06 選択肢
それからも、めぐるの日常は慌ただしく過ぎ去っていった。
十二月の第二週からは試験期間に突入して、部室での練習もおあずけとなってしまったが、その期間内にもバンド活動に関わるいくつかの案件が存在したのだ。
まず、ネットオークションで入札したエフェクターに関してであるが――めぐるは無事に、予算内の価格で二種のエフェクターを落札することができた。機種は、チューナーとソウルフードである。
それらのエフェクターは半額以下の値段で落札できたあげく、動作のほうにも問題は見られなかった。修理費をかけることなく、その価格で希望通りの機材を入手できたのだ。めぐるとしては、望外の喜びと表現するしかなかった。
そして、十二月の第二日曜日に至ったならば、ついにベースのメンテナンスである。めぐるは物流センターのアルバイトに出向く行き道で『リペアショップ・ベンジー』に立ち寄り、リッケンバッカーのベースを預けた。そうして九時間の労働を終えたのち、胸をどきつかせながら『リペアショップ・ベンジー』に向かってみると――メンテナンスは、無事に完了していたのだった。
「ナットやフレットには、問題もなかった。さんざん騒いだ甲斐もなかったな」
店主は相変わらずの仏頂面で、そのように告げてきたものであった。
「ただし、やっぱりネックはわずかながらに反っていたので、トラスロッドを調整することになったぞ。まだトラスロッドにゆとりはあるので、しばらくは問題もなかろうが……トラスロッドを限界まで回すことになったら、ネックアイロンという別の手間をかけることになる。気温と湿度の変化には、せいぜい気をつけることだ」
「は、はい。どうもありがとうございました。また何かあったら、よろしくお願いします」
それから自宅で試奏してみると、確かにいくぶん弾き心地が変わっていた。ハイ・ポジションが、昨晩よりもわずかに押さえやすいように感じられたのだ。
べつだんこれまでも、弾きにくくなったと感じたことはない。そうしてめぐるが知覚できないぐらいにじわじわとネックが反って、ハイ・ポジションの弦高が変わっていたようであるのだ。それが正しい角度と高さに調整されて、本来あるべき弾き心地が蘇ったということであった。
(本当に、メンテナンスっていうのは大切なんだ。これからはきちんと、年に二回お願いしよう)
しかしまた、毎回フユにベースを借りるのはあまりに申し訳ない。一日だけは夜の練習を我慢するか、別の手段を模索するか、めぐるは半年後までに何らかの道を見出さなければならなかった。
そして翌日には、和緒にお願いをしてフユに連絡を入れる。もともとこの日にG&Lのベースを返す約束であったが、こまかい話は当日に決める段取りになっていたのだ。
『ちょうどそっちに用事があるから、七時ぐらいには出向けるよ』
フユからは、そんなメッセージが返されてきた。
「本当は用事なんてないけど、あんたに気を使わせないためにそう言ってるんだろうね」
「う、うん。わたしも、そう思うよ。本当は、何かお礼の品でも準備するべきなんだろうけど……でも、以前にクリーニングキットを渡したとき、今後は余計な気を使うなって言われちゃったんだよね」
「だったら、笑顔でもプレゼントしたら? そうしたら、いっそうフユさんをたらしこめるだろうさ」
和緒の物言いはあまりに意地が悪かったが、めぐるには反論の言葉も思いつかなかった。
その夜は、めぐるの自宅からほど近い大通りで待ち合わせである。めぐるは万が一にも祖父母と出くわしたくなかったため、こういう際にはいつも自宅から少し離れた場所を指定させてもらっているのだ。フユにベースを借りた日も、バンド合宿から戻った日も、めぐるはいつもこの場所で降ろしてもらっていた。
めぐるが重たいハードケースを手に歩道で立ち尽くしていると、やがて見覚えのある大きなワゴン車が横づけされる。
そこから姿を現したフユは、本日も頭の天辺から足の爪先まで颯爽としていた。
「きょ、今日はわざわざありがとうございます。それに、一週間以上もベースを貸してくださって、どうもありがとうございました。フユさんのおかげで、リッケンバッカーの特性というものを少し理解できたように思います」
「……ふん。けっきょく私のベースは、アンプに繋がなかったの?」
「は、はい。部室まで持ち運ぶのは、やっぱり気が引けてしまったので……でも、こちらのベースの音も、とても魅力的だと思いました」
その上で、めぐるはリッケンバッカーのベースを使い続けたいと思った。理解が深まるというのは、きっとそういうことなのだろう。めぐるはフユの優しさによって、また少しだけ見識が広がったような思いであった。
「それであの、差し出がましいかもしれませんけれど……ケースの中に、新品の弦を入れておきました。たとえ一週間ちょっとでも、弦は死んでしまうはずだという話だったので……」
「……まさか、変に割高な弦にしなかっただろうね?」
「は、はい。店主さんから、もともとそちらのベースに張られていた弦を教えていただきました」
「あっそう。……で、そっちの袋がエフェクターってわけね」
「あ、はい。ソウルフードと、チューナーです。こちらは何ヶ月もお借りしてしまって……本当に、ありがとうございました」
そちらの袋を受け取りながら、フユはうろんげに眉をひそめた。
「……今日は保護者もいないのに、普段よりシャキシャキしてるじゃん。まさか、あいつの存在がプレッシャーになってるなんてことはないよね?」
「ほ、保護者って、かずちゃんのことですか? も、もちろんかずちゃんの存在がプレッシャーになったりはしていません」
そんな風に答えながら、めぐるは自然に笑うことができた。
「むしろ、その逆で……かずちゃんを頼ることができないから、普段より気を張っちゃってるんだと思います。そういえば、フユさんと二人きりでお会いするなんて、初めてのことですもんね」
「へえ。だったらあいつと一緒にいないほうが、あんたは真人間になれるんじゃない?」
「ええ? そ、それはさすがに無理っていうか……普段もなるべくかずちゃんに甘えないように気をつけているつもりではあるんですけれど……」
「冗談だよ」と、フユは苦笑を浮かべた。
たとえ苦笑でも、フユが笑顔を見せるのはきわめて珍しいことである。
「そういえば、いつでも場を引っかき回すのは、アキとあいつだもんね。アキもあいつも、腹が立ってしかたないけど……いなきゃいないで、盛り上がりに欠けるってところか」
「は、はい。できればこれからも、みんなで仲良くしていただけたら……とてもありがたいです」
「ああ。私と二人きりなんざ、退屈で退屈でしかたないだろうしね」
「い、いえ! 決してそんなことは――!」
「だから、冗談だっての」と、フユはもういっぺん苦笑を浮かべた。
「じゃあ、次に会うのは大晦日だね。年越しイベントなんざみんな酔っぱらってるけど、気の抜けたステージを見せるんじゃないよ?」
「は、はい! 頑張ります! あと、『V8チェンソー』のステージも楽しみにしています!」
「ふん。こっちは、しこたま酔っぱらってるけどね」
そんな言葉を最後に、フユはワゴン車に乗り込んだ。
その後はウィンドウを開くこともなく、ただちらりと視線を送ってくる。めぐるが慌てて頭を下げると、フユもほんの少しだけうなずくような仕草を見せてから、夜道の向こうに消えていった。
その大きな車体が完全に見えなくなってから、めぐるは夜空を仰いで息をつく。
めぐるの胸の内には、やたらと温かい気持ちがあふれまくってしまっていた。
◇
フユにベースとエフェクターの一部を返却したならば、二週間に及ぶ試験期間も折り返しであった。
この期間は、ひたすら自主練習に励むしかない。高校に入学してからこれが四度目の試験であったが、毎回このような有り様でも赤点を取る事態に至らなかったのは幸いなことであった。
そうして鬱々たる試験期間を乗り越えたならば、その最終日はスタジオ練習だ。これも『KAMERIA』にとっては、すっかり恒例の行事であった。
スタジオの巨大なアンプで音を鳴らせば、普段以上の悦楽を手にすることができる。今回はライブの本番からそう日も空いていなかったが、それでめぐるの喜びが減ずることはありえなかった。
「さー! それじゃあこっからは、年越しイベントに向けて猛練習だねー! 新曲と同時進行で、頑張っていこー!」
試験勉強から解放された町田アンナも、めぐるに負けないぐらい喜びをあらわにしている。期末試験を終えたならば、もう冬休みも目前であるのだ。なおかつ、終業式まで学校は午前中までであるので、午後は部室を使い放題となる。何より苦しい期間の後には、何より楽しい期間が待ち受けているのだった。
「そーいえば、冬休みの初日はクリスマスイブだよねー! みんなは何か、予定でもあるのー?」
「あいにく、バテレンの祝祭をお祝いする風習は持ち合わせちゃいないね」
「だったら、みんなうちにおいでよー! ママがご馳走を準備してくれるからさ!」
と、町田アンナのはからいで、さらに楽しいイベントまで追加されることになった。
「大晦日にもお邪魔する予定なのに、そんなぶっ続けでお世話になっていいもんなのかね。いい加減、ご両親もうんざりしてるんじゃないの?」
「あはは! アレがうんざりしてるように見えるー? うちはイベント好きだから、賑やかになるのは大歓迎だよー! 妹どもも、すっかり和緒たちになついちゃったしねー!」
「そろそろあたしのおぞましさを体感させてあげるべきかねぇ。あと、プレゼント交換とかいうお寒いイベントだけは、どうか勘弁願いたいものだね」
和緒は、形として残るプレゼントのやりとりを忌み嫌っているのである。その割には、いらない衣服をめぐるにどっさりプレゼントしてくれたものであるが――それは不要品の処分ということで、和緒の中では別のカテゴリーになっているようであった。
「そっかー! ま、クリスマスやら誕生日やら、プレゼントとか贈り始めるとキリがなくなっちゃうもんねー! じゃ、クリスマスプレゼントはナシの方向で! 妹どもにも、そう伝えておくよー!」
そんな感じで、話はまとまった。
まあめぐるとしても、プレゼントのやりとりというのはかなり苦手な分野であったので、ありがたい限りである。それよりも、メンバーと一緒に一夜を明かせるというだけで、めぐるは嬉しくてならなかった。
「そーいえば、みんなの誕生日とか気にしたことなかったなー! ウチは一月で理乃は三月なんだけど、和緒とめぐるはいつだったのー?」
「え? か、かずちゃんも一月で、わたしは三月なのですけれど……」
めぐるがそのように答えると、町田アンナはきょとんとしてから大笑いした。
「四人とも早生まれなんて、すごい偶然だねー! じゃあ一月と三月に、それぞれ二人ずつまとめてパーティーしちゃおっか!」
「……誕生日ぐらいひっそり過ごそうっていう発想には至らないもんかね」
「なんで誕生日にひっそり過ごさないといけないのさ! ……あ、もしかして、誕生日はいっつもめぐると二人で過ごしてたとか? そーゆーことなら邪魔しないから、二人でしっぽり楽しむがいいさ! どっちみち、ウチと理乃の誕生日には招待させていただくけどねー!」
和緒は肩をすくめるだけで、何も答えようとしなかった。実際、今年も昨年もめぐると和緒はおたがいの誕生日を二人きりで過ごし、パフェやらケーキやらを奢り合うことになったのだ。
(町田さんの家にお招きされるのは嬉しいけど……せっかくだし、誕生日ぐらいはかずちゃんと二人でいたいかな)
ただし、それが平日であったならば、けっきょく午後六時までは部室での練習に励むことになるのだろう。めぐるは以前よりも和緒に近づけたという実感を抱いていたが、二人を取り巻く環境そのものが激変しているのだ。
ただ――二人で過ごすか四人で過ごすかと、そんな選択肢が増えたことを幸いと思うべきなのだろう。何をしても独りきりであった中学一年生の時代を思えば、これほど贅沢な悩みは存在しないはずであった。




