-Track2- 01 クリスマスイブ
そうして日々は過ぎ去って――ついに冬休みの到来である。
その日もめぐるはスクールコートとマフラーと手袋の完全防寒で、学校の部室を目指すことになった。
クリスマスイブである本日は、そのまま町田家に向かうことになる。そのために、学生鞄ではなく着替えの詰まったバッグを持参しなければならない。ギグバッグとエフェクターボードだけで大層な荷物であるわけだが、楽しいお泊り会のためであればどうということもなかった。
試験を終えてからの一週間ばかりはずっと午後から部室での練習ざんまいであったので、めぐるの心は深く満たされている。町田アンナのアイディアから広げた新曲のほうもそれなりに順調で、今はまだまだ試行錯誤の段階であるものの、これならば二月のイベントには余裕をもって完成させられるだろうという見込みが立てられていた。
大晦日の前日から三が日までは学校が閉められて部室にも出入りできなくなってしまうが、それはどうにか耐え忍ぶしかない。その期間内に『ジェイズランド』の年越しイベントが控えているのは、何よりの救いであろう。そしてさらには大晦日から元旦にかけても町田家で過ごせることになったのだから、めぐるが不満を抱くいわれはなかった。
(そういえば……大晦日やお正月を他の人と一緒に過ごすのは、小学生のころ以来なんだもんな)
めぐるはべつだんそういうイベントに重きを置いていなかったし、家族とともに過ごした年末年始がそれほど楽しかったという印象もない。ただやっぱり、それが特別な日であるという非日常感はひしひしと感じていたし――テレビも何もない部屋で孤独に迎える大晦日や正月というものがどれだけ味気ないものであるかは、この三年間でまざまざと思い知らされていた。
(かずちゃんも、心の底から里帰りが嫌だったみたいだし……そんなかずちゃんとも一緒に年越しを過ごせるなんて、嬉しいな)
年の瀬もせまっていよいよ気温は冷え込んでいたが、めぐるの胸には温かい気持ちが宿されていた。
が――駅に向かうバスに乗り込むと、さらに上昇するはずであった温もりにストップがかけられた。車中に、和緒の姿がなかったのだ。
(かずちゃん、ひさしぶりに寝坊しちゃったのかな)
バスで通学するようになって以来、めぐるはほぼ毎日のように和緒と登下校をともにしている。唯一の例外は、和緒が寝坊をしてバスに乗り遅れた日となる。それはせいぜい月に一度のことであったが、毎回授業がない土曜日や長期休暇の期間に限られていた。
(練習がなければ、ゆっくり朝寝ができるんだもんね。かずちゃんだってあんなに頑張ってくれてるんだから、とうてい文句はつけられないよ)
そんな思いを噛みしめながら、めぐるはもっとも後部にある座席に収まった。大荷物であるめぐるは、そこに収まらないと他の乗客の邪魔になってしまうのだ。
冬休みに入ったし、午前の八時半という中途半端な時間帯であるため、車内は空いている。このような時間に出勤するのは、ごく近場で働いている人間ぐらいであるのだろう。授業のある日とそうでない日では、乗客の顔ぶれが様変わりするのが常であった。
バスで十分、電車で十分、徒歩で数分という道のりを、めぐるはひとりで踏み越えていく。乗り継ぎの時間も含めて、学校までの移動時間はおよそ三十分だ。和緒がいないとそれを五割増しで長く感じてしまうのは、致し方のないところであった。
「あれー? 和緒は一緒じゃなかったんだ? めずらしーじゃん!」
めぐるが部室のドアを開くと、町田アンナの元気な声に出迎えられた。
エアコンで暖められた空気とともに、その声がめぐるの冷え切った体に温もりを与えてくれる。そのありがたさに頬がゆるむのを感じながら、めぐるは「はい」と笑顔を返してみせた。
「たぶん、バスに乗り遅れちゃったんだと思いますけど……まだ連絡は入ってないですか?」
「うん! 和緒って、そーゆー連絡もあったりなかったりで気まぐれだもんねー! 事故とかビョーキとかだとおっかないから、いちおー連絡しとこーっと!」
そうして町田アンナがスマホを取り出したとき、メッセージ受信の音色が二重に鳴り響いた。ロッカーから電子ピアノを引っ張り出そうとしていた栗原理乃のスマホも、同時にメッセージを受信したのだ。
「おー、きたきた! 今やっとバスに乗れたんだってよー! 過去最大の大チコクだねー!」
「そうですか。でも、事故や病気じゃなかったんなら、よかったです」
めぐるはほっと息をつきながら、着替えを開始した。午後の六時まで練習に励むとどうしたって汗だくになってしまうため、やはりこの季節も練習中は体操着であるのだ。
手袋、マフラー、スクールコート、ブレザー、ベスト、ブラウスの順番で脱いでいき、体操着の上からジャージを着込む。足もとは、学校指定の黒いタイツを脱いでから、冬用のジャージを装着だ。それでブリーツスカートを脱げば、ようやく準備も完了であった。
「めぐるたちの家から学校まで、三十分ぐらいだったっけー? ちょっとばっかり、時間が空いちゃうねー! なんか、ドラムぬきで進められるネタってあったかなー?」
「うーん。新曲のアレンジを煮詰めたいけど……要はやっぱり、ドラムだもんね。なんとか、クリックで頑張ってみる?」
「クリックに合わせるのって、苦手なんだよなー! ま、とりあえずは頑張ってみるしかないかー!」
町田アンナと栗原理乃のやりとりを聞きながら、めぐるもベースのセッティングを開始した。
すると、町田アンナが「そーだ!」と向きなおってくる。
「またネトオクのほうで、ラットがいくつか出てきたんだよねー! 入札するかどうか、お昼にでも確認してみてよ!」
「あ、ありがとうございます。本当にラットって、出品されることが多いんですね」
「うん! でも、七千円以下ってのは、そんなに多くないけどねー! 今回は動作未確認のジャンク扱いってのが格安で出てたから、それが狙い目かなー!」
ボリュームを絞ったギターをちろちろと奏でながら、町田アンナはそのように言いたてた。
「ただ、パワーサプライとトーンハンマーはなかなか出てこないねー! たまーに出てきても、けっこー割高だしさ! パワーサプライなんか他の機種だったらけっこー安く出てるんだけど、それじゃーダメなんでしょ?」
「あ、はい。トーンハンマーが18ボルトなので、それに対応したパワーサプライじゃないと使えないんですよね」
そんな風に答えながら、めぐるはもじもじと身を揺することになった。
「それで、実は……またひとつ、新しいエフェクターが欲しくなってしまったのですけれど……」
「おー、なになに? ついに第五の歪み系?」
「い、いえ。さすがに歪み系ではなくて、オートワウなんですけど……」
「おー、オートワウかー! なるほどなるほど! 新曲で使いたくなっちゃったわけね!」
「は、はい。あれはもう、合宿のときに音を確認させてもらえたので……もしもオークションで出品されていたら、それも入札をお願いしたいのですけれど……」
「オッケーオッケー! 機種名は、あとでよろしくねー!」
「は、はい。ありがとうございます。でも、二月のイベントに間に合わないようでしたら、新品か中古屋さんでの購入を考えますので」
めぐるがバンド合宿で目をつけたオートワウは、フユのメインではなく予備の機種であった。フユがメインで使っているオートワウ――正式には、エンヴェロープフィルターというそうだが――とにかくそちらのエフェクターはきわめて多機能であり、ちょっとめぐるには使いこなせそうになかったのだ。
よって、フユにお願いすれば、保管中のオートワウをお借りすることも可能なのであろうが、もちろんめぐるはこれ以上フユにお世話をかける気にはなれなかった。
「じゃ、テキトーに始めよっか! 理乃、クリックをお願いねー!」
クリックというのは、電子音のメトロノームである。栗原理乃の使用している電子ピアノにその機能が内蔵されているため、テンポの確認などでたびたびお世話になっていたのだ。
しかしやっぱり、クリックに合わせた演奏というのは味気ないものである。ごまかしがきかないためテンポ感を育むにはいい練習になるのであろうが、めぐるにとっては毎日自宅で取り組んでいる内容であるので、物寂しさもひとしおであった。
クリックだけを頼りにしていると気分も昂揚しないため、アレンジのアイディアも浮かびにくい。町田アンナはとりわけその傾向が顕著であったが、めぐるや栗原理乃も似たようなものだ。それどころか、もともと考案していたフレーズも彩りを失うように感じられてしまう。唯一の喜びは、それで和緒の存在の重要性を再確認できることぐらいであった。
(それだけわたしたちは、かずちゃんを頼りにしてるってことだもんね)
そんな物寂しい練習が三十分ほど続き、めぐるたちの集中が切れかけたところで、ついに部室のドアが開かれた。
「あー、やっと来たー! ……あれあれ? 和緒は風邪でもひいちゃったのー?」
めぐるも思わず、息を呑むことになった。和緒が顔の下半分を隠すほどの大きな白いマスクを装着していたのである。
ドアを閉めて入室した和緒は首もとのマフラーをほどきながら、いつもの調子で肩をすくめた。
「あたしのことは、気にしなさんな。ウイルス性の疾患ではないから、心配はご無用だよ」
その口調もいつも通りのクールさであったが、マスクのために声がくぐもってしまっている。そしてその言葉の内容には、めぐるも町田アンナと一緒に首を傾げることになった。
「つまりは、風邪じゃないってこと? じゃ、そのマスクは何なのさ?」
「思春期だったら、顔を隠したい日ぐらいあるでしょうよ。ちっとは空気を読んでくださいな」
「えー? 顔を隠したい理由なんて、さっぱり思いつかないなー! 二日酔いで、顔がむくんじゃったとか?」
「……別に、そういうことにしておいてもかまわないけどね」
「いやいや! 和緒は酒なんて飲まないでしょ! ……あっ! もしかして、ニキビでもできちゃったー? 理乃もおでこにニキビができたとき、すっごく気にしちゃってたもんねー!」
「だ、だから、そういう風に詮索しないほうがいいんじゃない?」
栗原理乃は頬を染めながら、幼馴染の腕を引っ張った。
その間に、和緒は粛々と着替えを進めていく。その挙動はいつも通りの颯爽としたもので、確かに体調に不良をきたしているようには見えなかった。
ただ、和緒がマスクをする姿などは初めて目にしたので、めぐるは落ち着かない気分である。それに、和緒がニキビごときで顔を隠すなどとはとうてい思えなかった。
和緒はもともと前髪が長いので、マスクをつけるといっそう表情がわからなくなってしまう。まあ、素顔でもポーカーフェイスでなかなか感情を表さない和緒であるのだが――それでもやっぱり、めぐるの不安はつのるばかりであった。
そうして着替えを済ませた和緒は、ロッカーからバスドラのペダルを取り出して、練習スペースに近づいてきた。
めぐるは一心に、その姿を目で追ってしまう。そうして和緒が、めぐるのかたわらを通りすぎようとしたとき――左の頬に、マスクの上からちらりと白いガーゼがはみ出しているのが見えた。
「か、かずちゃん。顔に怪我をしちゃったの?」
めぐるが反射的に声をあげると、和緒はドラムセットに向かいながら溜息をついた。
「あんたも空気を読めないひとりだったか。……そうだよ。すっころんで、おもいっきり顔面をぶつけちゃったのさ」
「んー? ぶつけったって、どこに?」
と、町田アンナがすかさず切り込む。
和緒は感情の読めない切れ長の目で、そちらをにらみつけた。
「どこにぶつけたのかが、そんなに重要なの? 好奇心猫を殺すっていうありがたい格言を知らないのかな?」
「だってさー、和緒は自転車に乗らないんでしょ? 歩いててすっころんで顔をぶつけるって、ちょっと不自然じゃない? 人間は反射的に、顔を守るもんだからさ」
「そいつは、格闘家としての含蓄かい? あんたはギタリストに転生したんでしょ?」
「いや、ウチはこー見えて個人主義だからさ。和緒が言いたくないってんなら、無理に聞きほじる気はないんだよ」
そんな風に言いながら、町田アンナはオレンジ色の頭をひっかき回した。
「ただ……めぐるが、めっちゃ心配そうだからさ。それを嘘とか冗談とかでごまかすってのは、よくないと思う。それでも言いたくないってんなら、はっきり言いたくないって言ったほうがいいんじゃないかなー」
和緒は何も答えないまま、めぐるのほうに向きなおってきた。
すると、めぐるの表情に何を見て取ったのか――がっくりと肩を落として、マスクごしに深々と溜息をつく。いかにも和緒らしい芝居がかった仕草であったが、どこか普段とは異なるニュアンスも感じられた。
「あーあ。こんなことなら、仮病で休むべきだったよ。……でも、今日一日で済む話じゃないからなぁ」
「か、かずちゃんは何かあったの? もちろん、言いたくなければ言わなくていいけど……」
「あんたは顔と台詞が一致してないんだよ。……後悔するなよ、マイフレンド」
言いざまに、和緒はマスクを取り去った。
その秀麗な顔の左頬に、大きなガーゼが張りつけられている。血がにじんだりはしていなかったが、明らかに外傷の処置であった。
「悪い猫に、引っかかれちゃってね。……この言い訳で、納得してもらえる?」
「…………」
「ああもう、わかったよ。母親が、ビンタのついでで顔面を掻きむしってくれたのさ。人の顔を引っぱたこうってんなら、爪の処理ぐらいしておいてほしいもんだよね」
めぐるは驚愕のあまり、言葉も出なかった。
すると、町田アンナが静かな声音で問いかける。
「和緒のお母さんって、そんな荒っぽい人だったの? もしかして……里帰りの一件で、喧嘩になっちゃったとか?」
「喧嘩になんざ、なるもんかい。あっちが勝手にエキサイトしただけだよ。だからこれまで、忌々しい里帰りを拒絶できなかったってわけさ」
和緒は切れ長の目をまぶたに隠しつつ、普段通りの落ち着いた声でそのように言いつのった。
「うちの母親も普段は温厚なんだけど、ご立派な実家が何よりの拠り所みたいでね。そっちでの体面を守ることに血まなこなんだよ。娘が大事な里帰りをすっぽかすなんて言語道断っていう価値観で生きてるのさ」
「それで、親父さんは何にも言わないの?」
「いんや。今でも修羅場の真っ最中だろうさ。何年か前にも同じようなことがあったけど、終戦には三日ぐらいかかってたかな」
そうして和緒はまぶたを閉ざしたまま、いきなりクラッシュシンバルを打ち鳴らした。
めぐるが思わず身をすくめると、和緒はくすくすと忍び笑いをもらす。
「ま、ここまで派手な騒ぎになるとは想定外だったけど、あたしに決断させたのは幸いだったね。これでもしもいつもの調子であんたたちがあたしを引っ張り回してたら、罪悪感まみれだったんじゃない?」
「で、でも……わたしはかずちゃんと年越しを過ごしたいって言っちゃったし……」
「そのスイートなお誘いに迎合したのは、あたしの決断だよ。あたしの覚悟を横取りしようったって、そうはいかないからね」
そんな風に語りながら、和緒はようやくまぶたを開いた。
その切れ長の目は、真っ直ぐめぐるを見つめている。そしてその黒い瞳には、とても優しい光がたたえられていた。
「きっと栗原さんがピアノのレッスンから解放されたときも、こんな気分だったんじゃないのかな。だから、悲しむんじゃなくて喜んでおくれよ、マイフレンド。あたしは忌々しい里帰りから解放されて、内心ウッキウキなんだからさ」
それはおそらく和緒にとって、混じり気のない本心であったのだろう。
だからめぐるも、「うん」とうなずくことができた。
ただ――涙をこらえることだけは、どうしてもかなわなかったのだった。




