母親似だと評されることが多かった。であれば、このような幼い身でも美人としての片鱗がどこかに備わっているのかもしれなかった。
しかし和緒は、それを誇る気持ちにはなれなかった。和緒は昔から、おかしな大人につけ回されることが多かったのだ。防犯ブザーのピンを抜いた経験も、一度や二度ではない。自分の容姿がそんな作用を引き起こすと言うのなら、デメリットのほうが大きいのではないかと思えるほどであった。
しかし両親は、そんな和緒の見てくれを磨くことに腐心しているように思えた。和緒は物心ついた頃から手入れの面倒なロングヘアーを強要されていたし、月に一度は立派な美容院に連れていかれたし、次から次へと新しい洋服を買い与えられたし、何かの行事ごとに撮影スタジオで写真を撮られたし――両親はともに仕事人間であったが、空いた時間で和緒を猫可愛がりしていたのである。
おかげで和緒は、いつも学校で目立ってしまっていた。それで余計に、たくさんのクラスメートを招き寄せることになってしまったのだ。幼稚園でも小学校でも、和緒はいつでも人気者というレッテルを張られていたのだった。
ただ和緒は、あんまり素直に喜べなかった。クラスメートたちが何を思って自分に近づいてくるのか、さっぱり理解できなかったためである。容姿が整っていることや、成績が優秀であることや、運動が得意であることなどが、その原因であるのだとしたら――そんなものは、ひとつも和緒の手柄ではなかったのだった。
それに和緒は、友人ばかりでなくおかしな大人まで引き寄せてしまっている。
あれだって、和緒の容姿が目当てであるのだろう。であれば、クラスメートとおかしな大人の間にいったいどれだけの差があるのか、和緒にとってはそういう部分も判然としなかったのだった。
ともあれ――和緒は小学三年生の秋口に、父親ともども祖母のもとに引っ越すことになった。
祖母は、とても温和で優しい人物であった。両親が多忙であったので盆と正月ぐらいしか顔をあわせる機会はなかったが、会えばいつでも和緒を可愛がってくれた。しかし、それほど孫に干渉する人柄ではなかったので、和緒もほどよい距離感で親愛を育むことができた。なおかつ、父親は悲しみから逃げるようにいっそう仕事に没頭していたので、この時期の和緒を孤独感から守ってくれたのは、まぎれもなく祖母であった。
母親を失ってからそれなりの時間が過ぎても、和緒はまだ悲しさを実感できずにいる。
ただそのぶん、喪失感だけはまざまざと実感していた。いつも優しくて、なおかつ冷静で、時には軽妙な物言いで周囲の空気を明るくしてくれる母親は、和緒にとってかけがえのない存在であったのだ。和緒がどれだけ冷めた子供であっても、母親に対しては混じり気のない情愛を抱いており――それを失った喪失感というのは、やっぱり生半可なものではなかったのだった。
そういう意味では、環境の変化というのも決して悪いものではなかったのだろう。和緒は祖母の手でそっと背中を支えられながら、何とか人生を立て直せたような心地であった。
しかしその祖母も、和緒や父親と同居を始めてから二年ほどで他界してしまった。
原因は、肺炎である。風邪をこじらせた祖母は、入院してすぐに帰らぬ人となってしまったのだった。
「和緒には、つらい目ばかり見せてしまうな……どうか、許してくれ」
父親はまた目を赤くしながら、そんな風に言っていた。
しかし、祖母が風邪をひいたことは父親の責任ではない。小学五年生になっていた和緒は、「お父さんのせいじゃないよ」となだめるしかなかった。
それからしばらく、和緒はひとりで過ごす時間が長くなった。
父親はすぐさまハウスキーパーを雇ったが、そちらは家事をこなすのが役割であり、和緒にかまおうとはしなかったのだ。
しかしまあ、和緒にとっては勿怪の幸いであった。学校ではいやでも大勢のクラスメート取り囲まれてしまうので、家でぐらいはゆっくりくつろぎたかったのだ。
転校しても、和緒の学校生活に大きな変化はなかった。放っておいてもクラスメートは寄ってきたし、先生がたも手厚く遇してくれた。手厚さの度を越した教師のひとりがおかしな大人に仲間入りをして盗撮騒ぎを起こし、学校から追い出されるほどであった。
登下校でも、和緒は防犯ブザーを手放せなかった。和緒は成長期が早い体質であったようで、小学五年生の頃には身長も百五十センチを突破して、中学生に間違われることもしょっちゅうであったのだ。
ただそれは、身長だけの話ではなかったらしい。この頃になると、和緒はいよいよ母親にそっくりの顔立ちになってきて、第二次性徴もめきめき進行していった。そうしてクラスの男子ばかりでなく、下校中に待ち伏せをしていた見知らぬ他校の生徒からラブレターを押しつけられるような事態に至っていたのだった。
しかし、それらの出来事が和緒の自尊心をくすぐることはなかった。
盗撮騒ぎを起こした教師とラブレターを送ってくる男子にどれだけの差があるのか、和緒には判別がつかなかったのだ。
もちろんそんな言葉を口にしたならば、思いのたけを恋文につづった男子諸君は悲嘆に打ちひしがれるか怒髪天を衝いたことだろう。少なくとも、恋文をしたためることは違法行為ではないのだから、ストーカーにでも転じない限りは非難されるいわれもないはずであった。
しかし和緒は、彼らのことを知らない。であれば彼らも、和緒のことを知らないはずだ。母親似の顔や腰まで届くロングヘアーや小綺麗なファッションや第二次性徴の進んだ体に心を奪われたというのなら、和緒の側にありがたがるいわれは一切存在しなかった。
相変わらず、和緒は何の苦労もしていない。学校のテストも体育の授業もクラスメートとのつきあいも、自分の意思とは関わりなく良好な状態が保たれていた。そのために、和緒はますます冷めた人間に育ってしまったようであった。
(あたしだったら、こんな人間は鼻についてたまらないけどなぁ)
和緒はそのように考えたが、クラスメートたちは和緒のそばから離れようとしなかった。和緒も人の和を保てるように振る舞っているつもりではあったが、それも苦労というほどのことではない。そうして無難に会話を受け流しているだけで、和緒の周りに集まるクラスメートたちは十分に満足そうであったのだった。
そうして祖母を失った後も、和緒の生活はなだらかに過ぎ去って――そこに大きな変転がもたらされたのは、小学六年生の夏の終わりであった。
父親が、再婚したのである。
しかも、和緒より二歳年長の子供を持つ女性とである。
和緒にとっては、青天の霹靂と言うしかなかった。
そんな和緒に対して、父親は心から申し訳なさそうにしていたものであった。
「ママを亡くしてからまだ三年しか経っていないのに、本当にすまない。和緒がどうしても嫌だと言うなら、結婚は先にのばしてもいいから……パパがその人と仲良くすることを許してほしい」
そんな風に言われると、和緒も了承するしかなかった。
父親はこの三年間で愛する伴侶と母親を失い、和緒よりも大きな悲しみに暮れていたのだ。二人の家族を失った父親が、新たな二人の家族を得ることで幸せになれるのなら――和緒とて、その幸せを見守ってあげたかった。
かくして、父親ばかりでなく和緒にも新たな家族が誕生したのである。
その顔あわせの日には、さしもの和緒もいささか気を張ることになってしまったが、しかし思っていたほどの苦労を覚えることにはならなかった。
「初めまして、和緒さん。これから、どうぞよろしくね」
そう言って、和緒の義母となる女性はにっこりと笑った。
いくぶん明るく染めた髪をアップにまとめた、いかにも活動的な女性である。美人であることに間違いはなかったが、和緒の母親と似ているのは仕事人間であるというただ一点のみであるようだった。
「家族になるのに、さんづけってのはよそよしくない? 俺のことをさんづけで呼んだことなんて、一度もないだろ?」
そのように口を出す義兄もまた、きわめて明朗な気性をしているようである。中学二年生である彼は剣道部で全国大会に進んだ経験もあるとのことで、それほど大柄ではなかったが、スポーツマンらしい活力に満ちあふれていた。
「だから俺も、和緒って呼ばせていただくよ。俺のことは兄貴でも呼び捨てでも何でもいいから、好きに呼んでくれ」
「はあ……どうぞよろしくお願いします」
和緒がそのように答えると、義兄は小麦色の顔に白い歯を覗かせた。
「だから、家族を相手に猫をかぶる必要はないって。あとでボロを出すより、最初から本性をさらけ出したほうが面倒も少ないと思うぜ?」
干渉の強い人間というのは、和緒にとって苦手な部類である。
ただ、こちらの義兄の言葉は、あまり押しつけがましく感じられない。屈託のない笑顔が、そんな効能をもたらすのかもしれなかった。
そうして和緒は小学六年生の夏の終わりから、新たな家族たちとともに暮らすことになり――さらなる変転の前準備が整ったわけであった。




