05 カエルの女王様
一夜が明けて、ライブの当日である。
二月の第二日曜日――ついに、『V8チェンソー』主催のライブイベントの当日となったのだ。
しかしまた、町田家でライブの当日を迎えるというのは、これで五度目のこととなる。めぐるはこれまで通り、ほどよい昂揚と緊張の中で朝を迎えることができた。
昨晩はつい暗い気持ちになりかけてしまったが、その影響も残されていない。ひとえに、和緒の優しさのおかげである。そうしてめぐるは朝の食事をいただき、ベースの練習と歓談にいそしみ、また昼の食事をいただくという、賑やかで満ち足りた時間を過ごすことになった。
本日は十一月のライブの日よりも三十分早いスケジュールで、リハーサルの開始は午後二時半、『KAMERIA』のリハーサルは午後四時十分、開場は午後五時、開演は午後五時半とされていた。大御所バンドたる二組のバンドは演奏時間が四十分、主催者の『V8チェンソー』に至っては五十分もの演奏時間が割り振られて、そのぶん開始を早めているのだという話であった。
「ま、ブイハチに関してはアンコールも込みって話だったからねー! アマチュアのライブでアンコールまで期待できるなんて、主催イベントやワンマンライブぐらいなんじゃないかなー!」
「で、ライブの終了予定時刻は、九時二十分だったっけ。そりゃあ後半のバンドが目当てだったら、なかなかトップバッターのバンドまで観ようとは考えないかもね」
「いやいや! ブイハチのイベントはツワモノぞろいって大評判だから、期待して駆けつける人も多いんじゃない? ウチらだって、SNSでめいっぱい宣伝してきたしねー!」
出発の準備を整えながら、町田アンナと和緒はいつもの調子で言葉を交わしている。そして、栗原理乃の面倒を見てくれていた町田エレンが元気に「かんせーい!」と声をあげた。ロングの黒髪を三つ編みのアップにまとめられた栗原理乃は、「どうもありがとう」とやわらかな笑顔を返す。
これまでの経験を踏まえて、栗原理乃は最初から白いワンピースとタイツの姿だ。リハーサルの段階でも変身が必要だと悟った彼女は、なるべく本番に近い格好で臨むのだと決めていた。今日もなかなかの冷え込みであったため、ワンピースの上にブラウスと厚手のカーディガンとロングコートの重ね着だ。バンドTシャツを着用しためぐるたちも、それに負けない重装備であった。
「ちょっとギリギリになっちゃったねー! ま、天地がひっくり返っても、自分らのリハに遅れることはないけどさ!」
『KAMERIA』の一行は、本日も全バンドのリハーサルを見届けるつもりでいる。よって、ワゴン車で出発したのは午後の一時五十分であった。
運転手は、今日も町田家の母親である。片道四十分というけっこうな手間であるのに、本日も町田家の母親は快く車を出してくれた。
が――思いも寄らないアクシデントが、行き道に待ちかまえていた。
こちらのワゴン車が国道に踏み入るなり、数キロ先の地点でトラックが横転事故を起こし、大渋滞になってしまったのである。カーナビの画面と娘の操作するスマホでその事実を知った町田家の母親は、とても申し訳なさそうな面持ちで後部座席を振り返ってきた。
「ごめんなさい。もう抜け道のほうまで渋滞しちゃって、一時間ぐらい遅れちゃうかもしれないわ」
「ママが謝ることないって! でもコレ、ほんとに一時間で突破できるのかなー?」
「カーナビにそう出てるから、たぶん信用できると思うけど……どうする? これならどこかの駅を目指して、電車を使ったほうが早いかもしれないわ」
「んー。でもほら、ここの道も赤くなってるから、駅を目指すのもキビしくない?」
「ああ、そうね……早いと言っても、そんなに差はないかもしれないわ」
「それなら、このまま車でお願いしたいかなー! あんまり焦って移動するのも、おっかないしねー!」
そう言って、助手席の町田アンナはいつも通りの朗らかな笑顔を後部座席に向けてきた。
「ウチらの出番は四時すぎで、三時半には着ける見込みだから、ヨユーっしょ! みんなは、どう思うー?」
「確かに大荷物を抱えて急ぐのは、危なっかしいね。ご迷惑じゃなかったら、このまま母上様を頼らせていただきたく思うよ」
「うんうん! 他のバンドのリハを見られないのは残念だけど、どうせ本番で見られるもんねー! じゃ、アキちゃんたちにも連絡しておくよー!」
町田アンナがスマホを操作すると、すぐさま返信が返された。
「おー! 最悪でも四時半までは遅刻しても対応してくれるってさー! やっぱアキちゃんは、優しいね!」
「でも、遅刻までしたらどこかのプレーリードッグが申し訳なさで卒倒しそうだね」
「あはは! 三時半には着ける見込みなんだから、さすがに遅刻することはないっしょ!」
それでもめぐるは、内心の不安を消せずにいたが――しかし、片道通行となっていた事故現場を通りすぎると、じょじょに車は順調に流れ始めた。カーナビの示した予測時間は、完全に正しかったようである。
「どうする? 今日はお店の前まで車をつけましょうか?」
「いやいや! ラクショーで間に合ったから、駅前でオッケーだよー! 長々と運転させちゃって、ほんとにありがとねー!」
「ううん。なんだか、一緒に苦難を乗り越えたような気分だわ」
と、赤信号で停車したところで、町田家の母親は後部座席にも笑顔を見せてくれた。かえすがえすも、町田家の人々は善良かつ強靭なのである。
かくして『KAMERIA』の一行は、当初の予定よりも一時間ほど遅れてロータリー沿いの歩道に降り立つことになった。
「パパたちにも連絡を入れておいたから、みんなの演奏時間には間に合うはずよ。わたしは適当に時間を潰して、パパたちと合流するから。みんな、頑張ってね」
そんな言葉を残して、母親の乗ったワゴン車はロータリーの向こう消えていく。
それを見送ってから、町田アンナはメンバー全員に笑顔を届けてきた。
「やっぱ、早めに家を出て正解だったねー! 他のバンドのリハを見物しようっていう心意気が、ウチらを救ってくれたわけだ!」
「さすがに今日のイベントで遅刻してたら、気まずさの極致だもんね。ポジティブシンキングは性に合わないけど、今日のところは迎合しておこうか」
というわけで、『KAMERIA』の一行は山のような機材を抱えて、いざ『ジェイズランド』を目指すことになった。
時間的には、そろそろ二番目の出演となる『マンイーター』がリハーサルの準備を始める頃合いだ。昼過ぎまでベースを爪弾いていためぐるも、ウォームアップの心配はそれほどせずに済んだ。
そうして『ジェイズランド』に到着して、先頭を歩いていた町田アンナが扉に手をかけようとすると――それより早く、扉が内側から開かれた。
そこから現れたのは、何やら奇妙な風体をした人物である。その人物が、めぐるたちの姿をじろりと見回してきた。
「おやおや、重役出勤だわね。ま、遅刻しないで何よりだっただわよ」
「……だわよ?」と和緒が反復すると、町田アンナが「わーっ!」と慌てた声をあげた。
「それは、つっこまないお約束なの! どーもすみません! うちのメンバーは、バンドにも格闘技にも疎いもんで!」
町田アンナの言葉によって、めぐるはその人物の正体を察することができた。本日の出演者の中でただひとり、町田アンナが見知っている人間が存在したのだ。
ただし、ミュージシャンとしてではない。その人物は驚くべきことに、格闘技の選手でありながらバンド活動に勤しんでいるという話であったのだった。
「フライヤーをもらったときに、なーんか見たことあるなーって思ってたんだけどさ! アレ、格闘技のほうでめっちゃ有名な選手だったんだよー!」
その事実に気づいたとき、町田アンナはたいそう興奮しながらそのように言いたてていたものであった。
それは、『ヴァルプルギスの夜★DS3』という奇妙な名を持つバンドの中で、ただひとり素顔をさらしていた人物であった。ガスマスクをかぶった他のメンバーに囲まれて、ひとりにんまりと笑いながらマイクを握りしめていた人物である。
(この人……近くで見ると、こんな顔だったんだ)
めぐるは、小さからぬ驚きに見舞われていた。それぐらい、その人物は奇妙な風体をしていたのだ。
フライヤーでは黒いゴスロリ風味の衣装に身を包んでいたが、現在はゴージャスな毛皮のコートを羽織り、首には派手なシルバーのネックレスをさげて、頭にはつばの広いフレアハットをかぶっている。まるで、パーティー会場におもむいたハリウッドスターのようないでたちだ。
だが――彼女は、小柄なめぐるよりもさらに小さかった。そしてその身はずんぐりとしており、幼児を大人の大きさに膨らませたような体形であった。
そしてもっとも奇妙なのは、その顔立ちである。
その目はやたらと左右に離れている上に、とろんとまぶたが下がって眠たげな目つきになっている。顔は横に平たくて、鼻はぺちゃんと潰れており、口だけが妙に大きく――なんだか、眠たげなカエルのごとき面相であるのだ。しかし、肩までかかるアッシュグレーの髪は綺麗なウェーブを描いており、眠たげな目にはくりんと睫毛がそっくり返って、寝不足のカエルの女王様という風格であったのだった。
「ヴァ、ヴァルプルのヴォーカルのまりりんさんですよねー? ウチの家も格闘技の道場をやってるもんで、お名前は昔からうかがってましたっ!」
いつになくかしこまった調子で町田アンナがそのように告げると、その人物――『まじかる☆まりりん』こと鞠山花子は「ほほう」と眠たげな目を光らせた。
「それは聞き捨てならないだわね。どこの道場の人間なんだわよ?」
鞠山花子は、外見や口調ばかりでなく声も独特である。やたらと周波数が高いのに、ざらざらと鼓膜にひっかかるような濁声であるのだ。これでどのような歌声を発するのか、めぐるには想像もつかなかった。
「えーと、町田道場っていうんだけど、どこの系列でもない個人道場なんで――」
「なるほどだわよ。そういえば町田道場は、千葉にあるんだっただわね。昨日もたしか、MMAの興行に町田道場の門下生が出場してたはずだわよ」
「えーっ! うちの道場までチェックしてるのー? ……ですか?」
「あれだけ有望な選手がそろってたら、チェックせざるを得ないだわよ。あんたも素人ではなさそうだわけど……もう格闘技からは身を引いたんだわよ?」
「あ、ハイ。ウチは、バンドに専念しようと思って!」
「それは残念だわね。でもまあ、そういうことならバンドのほうで期待させていただくだわよ」
そう言って、鞠山花子はまためぐるたちのことを見回してきた。
「SNSのライブ動画も、チェックさせてもらっただわよ。あれなら、十分に期待できるだわね。……それにしても、これだけ綺麗どころがそろってるのに、どうしてライブでは素顔を隠してるんだわよ?」
「ああ、あれはSNS対策で……本番では、一曲目しか紙袋はかぶってないですよー」
「それは僥倖だわね。ますます本番が楽しみになってきただわよ」
と、鞠山花子はにんまりと微笑んだ。
これは確かに、フライヤーで見た通りの笑顔である。しかしこのサイズでは、迫力が違っていた。
「じゃ、わたいは電話をかける用があるんで、失礼させていただくだわよ。こっちのステージも楽しんでもらえたら幸いだわよ」
「はいっ! べんきょーさせてもらいますっ!」
敬礼でもしかねない町田アンナに見送られて、鞠山花子はどこへともなく立ち去っていった。
町田アンナは、「ふいー!」と大きく息をつく。それを見下ろしながら、和緒は肩をすくめた。
「あんたはあの愉快なお人と初対面なんでしょ? 何をそんなにしゃっちょこばってるのさ?」
「だって、すっげーカンロクだったじゃん! しかもウチなんて、物心がつく前からまりりんさんの試合をテレビとかで観てたからさー! このヒトはすっげーヒトなんだっていう記憶が、ノーミソに焼きつけられちゃってるんだよー!」
「待った待った。それじゃああの人は、いったい何歳なのさ?」
「まりりんさんは、永遠の十五歳だよ! 魔法少女は、トシをとらないんだってさ!」
魔法少女――それが、鞠山花子の異名だか何だかなのである。あの派手派手しいステージ衣装は、魔法少女のコスチュームであるという話であったのだった。
(つまりは……リィ様みたいなもんなのかなぁ)
めぐるには、及びもつかない世界である。
しかし彼女のバンドも、『V8チェンソー』の面々に熱望されて出演するのだ。であれば、つまらないバンドであるはずがないし――めぐるにとって重要なのは、その一点のみであったのだった。




