06 V8チェンソー
めぐると7号が階段をくだると、客席ホールはこれまで以上の賑わいであった。
これだけ時間が深くなっても、お客が減った様子はない。町田アンナの個人的な友人たちなどは早々に帰宅したはずだが、それ以上に新しいお客が詰めかけているのだろう。それがこれまでのステージで、とてつもない熱気を生み出しているのだった。
ステージでは、透明のステッキを振りかざした鞠山花子が意気揚々と濁声を張り上げている。それがまた、客席の熱気を煽っているようだ。
人混みにまぎれると余計にステージが見えにくくなりそうであったため、めぐるは人垣の最後部でもっとも見晴らしのよさそうな場所を探し求める。すると、魔法のように和緒が出現した。
「お疲れ。ぎりぎり間に合ったみたいだね」
「うん。『V8チェンソー』のステージ、楽しみだね」
めぐるは心からの笑顔を返したが、和緒は眉をひそめつつ顔を近づけてきた。
「で? この短時間で、どうして落涙することになったのかな?」
「え? な、なんでわかるの?」
「そりゃあ、あたしほどあんたのことを気にかけてる人間は他にいないだろうからね」
めぐるが思わず言葉を詰まらせると、「冗談だよ」と頭を小突かれた。
「まあ、つもる話はあとでじっくり聞かせていただくよ。もう開演も目の前だろうからね」
「う、うん。そんな込み入った話じゃないんだけどね」
めぐるがそのように答えたとき、客席の照明が落とされた。
観客たちは歓声をあげ、鞠山花子はステッキを振り回す。
『それでは、準備が整ったようだわね。「V8チェンソー」周年イベント、キックダウン・サード、ついに締めくくりのステージなんだわよ』
洋楽のBGMがフェードアウトして、オリエンタルな民族音楽が流され始めた。
黒い幕がするすると開かれて、無人のステージをあらわにする。スタンドに立てかけられた、赤いレスポールとワーウィックのベース――それに、右手側の手前には、コンガも置かれたままであった。打楽器には個別にマイクが立てられるため、セッティングの手間をはぶくためにそのまま残されたのだろう。
それに、ギター側には二台のアンプが置かれている。7号は自前のアンプを準備していたので、それがアンコールに備えて引っ張り出されているのだ。
めぐるもいずれあちらに向かうことになるのかと考えると、心臓が騒いでならなかったが――まずは、『V8チェンソー』のステージだ。普段以上に気合が入っている彼女たちがどのような演奏を見せてくれるのか、めぐるはずっと期待をかけていたのだった。
やがて、ベースアンプの陰からメンバーたちが現れると、あらためて歓声があげられる。
ハルは笑顔でドラムセットに着席し、浅川亜季はかったるそうな足取りでレスポールのもとを目指した。最後に現れたフユは、凛々しい面持ちでベースを取り上げる。
浅川亜季はタンクトップにワークシャツ、ダメージデニムにエンジニアブーツ。ハルは長袖のトップスを脱いで、半袖のTシャツにベージュ色のオーバーオール。フユはエスニックな紋様が刺繍された袖なしのトップスに、だぶだぶのアラジンパンツ。外見における統一感のなさは、彼女たちも『リトル・ミス・プリッシー』と同様であった。
それぞれの楽器を抱えた浅川亜季とフユは、気負った様子もなくハルのほうに向きなおる。
ハルはにこにこと笑いながらスネアにスティックを走らせて、それを合図にギターとベースの音が鳴らされた。
まだいくぶん明るさの抑えられていたステージにスポットの輝きがあふれかえり、客席にいっそうの歓声が吹き荒れる。
そんな中、ハルはおもむろに頭打ちのリズムを披露した。
四小節の後、浅川亜季はハイ・ポジションのコードをかき鳴らし、フユは歪みとディレイをかけたベースで凄まじいばかりの速弾きを見せる。
『今日はご来場、ありがとうございまーす! 最後まで楽しんでいってくださいねー! 一曲目は、もちろん「キックダウン」!』
激しいリズムを打ち出しながら、ハルが声を張り上げた。
大歓声の中、フユとハルは十六小節でぴたりと音を断ち、浅川亜季だけが異なるリズムでリフを披露した。
リズムは異なるが、テンポは頭打ちから引き継がれている。それはワウ・ペダルを駆使した、ダンシブルなヨコノリのリフであった。
八小節の後、フユとハルもそこに加わる。
フユはファンキーなスラップで、ハルは軽快な16ビートだ。怒涛の頭打ちから打って変わって、躍動感にあふれかえった演奏であった。
この曲には、めぐるも聞き覚えがある。というよりも、めぐるがこれまで目にしてきた『V8チェンソー』のステージにおいて、こちらの楽曲がセットリストから外されたことはないだろう。十分や十五分の持ち時間であったイベントでも、この曲は必ず組み込まれていたのだ。
であればきっと、『V8チェンソー』にとっての代表曲であるのだろう。
『V8チェンソー』は何のてらいもなく、真正面から自分たちの代表曲を叩きつけてきたのだった。
客席の前側に押し寄せた人々は、腕や頭を振りながら盛り上がっている。
『V8チェンソー』の演奏には、それだけの魅力が備わっていた。『ヴァルプルギスの夜★DS3』や『リトル・ミス・プリッシー』はそれ以上の完成度であったが、『V8チェンソー』には彼女たちならではの魅力が存在するのである。
浅川亜季のギターは、太く、重々しく、粘っこい。
フユのベースは、力強くて流麗だ。
ハルのドラムは、いつでも元気に跳ね回っている。和緒のように音の芯はくっきりしていないものの、太くて温かくて広がりのある音であるのだ。その独特の音色が、浅川亜季とフユの音色をしっかり繋いでいる感があった。
浅川亜季が歌に入ると、また格段に魅力が跳ねあがる。
ハスキーで、吠えるような歌声だ。こちらもまた、栗原理乃や鞠山花子やアンジョーほどの強い個性は存在しなかったが――ただ、人の心にぐいぐいと食い入ってくる力強さがあった。アンプ直のギターサウンドのように、浅川亜季の歌声は真っ直ぐ心に突き刺さってくるのだ。
いつも通りの、『V8チェンソー』である。
どれだけ気合が入ろうとも、いきなり完成度が増す道理はない。めぐるが知っている通りの、『V8チェンソー』の迫力と勢いと完成度であった。
しかしそれが、めぐるには心地好い。
これが、めぐるを魅了した『V8チェンソー』のサウンドなのである。
『リトル・ミス・プリッシー』を観た直後では、『V8チェンソー』でさえもが粗く感じられてしまうが――『マンイーター』のステージでも感じた通り、粗さというものは荒々しさにも通じている。その野蛮さもまた、めぐるを魅了する要素のひとつであった。
(だから、わたしは……『リトル・ミス・プリッシー』より、『SanZenon』のほうが好きなのかもしれない)
『リトル・ミス・プリッシー』もまた、生々しさの極致である。アンジョーの歌声のみならず、ギターもベースもドラムもパーカッションも機械では実現できない人間そのものの音を紡いでいたのだ。
しかしまた、彼女たちに粗さはない。どれだけ暴力的な音を奏でようとも、彼女たちの世界は綺麗な円環の中で完結しているように感じられた。
それに比べると、『KAMERIA』や『マンイーター』以上の演奏力を持つ『V8チェンソー』でも、どこか洗練しきれない粗さが感じられる。
そしてそれは、『SanZenon』も然りであった。彼女たちはまたとない調和を実現していたが、その完成された形がいびつな幾何学模様であるように感じられるのだ。
あるいは、それこそがめぐるを魅了するのだろうか。
『リトル・ミス・プリッシー』はあまりに完成されすぎていて、あまりに洗練されすぎているから――『SanZenon』や『V8チェンソー』のように、めぐるのもっとも奥深い部分に触れてこないのだろうか。
だが、そんな御託はどうでもよかった。
とにかくめぐるは、『V8チェンソー』の演奏を好ましく思っており――そして客席にも、『リトル・ミス・プリッシー』や『ヴァルプルギスの夜★DS3』のときに負けないぐらいの熱気が渦巻いていた。
やはり『V8チェンソー』には『V8チェンソー』ならではの魅力が存在するのだ。
『リトル・ミス・プリッシー』や『ヴァルプルギスの夜★DS3』のように完成されていなくても――あるいは、それもひとつの大きな要因として――『V8チェンソー』には、大御所バンドと異なる魅力や迫力が存在した。また、誰が欠けても成立しないという意味では、どのバンドにも決して引けは取らないのだった。
浅川亜季は真っ赤な髪を振り乱して、ギターをかき鳴らしつつ熱唱している。
フユはクールにたたずみながら、その指先だけは誰よりも激しく躍動している。
ハルは心から楽しそうに、四方八方にスティックを走らせていた。
ここに別なるギター&ヴォーカルが入った図など、めぐるにはまったく想像することができない。もちろんその時代には、四人でかけがえのない調和を織り成していたのだろうが――めぐるにとっては、些末な話である。めぐるにとって重要であるのは、今この瞬間の三人の音であった。
『V8チェンソー』の演奏は、めぐるの心にぐいぐいと食い入ってくる。
気合だけで演奏力が増すことはないとしても、どこかに影響は出るのだろう。めぐる自身、今日はこれまでで最高に楽しいステージをこなすことがかなったのだ。自分たちの主催したイベントで、二百名に及ぼうかという観客を眼前に迎えた『V8チェンソー』が、まったくいつも通りであるわけがなかった。すべての音色がめぐるの心を震わせて、強烈な悦楽をもたらしてやまなかった。
『ありがとー! 一曲目は、イベントタイトルでもある「キックダウン」でした!』
やがて一曲目が終わりを迎えると、ハルがそのように宣言した。
それにはかまわず、今度はフユがリフを弾き始める。重々しい、ブードゥーというエフェクターを使った歪みのサウンドだ。
『続いて二曲目は、「オーバーハング」! 暴れすぎにはご注意ねー!』
◇
その後もめぐるは、心から幸福な時間を過ごすことができた。
『V8チェンソー』の演奏は、申し分なく会場を盛り上げている。これでもう、去年の無念は綺麗に晴らされたことだろう。そんな風に考えると、思わず目頭が熱くなるほどであった。
そうして六曲目が終了すると、ステージの終了が告げられる。
しかしメンバーたちがステージから立ち去っても幕は閉まらずに、「アンコール!」の声が響きわたった。
「いよいよあんたの出番も迫ってきたね。心の準備はオッケーかい?」
「うん。やっぱりちょっと……いや、だいぶ気が引けちゃうけど……でも、みんなにガッカリされないように頑張ってくるよ」
めぐるは和緒に笑顔を返し、ひとり楽屋を目指すことにした。
一階のバーフロアは、ぽつぽつと人が座っているていどだ。というよりも、『V8チェンソー』のステージも観ないでくつろいでいるのが、めぐるとしては信じ難いところであった。
「ああ、お疲れさん」
楽屋に向かうと、ノバの呑気な笑顔に出迎えられることになった。
その向こう側では、『V8チェンソー』の三名が身を休めている。浅川亜季はタンクトップの姿でスポーツタオルをかぶっており、フユはペットボトルのドリンクをあおり、ハルは汗だくの顔でストレッチに励んでいた。
「あ、めぐるちゃんもお疲れー! よかったら、これ着てね! 別に強制ではないから!」
ハルがちょこちょこと駆け寄ってきて、テーブルの上からひっつかんだものを差し出してきた。物販のブースに並べられていた、本日のイベントTシャツである。
「アキちゃんから聞いてる思うけど、出演者の人たちには一枚ずつ配ることになってるからさ! ステージで必要なかったら、そのまま持って帰ってねー!」
「あ、ありがとうございます」
めぐるがどぎまぎしながら周囲を見回すと、すでに参上していた柴川蓮だけが頬を火照らせながら同じTシャツを着込んでいた。壁際で腕を組んでいた7号は、「ふん」と鼻を鳴らす。
「あいにくあたしは、この忌々しいコスプレ衣装を脱げない身の上なもんでね。綺麗なまんま、持ち帰らせていただくよ」
「はーい! ノバさんも、着ないでいいから持って帰ってくださいねー!」
「んー。おいも確かに、着替えるんは面倒やんな」
そんな風に言いながら、ノバはラスタカラーのニット帽を取り去った。
そして、黒いTシャツを横長の形に折って、ドレッドヘアーの頭に巻きつける。ちょうど額に、イベントタイトルのプリントが位置する格好であった。
「あはは! ありがとうございまーす!」と、ハルはオーバーオールのボタンを外すと、こちらに背中を向けて着替えを始めた。浅川亜季とフユは背中を向ける手間もはぶいて、それぞれの衣服を脱ぎ捨てる。そうしてフユがしなやかな裸身をさらすと、柴川蓮は顔を真っ赤にして目をそらしていた。
「じゃ、あたしたちは出陣だねぇ。みなさん、どうぞよろしくねぇ」
のんびりと声をあげる浅川亜季を先頭にして、おそろいのイベントTシャツを着込んだ三名は再びステージに下りていった。
めぐるは楽屋の隅に移動して、そそくさと着替えを済ませる。その際に背中側のバンド名を確認すると、あらためて胸が詰まってしまった。
「さあ、いよいよ今日の大一番だね! あんた、また弦をぶち切ったら、承知しないよ?」
と、柴川蓮が怒れる柴犬の形相で近づいてくる。
が、7号の横目の視線に気づくと、呆気なく狼狽した。
「あ、いや、これは気合を入れようと思っただけで……」
「ああ。弦交換を手伝うぐらいの仲なんだから、こっちが心配する必要はないんだろうね。その調子で、息の合ったプレイをお願いするよ」
「べ、別に、こいつと仲良しなわけではありませんけど!」
柴川蓮が声を張り上げると、ノバは「あはは」と呑気に笑う。
こんな四人で寄り集まっているのが、めぐるとしては奇妙な心地だ。そしてさらに、初対面であるノバや7号と同じステージに立つというのは、なかなかに想像を絶するところであった。
(でも、わたしはせいいっぱい頑張るしかないもんな)
そうしてめぐるが所在なくたたずんでいると、モニターから歓声がわきおこった。『V8チェンソー』の三名が、ステージに登場したのだ。
『アンコールありがとー! あともうちょっとだけ楽しんでいってねー!』
黒いTシャツを着込んだ三人が、それぞれ楽器のセッティングに取り組む。
そして、浅川亜季が常にないほどやわらかなギターサウンドを響かせた。ボリュームとトーンを絞ったクリーンサウンドで、コーラスと思しきエフェクターがかけられている。
『一曲目は、しっとりいかせていただくね。新曲で、「夏が欠けた世界」です』
ハルがそのように告げると、浅川亜季はアルペジオの音色を響かせた。
さらにフユは、数々のエフェクターを駆使した幻想的な音色を重ねる。『KAMERIA』とのセッションでも使っていた、バイオリンのように優美な音色だ。
「へえ。ブイハチのバラードなんて初めてやわ。なんなら、この曲にもお邪魔したかったなぁ」
ソファにあぐらをかいたノバは、膝を叩いてリズムを取り始めた。
そしてこちらでは、また柴川蓮がめぐるに顔を寄せてくる。
「……あんたはこの曲、知ってたの?」
「え? い、いえ、こんなに静かな曲は初めて聴きましたけど……」
「あっそ。こいつは夏の合宿とやらで思いついたって話だから、てっきり盗み聴きしてるのかと思ったよ」
それだけ言って、柴川蓮はモニターの演奏に集中した。
同じようにモニターを注視しためぐるも、『V8チェンソー』の常ならぬ演奏に聴きほれる。普段と異なる曲調でも、『V8チェンソー』の魅力はまったく損なわれていなかった。
そして、その曲がサビに差し掛かったところで、めぐるは思わず息を呑むことになった。
それは、夏という季節がなくなってしまった世界の寂しさを切々と歌った歌詞であり――それがいきなり、めぐるの記憶巣を刺激してきたのだった。
「そんでもって、四人の名前がハルナツアキフユだったんだもんねー! そりゃーウチでも、運命を感じちゃうかなー!」
「あははぁ。今じゃあ夏が欠けちゃったけどねぇ」
町田アンナと浅川亜季は、どこかでそんな言葉を交わしていたのだ。
めぐるの脳裏に浮かんだのは、星空の下でビール缶を掲げる浅川亜季の姿である。であればそれは、確かに夏の合宿の一幕であるはずであった。
(あんな頃から……浅川さんは、この曲のイメージを浮かべてたんだ)
浅川亜季はハスキーな声音で、抑揚の強いメロディを歌いあげている。
そして楽曲が進行するごとに、歌詞の内容が変わっていった。
たとえ楽しい夏という季節がなくなっても、世界の輝きに変わりはない。
それこそが、この曲の主題であった。
浅川亜季は、どのような思いでこの歌詞を書きあげたのか――めぐるはまた、ひとり胸を詰まらせることになった。
そこに、「よし」というくぐもった声が響く。
「そろそろスタンバイだね。このしっとりした空気を、めいっぱいぶち壊してやろうか」
それは、ガスマスクをかぶった7号の声であった。
ノバは「ほいほい」と床の草履を足に引っ掛ける。柴川蓮はモニターから目をもぎ離して、大きく深呼吸した。
ついに、めぐるたちの出番であるのだ。
めぐるは最後に浅川亜季たちの姿を心に焼きつけてから、三人の即席チームメイトとともに薄暗い階段をくだることになったのだった。




