03 波紋
「えっ! そ、それじゃあアンナちゃんは、本当にそんな条件でギターを買ってもらっちゃったの?」
アンナがギターを購入して、数日後――春休みが終了し、始業式が行われる最初の登校日である。その道中で、アンナは理乃にすべての事情を通達することにした。理乃は忙しい身であるし、こういう話は直接伝えたほうがよかろうということで、今日までの騒ぎはいっさい伝えていなかったのだ。
「うん! もちろん高校生になってバイトをできるようになったら、きっちり返済していくけどねー! ローンとか組んだら利息も馬鹿にならないし、ほんとママたちには感謝だよー!」
「で、でも……私と同じ高校に行けなかったら、それを没収されちゃうなんて……私、どうしたらいいんだろう……?」
「んー? どうしたらいいって、どういう意味?」
「わ、私が頑張れば頑張るほど、アンナちゃんも大変になっちゃうんでしょう? それなら私はなるべく勉強をしないで、偏差値の低い高校を目指したほうが……」
「あはは! そんなの、理乃のママさんが許してくれるのー?」
「そ、それは、絶対に無理だと思うけど……でも、アンナちゃんのためだったら……」
「あのねー! 理乃にとっても、高校受験ってのは人生の大勝負でしょー? ウチなんかのために道を踏み外して、どーすんのさ! だいたい、そんなのイカサマじゃん!」
「い、いかさま?」
「そーでしょ! ウチはそーゆーキビしいミッションをクリアするっていう約束で、ギターの費用を出してもらったんだからさ! それで理乃が手を抜いてミッションの難易度が下がったら、イカサマじゃん! そんなの、ウチ自身が納得できないよー! ウチは死ぬ気で頑張るから、理乃もこれまで通り頑張ればいいんだよー!」
アンナが笑いながら理乃の背中を叩くと、虚弱な幼馴染は少し咳き込んでから「そっか……」とつぶやいた。
「でも、すいぶん厳しい条件を出されちゃったんだね。アンナちゃんはご家族と仲がよさそうだったから……ちょっと意外だったよ」
「あー、それはしかたないんじゃない? 何せウチは、道場の稽古をやめちゃったわけだからさー」
アンナがそのように答えると、理乃は長い睫毛に覆われた黒目がちの目を「え?」と見開いた。
「道場の稽古をやめたって……それ、なんのお話?」
「ウチは格闘技のプロファイターを目指す代わりに、立派なギタリストを目指すことになったんだよー! そりゃーママたちもショックだったり心配だったりで、いっちょキビしい条件でもつけてみるかーって気になるんじゃない?」
理乃は驚愕の面持ちで、アンナにつかみかかってきた。
「そ、それ、どういうこと? アンナちゃんが、格闘技をやめちゃうの? どうして? なんで?」
「だから、立派なギタリストを目指すためだよー! ふたつのことを同時に頑張るなんて、ウチには無理だもん! だから格闘技をすっぱりやめて、ギターを頑張っていくのさー!」
「で、でも……アンナちゃんは、あんなに楽しそうに稽古をしていたのに……」
「今は、ギターが楽しいよー! ギターを買ってから今日まで毎日、寝オチするまで練習しちゃったもん!」
そんな風に答えながら、アンナは左手の指先を理乃の鼻先にかざしてみせた。
人差し指から小指まで四本の指先が、水ぶくれを通りこして血豆になってしまったのだ。それが、この数日のアンナの成果であった。
「今まで格闘技に注いできたエネルギーを、これからはぜーんぶギターに注ぐのさー! ま、体力的にはラクショーなんだけど、アタマがけっこーしんどくてさー! ギターのコードって、めっちゃややこしーの! 最初は指がこんがらがりそうな心地だったよー!」
「そう……なんだね……」
理乃はようやくアンナの腕を離し、深く重い溜息をついた。
「でも、まさかアンナちゃんが格闘技をやめて楽器を始めるだなんて……私は何だか、複雑な気分だよ……」
「フクザツって? ピアノとギターは別もんだし、それ以前にクラシックとロックじゃ正反対っしょ!」
「正反対……なの?」
「あー、もちろんウチには、ロックやクラシックのナンタルカなんてわかんないけどさー! 前に、ホヅちゃんが言ってたんだよ! クラシックは伝統を守る音楽で、ロックは伝統をぶち壊す音楽だーってさ! それなら、正反対なんじゃない?」
アンナがそのように言いつのると、理乃は寂しげに微笑んだ。
「そっか……それなら、アンナちゃんにはぴったりなのかもね。私も少し、安心できたよ」
「安心って? ウチのことはいいから、理乃もそろそろケツダンしたほうがいいんじゃない? 相変わらず、ピアノは好きになれないんでしょ?」
「うん……この春休みの間にも、ちょっと大きなコンクールがあってね。私はまたおなかが痛くなっちゃって……ママたちをがっかりさせちゃったよ」
「ママさんたちはともかくとして、ジューヨーなのは理乃の気持ちだよ! そもそもピアノが好きだったら、おなかが痛くなったりもしないんじゃない?」
「どうなんだろうね。私にも、よくわかんないや」
理乃がそのように答えたところで、学校に到着してしまった。
本日は始業式であるため、昇降口の手前に大きな立て看板が出されている。そこにクラス分けの名簿が張り出されているのだ。人垣の後ろから背伸びをしてその内容を確認したアンナは、「あー」と落胆の声をあげることになった。
「ウチは三組で、理乃は一組だってさー。クラスが分かれちゃうのは、小四以来だねー。理乃、だいじょーぶ?」
「……うん。いつまでも、アンナちゃんに頼ってられないからね」
そのように答える理乃は、先刻と同じように寂しげに微笑んでいた。
そんな顔を見せつけられると、アンナは庇護欲をかきたてられてしまう。理乃は泣き顔よりも、そういう本心を隠した笑顔のほうが悲しげに見えてしまうのだ。
「うーん! ウチはちょっと心配だなー! 新しい友達を作れるように、理乃も頑張りなよー?」
「友達ができたって、どうせ遊ぶことはできないからね。私はいじめられたりしなければ、それでいいの」
アンナは「むー!」と、自分の頭をひっかき回すことになった。
そこで、天から妙案が舞い降りる。アンナは「そーだ!」とひと声叫び、理乃のほっそりとした肩をつかんでみせた。
「ウチは稽古をやめたから、自由に時間を使えるようになったんだよねー! だから今度、理乃もうちに遊びにおいでよ!」
「え? でも、私はピアノのレッスンが……」
「それでも一時間や二時間だったら、自由に動ける時間はあるっしょ? ウチはいつでもかまわないからさ! ウチの自慢のテレキャスちゃんを見てやってよー!」
理乃はきょとんと目を丸くして――そして、その目にうっすらと涙をたたえた。
「アンナちゃん、ありがとう……でも、本当にいいの……?」
「あったり前じゃん! ウチも友達を家に呼ぶことなんてめったになかったから、めっちゃ楽しみだよー!」
アンナが心からの笑顔を届けると、理乃も嬉しそうに笑ってくれた。
そうしてアンナと理乃は、中学二年生としての新生活をスタートさせることになったのだった。
◇
理乃が町田家にやってきたのは、始業式から数日後の日曜日であった。
時刻は、昼下がりである。本日は両親が昼から出かけているので、自主レッスンの時間にこっそり抜け出してきたとのことであった。
「りのちゃん、いらっしゃーい!」
と、玄関の呼び鈴が鳴らされるなり、アンナよりも早く二人の妹たちが理乃を出迎えてしまう。これが初の対面となる理乃は、仰天した顔で立ちすくんでしまった。
「わー、りのちゃんてやっぱりかわいー! しゃしんより、もっとびじんだねー!」
「こら。失礼なこと言わないの。理乃ちゃんがびっくりしてるでしょ」
はしゃぐエレンを、ローサがたしなめる。そんな妹たちの背中を眺めながら、アンナは苦笑するばかりであった。
「まったくさー。ウチよりあんたたちのほうがはしゃいでるよねー。そんなに理乃に会いたかったの?」
「うん! だって、りのちゃんかわいーから!」
「わたしはときどき学校で見かけたことがあるけど、きちんと挨拶をしたことはなかったからさ」
やんちゃなエレンはもちろん、ローサもにこにこと笑っている。普通であれば運動会などで面識を得る機会が生まれるものであるが、理乃はそういう行事をのきなみ欠席してしまうため、三歳年少のローサとすら交流する機会がなかったのだ。
「理乃にもスマホの画像を見せたことがあるよね? こっちが上の妹のローサで、こっちが下の妹のエレンだよー。部屋でおとなしくしてろって言ったのに、ちっとも聞かなくってさー」
「だって! りのちゃんにあいたかったんだもん!」
「せっかくの機会なんだし、ちょっとはいいでしょ? ……それともやっぱり、お邪魔でしたか?」
まだしも落ち着いた性格をしているローサが、おずおずと理乃の顔色をうかがう。三歳年少の相手にさえ怯んでしまう理乃は、無理やり笑顔を作りながら「う、ううん」と首を横に振った。
「そ、そんなことはないよ。ど、どうぞよろしくね、ローサ……ちゃん」
「ろーちゃんばっかりずるいー! エレンもー!」
と、エレンは理乃の華奢な腰にしがみついてしまう。相手は小学二年生であったが、理乃はそのまま押し倒されてしまいそうだった。
「あらあら、ずいぶん騒がしいわね。理乃ちゃん、いらっしゃい」
「おお! 理乃ちゃんが来たのか! そんなところで騒いでないで、早く上がってもらいなさい!」
しまいには、両親まで玄関に出てきてしまう。アンナは八つ当たりで、父親の尻を蹴ることにした。
「あんたまで出てこなくていいんだよ! ……ごめんねー、理乃。日曜は道場も休みだし、今日はたまたまみんな用事がなかったみたいでさー。全員で待ちかまえることになっちゃったの」
「う、ううん。私は、大丈夫だよ。……あの、これ、つまらないものですが……」
理乃が白い手にさげていた紙袋を差し出すと、母親は「あらあら」と微笑んだ。
「まだ中学二年生なのに、理乃ちゃんはしっかりしてるのね。次からは手土産なんていらないから、いつでも遊びに来てね」
「は、はい。ありがとうございます」
「それじゃあ、あがってもらったら? 今、お茶の準備をしてるからね」
「うん、ありがとー! ほらほら、エレンもさ! いつまでもしがみついてたら、理乃が動けないっしょ?」
「はーい!」とエレンは飛びのいたが、まだにこにこと笑いながら理乃の顔を見上げている。理乃は存分にへどもどしながら、真っ白のローファーをぬいで玄関に上がり込んだ。
「じゃ、ウチの部屋に案内するねー。あんたたちは、ついてこないでよー?」
「えーっ! エレンもりのちゃんとあそびたーい!」
「遊ぶって、何をするつもりさ? 理乃はウチのギターを見に来てくれたんだよー?」
「じゃー、エレンもいっしょにみるー!」
「まったくもう……こいつ、ウチにビンジョーして稽古をやめちゃってさー。で、ダンススクールに通うんだって。今日はスクールもおやすみだから、ヒマこいちゃってるわけさ」
「びんじょーじゃないもん! エレンのじゆーいしだもん!」
エレンがえっへんとばかりに胸を張ると、理乃は初めてくすりと笑った。
「エレンちゃんは、難しい言葉を知ってるんだね。……なんだか、アンナちゃんのちっちゃい頃を思い出しちゃうよ」
「えー? ウチはここまでこまっしゃくれてなかったと思うけどなー」
「こまっしゃくれてないもん! すなおないーこだもん!」
そうしてアンナは理乃ばかりでなく、二人の妹たちまで引き連れながら自分の部屋を目指すことになった。
アンナの部屋は、母屋の二階に存在する。四畳半のせまい部屋だが、個室を与えられているだけ上等であろう。いつかローサがもっと大きくなったら、どこかの物置を子供部屋にリフォームして、三人それぞれに個室が与えられる約束になっていた。
「四人も入ったら、キュークツでたまんないよねー。ま、あんたたちは二人でひとり分のサイズだけどさ」
それに、アンナの部屋はそれほど物が多くない。クローゼットは衣服でぱんぱんであるが、本棚などのかさばる家具は居間に置かせてもらっているので、あとはせいぜいテレビと座卓とベッドぐらいしか存在しないのだ。しかしまた、現在はギターとアンプが部屋の何割かを占領してしまっていた。
「へえ……本当に、どっちもオレンジ色なんだね」
理乃の感心した声が、アンナの胸を弾ませてくれた。
「いいでしょー? ギターもアンプも、ひと目惚れでさー! もー可愛くて可愛くて、練習もはかどっちゃうよー!」
「ギター、かわいいよねー! ホヅちゃんぐらいひけるようになったのー?」
エレンがベッドにダイブしながらそんな言葉を飛ばしてきたので、アンナは「あのねー」と腕を組んでみせた。
「ウチはまだこいつを買ってから、一週間かそこらなんだよー? それでホヅちゃんに追いつけたら、世話はないっての! 今は地獄の特訓中さー!」
「……アンナちゃんは、どういう練習に取り組んでいるの?」
「とりあえずはコードを覚えるのと、あとはテキトーに好きな曲のコピーとかかなー。ネットをあさると色んな情報が飛び交ってるけど、とりあえずコードを覚えるのが先決っぽいからねー!」
そんな風に応じながら、アンナはギターをつかみ取った。ストラップはつけたままであったので、それを肩に引っ掛ける。
「ま、一週間ていどじゃたかが知れてるけど、とりあえず聴いてみてよ! バレーコードとかいうやつ以外は、そこそこ弾けるようになったんだから!」
アンナはギターとアンプをシールドで繋ぎ、近所迷惑にならないていどにボリュームを上げる。そうしてピックでかき鳴らすと、心地好いエレキサウンドが響きわたった。
穂実からプレゼントされたピックをあれこれ試してみた結果、アンナが選んだのは厚さ1ミリのオニギリ型である。そのピックでもって、アンナは覚えたてのAとEとDのコードを立て続けに鳴らしてみせた。
これはいわゆるキーAのスリーコードというものである。アンナは最初にキーCのスリーコードを覚えようと考えたが、バレーコードを使用するFが難しくて、そちらは完成度が今ひとつであったのだ。
「どうどう? これだけで、なんかの曲っぽいでしょ? てゆーか、ピアノを習ってる理乃だったら、そんなのわかりきってるかー」
「えーっ! りのちゃんって、ピアノがひけるのー?」
エレンの無邪気な声に、アンナは立ちすくむことになった。
「ご、ごめん! 自分の家だから、油断しちゃった!」
「ううん、いいの。……アンナちゃんは、家でもピアノのことを秘密にしてくれてたんだね」
「えー? そんなの、当たり前じゃん! 家族ならいいとか、そーゆー話ではなかったでしょ?」
「うん……ありがとう、アンナちゃん」
そんな風に答える理乃の目に、白く光るものがあった。
それでアンナは、いっそう慌ててしまう。
「だ、だから、ごめんってばー! こいつらにも、絶対に秘密は守らせるから!」
「ううん、違うの。アンナちゃんは……すごく楽しそうだね」
そう言って、理乃はやわらかく微笑んだ。
そのなめらかな頬に、目からこぼれたものが流れ落ちていく。
「私……アンナちゃんのおかげで、ようやく気持ちが固まったよ」
「き、気持ち? いったい、なんの話?」
「私、ピアノをやめる。……夜になったら、パパとママにそう伝えるよ」
そのいきなりの告白に、アンナはもういっぺん立ちすくむことになった。
「な、なんで? ピアノをやめるのは、ウチも大賛成だけど……でも、どーしていきなり覚悟が固まったの?」
「アンナちゃんが格闘技をやめたって聞いた日から、私はずっと考えてたんだよ。あんなに格闘技が大好きだったアンナちゃんがギターのために格闘技をやめたのに、私はどうしてピアノを続けているんだろうって……私は十年以上もピアノを弾いてるのに、これっぽっちもピアノのことが好きになれなくて……こんなの、おかしいよね」
そのように語る理乃の顔には、アンナがこれまで見たことがないぐらい澄みわたった笑みが浮かべられていた。
「それに、音楽っていうのは……人を楽しませるものでしょう? 私みたいに楽器を好きになれない人間は、音楽をやる資格なんてないんだよ。だから……アンナちゃんは、私のぶんまでギターを頑張ってね」




