08 月に吠える
「どうもどうもぉ。お疲れさまぁ」
『V8チェンソー』の演奏終了後、めぐるたちが一階のバーフロアでくつろいでいると、やがて浅川亜季たちが楽屋から姿を現した。
真冬のさなかに、浅川亜季はタンクトップひとつの姿である。まあ、店内はたいそうな熱気であるので寒いことはないのであろうが、なかなかに闊達な振る舞いであった。
「アキちゃん、おつかれー! そんなカッコで、カゼひかない?」
「あたしは着替えとか準備しないから、自然に汗がひくのを待つしかないんだよねぇ。それより、みんなと語らっておきたかったからさぁ」
『V8チェンソー』の演奏が終了した時点で、時刻は九時四十五分に達している。めぐるたちが帰宅するまで、残りは十五分間であったのだった。
「やっぱ、十分ぐらい押してるみたいだねぇ。ま、たいていのバンドは酔っぱらってるから、しかたないけどさぁ」
そんな風に語る浅川亜季も、右手にビールの小瓶をさげている。店内も大変な賑わいであるし、今日一日でどれだけのアルコールが消費されるのかは想像もつかなかった。
「こっちはフユたちがうるさいから、出番まではずいぶん遠慮してたんだけどさぁ。歌や演奏に支障はなかったと思うんだけど、どうだったかなぁ?」
「ばっちりオッケーだったよー! てか、よくお酒を飲んであんなプレイができるもんだねー! アキちゃんって、毎回飲んでるの?」
「シラフでステージに立つことは、滅多にないかなぁ。酒はあたしのガソリンだしねぇ」
浅川亜季はのんびり笑いながら、ビール瓶を傾ける。彼女はバンド合宿でもあびるほど鯨飲していたが、外見上にはさしたる変化も出ないのだ。
「フ、フユさんもお疲れ様でした。今日も、すごい演奏でした」
めぐるがそのように伝えると、フユは「そう」とそっぽを向いてしまう。ただ、先刻の和緒と同じように、目もとに満足そうな感情をにじませていた。
(フユさんも、楽しく演奏できたんだな)
そんな風に考えると、めぐるもいっそう嬉しい心地になってしまう。
「ま、また少しベースのアレンジを変えたみたいですね。あまり細かいところはわからないんですけど……でも、ところどころで雰囲気が違うように思いました」
「そんなぼやっとした感想を伝えられても、こっちは返す言葉を見つけられないね」
「す、すみません。以前は歪みだけだった部分に薄くリバーブがかけられてたり……逆に、リバーブを外して歪みだけにしたパートとかもありましたよね。わたしは、今日のほうが好きな感じでした」
めぐるがそのように言いつのると、フユはぎょっとしたように向きなおってきた。
「当てずっぽう……では、ないんだろうね。あんたがあたしらの演奏を観るのは夏以来だってのに、そんな細かい部分を覚えてたっての?」
「え? ああ、はい……フユさんがエフェクターを踏むと、わたしもつい聞き耳をたててしまうので……」
めぐるの返答に、フユは薄く苦笑を浮かべた。
「あんたの執念も、大概だね。……リバーブやらコーラスやらってのは音を派手にするだけじゃなくって、ちょっとフレーズを強調したいときにも有効なのさ。今後に備えて、覚えておきな」
「は、はい。ありがとうございます。まだわたしはそこまで繊細に音作りをできないので、ちょっと時間がかかってしまいそうですけど……」
「ていうか、ギターやピアノもまだまだ流動的だから、あんたもそれに合わせて音を作ってるさなかなんだろうさ。いきなり完成系を目指すんじゃなくって、練習中にあれこれエフェクターを踏んでみて、試行錯誤するべきなんじゃないのかね」
「ああ、なるほど……わたしは使うことが決まっているエフェクターしか買わないように心がけているんですけど……フユさんは、買ってから使い道を探すこともあるんですか?」
「そりゃそうさ。ていうか、どれだけ店頭で試奏したって、実際に使えるかどうかはバンドで合わせてみないとわからないからね。けっきょくライブで使わずに終わったエフェクターだって、山ほどあるさ」
「ええ? それはすごいですね! わたしはそこまで思い切ることはできそうにありません。……その前に、まずはフユさんにエフェクターをお返ししないといけませんし……」
「とか言いながら、オートワウを買うらしいじゃん」
「す、すみません! あれはどうしても、新曲で使ってみたくなっちゃって……」
「いちいち謝るなって言ってるでしょ。歪み系オンリーじゃ芸がないから、なんでも試してみることさ」
と、気づけばまためぐるはフユのお世話になってしまっている。
それでめぐるが恐縮していると、横から和緒に腕をつつかれた。
その視線を追ってみると――少し離れたところに亀本菜々子が立っており、その背後で柴川蓮が威嚇の形相を覗かせていた。
「あ、あの、わたしばっかりお相手をしてもらってすみません。できればその、柴川さんにも……」
フユは「あん?」と眉をひそめつつ、亀本菜々子のほうを振り返る。
すかさず柴川蓮は顔をひっこめて、フユに溜息をつかせた。
「あいつは、なんなんだろうね。タチの悪いストーカーにでも目をつけられた気分だよ」
「い、いえ、あの、柴川さんは本当に、フユさんを尊敬しているのでしょうから……」
「ふうん。あんたとは大違いってわけだ」
「い、いえ! わたしも心からフユさんに憧れていますけど!」
浅川亜季が「ほほう」と首をのばし、フユに頭を引っぱたかれた。
「あはは! そっちも盛り上がってるみたいだねー! でも、タイムリミットが近いみたいだよー!」
ハルと語らっていた町田アンナが、そんな言葉を飛ばしてくる。午後の十時が、目前に迫っていたのだ。
「なんだぁ、『KAMERIA』のみんなはもうお帰りかぁ。保護者の方々がいらっしゃらなかったら、非行の道にお誘いしたかったなぁ」
「わははは! そういう話は、俺たちのいないところでするべきだな!」
「あははぁ。そんな気がないから、口にしてるんですよぉ」
町田家の父親と浅川亜季が、笑顔を見交わす。
そのかたわらで、町田エレンは頬をふくらませていた。
「エレンもまだ帰りたくないなー! ここでカウントダウンしたら、すごく楽しそうだし!」
「それは、もう少し大きくなってからね。アンナだって我慢するんだから、エレンも我慢なさい」
母親に頭を撫でられて、町田エレンは「はーい」と矛を収めた。
すると、『マンイーター』の面々もこちらに寄ってくる。柴川蓮は、残る二名に左右から腕を捕獲されていた。
「『KAMERIA』のみんなは、もうお帰り? 次に会うのは、ブイハチさんのイベントかなぁ?」
「その前に『マンイーター』のライブがあったら、見に行くよー! あとで年明けのスケジュールを教えてねー!」
「うんうん。こっちもSNSをチェックさせてもらうからねー。ライブ動画、楽しみにしてるよー」
いよいよ、お別れの刻限である。
そのとき、和緒が「おわ」と常ならぬ声をあげた。幽霊じみた黒ずくめの人物が、背後から和緒にのしかかったのだ。
「高校生の諸君は、もうお帰りかい……? 名残惜しいけど、しかたないねぇ……今日も楽しませてもらったから、それで勘弁してあげるよぉ……」
「すみません。酒臭いです。あと、数あるメンバーの中からあたしを選ぶなんて、店長さんは悪趣味ですね」
「あたしは、面食いだからねぇ……あんたが未成年じゃなかったら、もっと熱烈にアプローチしたかったところさぁ……」
冗談とも本気ともつかぬ口調で言いながら、ジェイ店長は和緒の背中から身を離した。
「ま、今日はお祭りなんで、あんまり真面目くさったことは言いたくないけど……あんたたちは、爆発力が跳ねあがってたよぉ……これもひとえに、ドラムのあんたが頑張ったおかげだろうさぁ……」
「それは過分なお言葉ですね。あたしはバンド随一の怠け者ですよ」
「怠けてようが何だろうが、あんたはめきめき上達してるよぉ……この爆弾みたいなバンドを支えてるのは、ドラムの安定感なんだからさぁ……どうかその調子で、精進してくださいなぁ……」
ジェイ店長はにんまりと笑いながら、和緒の頭をぽんぽんと叩いた。
ジェイ店長の年齢は存じあげないが、和緒にこうまで気安く振る舞えるのは、やはり年の功なのだろう。さすがの和緒もクールなポーカーフェイスを保ったまま、ぶすっと口をつぐんでいた。
「じゃ、お疲れさぁん……ああ、そうそう……今日の挨拶は、よいお年を、だったねぇ……」
ジェイ店長はひらひらと手を振って、人混みの向こうに消えていった。
それを皮切りに、こちらでも別れの挨拶が連呼される。
「またすぐ連絡入れるからねー! みんなも練習、頑張って! よいお年を!」
「帰り道は、お気をつけてぇ。みなさん、よいお年をぉ」
「みんな、お疲れ様でした! よいお年を!」
「よいお年を!」
『V8チェンソー』と『マンイーター』の面々は、店の外までめぐるたちを見送ってくれた。
そちらにぺこぺこと頭を下げながら、めぐるは『KAMERIA』のメンバーおよび町田家の面々とともに街路を進む。いよいよ夜も深まって、外界は身を切るような寒さである。タンクトップ姿の浅川亜季はくしゃみをしながら店内に引っ込み、他の面々もそれに続いていった。
「いやー、楽しかったねー! もう自分たちのライブから二時間も経ってるのに、ずーっとワクワクしっぱなしだったよー!」
「うん! 今日のライブは、ほんとにすごかったからねー!」
「『V8チェンソー』と『マンイーター』もかっこよかったね。二月のライブも楽しみだなぁ」
先頭を進む町田家の三姉妹は、元気な声で語らっている。栗原理乃はご両親と並んで歩き、そのさまを見守っていた。
最後尾は、めぐると和緒である。真っ白な息を吐きながら、めぐるは和緒に笑いかけてみせた。
「今日は本当に楽しかったね。それに……店長さんの言葉が嬉しかったなぁ」
和緒はちらりとめぐるのほうを見てから、暗い空を振り仰いだ。
街頭の青白い光が、和緒の横顔を浮かびあがらせる。めぐるがもっとも綺麗だと感じる、和緒の横顔だ。空は真っ暗であるのに、和緒は何かまぶしいものでも見ているように目を細めていた。
長い睫毛が、なめらかな頬に影を落としている。
そして和緒は、形のいい唇をゆっくり開くと――いきなり、「ざまあみろ!」と声を張り上げた。
和緒がめぐるの前でこんな大きな声を出すのは、初めてのことである。
めぐるは困惑のきわみであったし、前を歩いていた面々も仰天した様子でこちらを振り返ってきた。
「い、磯脇さん、どうされたんですか?」
「さすがの和緒も、感極まっちゃったー? でも、夜に騒ぐと通報されちゃうよー?」
栗原理乃と町田アンナが、心配げな声を投げかけてくる。
和緒は首を下げてから、そちらに向かって肩をすくめた。
「お騒がせして、失礼したね。正気は失ってないから、ご心配なく」
「もー、びっくりしたなー! 騒ぐのは、うちに戻ってからにしてよねー!」
町田アンナはにぱっと笑い、栗原理乃は静かに微笑んで、それぞれ正面に向きなおった。
きっと、和緒の顔を見て安心したのだろう。和緒はポーカーフェイスであったが、その端整な面にはどこか晴れ晴れとした気配がたたえられていたのだ。
「か、かずちゃん、大丈夫? ざまあみろって……なんのこと?」
めぐるがそのように問いかけると、和緒の手がぽふっと頭の上に置かれた。
「しぶしぶ里帰りした世界線のあたしに、勝ち誇ってやったのさ。あっちのあたしは、さぞかし悶々としながらこの夜を過ごしてるだろうからね」
「……そっか」と、めぐるは笑ってみせた。
和緒はまたひとつ肩をすくめてから、正面に向きなおる。ただその手はめぐるの頭に置かれたままであり――その横顔は、とても安らいでいるように見えた。




