05 交錯
『線路の脇の小さな花』の後にもう一曲を披露したのち、『リトル・ミス・プリッシー』のステージは終焉を迎えた。
最後の曲はアップテンポで、『線路の脇の小さな花』にも負けない迫力であった。キュウベイのウッドベースなどはめぐるの知識にはないエフェクターが追加されて、もはや如何なる楽器であるかも判然としないような音色を叩き出していた。
『ほんじゃ、お世話さん。こん後は、ブイハチのステージを一緒に楽しもな』
笑顔で手を振るノバの姿が、黒い幕に隠されていく。
その幕が閉じきる前に、めぐるはきびすを返した。めぐるの出番はアンコールの二曲目であったが、この転換の時間にあるていどのセッティングを完了させてほしいと言われていたのだ。
そうして楽屋に向かおうとしためぐるの腕が、背後からつかまれる。
めぐるの手首を捕獲したのは、和緒のしなやかな指先であった。
「あんた、大丈夫?」
和緒は、それしか言わなかった。
しかしめぐるには、その短い言葉だけで十分である。だからめぐるは、笑顔で「大丈夫だよ」と答えてみせた。
和緒は手を離すと同時に、逆の手で頭を小突いてくる。
めぐるはもういっぺん笑ってみせてから、客席ホールの出口を目指した。
『リトル・ミス・プリッシー』は、『SanZenon』より完成度の高いバンドだった。それも、めぐるが何より重んじている演奏の調和という意味においてだ。そんなバンドが『SanZenon』の楽曲をカバーするさまを目の当たりにして、めぐるは平静でいられるのか、と――きっと和緒は、そんな風に心配してくれたのだろうと思われた。
(ありがとう、かずちゃん。わたしは、大丈夫だよ)
四十分にわたるステージをすべて見届けても、めぐるの気持ちに変わりはなかった。
『リトル・ミス・プリッシー』は、物凄いバンドだ。凄すぎて、自分の心のどこに置いていいのかもわからない。しかしそれでも、『SanZenon』の存在が脅かされることには決してならなかったのだった。
(わたしが一番好きなのは、やっぱり『SanZenon』だ。……それで誰かが困るわけじゃないもんね)
そんな思いを胸に、めぐるは階段をのぼり、バーフロアを横断し、楽屋の扉に手をかけた。
「あ、めぐるちゃん! さっそく来てくれたんだねー! どうもありがとう!」
まずは、ハルの朗らかな笑顔に出迎えられる。
しかしめぐるは、その背後に広がる光景にどぎまぎしてしまった。当然のことながら、今は『リトル・ミス・プリッシー』が搬出作業のさなかであったのだ。
巨大なウッドベースを担いで出てきたのは、パーカッションのノバであった。
それに、ホワイトファルコンを抱えたアンジョーと、バスドラペダルやら自前のスネアやらを抱えたチハラが続き――そして、巨大なエフェクターボードを手にしたフユと、その肩に手を置いたキュウベイが現れた。
おそらくは、目の不自由なキュウベイのために、フユも搬出作業を手伝っているのだろう。さらにその後ろからは、アンジョーのものと思しきエフェクターボードを抱えた浅川亜季もやってきた。
「手伝い、あんがとね。ほら、キュウベイとアンジョーもお礼言わんと」
ノバがせっつくと、キュウベイとアンジョーの口から「ありがとう」という抑揚のない声が同時に発せられる。浅川亜季はふにゃんと笑いながら、「どういたしましてぇ」と応じた。
「お、めぐるっちもお疲れさまぁ。とりあえず、ベースとボードをバックヤードまで下ろしてもらえるかなぁ?」
「は、はい。……あの、みなさん、お疲れ様でした」
めぐるが慌てて頭を下げると、ウッドベースを床に下ろしたノバだけが「あんがとさん」と笑顔で応じてくれた。
そしてフユが、いくぶん鋭くなった眼光を背後のキュウベイに突きつける。
「ところで、あれはどういうおふざけだったんです? リトプリが『KAMERIA』と同じ曲をカバーするなんて、あたしらは聞いてなかったですよ?」
キュウベイは茫洋とした面持ちのまま、「うん」としか言わなかった。
巨大なエフェクターボードを壁際に下ろしつつ、フユはいっそう眉を吊り上げる。
「うんじゃなくて。『KAMERIA』があの曲をカバーしてるってことは、もちろん知ってたんでしょう? それなのに、あえて同じ曲をカバーするってのは、どういう了見なんです?」
「うん。あの曲、好きだったから」
「好きって? キュウベイさんたちも、もともと『SanZenon』を知ってたってことですか?」
「ほうよ」と答えたのは、ノバであった。
「いや、おいとチハラは知らんかったけんどね。キュウベイとアンジョーは、それぞれ別のバンドで『SanZenon』いうバンドと対バンしたことがあったんやて」
めぐるは思わず、立ちすくむことになってしまった。
すると、壁に掛かっていた赤いレスポールに手をのばしていた浅川亜季が、「へえ」と反応する。
「それは初耳づくしだねぇ。でもそうすると、キュウベイっちもアンジョーっちもかなりヤングだったんじゃない?」
「そらもう高校生ぐらいだったんちゃう? こん二人が高校ん行ってたか知らんけんど」
ホワイトファルコンを壁に掛けたアンジョーが、ソファに身を投げ出しながら「うん」とかすれた声で答えた。
「十年以上前やから、うちもキュウベイも十五、六歳やね。……ひさびさにライブ映像なんか観てもうたから、うちもキュウベイも火がついてもうたんよ」
「ふむふむ。それはやっぱり、『KAMERIA』のアカウントから飛んだのかなぁ?」
「知らん」とアンジョーがぐんにゃり横たわると、ノバがまた「ほうよ」と答えた。
「アンジョーもキュウベイもスマホで遊ばんから、おいが見せてやったんよ。んでもまさか、アンジョーたちが知っとるバンドだとは想像しとらんかったけんどね」
そう言って、ノバはめぐるに笑いかけてきた。
「んで、アンジョーらは音源とか持っとらんかったから、あん曲しかカバーできなかったんよ。気ぃ悪くしたんなら、堪忍な」
「い、いえ……誰がどの曲をカバーしても自由だと思いますし……」
めぐるがおっかなびっくり答えると、フユは「ふん」と鼻を鳴らした。その手はすでに、自分のエフェクターボードにかけられている。
「新人バンドがこんなベテランバンドにカバー曲をかぶせられたら、普通は居たたまれないところだけどね。あんたたちに限っては、そんな心配も無用か」
「うんうん! 『KAMERIA』バージョンもリトプリバージョンも、めっちゃかっこよかったしね! 客席の人たちだって、どっちも大満足だったでしょ!」
バスドラペダルと自前のスネアを手にしたハルは、にこやかに笑いながらそう言った。
「とにかくみなさん、お疲れ様でした! あたしたちも、行ってきまーす!」
「ほいほい。頑張ってなぁ」とノバが手を振ったところで、めぐるの背後のドアが開かれた。そこから姿を現したのは、マントとガスマスクをかぶった長身の魔法少女である。
「……どうも、お疲れさんでした」
黒いガスマスクの下から現れたのは、7号の不機嫌そうな顔である。
それに愛想よく答えたのは、やはりノバのみであった。
「お疲れさん。ちょうどブイハチの面々も、下に降りたとこやよ」
「じゃ、あたしらも急がないとね」と、7号がめぐるの肩を小突いてきた。
なんのために楽屋を訪れたのかも忘れかけていためぐるは、慌てて自分の機材のもとに向かう。プレーリードッグのキーホルダーのおかげで、他人のギグバッグと取り違える恐れもなかった。
めぐるはギグバッグとエフェクターボードを抱えて、7号とともにバックヤードへと下りる。すると、ステージのほうから浅川亜季がひょこりと顔を覗かせた。
「そっちにもスタンドがあるから、チューニングは済ませておいてねぇ。ボードもなるべく手早くセッティングできるように、そっちで広げちゃってかまわないからさぁ」
「は、はい。わかりました」
浅川亜季の指示通りに、めぐるはバックヤードの薄暗がりでチューニングを完了させた。あとはエフェクターボードの蓋を開いて、ツマミやパッチケーブルがずれていないことを確認し、二本のシールドをその上にそっと置く。同じ作業を終えた7号は、「よし」と身を起こした。
「じゃ、最後に激励でもしておくか」
7号がステージに向かったので、めぐるもおそるおそるそれを追いかけることになった。
ステージでは、『V8チェンソー』の三人がセッティングに勤しんでいる。そして、めぐるの姿に気づいたフユが手招きしてきた。
「そういえば、アンプの段取りについて説明してなかったね。あんたの出番になったら、いつも通りそこのダイレクトボックスにシールドを繋いで、ヘッドの調整をしな」
「え? あ、は、はい。フ、フユさんはどのアンプを使うんですか?」
「あたしは自前のヘッドから直接ラインに繋いでもらうんだよ。キャビを使えないぶんモニターでしっかり返してもらうから、問題はないさ」
そんな風に言ってから、フユはぐっと顔を近づけてきた。
「なんかやっぱり、いつもより呆けてるみたいだね。あんた、本当に大丈夫なの?」
「は、はい。大丈夫です。『リトル・ミス・プリッシー』の演奏が凄かったので、ちょっとびっくりさせられましたけど……でも、大丈夫です」
めぐるがおずおず笑顔を返すと、フユは「そう」と身を引いた。
その顔は凛々しい無表情のままであったが、目もとはいくぶんやわらかい感情をにじませている。
「じゃ、最初のアンコールが始まったら、楽屋でスタンバってね。あんたたちの出番は二曲目だから、一曲目の終わり際にバックヤードまで下りてくれれば、それでいいよ」
「は、はい。わかりました。……あの、ライブ、頑張ってください」
フユは短く「ああ」と答えて、セッティングの続きに取りかかった。
浅川亜季はすでにギターを鳴らしていたので、めぐるは遠くから頭を下げる。浅川亜季もハルも、笑顔で手を振ってくれた。
そうしてギターの音にまぎれつつ、幕の向こうからは特徴的な濁声が聞こえてくる。どうやらこの時間は、鞠山花子がMCの役目を受け持っているようである。なんだかんだで、彼女はずいぶん『V8チェンソー』のイベントに協力的であるようであった。
めぐるは最後に『V8チェンソー』の勇姿を目に焼きつけてから、7号とともに階段をのぼる。
これから『V8チェンソー』のステージが始められるのかと思うと、胸が高鳴ってならなかった。
そうして楽屋に戻ってみると、まだ『リトル・ミス・プリッシー』の面々がくつろいでいる。
めぐるは頭を下げながら、そのまま楽屋を出ようとしたのだが――その眼前に、キュウベイが立ちはだかってきた。
身長百七十五センチはあろうかというキュウベイが、青いサングラスごしにめぐるを見下ろしてくる。
そしてその手が、まためぐるの顔をまさぐってきた。
「……いいよね」
「は、はい? な、なんのお話でしょうか?」
「あの曲、いいよね」
なめし皮のような質感をした指先が、遠慮なくめぐるの頬を撫で回す。
そのくすぐったさに耐えながら、めぐるは「はい」と答えてみせた。
「それって、『線路の脇の小さな花』のことですよね? わたしはあの曲のおかげで、ベースを始めることになったんです」
「うん」とうなずきながら、キュウベイはぼんやり小首を傾げた。
「あなた、妹みたい」
「は、はい? キュ、キュウベイさんの妹さんですか?」
「わたし、妹いない。ミアの妹みたい」
ミア――鈴島美阿である。
めぐるが言葉を失うと、キュウベイはほんの少しだけ口角を上げた。
「あなたの演奏、ミアに似てるけど……幼いから、妹みたい。それとも、子供かな。……顔、似てないけど」
「……はい」
「『SanZenon』、すごく懐かしい。ミア、死んじゃって、残念だね」
「はい」と答えながら、めぐるはつい涙をにじませてしまった。
それがひとつのしずくとなって、頬を撫でるキュウベイの指先にふれる。
「ごめんね。あなたも、頑張って」
「はい。頑張ります」
キュウベイは「うん」とうなずき、めぐるの頬から手を離す。
めぐるは頭を下げてから、そのかたわらを横切った。
そうして楽屋を出ると、ガスマスクをかぶりなおした7号が追いかけてくる。
「つくづくあのバンドは、変人の集まりみたいだね。ま、いいトシこいてバンドやってる人間なんて、多かれ少なかれ同類なんだろうけどさ」
ガスマスクのせいで表情はわからなかったが、7号は苦笑を浮かべているようであった。
「きっと十年後には、あんたも同類だ。それが嫌なら、せいぜいお勉強を頑張るこったね」
「……勉強より、わたしはバンドが楽しいです」
「じゃ、お先真っ暗だね」
7号はくぐもった笑い声をこぼして、めぐるの肩を小突いてきた。
そうしてめぐるはさまざまな感情を抱え込みながら、客席ホールを目指すことになったのだった。




