03 入場
そうして、また日は過ぎ去って――あっという間に、大晦日がやってきた。
クリスマスイブは町田家で過ごし、その翌日から五日間は部室で練習ざんまい、そして十二月三十日には町田家の大掃除を手伝い、そのまま夜を明かして大晦日である。めぐるがこれほど慌ただしく楽しい年の瀬を過ごしたのは、もちろん生まれて初めてのことであった。
「あーあ。ガラにもない肉体労働で、すっかり筋肉痛だよ。こりゃ今日のステージも期待できないね」
「またまたー! 今日もパワフルなドラムを期待してるからねー!」
午前の九時までたっぷり休んだ和緒と町田アンナは、普段以上の元気さであった。
和緒の左頬のひっかき傷も、この数日の間ですっかり完治している。和緒の秀麗な顔には何の傷痕も残されなかったので、めぐるも心から安堵することができた。
そして、どれだけの睡眠時間を取ろうとも、寝起きの栗原理乃は赤ん坊のように無防備な顔でうつらうつらとしている。そんな姿も、可愛らしいばかりであった。
「ま、今日は会場入りもゆっくりだからねー! のんびり過ごして、じっくりコンディションを整えよー!」
町田アンナのそんな宣言の通りに、めぐるたちはきわめて安楽な時間を過ごすことになった。
本日の開演は午後の五時からで、『KAMERIA』の出番は午後の七時半となる。なおかつ、リハーサルというものは存在せず、開場の午後四時半にならないと入店することもできないのだ。そして大晦日ともなると部室も使えず、練習スタジオも営業していないため、日中には本当になすべきことも残されていなかった。
「それにしても、イベントの終了は午前の二時で、その後も夜が明けるまで延々とセッションタイムだってんだからね。スタッフさんは、地獄の一夜なんじゃなかろうか」
「いやー、それでこそ年越しイベントってもんでしょ! いつかウチも、フルで参加してみたいなー!」
未成年たるめぐるたちは、午後の十時に店を出なければならないのだ。浅川亜季いわく、こっそり居残る未成年の人間もいなくはないようであったが――町田家のお世話になっている手前、めぐるたちは身をつつしまなくてはならない立場であった。
(まあそうでなくっても、補導なんてされたら最悪だもんね)
めぐるは、形式上の保護者である祖父母と折り合いが悪い。
和緒は暴力を受けてまで里帰りを拒み、強引に居残った身だ。
そして栗原理乃も家族と折り合いが悪く、町田家を頼っている。これで補導でもされたならば町田家に迷惑がかかるばかりでなく、今後の行動にも制限がかけられる恐れが生じるのだから、何としてでも身をつつしまなくてはならないのだった。
「暴れるんならルールの範囲内ってのが、うちの家訓だからねー! 和緒もお酒とか飲んじゃダメだよー?」
「今のところ、あんな苦いもんに興味はないよ。……おっと、誘導尋問にひっかかっちまったね」
「ユードーしてないし! マジでカンベンしてよねー!」
そんな具合に、家にこもっていても賑やかな限りであった。
その後は二人の妹たちばかりでなくご両親をも観客として、電力を使用しない合奏をお披露目する。ベースの音はバケツの反響で増幅し、ドラムは雑誌の束をスネアの代わりにするという、毎度お馴染みの手慰みであったが、めぐるは心から楽しく演奏することができたし、他のメンバーも町田家の面々も同じ気持ちであるのだと信ずることができた。
そうしていよいよ午後の四時が近づいてきたならば、出立の準備を整える。
栗原理乃は三つ編みの髪をアップにまとめて、白いワンピースの上にカーディガンとロングコートを着込む。本日は冬仕様で、足もとも真っ白なストッキングだ。
めぐるたちは一番下にバンドTシャツを着込んでいるので、現地で上着を脱ぐばかりである。ただ、めぐると町田アンナは宣材の画像で着用したキュロットスカートとハーフパンツを着込み、それぞれ黒いストッキングと派手なレギンスで防寒の対策をしていた。
「ウチは出番の前に、レギンスを脱いじゃうつもりだけどねー! こんなのはいてたら、ムレムレになっちゃうだろうからさー!」
ともあれ、あとはリィ様の小道具と紙袋の覆面、人数分のタオルや着替えのTシャツなどをボストンバッグに詰め込めば、ステージ衣装の準備も完了であった。
めぐるは以前に和緒からいただいたダッフルコート、和緒はスリムなシルエットのダウンジャケット、町田アンナは年季の入ったフライトジャケットという格好で機材を担ぎ、ワゴン車へと向かう。およそひと月ぶりの搬入作業に、めぐるの心は浮き立ってやまなかった。
『KAMERIA』のメンバーは母親の運転するワゴン車で、二人の妹は父親の運転する軽自動車だ。こうして町田家の家族全員とライブ会場に向かうのは、八月上旬の野外フェス以来であった。
「今日はお祭りだから、チケットノルマもないんだけどさ! ただ、ウチらのお客ってママたちだけなんだよねー!」
「あら、そうなの? 部活の先輩さんたちや、バンド関係の方々は?」
「ブチョーやフクブチョーは受験生だし、二年生のセンパイたちや『ケモナーズ』の人たちなんかは、みんな別のライブハウスなんだよー! そっちのほうが、知り合いのバンドが多いんだってさ! 『ケモナーズ』なんかは、『千葉パルヴァン』の年越しイベントに出るわけだしねー!」
「なるほど。でも、浅川さんたちはいらっしゃるのよね?」
「もっちろーん! ブイハチの出番は、九時すぎぐらいだってさー! ウチらが帰る前の出番で、ラッキーだったよー!」
それはめぐるも、心からそう思っていた。ここ最近は試験などの都合で、『V8チェンソー』のライブにまったく行けていなかったのだ。
「他にはどんなバンドがいるんだろうねー! ジェイズはヘヴィなバンドが多いって話だから、楽しみだなー!」
「ふん。せいぜいナンパ男には気をつけるこったね」
「あはは! 気をつけるのは、和緒たちのほうでしょー? オトコどもが寄ってきても、アトクサレがないようにするっとかわしてあげなー!」
そうして楽しく騒いでいる間に、駅裏のコインパーキングに到着した。
本日は楽屋も大変な混雑であるという話であったので、機材は出番の直前に搬入する手はずになっている。ということで、みんな手ぶらの身軽な格好であった。
パーキングで合流した妹たちは、早くも頬を火照らせている。小学生や中学生の身で大晦日にライブハウスに出向くというのは、ずいぶん刺激的な体験であることだろう。小学生の頃からさほど成長していないめぐるも、それは同じことであった。
街路をしばし歩いているだけで、体温を奪われた顔の皮膚が冷たく強張っていく。吐く息は真っ白で、手袋をはめている指先までもがかじかんでしまいそうだ。本年は寒冬の部類であるそうで、最低気温は0度に近いという予報であった。
そうして体はどんどん冷え込んでいくものの、心に宿った温もりに変わりはない。
それはすべて、めぐるの周囲を取り巻く人々からもたらされる温もりだ。めぐるが思わず視線を向けると、ちょうど和緒もこちらを見下ろしたところであった。
「泣きたくなるような寒さだね。どうせ店内はたいそうな熱気だろうから、温度差に用心しないと正月早々寝込むことになりそうだよ」
「うん。気をつけながら、頑張ろうね」
「入店前から気負ってたら、あたしの脆弱な神経がもたないよ」
やっぱり和緒は、相変わらずの調子である。
それを嬉しく思いながら、めぐるは凍てつきそうな街路を踏み越えた。
そうして『ジェイズランド』に到着してみると、意外に店内は空いている。入り口から見渡せるバーフロアには、数えるぐらいの人影しかなかった。
「いらっしゃいませ。出演者の方々は、バンド名とメンバー名のご確認をお願いします。それ以外の方々は、おひとり二千円です」
そのように告げてきたのは、ちりちりの黒髪を肩までのばした若い女性スタッフである。めぐるにとっては、『ヒトミゴクウ』のベーシストたるスキンヘッドの若者の次に見覚えのあるお相手であった。
「ふんふん! 今日はドリンク代ってのがかからないのかな?」
町田家の父親が元気に問いかけると、女性スタッフは「はい」とやわらかく微笑んだ。
「今日はワンドリンク制じゃありません。ドリンクは普段より百円ずつ安いんで、どうぞ飲みまくってください」
「うーん! 魅力的なお誘いだな! 車なのが残念だよ!」
「いいからとっとと、代金を払えっての!」
町田アンナに尻を蹴られた父親が、四名分の代金を支払った。
めぐるたちは、出演者リストにチェックをしてもらう。そしてそれらの手続きが終了したならば、八名全員が手の甲にスタンプを捺されることになった。
「今日はお客さんも再入場できますんで、そのときはそのスタンプを見せてください。手を洗うときはスタンプが消えないように気をつけてくださいね」
本日はきわめて長丁場であるため、そういう措置が取られたのだろう。
めぐるとしては、全員おそろいのスタンプにじんわりとした喜びを噛みしめるばかりであった。
「この時間は、けっこー空いてるんだねー! とりあえず、座らせてもらおっか!」
「まだ体が冷えてるから、温かい飲み物でもいただこうかしらね。みんなは、何にする?」
他のお客が少ないものだから、町田家の団欒がそのまま持ち込まれたような風情である。隣り合った二つのテーブル席を八名で占領し、ホットのコーヒーやココアなどをいただくことになった。
そこに登場したのは、ジェイ店長である。
黒ずくめの服装に鋲だらけの革ジャンを羽織ったジェイ店長は「やあやあ……」と幽霊のようにゆらゆらとした足取りで近づいてきた。
「今日もお早いお着きだったねぇ……こっちとしては、ありがたい限りだよ……」
「どーもおつかれさまでーす! けっこう空いてて、ウチらも意外だったよー!」
「そりゃあ夜明けまで続く地獄の一夜なんだから、そんな早々に出張ってくる人間は多くないのさぁ……でも、トップバッターはあたしのバンドだからねぇ……よかったら、客席を賑やかしておくれよぉ……」
「おーっ! 今日も『ヒトミゴクウ』がトップバッターなんだー? もちろん、バッチリ観させていただくよー!」
「よろしくねぇ……」と、ジェイ店長はざんばら髪の隙間でにたりと笑う。相変わらずの、幽霊じみた面相だ。
その目が、隣のテーブルではしゃぐ町田家の面々を見やった。
「ところで……あのお人らは、あんたがたのライブの日にも見かけた覚えがあるねぇ……もしかしたら、ご家族のみなさんかい……?」
「うん! ウチの親と妹どもだよー!」
母親は町田アンナとそっくりの髪色であるし、妹たちも姉とよく似た顔立ちをしている。それに何より元気と活力にあふれた雰囲気が、町田アンナとの血縁関係を如実に示しているはずであった。
「そいつは仲のよろしいことで……自分の子供を連れてくる人間は少なくないけど、ご両親をお連れするっていうのは貴重な例だねぇ……」
「へー! 自分の子供を連れてくる出演者とかもいるのー?」
「そりゃそうさ……どんな業界でも、高齢化とは無縁でいられないからねぇ……出演バンドの平均年齢は、年々上昇するいっぽうだよ……」
そう言って、ジェイ店長は骨張った肩をすくめた。
「だから、高校生のあんたがたは大きな希望の星なのさ……どうかあたしたちがくたばった後も、この業界を盛り上げておくれよ……」
「あはは! その頃には、ウチらだって立派なオトナだけどねー! でも、ヨボヨボになるまでバンドを楽しみたいよねー!」
「それじゃあせいぜい、あたしらの背中を見守っておくれよ……」
そんな言葉を最後に、ジェイ店長はゆらゆらと立ち去っていった。
その細長い後ろ姿を見送ってから、栗原理乃が町田アンナを振り返る。
「バンドの文化は衰退気味だっていう話だったよね。それってずいぶん深刻な話なのかなぁ?」
「さー、どうなんだろ! でも、昔は若い人間の数が多かったんだろうし、バンドブームってやつもあったからさ! 今と比べたら、すっげー盛り上がりだったんじゃない?」
「バンドブーム……それって、いつぐらいの話なんだろう?」
「んー? やっぱ、80年代から90年代あたりじゃない? バンドブームの最前線で頑張ってた人らなんかは、もう還暦とかみたいだしねー!」
「還暦……60歳か……その人たちは、今どうしてるんだろう?」
「そりゃー頑張ってる人は頑張ってるし、引退した人は余生を楽しんでるっしょ! 解散したバンドは多いけど、再結成したバンドも多いしさ!」
「その年齢でも、バンドを楽しんでいる人たちはいるんだね」
と――栗原理乃は、嬉しそうに微笑んだ。
おそらくは、めぐると同じ喜びや希望を噛みしめているのだろう。この後、何十年も『KAMERIA』の活動を楽しめるなどというのは――幸せすぎて、想像を絶するぐらいであったのだった。
(もちろんわたしは、目先の楽しさを追いかけてるだけだけど……)
しかし、そのまま何十年も齢を重ねることができたなら、それが一番の幸いであるはずだ。
もちろん、人生というのはそんな甘いものではないのだろうが――そんな可能性がわずかにでも存在するというだけで、めぐるの心を満たすには十分以上であったのだった。




