03 別れ
田口穂実が入門して以来、アンナの人生はいっそうの彩りをおびることになった。
とにかく彼女はアンナにとって、きわめて好ましい人柄であったのだ。いつも軽妙な語り口調も、いつも無邪気な笑い顔も、アンナを子供あつかいしない態度も、何もかもが好ましかった。もとより年長者相手のコミュニケーションに手馴れているアンナにしてみても、こうまでウマの合う相手というのはなかなか珍しかったのだった。
「……最近アンナちゃんは、田口さんって人の話ばっかりだね」
と、ついには理乃が可愛らしく口をとがらせる始末であった。
「だってさー、ホヅちゃんっていっつも夕方に来るから、どうしたってウチがお相手することになるんだよねー! 初心者だと、ひとりで稽古は難しいしさー!」
そんな風に言い訳しながら、アンナもこの状況を楽しんでいることは否定できなかった。放課後である午後の三時半から五時まで、穂実につきっきりで稽古に励むのが楽しくてならなかったのだ。
穂実はそれなりに、熱心な門下生であった。格闘技に関しては何の知識も持っておらず、目的はあくまでダイエットであったが、アンナの提示する稽古がずいぶん好みに合ったようであるのだ。入門して三日目には柔術衣をレンタルして寝技の稽古にもチャレンジしていたが、そちらでも汗だくの顔で笑っていた。
「いやー、このがんじがらめでなんもできない状況が、思いのほか楽しいねー。あたしって、ドMの素質があったのかしらん」
「あはは! ファイターはくっきりどっちかに分かれるっていうけど、ホヅちゃんはそっち系だったのかもねー!」
「否定してよー。マジで開眼したら、どうしてくれるのさー」
そんなふざけたやりとりも、アンナにとっては楽しいばかりであった。
おそらく性格の相性以上に、アンナと彼女は会話のテンポが噛み合ったのだ。それが他者とのコミュニケーションにおいてどれだけ重要であるか、アンナはあらためて思い知らされた心地であった。
「ホヅちゃんて、面白いよね。わたしも、ホヅちゃんのことは好きだよ」
「エレンも、ホヅちゃんだいすきー!」
と、小学生の妹たちも、すっかり穂実になついてしまっていた。
アンナの両親も、それは同様である。もとよりアンナたちと相性のいい相手は、両親とも相性がいいのだ。穂実も時には夜まで居残ることができたので、そういう日には正規のレッスンを受けつつ、両親とも存分に親交を深めていた。
(ってことは、理乃も案外、うちの家族と相性がいいのかな。機会があれば、うちに呼んであげたいけど……でも、理乃はウチ以上に忙しいからなー)
そのように思案したアンナは、なるべく学校内では理乃をかまうように心がけていた。案の定、理乃は中学校でも新しい友人を作ることができず、孤立していたのだ。最初の年に同じクラスになれたのは、本当に僥倖と言っていい結果であった。
そうして学校を終えた後は、穂実との稽古ざんまいである。彼女は週に三、四回ばかりも顔を出して、アンナを楽しい気持ちにさせてくれた。
「できればスタジオ前にもひと汗かきたいぐらいなんだけど、そんな大荷物を持ち込むのは迷惑だろうしさー。かといって、わざわざ家まで戻るのは手間だしねー」
「えー? だったら、母屋であずかってあげるよー! それなら、邪魔にもならないしさ!」
アンナがそのように言いたてると、彼女は本当に機材を持ち込んできた。ギターを収納したギグバッグと、エフェクターボードである。初めて間近に迎えるそれらの存在が、何とはなしにアンナの胸を高鳴らせた。
「なんか、かっちょいいなー! よかったら、母屋で演奏を聴かせてよー!」
「いやいや。アンプを通さないと、魅力も半減以下だからさー。できれば初めての演奏は、ライブとかで見てほしいかなー」
「そっかー。ライブって、どこでやってるの?」
「千葉と都内で、半々だねー。最近よーやく、都内でも客を呼べるようになってさー」
「東京までいくのは、ちょっと大変かなー! それじゃー千葉でやるときは、声をかけてねー!」
と、アンナはそのように約束をしたのだが――けっきょく、そんな機会には恵まれなかった。穂実がライブを行う日に限って、アンナも試合や学校の試験などの用事が入ってしまったのだ。
しかしまあ、アンナがそれほど落胆することにはならなかった。当時のアンナはロックバンドに対して人並み以上の興味を持ち合わせていなかったし、何より楽しいのは道場における稽古であったのだ。穂実と一緒に汗をかいていれば、アンナにとっては十分であった。
それに、時には道場の外でも穂実と親睦を深めることができた。おたがい用事のない土曜や日曜の日中などに、穂実のバイクに乗せてもらったり、ランチを食べに出かけたり――それこそ、友達そのもののおつきあいをすることができたのだ。穂実はすでに二十一歳であったが、アンナは何の違和感もなく行動をともにすることができた。
「アンナ先生って、しっかりしてるもんねー。態度や発言は無邪気そのものだけど、中学一年生とは思えないほど自分の考えってやつができあがってるもん」
「そんなことないよー! 道場では大人と接するほうが多いから、しゃべりなれてるだけじゃないかなー!」
「いやいや。あたしが中学一年生の頃なんて、どうしようもないクソガキだったもん。あの頃にアンナ先生と出会えてたら、あたしも道を踏み外さずに済んだのかもねー」
「あはは! ホヅちゃんだって、立派じゃん! バンドでビッグになるっていう夢のために、頑張ってるんだからさ!」
「人はそれを、誇大妄想と呼ぶけどねー」
そんな具合に、何を語らってもアンナは楽しいばかりであった。
穂実は音楽で食べていくために、高校を中退して、この年までアルバイト生活であるという話であったが――アンナの道場にも、プロファイターとして大成するためにすべての情熱を捧げている門下生が少数ながら存在するのだ。アンナはそういった人々のことを心から敬愛すると同時に、自らもプロファイターを志していたので、穂実に対しても強い共感と仲間意識を抱くことがかなったわけであった。
「それにしても、ホヅちゃんのバンドが気になるなー! ライブ動画とか公開してないの?」
「うーん。うちのリーダーが、音にこだわるやつでさー。ライブ動画の粗い音は世に出したくないってポリシーなんだよねー。あたしはそれより、顔や名前を売るほうが重要だと思うんだけどねー」
とある日に、穂実はそんな風に語っていた。
「この前なんか、身銭を切ってレコーディングしたのに、けっきょく音が気に食わないとか言ってお蔵入りしちゃったし。こうなったら、とにかくライブを頑張るしかないかなー」
「そっかー! じゃ、ライブを観られる日を楽しみにしてるねー!」
そんな約束を交わしつつ、瞬く間に日は過ぎ去っていき――時節は秋から冬に移り変わり、ついには年をまたぎ越した。
そして、その日がやってきたのだ。
まだまだ寒さの厳しい、二月の終わり頃――いつも通り午後の三時半ぐらいに道場へとやってきた穂実は、いつになく神妙な顔をしていた。
「アンナ先生。今日は稽古じゃなくって、ちょっと話しておきたいことがあるんだけど……少しだけ、時間をもらえるかなー?」
「んー? どーしたの? そんなマジ顔、ホヅちゃんらしくないよー?」
「うん。さすがにあたしも、笑ってられない気分でさー」
そんな風に言いながら、穂実は寂しそうに笑った。
「実は……今月いっぱいで、道場通いを辞めさせてもらおうと思ってるんだよねー」
アンナは「えっ!」と立ちすくみ――それからすぐさま、穂実につかみかかることになった。
「道場を辞めるって、なんで? お金がキビしくなっちゃったの? それなら月謝をツケにしてもらえるように、ウチからママたちに頼んであげるよー!」
「いやー、そういうわけじゃなくってさ。実は、都内に引っ越すことになっちゃったんだよ」
そうして穂実はアンナに腕をつかまれたまま、ぽつぽつ語り始めた。
いわく――穂実のバンドは地道なライブ活動が実を結び、ついに名のあるライブハウスのレギュラーバンドという座を獲得したとのことである。そこで一念発起して、メンバー全員で上京しようという話になったようであった。
「うちのバンドはみんな千葉の人間なんだけど、住まいはあっちこっちに散っててさ。スタジオの時間を合わせるのもひと苦労だし、都内まで出向くのもけっこう手間だし……それならいっそシェアハウスとかで同居して、もっとバンド活動に集中しようって話に落ち着いたんだよ。まあ確かに、このバンドで上に行けるかどうかは、ここが踏ん張りどころだろうから……あたしも、反対できなかったんだよねー」
「…………」
「うーん。まいったなー。アンナ先生にそんな顔されたら、あたしもなんて言っていいかわかんなくなっちゃうよー」
「だって……しかたないじゃん」
アンナは穂実の腕から手を離し、がっくりと肩を落とした。
アンナは理乃のように、むやみに泣いたりはしない。しかし、これほどの悲しみで胸が満たされたのは、いったいいつ以来のことであったか――なかなか思いつかないぐらいであった。
「三月中には新居を決めようって話だから、もう時間がなくってさ。たぶん道場に来られるのも、今日が最後になっちゃうと思う。いきなりの話で、ほんとに申し訳ないんだけど……なんとか許してもらえないかなー?」
「……そんなの、許すも許さないもないじゃん」
「えーん。あたしだって、ほんとはアンナ先生と一緒にいたいんだよー」
と、今度は穂実がアンナの手を握ってきた。
そしてそこに、異物の感触が生じている。アンナが力なく目を向けると、何か小さな紙片がアンナの手に握らされていた。
「これ、うちらのライブのチケットだよ。たぶん、千葉でやるのもこれで最後になると思う。よかったら、誰かと一緒に来てくれないかなー?」
「そんなの……今さらじゃん」
「うん。だけど、あたしはこのために道場を辞めちゃうわけだから……それがどれだけのもんなのか、アンナ先生に見届けてほしいんだよねー」
そのように語りながら、穂実は身を引いた。
その顔に浮かべられているのは、やはり寂しそうな笑みである。
「それじゃー、よろしくね。他のみなさんには、またあらためて挨拶させてもらうからさ。アンナ先生は、これからも頑張ってね」




