02 出会い
それからさらに、日は過ぎて――アンナは、中学校に入学した。
理乃もまた、同じ中学校である。どうやら理乃は私立の中学校に進む予定であったのだが、両親に泣いて頼んで地元の公立校に進むことを許されたようであった。
「いつまでもアンナちゃんに頼ってばかりじゃいけないってことは、わかってるんだけど……でもどうしても、アンナちゃんと同じ学校に行きたかったから……」
理乃はもじもじとしながら、そんな風に言っていた。
きっとそういう物言いや物腰が、同じ年頃の同性から反感を招くのだろう。アンナもここまで齢を重ねたことで、ようやくそういったことを理解できるようになっていた。
しかしまあ、アンナとしてはそんな仕草も可愛らしく見えるばかりである。よってアンナはいつも通り、自分の素直な気持ちや考えを伝えてみせた。
「ウチも理乃と同じ中学に行けるのは嬉しいけどさー! でも、高校はぜーったい別々になるだろうからねー! 理乃もちょっとは、しっかりしないと!」
「な、なんでそんなこと言うの? 三年後のことなんて、誰にもわからないでしょう?」
「だって、ウチと理乃じゃアタマの出来が違うじゃん! そもそもウチは、高校に行くかもわかんないしねー! そんなヒマがあったら、もっと稽古を頑張りたいしさ!」
「そんな……」と、理乃は呆気なく涙ぐんでしまう。以前に比べれば泣き顔を見せることは少なくなったが、こういう話題では脆いのだ。
「泣くのは、三年早いっしょ! そんなことより、今は中学校を楽しく過ごせるように頑張りなってば!」
アンナが肩を抱いてあげると、理乃は「うん……」と目を伏せながら涙をぬぐった。
この年になっても、理乃の弱々しさに変わるところはない。九歳や六歳であるアンナの妹たちのほうが、よっぽど逞しいぐらいである。アンナとしては、三人の妹を抱えているような心地であった。
ともあれ、アンナは理乃とこれまで通りの関係を維持しつつ、中学校に入学することに相成った。
それ以外の生活にも、大きな変わりはない。毎日たゆみなく稽古を続けて、柔術でもキックボクシングでも公式大会で数々の成績をあげることができた。中学生となったからには、そちらの試合もどんどんレベルアップしていくはずであった。
(案外、ウチと理乃がうまくやれてるのは、そーゆー環境が似てるからなのかなー)
アンナは毎日稽古漬け、リノはピアノのレッスン漬けである。そんな二人の共通項は、なかなか放課後に遊ぶ時間を作れないという一点であった。
アンナは学校に、友達が多い。しかしそれは、おおよそ学校内のみのつきあいとなる。放課後に遊ぶ時間を作れないと、なかなかそれ以上の関係を構築することが難しいのだ。
それにアンナは、友達から奇異の目を向けられることが多くなっていた。どうしてそれほどまでに、格闘技に熱中しているのか――友達よりも、稽古のほうが大切なのか――と、そんな思いを抱かれているようであるのだ。日曜祭日などは道場も休館日であるので、試合のない日はなるべく友達と遊ぶようにしているのだが、みんなはそれでも物足りないと考えているようであった。
そんな中、理乃だけは不満を申し述べようとしない。彼女はアンナ以上に、多忙な日々を送っているためである。彼女は毎日、平日も休日も関わりなく、過酷なレッスンに明け暮れているようであった。
(……それでもピアノを好きになれないなんて、地獄の日々だよなー)
そんな思いも相まって、アンナは以前よりも理乃に心をひかれるようになった。理乃は内気で弱気であったが、そんな日々に耐えられるだけの強靭さを持っていたのだ。それは、アンナと質の異なる強さなのではないかと思えてならなかった。
(この前のコンクールも腹痛で台無しだったっていうし、理乃のママさんもいいかげんに見切りをつけてあげればいいのになー)
その頃になると、アンナも理乃の母親と面識を得ていた。今ひとつ事情はよくわからないのだが、ハウスキーパーを受け持っている老婦人が事あるごとにアンナの話を持ち出して、母親が感謝の念を抱いたようであったのだ。いつだったかの年にはたいそう立派なお歳暮が送られてきて、アンナの両親を困惑させていたものであった。
きっと理乃の両親も、悪い人間ではないのだろう。
ただひとつ、栗原家の人間はクラシック音楽の道に進むのが当然だと考えている。その信念だか思い込みだかが、理乃を苦しめているわけであった。
(まあこればっかりは、理乃がケツダンするしかないもんなー)
そうして理乃の行く末を思いやりつつ、アンナは日々の稽古に邁進した。
そんなアンナがひとつの出会いを迎えたのは、中学校に入学してから半年ていどが過ぎた頃――楽しい夏休みを終えて、夏から秋へと季節が移ろい始めた時分であった。
◇
「たのもー」
その人物は、そんな呑気な声をあげながら道場の玄関口に現れた。
サンドバッグを蹴っていたアンナは、きょとんとそちらを振り返る。それは、見も知らぬ若い女性であった。
「はいはーい。どこのどちらさん?」
道場では、何名かの門下生が自由稽古に励んでいる。しかし、ちょうど両親が道場を離れている時間であったため、アンナがその人物を出迎えることにした。
なかなか印象的な容姿をした女性である。年齢は、二十歳前後であろうか。肩まで垂らしたセミロングの髪の毛先だけが鮮やかなグリーンに染められており、タイダイ柄の派手なTシャツとだぶだぶのフィッシャーマンパンツを着込んでいる。面長の顔は化粧っ気がなかったが、どことなく人を引きつける愛嬌があった。
「お忙しい中、ごめんねー。よかったら、見学させてもらえないかなー?」
「見学? ってことは、入門希望者?」
「うん。つっても、ずぶのシロウトなんだけどねー。それでも問題ないかなー?」
「あはは。誰だって、最初はシロウトだからねー! もちろん、入門希望者は大歓迎だよー!」
アンナがそのように応じると、その女性は不思議そうに小首を傾げた。
「つかぬことをおうかがいするけど、あなたはこの道場の立場あるお人なのかなー?」
「立場なんてありゃしないけど、ウチはこの道場の人間なんだよ。道場主はいちおーウチの親父で、ママはキック部門のトレーナーだねー」
「それはそれは、お見それいたしました」
その女性はにっと白い歯をこぼし、タイ人のように手を合わせてお辞儀をした。
「あ、自己紹介が遅れ申した。あたしは田口穂実っていう、しがないフリーターでございやす」
「ウチは、町田アンナだよー。今は自由稽古の時間帯で、親父たちはしばらく来ないんだよねー。ウチでも基本的な案内はできると思うけど、それでかまわないかなー?」
「もちろんもちろん。よろしくお願いいたしやす」
そうしてアンナは、その人物――田口穂実を道場に招き入れることになった。
エスニック風のサンダルをぬいだ穂実は、裸足でぺたぺたと後をついてくる。アンナはここ最近で背丈が百五十五センチに達しており、彼女はそれよりも五センチ高いていどであった。
「またつかぬことをおうかがいするけど、アンナ先生の綺麗なお髪は地毛なのかな?」
「うん。ママがオランダの生まれなんだよねー」
「そっかそっかー。そいつは、羨ましい。あたしは黒髪がつまんなくて、このように悪あがきしている所存でございやす」
穂実の言葉はいちいち軽妙で、アンナを愉快な心地にしてくれた。
「さて。それじゃあ、ざっくり説明させていただくね。うちの道場は、キックと柔術とMMAの三本柱でやってるの。ただ、いちおう部門は分かれてるけど、どのレッスンを受けるかは自由だよ。月謝は一律八千円で、レッスンは受けホーダイ。ただし、ビギナークラスとレギュラークラスは曜日や時間帯が分けられてるから、未経験者ならまずビギナークラスだねー」
「ふむふむ。ちなみに今のこの時間は? さっき、自由稽古とか言ってたよね」
「うん。平日は、十七時以降が正規のレッスン時間なんだよ。昼過ぎからその時間までは、自由稽古の時間として開放されてる感じだねー。ウチが学校から戻るまでは親父かママのどっちかが居座って、自由稽古のサポートをしてるわけさ」
「なるほどなるほどー。あたしは夜のほうが忙しいから、通うとしたらこういう中途半端な時間がメインになっちゃうんだよねー。それでも、身につくもんなのかなー?」
「ふーん? 夜に働いてるとか?」
「バイトもあるけど、それよりスタジオ練習がメインかな。あたしはいちおう、ギターなんかをたしなんでるもんでね」
アンナは「へえ」と目を丸くすることになった。
「バンドか何かをやってるってこと? ウチはあんまり、そっち方面にくわしくないんだけど……それでどーして、道場に通おうと思ったの?」
「恥ずかしながら、ハタチを超えたら余分なお肉がつきやすくなっちゃってさー。ロッカーたるもの、だぶだぶの腹肉は揺らしてらんないじゃん? かといって、酒をつつしむなんてできそうにないから、だったら汗を流すしかないかなーって一大決心したわけだよー」
そう言って、穂実はまた白い歯をこぼした。
「普通のジムか格闘技の道場かで迷ったんだけど、エアロバイクだの筋トレだのは、どう考えたって性分じゃないからさー。それならサンドバッグでも蹴ってたほうが楽しいかなって考えたわけさ。……こんな不純な動機だと、やっぱ門前払いかしらん?」
「いやいや! うちの道場でもダイエットコースとかあるから、それは問題ないけど……ただ、基本的に日曜祭日は休館日で、土曜日も不定期な感じなんだよねー。だから、正規のレッスンってのは平日の夕方以降に限定されちゃうの」
「へえ? 土日や祭日なんて、むしろ稼ぎ時じゃないの?」
「土日や祭日は、プロでもアマでも試合が多いからさ。親父たちもそっちのセコンドとかで同行することが多いんで、道場は閉めざるを得ないんだよー。ま、そーゆー用事がなかったら、開放する日もあるけどねー」
「にゃーるほど。でもまあ土日や祭日はあたしもバイトかライブか練習だから、どっちみち通えそうにないかなー。メインになるのは、やっぱ平日の夕方までだねー」
「うーん。そーすると、身につくかどうかは本人しだいかなー。自由稽古でも少しは面倒を見てあげられるけど、正規レッスンに出ないときちんとしたトレーニングスケジュールは立てられないからねー」
「ふむふむ」とうなずいてから、穂実はサンドバッグのほうを振り返った。
「あのさー、見学の分際でこいつを蹴っ飛ばすってのは、許されたりする?」
「ん-? 別にかまわないけど、どーして?」
「いやー、格闘技の稽古ってのがエアロバイクとかより楽しいかどうか、まずはそいつを確かめさせてほしくってさ」
穂実はあくまで、屈託がない。
そして、こういう率直な物言いというのは、実にアンナの好みであった。
「それじゃー試しに、蹴ってみるといいよ。……てゆーか、パンチじゃなくって、いきなりキックなの?」
「うん。いちおーギタリストとしては、指を守らなきゃだからさー」
それは、理乃にも通ずる言い分である。
しかし彼女は理乃と異なり、心から楽しそうな笑顔であった。
「じゃ、ケガをしないように、レクチャーしておくね。まず、ストレッチをしてもらえる?」
「ほうほう。ただサンドバッグを蹴っ飛ばすだけでも、ストレッチが必要になるんだー?」
「うん。蹴った衝撃が、関節に響くこともあるからね。一番おっかないのは、靭帯を痛めることなんだよー」
そうしてストレッチを終えたならば、蹴りのフォームのレクチャーである。アンナがローキックとミドルキックの手本を見せると、穂実は子供のように瞳をきらめかせた。
「かっちょいいし、ものすごい迫力だねー。アンナ先生は、いつから稽古を積んでらっしゃるのかな?」
「それが自分でも、よくわかんないんだよねー。物心ついたときには、もうサンドバッグを叩いてたからさ」
「おー、すっげー。あたしもそれぐらいからギターにさわっておきたかったなー」
穂実の無邪気な笑顔に、アンナもつい笑ってしまった。
「じゃ、試しに蹴ってみよーか。最初は、リキまないようにね。正しいフォームを心がけて、軽く当てる感覚で」
「了解であります」と敬礼してから、穂実はサンドバッグに向きなおった。
そうして彼女が繰り出したのは、高い打点のミドルキックである。その軽やかな挙動と美しいフォームが、アンナを驚かせた。
「おー。サンドバッグってのは、ずいぶんずっしりしてるんだねー。こいつを力まかせに蹴っ飛ばしたら、確かにこっちの足がどうにかなっちゃいそうだよー」
「う、うん。だけど田口サンは、すいぶん関節がやわらかいんだね。普通はそんな、簡単に足は上がらないはずだよー?」
「あはは。できれば、穂実って呼んでほしいかなー。田口って、なんか色っぽくないからさー」
そんな風に言ってから、穂実は緑色をした毛先を照れ臭そうにいじくった。
「で、実はあたしってガキんちょの頃に、クラシックバレエなんかを習わされててさ。おかげさまで、股割もよゆーなんだけど……あたし的には恥ずべき過去だから、他言無用でお願いするねー」
「……だったらウチにも、話さなきゃいいんじゃない?」
「だって、こんな面倒を見てもらってるのに、隠し事は申し訳ないじゃん。アンナ先生って、めっちゃイイヒトっぽいしさ」
そう言って、穂実はまた無邪気に口もとをほころばせた。
「それより、もうちょい蹴らせてもらっていいかなー? この重い感触、ちょっとヤミツキになっちゃいそう。お次はハイキックにもチャレンジしたいなー」
そうして穂実は何発もの蹴りをサンドバッグに叩き込み――晴れて、町田道場に入門することになったのである。
しかしそれは穂実にとってではなく、アンナにとって運命的な出会いであったのだった。




