04 理解と決断
アンナは落ち着かない心地を抱えたまま、人生で二度目のライブを迎えることになった。
会場は、前回と同じライブハウスである。アンナの所属しているバンドは、こちらのライブハウスのレギュラーバンドというものであったのだ。
メンバー中の半数が高校二年生であることを考えれば、きっと大した話であるのだろう。やはりこのバンドには、それだけの魅力や完成度といったものが備わっているのだ。
しかしアンナは若干以上の物足りなさを覚えていたし、それが先日の出来事でいっそうの思いにふくれあがってしまっていた。アンナはこちらのバンド活動にそれなり以上のやりがいを見出しつつ、根本の部分ではなかなか熱くなれなかったのだが――理乃の歌声を聴いただけで、呆気なく臨界突破してしまったのだった。
その事実が、アンナを落ち着かない心地にさせている。
そしてアンナは正しい解答を見いだせないまま、まったく道理の通らない行いに及んでしまった。その日のライブに、理乃もスタッフとして同行させてほしいと頼み込んでしまったのである。
「マネージャーだとかローディーだとかいう名目で、スタッフを同行させるバンドも珍しくないんでしょ? 理乃にもしっかり働いてもらうから、なんとかお願いできないかなー?」
「……そういうのって、半分がたは恋人なんかを同行させるための名目なんだよね。もしかして、あんたはそっちのケがあったの?」
「そーゆーわけじゃないんだけど! 理乃にはあれこれ体験してほしーんだよ!」
「あんた自身が仮メンバーなのに、体験もへったくれもないと思うけどね」
と、リードギターの女子メンバーも最後まで渋っていたが、なんとか最後には了承してくれた。そして他の三名は、相変わらず我関せずであった。
いっぽう、それ以上に困惑していたのは、当の理乃である。理乃にしてみれば、どうして自分がスタッフとして担ぎ出されたのか見当もついていないはずであった。
「わ、私はいったい、何をしていればいいの? ロックバンドのことを知らない私なんかが割り込んだって、みなさんのご迷惑になるだけだろうし……」
「いーからいーから! こっちの頼む仕事をこなしてくれたら、それでいいんだよ! そんな面倒な仕事はないから、あとはテキトーに見物しててよ!」
アンナ自身、自分の行動があまり理解できていなかった。
ただ唯一、はっきりわかっているのは――アンナが、理乃の歌声に魅了されたという一点であった。それだけは、もはや揺るぎようのない事実であったのである。
しかしアンナは、こちらのバンドの正式メンバーになりたいと願っている。こちらのバンドに不満がないわけではなかったが、それはこれから改善していこうと奮起しているさなかであるのだ。高校受験が終わったからには、アンナも本腰を入れてそのミッションに取りかかる所存であった。
しかしまた、こちらのバンドにはすでにヴォーカルが存在する。なおかつ彼女は何の楽器も担当していないので、ヴォーカルの座は誰にも譲れないのだ。アンナが何をどう望もうとも、理乃をこのバンドに加入させることは不可能であるはずだった。
(でも、理乃は絶対バンドをやるべきだ! そのためには、まずバンド活動の楽しさってもんを知ってもらわないとね!)
アンナは正体の知れない激情をそんな思いでねじ伏せて、ライブの当日を迎えたわけであった。
いざライブハウスに到着すると、前回と同じように淡々と事前の準備が進められていく。リハーサルの間も理乃は極限まで小さくなってしまっていたので、アンナとしては胸中でめいっぱいのエールを送るしかなかった。
「……あんた、チケットはけっきょく、予定通りにさばけたの?」
と、リハーサルを終えたのち、リードギターの女子メンバーがそのように問うてきた。
「うん! 家族で四枚、友達で三枚ね! やっと受験が終わったから、友達も呼べるようになったんだよー! 理乃をスタッフとして入れちゃった分は、それでカンベンしてもらえるかなー?」
「……七枚もチケットを売れるメンバーは、他にいないからね。正直に言うと、その頑張りに免じてワガママを聞いてやったようなもんだよ」
リードギターの女子メンバーは、ぶすっとした顔でそのように言いたてた。
「あたしらは、本気で上を目指してるからさ。お遊び感覚は、なるべく排除していきたいんだよ。あんたも正式なメンバーとして加入したいんなら、それだけはきっちりわきまえておきな」
「うん! ウチは、そのつもりだよ!」
アンナが相手の目を見ながら答えると、彼女は少しだけ表情をやわらげて立ち去っていった。
正体の知れない激情を抱え込んでしまったアンナは、今日のステージにそのすべてをぶつけるつもりであったのだ。理乃にバンドの楽しさを伝えるために、アンナは死力を尽くす所存であった。
(ただ……どうしても、胸の中がモヤモヤするんだよなー。これって、どうしたら解消できるのかなー)
と、けっきょくアンナは自分の心を見定められずにいた。
そうして客席ホールの片隅で理乃とともに過ごしていると、スマホが着信を告げてくる。相手は、穂実であった。
「もしもーし! ホヅちゃん、どーしたの?」
『いやー、今日はそっちに行けないから、せめてライブ前にゲキレーしておこうと思ってさー』
「えー? ホヅちゃんだって自分のバンドのライブなんだから、しかたないじゃん! そんな忙しい中、わざわざありがとー!」
『いやいや。アンナ先生の調子はいかがかなー? 地獄の受験勉強も終了して、いっそうノリノリな感じ?』
アンナはぐっと言葉に詰まることになった。
「うーん。実はいろいろと迷走中なんだよねー。もうちょい自分の気持ちが整理できたら、ホヅちゃんにも相談させてほしいかなー」
『あらら。こっちはいつでもウェルカムだよー。あたしなんかで力になれるかはわかんないけど、話すだけで楽になったりするもんだからねー』
「ありがとー! 今はホヅちゃんの優しさがいっそう身にしみちゃうよー!」
『あはは。なんだかほんとに、しんどそうだねー。でもきっと、アンナ先生だったらひょいっと乗り越えられるさー』
そのように語る穂実は、普段通りの呑気さと朗らかさであった。
『まあ、アンナ先生もギターを買ってから、もうすぐ二年になるんだもんねー。その間に、色んなバンド活動も体験できたみたいだから……そろそろ初心に返ってみてもいいのかもねー』
「初心? 初心って?」
『アンナ先生は、どーゆー気持ちでギターやアンプを買ったかってことさー。あの日の気持ちを忘れなければ、何も間違うことはないと思うよー』
その言葉は、思わぬ重さでアンナの胸にのしかかってきた。
そして、その重さで心の表層がずるずると剥けていくような心地である。その内側には、アンナの真情というものがどっしりと鎮座ましましていたのだった。
「でも……モノとヒトは、おんなじように扱えないよね?」
『うん。ヒトは、成長するからねー。でも、イヌがネコになることはないし、ブタがカバになることはないからさー。頑張っても、オトコがオンナになるぐらいかなー』
「……ホヅちゃんは、前のライブのときから、ウチの気持ちがわかってたの?」
『あたしは何もわかっちゃいないよー。ただ、アンナ先生に楽しくバンド活動を続けてほしいと思ってるだけさー』
アンナには、それだけの言葉で十分であった。
「わかった。ありがとう。ウチも頑張るから、ホヅちゃんも頑張ってね」
『さー・いえす・さー』というおどけた言葉を最後に、穂実との通話は終了した。
アンナがしみじみと息をつくと、理乃が心配そうに呼びかけてくる。
「ア、アンナちゃんは何か悩んでいたの? 私なんかじゃ、なんの役にも立てないだろうけど……」
「いやいや! 答えをくれたのは理乃だよー! ……ま、ウチを悩ませてくれたのも理乃なんだけどねー」
「な、何それ? どういうことなの?」
理乃は大いに慌てふためきながら、アンナの肩を揺さぶってきた。
しかしアンナは、笑顔を返すだけにしておく。今は何かを語る前に、目前のライブをやりとげなければならなかった。
◇
そして、その日のライブも無事に終了した。
二ヶ月前と何も変わることなく――まるで同じ日を繰り返したかのように、すべてが平坦に流れ過ぎていったのだ。あの日と異なる気持ちを抱いていたアンナも、それを理由に暴走する気はさらさらなかった。暴走するのは、ライブを終えてからのことであった。
「ウチ、このバンドはやめさせてもらうね」
ライブの終了後、家族や友人たちの帰りを見届けたのち、アンナはそのように告げてみせた。
メンバー中の三名は、無反応だ。そして「ふうん」と鼻を鳴らしたのは、やはりリードギターの女子メンバーであった。
「すいぶん唐突な申し出だね。あたしらに、なんか不満でもあるっての?」
「不満っていうかね、ウチ、自分の気持ちに気づいちゃったんだよ。……ウチがやりたいのはこーゆーバンドじゃない、ってさ」
アンナはけじめをつけるために、なるべく正確に真情を伝えるつもりであった。
理乃は少し離れたところで、心配そうにこちらの様子を見守っている。アンナたちはメンバーだけで、テーブルを囲んでいた。
「このバンドは、すっごくやりがいがあったんだよ。言いたいことはたくさんあったけど、それは正式なメンバーに認めてもらえてからガンガン話し合えばいいんだーって思ってたの。でも……そーゆー話じゃなかったんだよね」
「……それじゃあ、どういう話だったのさ?」
「ウチはね、ホヅちゃんっていう友達に憧れて、ギターを始めたの。ウチの目標はプロとかになることじゃなくって、ホヅちゃんみたいなかっちょいいギタリストになることなんだよ。そのために、ウチはリードギターをやりたい。自分の曲で勝負したい。そんでもって、ウチの曲を理乃に歌ってもらいたい。……そんな風に、思っちゃったんだよね」
「…………」
「だからウチは、もう完成してるバンドに加入するんじゃなくって、自分で理想のメンバーを探すべきだったの。そんな自分の気持ちに気づくのに、今日までかかっちゃったんだよ。これまでさんざん面倒を見てくれたのに、ごめんなさい。みんなには、本当に感謝してるから――」
アンナがそのように言いかけたところで、女子メンバーが卓上のグラスをつかみ取った。
アンナがその気になれば、かわすことは容易であったが――アンナは甘んじて、そちらの中身を顔面で受け止めることにした。
女子メンバーは冷めた面持ちのまま、「失せな」と言い捨てる。
それ以外の三名は、この期に及んでも我関せずの面持ちであった。
アンナはジンジャーエールのしずくを下顎から垂らしつつ立ち上がり、フライトジャケットの内側に準備していた封筒をテーブルに置く。
「これ、今日のチケット代です。お騒がせして、すみませんでした。あと、九月からの半年間、ありがとうございました」
アンナは最後に一礼して、きびすを返した。
理乃は真っ青になりながら、後をついてくる。アンナはそちらに笑いかけてからともに楽屋へと向かい、自分のギグバッグを抱えて、ライブハウスの外に出た。
「ア、アンナちゃん、いったいどういうことなの? せっかく見つけたバンドなのに、あんな風にやめちゃうなんて……」
「それは、さっき言った通りだよー。ウチはあのバンドにあれこれ不満があったから、受験が終わったらガンガン意見しようって思ってたんだけどさ。それよりも、自分で理想のメンバーを探すべきだって思いなおしたの」
アンナは、リードギターを受け持ちたい。ジャズコーラスではなく、マーシャルのアンプを使いたい。彼らの楽曲は詞も曲も今ひとつ好みに合わないので、練りなおしたい。ベースやドラムは、もっと派手にフレーズを動かしてほしい。そして、年下のアンナを見下さずに、対等に扱ってほしい。――それが、アンナの抱えていた不満であった。
アンナは本気で、それを改善しようと考えていた。アンナは困難が大きければ大きいほど燃える性分であったので、それがむしろバンド活動に対する原動力になっていたのだ。そうでなければ、退屈なリズムギターの座に居座っている理由もなかった。
だが――アンナはやっぱり、間違えていたのだ。
あのバンドが鳴らしている音とアンナが目指している音は、根本からして異なっている。あのバンドでアンナの理想を体現するには、根本の部分を破壊してゼロから作り変えるしかない――そんな当たり前の事実が、いきなり目の前に立ちふさがってきたような心地であったのだった。
(ウチは本気で、ガンガン意見を言っていくつもりだったけど……それってつまり、あのバンドを根本からぶっ壊そうとしてたってことなんだろうなー)
アンナは三つのバンドを体験することで、ようやく理解できた。
バンド探し、メンバー探しも、決して妥協してはいけないのだ。アンナはオレンジ色のアンプやテレキャスターを見出したときと同じように、理想のメンバーを探し出さなければならなかったのだった。
(それを気づかせてくれたのが、あんたってわけだよ)
おろおろとする理乃の顔を見つめながら、アンナはそのように考えた。
理乃の歌声は、穂実のギタープレイと同じぐらい――そして、オレンジ色のテレキャスターと同じぐらい、アンナの心を揺さぶったのだ。アンナに必要であったのは、すでに方向性が定まっているバンドに加入することではなく、理乃のようなメンバーを探し求めて、それに相応しい曲を作りあげることであったのだった。
(ま、ウチはアタマが足りてないから、こうやって失敗しながら進んでいくしかないんだろーな)
そんな思いを込めて、アンナは理乃に笑いかけてみせた。
顔も頭もジンジャーエールでべたべたであったが、アンナは幸福な心地である。半年間もお世話になったバンドのメンバーたちに不愉快な思いをさせてしまったのは、心苦しくてならなかったが――それでも、今度こそ正しい道を見いだせたのだという思いが、アンナの胸を弾ませてくれたのだった。




